東京都台東区の歴史
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所在地 台東区雷門1-15-12 ふるさとの 月のつゆけさ 仰ぎけり
久保田万太郎は明治22年(1887年)11月7日此地に生まれ 市立浅草尋常小学校へ入学 府立三中に学び大正3年(1914年)慶應義塾大学文科を卒業し 10月移転する迄の26年間在住した
題字:内山栄一台東区長
所在地 台東区浅草1-3 (浅草寺)
所在地 台東区西浅草1-5-5
浄土真宗 東本願寺派
所在地 台東区東上野3-29-8
台東区有形文化財
所在地 台東区上野公園1-29 (上野恩賜公園 寛永寺)
所在地 台東区上野公園 (上野恩賜公園) 上野山 黒門前に かかるしら雲 蜀山人
碑面には、大書してこの歌を刻む。ついで、蜀山人についての説明、碑建設のいきさつを、細字で刻んでいる。歌の文字は蜀山人の自筆であるという。
所在地 台東区上野公園1-29 (上野恩賜公園 寛永寺 清水観音堂)
所在地 台東区上野公園1 (上野恩賜公園)
台東区有形文化財
江戸幕府15代将軍徳川慶喜(よしのぶ)は大政奉還の後、鳥羽伏見の戦いに敗れて江戸へ戻った。東征軍(官軍)や公家の間では、徳川家の処分が議論されたが、慶喜の一橋家時代の側近家来であった小川興郷(おきさと)達は、大政奉還をして上野寛永寺に蟄居(ちっきょ)した慶喜の助命を求め、慶応4年(1868年)2月に同盟を結成、のちに彰義隊と称し、慶喜の水戸退隠後も徳川家霊廟の警護などを目的として上野山(東叡山寛永寺)にたてこもった。彰義隊には徳川政権を支持する各藩士をはじめ、新政府への不満武士、変革期に世に出ようとする人々で構成されていた。
所在地 台東区上野公園
総面積 約53万m²
上野恩賜公園(うえのおんしこうえん)は通称「上野公園」・「上野の山」と呼ばれる。
公園内には『西郷隆盛像』、『彰義隊の墓』、『蜀山人の碑』、『清水観音堂」、「人形供養碑(清水観音堂)』、『ボードワン博士像(上野公園生みの親)』、『国立西洋美術館』、『野口英世銅像』、『グラント将軍植樹碑』、『谷文晁碑』、『小松宮彰仁親王銅像』、『書寫名號塔』、『上野の森美術館』、『東京都美術館』、『東京芸大付属美術館』、『東京国立博物館』、『国立科学博物館』、『上野動物園』、『台東区下町風俗資料館』、『黒田記念館』、『横山大観記念館』、『東京芸術大学』、『国立国会図書館』、『国際子ども図書館』、『小泉八雲記念碑(国際子ども図書館)』、『寛永寺(上野公園発祥)』、『大仏パゴダ』、『旧東京音楽学校奏楽堂』、『徳川家霊廟(5代将軍 徳川綱吉公墓所・8代将軍 徳川吉宗公墓所・13代将軍 徳川家定公墓所・篤姫墓所 4代将軍 徳川家綱公墓所・10代将軍 徳川家治公墓所・11代将軍 徳川家斉公墓所)』、『両大師』、『旧因州池田屋敷表門(黒門)』、『五條天神社・花園稲荷神社』、『稲荷坂(五條天神社・花園稲荷神社)』、『龍門橋跡碑』、『殉死者の墓(現龍院墓地)』、『森鴎外旧居跡』、『京成博物館』、『博物館動物園駅跡』、『東京文化会館』、『安井誠一郎胸像』、『学士会館』、『日本芸術院会館』、『忍ヶ丘』、『不忍池』、『正岡子規句碑』、『護国院』、『護国院庫裏』、『摺鉢山』、『忍坂』、『博士王仁碑』、『天海僧正毛髪塔』、『上野駅東西自由通路建設地点の遺跡(パンダ橋)』、『駅伝の碑』、『西條八十 顕彰碑』、『D51型蒸気機関車』、『寛永寺旧本坊表門』、『駅伝の碑』、 所在地 台東区台東4-21-23 御祭神 火之迦具土(ほのかぐつち) 正一位 秋葉山 中宮 秋葉神社の御祭神は、火之迦具土命と申上げ火除けの守り神で御神徳は特に火の幸を恵み、悪火を鎮め、火防開運の神並びに火災消除、家内安全、厄除開運、商売繁盛、の霊験新たかにして全国より信仰されている。 平成10年(1998年)11月祥日 佐竹町会
所在地 台東区浅草6-42
御祭神 保食命(うけもちのみこと) 当社は永禄年中山谷村百姓一同にて郷中鎮守と奉斉す有り御祭神は生活の基をなす食を司どる神として御神威を発揚され約四百数十年御民の尊崇を集めている。
所在地 台東区竜泉3-18-4
台東区立 一葉記念館 <交通> 地下鉄日比谷線三ノ輪駅下車 徒歩10分
都バス 日暮里~錦糸町間 竜泉下車 徒歩3分 主催 (財)台東区芸術文化財団
協賛 一葉際協賛実行委員会
近代文学不朽の名作『たけくらべ』は樋口一葉在住当時の竜泉寺町を中心に吉原界隈が舞台となった。 紫の古りし光にたくへつべし 君ここに住みてそめし 筆のあや 一葉女史たけくらべ記念碑 『 そのかみの 美登利信如らも この園に 来あそぶらむか 月しろき夜を 』 佐佐木信綱
ここは明治文壇の天才 樋口一葉舊居の跡なり。一葉この地に住みて『たけくらべ』を書く。明治時代の龍泉寺町の面影永く偲ぶべし。今町民一葉を慕ひて碑を建つ。一葉の霊欣びて必ずや来り留まらん。 菊池寛右の如く文を撰してここに碑を建てたるは、昭和11年(1936年)7月のことなりき。その後軍人国を誤りて太平洋戦争を起し、我国土を空襲の惨に晒す。昭和20年(1945年)3月、この邊一帯も焼野ヶ原となり、碑も共に溶く。 有志一葉のために悲しみ再び碑を建つ。愛せらるる事かくの如き、作家としての面目これに過ぎたるはなからむ。唯悲しいかな、菊池寛今は亡く、文章を次ぐに由なし。僕代って蕪辞を列ね、その後の事を記す。嗚呼。 菊池寛 撰 昭和24年(1949年)3月 小島政次郎補書
森田春鶴 刻
所在地 台東区浅草橋3丁目
この地点から西側、通りを一本隔てた区画(浅草橋3丁目21・22・23・24番地の全域及び19・25・26番地の一部)には、江戸時代後期に、幕府の天文・暦術・測量・地誌編纂・洋書翻訳などを行う施設として、天文台がおかれていた。
所在地 台東区浅草2-3-1 (浅草寺)
大正8年(1919年) 江戸歌舞伎ゆかりの地 浅草の浅草寺境内に 劇聖と謳われた明治の名優九代目市川團十郎の歌舞伎十八番「暫」の銅像が作られました この銅像は 近代彫刻の先駆者 新海竹太郎氏の傑作であり 歌舞伎の象徴として全國の人々から親しまれておりました ところが第二次世界大戦中の昭和19年(1944年)11月30日金属回収のため この「暫」の銅像も供出の命を受け 40余年を経てまいりました
九代目市川團十郎「暫」銅像 復元建設委員会
所在地 台東区浅草2-3-1 (浅草寺)
山東京伝(1761~1816)は、浅草や吉原を題材とする戯作を多く著わし、北尾誠演の画号で浮世絵もよくした人物。
耳もそこね あし(足)もくしけて もろともに
の歌が記されている。また、裏面には、京伝と親交のあった戯作者太田南畝(おおたなんぽ)の撰による京伝の経歴を刻む。
所在地 台東区浅草橋2-29-16
御祭神 素盞嗚尊(すさのおのみこと)
須賀神社は江戸時代には牛頭天王社、蔵前天皇社、祇園社とも呼ばれておりましたが、笹団子天王社とも呼ばれておりました。
所在地 台東区浅草2-3-1 (浅草寺)
所在地 台東区浅草2-3-1 (浅草寺)
所在地 台東区浅草2-3-1 (浅草寺) < 碑 文 > オペラの名手をして大正期 天下の子女の血をわかせたる 熱と義と愛の人 藤村梧郎
一九五五・一・一八ここに昇天す 即ちこの処より平和の 歌声高らかにあがるしるし 人間の 愛 愛 愛
藤村梧郎は大正時代、浅草オペラの歌手として活躍した。 昭和30年(1955)1月18日22:30、台東区御徒町2-30先の昭和通り軌道上で寝ていた藤村梧郎(57)が、北千住行きの都電に轢かれて死去。藤村梧郎は酔って寝ており、都電は急ブレーキをかけたが間に合わなかったという。
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永山
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