東京都台東区の歴史
× [PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。 神輿まつまの どぜう汁すゝりけり 久保田万太郎先生は市井のひとを愛し とくに また ふるさとをおなじくする浅草ッ子を愛した ここに駒形どぜう 越後屋 五代 助七 その生前の厚誼をしのんで 先生をしたう情は まことに涙ぐましいものがあるが 昭和四十一年初夏 この句にゆかりの三社祭の吉日に当って駒形どぜうの店の前に いま 先生の句碑を立てる 旧称田原町三丁目なる先生の生家にもっともちかくこの句碑の立てられたことは さだめし先生も喜ばれていることと思われる ここにつつしんでこれをしるす者は おなじく浅草ッ子のひとり 昭和41年(1966)5月17日 安藤鶴夫
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所在地 台東区駒形1-4
当社の創祀は定かなことを知る事は出来ませんが口碑によりますと「後冷泉天皇の御世である」と云われ、又一説には「承久の乱(1221)の後信濃国諏訪郡小日村の神主が諏訪大社の御分霊を当地に奉斎したのに始まる」とも云われております。 所在地 台東区駒形2・雷門2 ~ 墨田区 駒形(こまかた)の名は、浅草寺に属する駒形堂に由来する。土地の人々によれば、コマカタは清く発音して、コマガタと濁らないと伝えている。 ここは古来、交通の要地で、”駒形の渡し”のあったところである。 江戸の巷説に有名な、 君はいま 駒形あたり ほととぎす の句は、文芸・美術などの上で、駒形堂とともに、この辺りの雰囲気を伝えるものである。 関東大震災(1923)の後、復興事業の一環として、この地に新しく、優美なアーチ橋が設計され、昭和2年(1927)に完成した。 歌人、正岡子規の和歌にも、 浅草の林もわかず 暮れそめて 三日月低し 駒形の上に というのがあり、当時の景況がしのばれる。 昭和58年(1983)3月 東京都 昭和62年度 東京都文化のデザイン事業 『 御柱 』 安達裕 作 |
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永山
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