東京都台東区の歴史
× [PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。 所在地 台東区根岸5-11-36 (㈱精華堂) 酒井抱一住居跡 このあたりに、江戸時代後期の俳人画家酒井抱一(1761~1828)の晩年の住居雨華庵があった。 抱一は姫路城主酒井忠以の弟。少壮より文武両芸に通じ、寛政9年(1797)京都で出家、文詮暉真の名を与えられ江戸の帰った。画は尾形光琳に私淑して一家をなし、また俳諧等にも秀で、谷文晁・亀田鵬斎等の文人と親交があった。 抱一は文化6年(1809)以来、この雨華庵に閑居し、土地の名物鴬に因んで鴬村(おうそん)と号し、正月15日には画始、10月5日には報恩講を開き、また文政9年(1826)6月には、庵で光琳忌を催している。抱一の後を継いだ画家鴬蒲もここに住して、雨華庵二世と呼ばれた。 平成6年(1994)3月 台東区教育委員会 SAKAI HOITSU'S HOUSE REMAINS In the end of Edo ara,the famous artist Sakai Hoitsu (1761~1828)lived around here.In his later years of life,he moved to this house and named it Uge-an.Hoitsu was a student of the famous artist Ogata Korin and was also good friends with the famous artists Tani Buntyo and Kameda Bosai. Since 1809 Hoitsu lived in Uge-an,on January 15th of each year he invited his artist friends to his home and together they all would start their first art piece of the new year.In 1826 in June he held a remembrance ceremony for his late teacher Ogata Korin. PR 所在地 台東区根岸5-18-5 (薬王寺) 背面地蔵尊の縁起 其の昔この地蔵尊は上野から奥州へ向かう旧街道の傍に在した。その後道筋が改り、後背の箕輪町通りが新しく拓け、旧道に面していた地蔵尊が新道からはうしろ向きに見えるので、恰も此の尊称が起ったのである。 記録には、 「ここに又・不思議なるは御遷座の夜、主僧の夢に神人現わる。告げて曰く汝如何なれば我が面を東に 向わしめたるや そもこの寺の西辺は古陸奥への駅道なり、我はその道に臨み西に向い立ちたるなり、とありければ主僧驚きて遂に石工を招き寄せ事の仔細を語り聞かせしに、石工も夢に同じ告を蒙りたりとて その夜のうちに御像を動かし面を西に向わし奉りぬ。 さればその後参詣せし人々はその有様を見て、さても不思議なるかな昨日は東に向ひたまいしにこんにちは西に向はせられたりとて、その事たちまち四方に伝わり背面地蔵の御名遠近に聞え渡りぬ」 頃明和元年(1764) こうして薬王寺の背面地蔵尊は本尊薬師如来の治眼信仰と共に毎月の縁日で賑い栄えたのであった。 道路仏でもあり、延命子育てとしての地蔵信仰は今でも多くの人々に語り継がれている。 寺史より抜粋 所在地 台東区清川2-13-20 玉姫稲荷神社 ご祭神 宇迦之御魂大神 拝殿 摂末社 口入稲荷神社 末社 八神殿 白山神社 菊理媛神 伊邪耶岐神 伊邪耶美神 八幡神社 応神天皇 神功皇后 比売大神 八坂神社 須佐之男命 春日神社 経津主命 天児屋根命 武甕槌神 比売神 金比羅神社 大物主神 崇徳天皇 松尾神社 大山咋神 市杵嶋姫命 天祖神社 天照大御神 王子神社 宇迦之御魂神 宇気母智之神 和久産巣日神 所在地 台東区清川2-15-1 寶珠稲荷神社 1、祭神 倉稲魂命 浅草寺志によると、文化十癸酉年頃(1813)の當神社の御身躰は「大日命」とありますが、明治維新政府の神仏分離政策によって、現祭神に合祀されたものと拝察されます。 奥の院には京都伏見稲荷大社より當祭神の御使として勧請した「白狐稲荷」をお祀りしております。 京都伏見稲荷大社の稲荷山に「寶珠稲荷大善神」の石神を御祀りいたしております。 1、例祭 初午祭 2月11日執行 1、功徳 火伏、商売繁昌 1、祭禮 町が浅草神社(三社)の氏子であるので、三社祭禮と同時に行っております。 1、宮司 浅草神社(三社)が兼務しております。 1、由緒 旧社格 無社格、明治6年(1873) 列格 昭和21年(1946)6月終戦後G・H・Qの要請により「神社の社歴」を申請。 昭和28年(1953)12月宗教法人成立、登記 昭和41年(1966)7月神社本庁の承認を得て、「寶珠稲荷神社」と社名を変更 1、起源 當神社の起立に付ては、明確な資料がなく、その創建年代を確立することは不可能でありますが、古文書によると、戦國時代の開幕を嚆矢された戦國大名北條早雲の5代目小田原城主後北條氏直が、室町時代末期、天正17巳丑年(1589)9月、浅草寺門前町の「浅草町」に於て、初めて「観音市」を開かれ、その市を取締る為めに、町に後北條氏の虎朱印の「禁制」が出されました。 その當時、浅草町に寶珠稲荷社が鎮座し、町民が守護して居ったのであります。其後、神社は町と共に、数回移動し、浅草智楽院(伝法院前身)の内、駒形廣小路小あけ衆屋敷跡に在った時、その土地が幕府の用地となり萬治元戊戍年(1658)に本所亀戸村に替地を給されました。又その地に居った本所御旗本衆御扶持人衆が屋敷替になった為め、附近に殆んど居住しているものがなくなり、又場末でもあり、町民が渡世が出来得なくなったので、天和2壬戍年(1682)10月に名主と町民が奉行所に替地請願の「訴訟状」を提出し、町は山谷町と小塚原町の中間の現在地(旧浅草町全域)に替地を給されました。 神社は町とは別に奉行所よりの特別の指示により、浅草寺除地(現在地)間口九尺、奥行二十間の土地を賜はったのであります。 明治35年(1902)8月10日、隣接地の氏子より土地81坪6合を売買によって所有権を取得しました。 大正12年(1923)9月関東大震災には、境内地の各社殿及種々多数の樹木を全焼いたしましたが、「御神霊」は社守によって無事に守護され、同年12月南千住大西由蔵氏の絶大なる御篤信によって「拝殿」が新規造営寄進され、「御神霊」を奉安いたしました。 昭和2年(1927)、昭和3年(1928)頃當地区に、特別都市計画に基く、区画整理が施行され、地積は大幅に減じられましたが、境内地は西向が南向に変更になっただけで、天和2壬戍年(1682)10月奉行所よりの特別指示で賜った大半の土地が現在も氏子の絶大なる協力によって引続き維持されております。 昭和20年(1945)3月大東亜戦争末期の東京大空襲の際、神社の灼なる御神徳の御加護と氏子の必死の消火活動により、境内地の全建物は消失の難を免かれたのであります。 1、境内地 總代、氏子、崇敬者の絶大なる御協賛により、下記の事業を行う。 土地 62坪3合6勺(区画整理後56坪2合9勺と大幅に減じられましたが、昭和44年〔1969〕5月台東区より土地6坪7勺を減額譲渡にて購入、併したものであります) 昭和45年(1970)10月 旧社務所に会館を増設し寶珠会館と總称す。 昭和51年(1976)11月 拝殿屋根大改修工事及境内地周囲の御影石の玉垣及参道両側に御影石の旗立新設。 昭和54年(1979)2月 寶珠稲荷神社 所在地 台東区谷中3-1-2 日蓮宗 高光山 大円寺 大円寺境内には『笠森お仙碑』、『鈴木春信碑』があります。 お仙は、笠森稲荷社前の茶屋「鍵屋」の看板娘で、江戸の三美人の1人。絵師鈴木春信はその姿を、当時全く新しい絵画様式である多色刷り版画「錦絵」に描いた。お仙に関係の深い笠森稲荷を合祀している大円寺に、大正8年(1919)、2つの碑が建てられた。「笠森阿仙の碑」は小説家永井荷風の撰、「錦絵開祖鈴木春信」碑は、文学博士笹川臨風が撰し、題字は、東京美術学校(現、東京芸術大学美術学部)校長正木直彦の手になる。 荷風の撰文は、漢字仮名交じりの文語調である。 女ならでは夜の明けぬ、日の本の名物、五大州に知れ渡るもの、錦絵と吉原なり。笠森の茶屋かぎや阿仙、春信が錦絵に面影をとどめて、百五十有余年、嬌名今に高し。今年都門の粋人、春信が忌日を選びて、こヽに阿仙の碑を建つ。 時恰大正己未夏 六月鰹のうまい頃 五大州は日本のことで、大正己未は大正8年(1919)にあたる。 平成8年(1996)7月 台東区教育委員会 MONUMENTS OF KASAMORI OSEN AND SUZUKI HARUNOBU The inscription on the Monument of Kasamori Osen represents a sentence written by Nagai Kafu,a novelist.The inscription for the monument of Suzuki Harunobu,the originator of the Nishikie color print,standing next to it was written by Sasagawa Rinpu,a man of letters.Osen was a tea-serbing woman at tea house called Kagiya in front of the Kasamori Inari shrine.Osen's beauty was well-known throughout Edo,and Harunobu depicted her fascinating figure in his Nishikie color print.It is supposedly because of this that the monuments of Osen and Harunobu stand side by side at this place. 所在地 台東区谷中3-1-2 (大円寺) 鈴木春信碑 東京美術学校長 正木直義 題額 明和七年六月十五日錦絵■一新託元を開きたる稀代の巨匠鈴木春信はみまかりぬ享年■在のさへ光知らせ■賞家の嘆賞措く絵■なら■上品此書く■夜■夢の■獨り我ら藝術の■らて今に書き す今茲同意■るよ際■今と古■共■と■江石の■る六圓寺の堂域■碑を建■ 大正八年六月 所在地 台東区谷中3-7-1 (初音児童遊園) みしま地蔵尊 太平洋戦争下の昭和20年(1945)3月4日午前8時40分頃、小雪振る中に、谷中地区はB29爆撃機の空襲を受け、死傷者約5百人、全半壊家屋約2百戸の被害を蒙った。 戦争も終り昭和23年(1948)、当時の三崎町、真島町の有志により、三ヶ町の戦災死者70余名の霊を永久に供養するために地蔵尊が建立された。 みしま地蔵尊とは三ヶ町の町名からそれぞれ一字をとったもので(三四真地蔵)、かなで読みやすくした。 平成4年(1992)1月 台東区教育委員会 The Mishima Jizo During the Pacific War at 8.40 am on March 4th 1945,the Yanaka area suffered an air raid by B29 bonbers.Approximately 500 people were killed or injured and about 200 houses were partially or wholly destroyed. In 1948,when the war was over people living in the three destricts of Sansaki-cho,Hatsune-cho 4-chome and Mashima-cho had a statue of the Buddhist guardian deity Jizo erected to be a permanent memorial to the sperits of the 70 or more people who had died as a result of the war. The name"Mishima"was derived by taking one character from be name of each of the three districts,and adopting alternative readings for two of the charavters so that they could be pronounced easily when put together. 所在地 台東区谷中4-4-33 (天龍院) 東京都指定旧跡 伊東玄朴墓 伊東玄朴は、近世後期の蘭方医。寛政12年(1800)、肥前国仁比山村(現、佐賀県神埼郡神埼町)の農家に生まれる。医学を志し、長崎では通詞猪股伝右衛門とドイツ人フォン・シーボルトに師事してオランダ語、西洋医学を学んだ。 文政11年(1828)、江戸に出て、本所番場町(現、墨田区東駒形1丁目)で開業、翌年下谷長者町(現、台東区上野3丁目)に転居し医療を施し、天保2年(1831)には、佐賀藩医となった。天保4年(1833)、移転した下谷和泉橋通(現、台東区台東1丁目)の家は、象先堂と称し、訪れる者が列をなしたという。 玄朴は、嘉永2年(1849)、幕府が発した蘭方禁止令、蘭書翻訳取締令に対抗するため、私設種痘所の建設を企画、同士に呼び掛けた。安政5年(1858)、神田お玉が池(現、千代田区岩本町)に設立され、これが蘭方医学を幕府に認めさせる突破口となった。種痘所は、翌年火災による焼失のため、玄朴宅の隣地である下谷和泉橋通に移転、再建された。万延元年(1860)には、幕府直轄となり翌年西洋医学所と改称、玄朴はその取り締まりに任命された。その後は明治政府に引き継がれ、現在の東京大学医学部の前身となった。 玄朴は、明治4年(1871)、72歳で没し、ここ天龍院に葬られた。ドイツ人ビショップの著書の翻訳『医療正始』は、現在でも高く評価されている。 なお、台東1丁目30番には、種痘所跡・伊東玄朴居宅跡の説明板が建っています。 平成14年(2002)3月 台東区教育委員会 Tomb of Ito Genboku(Metropolitan Historical Site) Ito Genboku was a physician of Dutch medicine at the end of the Edo Period.He was born into an agricultural family from what is now Saga Prefecture in 1800.Wishing to become a doctor,he translated from the Dutchlanguage and studied Western medicine under the German physician Philipp Franz von Siebold in Nagasaki. He bigan his practice in Edo(present day Tokyo)in 1828 and,in 1831,became an officialphysician of the Saga Domain.From 1833,he began to receive many students and visitors at his residence-cum-school known as the Shosen-do located on Shitaya Izumibashi Street. The central focus of his endeavors came to be the foundation of the first inoculation center in Edo.Built in 1858 in Kanda Otamagaike,it was relocated the following year inIto's neghborhood on Shitaya Izumibashi Street.In 1860,the Bakufu government took over direct control of the center,renamed it the Seiyo Igaku sho(Institute of Western Medicine),and appointed Genboku in charge of its management.After the transition from Tokugawa University of Tokyo School of Medical Science. In 1871 Ito Genboku died at the age of 72 and was buried here at Tenryu-in Temple. Further information can be found in the posted explanation at Ito's home and inoculation center located at Taito 1-30. 所在地 台東区谷中5-4-7 (全生庵) 弘田龍太郎ひろたりゅうたろう 「春よ来い」「叱られて」などの作曲家。明治25年(1892)、高知県に生まれる。大正3年(1914)、東京音楽学校(現、東京藝術大学)を卒業、さらに研究科を修了し母校で教えた。昭和3年(1928)、ドイツに留学、翌年に帰国し7月、同校教授に任命されたが、9月には作曲活動に専念するため職を辞した。 弘田龍太郎は、作曲や合唱指導など音楽活動に大きな足跡を残した。さらに晩年には、幼稚園を設立、園長となり幼児の音楽指導にあたった。特に中山晋平らとともに多くの童謡を作曲したことはよく知られている。その活動は幅広く作品は千数百曲にも及ぶという。主な作品には、「くつが鳴る」「雀の学校」「雨」「鯉のぼり」「お山のお猿」などの童謡、「浜千鳥」「小諸なる古城のほとり」「千曲川旅情の歌」などの歌曲があり、今なお愛唱されている。このほか歌劇、合唱曲、仏教音楽、舞踊曲など多方面にわたる作曲活動を行った。 昭和27年(1952)、文京区本郷の自宅で亡くなり、ここ全生庵に葬られた。享年60歳。平成元年春、親族によって、龍太郎夫妻が眠る墓のかたわらに、「叱られて」(清水かつら作詞)の譜面と、作曲家松村禎三の撰文が浮き彫りされる碑が建立された。 平成14年(2002)3月 台東区教育委員会 The Tomb of Hirota Ryutaro and the Monument to His Music Born in 1892 in Kochi Prefecture,Hirota Ryutaro is known for several famous compositions,including Haru yo koi(waiting for Spring)and Shikararere(Enfadas).Graduating from the Tokyo School of Music (currently Tokyo National University of Fine Arts and Music)in 1914,he was also a researcher and educator.Going to Germany for further scholarship in 1928,he returned to Japan in July of the following year to take an appointment as professor at his alma mater.However,he decided to retire from this position in September of the same year in order to devote himself to musical komposition. Hirota Ryutaro has had a tremendous influence in the world of music with both his compositions and choral arrangements.He was very active and has been vredited with over a thousand songs.His major works include;kutsu ga naru(Shoes Squeak).Suzume no gakko(Sparrow's School),Ame(Rain),Koinobori,Oyama no osaru (Mountain Monkey),and Chikumagawa ryojo no uta.His music is still greatly cherished. He died in 1952 and was buried here at Zensho-an Temple.The memorial that sits beside the grave he shares with his wife was erebted by his relatives in 1989 and desplays the music and lyrics of Shikararete(Enfadas). 所在地 台東区谷中5-4-7 (全生庵) 東京都指定旧跡 三遊亭円朝墓さんゆうていえんちょう 昭和28年(1953)11月3日指定 初代三遊亭円朝は、通称出淵次郎吉といい、天保10年(1839)4月1日音曲師橘屋円太郎(出淵長蔵)の長男として江戸湯島切通町に生まれた。2代目三遊亭円生の門人となり、安政2年(1855)16歳で真打ちとなる。芝居噺で人気を博し『真景累ヶ淵』や『怪談牡丹燈籠』『塩原多助一代記』などを創作した。本業の話芸以外にも、點茶、華道、聞香、和歌、俳句、書画など和敬静寂の道に精通していた。建築、作庭にも秀で、自らの設計監督によって内藤新宿では、数奇屋造りの家屋や茶室、更に新宿御苑を借景とした百坪余の枯山水の平庭を完成させた実績もある。また、臨済禅の修行においても、山岡鉄舟や由利滴水の指導の下に参禅し、難しい公案を喝破して居士号を授けられた。更に書画古美術品に対する鑑識眼は極めて高く、毎年円朝忌を中心に円朝の収集した幽霊画が公開されている。明治33年(1900)8月11日62歳で死去した。墓石には、山岡鉄舟の筆により「三遊亭円朝無舌居士」とある。 平成13年(2001)3月31日設置 東京都教育委員会 所在地 台東区谷中5-4-7 (全生庵) 東京都指定旧跡 山岡鉄舟墓 昭和28年(1953)11月3日指定 江戸開城の功労者で宮内省御用掛を務めた鉄舟は、天保7年(1836)6月10日幕臣小野朝右衛門の五男として江戸本所に生まれた。通称は鉄太郎、諱は高歩、字は曠野、猛虎、鉄舟、一楽斎は号である。父の飛騨郡代在任中、高山で井上清虎に一刀流を学んだ。嘉永5年(1852)江戸に戻り槍術の師山岡静山の婿養子となって山岡家を嗣いだ。幕末の動乱の中で東征軍の東下に対し、駿府で西郷隆盛と会見し、勝海舟と協力して江戸無血開城を実現させた。明治維新後は天皇の側近として宮内大書記官や宮内少輔などを歴任した。公務の傍ら剣術道場を開き、明治13年(1880)には無刀流を創始した。書家としても優れ、また明治16年(1883)臨済宗普門山全生庵の開基となった。開山は松尾越叟である。明治21年(1888)7月19日53歳で死去した。 山岡家墓所には、基壇上にある有蓋角塔の正面に「全生庵殿鉄舟高歩大居士」とある。墓所の周辺には、鉄門といわれる石坂周造、千葉立造、松岡萬、村上政忠の墓がある。 平成13年(2001)3月31日設置 東京都教育委員会 所在地 台東区谷中5-7 東京都指定旧跡 岡倉天心宅跡・旧前期日本美術院跡 昭和27年(1952)11月3日 日本美術院は明治31年(1898)岡倉天心が中心になって「本邦美術の特性に基きその維持開発を図る」ことを目的として創設された民間団体で、当初院長は天心、主幹は橋本雅邦、評議員には横山大観、下村観山らがいた。 活動は絵画が主で、従来の日本画の流派に反対し、洋画の手法をとり入れ、近代日本画に清心の気を与えた。 この場所に建てられた美術院は明治31年(1898)9月に竣工した木造2階建で、南館(絵画研究室)と北館(事務室・工芸研究室・書斎・集会室)からなり、附属建物も2、3あったといわれている。明治39年(1906)12月に美術院が茨城県五浦に移るまで、ここが活動の拠点となっていた。 昭和41年(1966)岡倉天心史跡記念六角堂が建てられ、堂内には平櫛田中作の天心坐像が安置されている。 平成11年(1999)3月31日建設 東京都教育委員会 敷地内には『岡倉天心史跡記念六角堂』があります。 所在地 台東区谷中5-7 (岡倉天心宅跡) 岡倉天心史跡記念六角堂 明治美術界の偉大な先覚者岡倉天心は、明治21年(1888)当地谷中初音町に日本美術院を創設し、幾多の俊英を育成して東洋美術の真髄を広く世界に紹介した。とくに日本の明治開化期にあって、東京美術学校の創立、中国、インドの古美術踏査、日本美術史の著述など多岐にわたる芸術活動は、我が国美術界に大きな改革をもたらした。 本区の誇る偉才岡倉天心の輝かしい業績を後世に伝えるべく台東区長上條貢氏は、かねて遺蹟顕彰の方策を持っていたが、時偶々上野信用金庫理事長長野高一氏より多額の浄財の寄託を受けるに及び日本美術院発祥の当地に岡倉天心史蹟記念堂の建設を発意した。 上條区長の委嘱により地元関係者をもって建設委員会が編成され、史蹟記念堂の実現に意を注いだ。幸い天心の直門であり、その薫陶にも触れた日本木彫界の泰斗平櫛田中先生の賛意を得て秀作「岡倉天心像」の寄贈を受け、これを六角堂に収め「岡倉天心史蹟記念堂」と命名する。 芸術文化の中心地として知られる上野の一角に平櫛田中、長野高一両氏をはじめとする多くの人々の厚意によって「岡倉天心史蹟記念堂」が建設されたことは誠に大きな意義がある とこしえに天心の偉業を伝える事績として愛護されんことを記念し、ここに賛を記す。 昭和41年(1966)11月吉日 岡倉天心史蹟記念堂建設委員会委員 台東区長 上條貢 台東区助役 金津武夫 台東区収入役 鈴木義尚 台東区議会議長 和田長敬 台東区議会副議長 斉木竜雄 上野信用金庫理事長 長野高一 岡倉天心像寄付者 平櫛田中 台東文化振興会会長 頼母木真六 谷中地区町会連合会長 木村智広 所在地 台東区谷中5-8-28 新義真言宗 蓮葉山 妙智院 観音寺 (赤穂浪士ゆかりの寺) 赤穂浪士の吉良邸討入りは「忠臣蔵」の題材として、広く世に知られている。 四十七士に名をつらねる近松勘六行重と奥田貞右衛門行高は、当寺で修行していた文良の兄と弟であった。文良とは、のち当寺第6世となった朝山大和尚のことである。 寺伝によれば、文良は浪士らにでき得る限りの便宜をはかり、寺内ではしばしば彼らの会合が開かれたという。明治末の福本日南の著書『元禄快挙録』には、勘六は死にのぞみ「今日の仕儀勘六喜んで身罷ったと、長福寺の文良へお伝え下されたい」と遺言したというエピソードが記されている。当寺はもと長福寺と称し、享保元年(1716)観音寺と改称した。 本堂に向かって右側にある宝篋印塔は、四十七士慰霊塔として古くから伝えられ、現在でも霊を弔う人が訪れている。上部に四方仏を表す種子(梵字)、下部に宝篋印陀羅尼経、宝永4年(1707)3月吉日、長福寺6世朝山の名を刻む。 平成16年(2004)3月 台東区教育委員会 宝篋印塔 Temple notedin connection with the 47 akoroshis 47 akoroshi are widely known in Japan through the story"Chushingura"which describes 47 samuraisof Ako(present Hyogo prefecture)who avenged their master Asano Naganori by making a raid on his foe Kira Yohinaka.Two of 47 Akoroshis,Chikamatsu Kanroku Yukishige and Okuda Sadaemon Yukitaka,were brothers of Bunryo who was studying at this temple.Bunryo later became the 6th head bonze of this temple and was named the great Bonze Chozan. Bunryo is said to have done all he could to help Akoroshi and it is said that they held many meetings at this temple.The book called "Genroku kaikyoroku"written by Fukumoto Nichinan in the late Meiji period mentions that Kanroku left hislast words "Please tell bunryo in the Chofukuji Temple that I am was originally called the Chofukuji Temple adn was renamed the Kannonji Temple in 1716". The pagoda to the right of the main hall is known as a memorial tower of Akoroshis and people still visit it today.On the upper part of the pgoda was engraved Sanskrit words that stand for the Buddhas in the north,the south,the east and the west.On the lower part,Hokyoindaranikyo(a sutra)and on March in 1707,the name of the 6th Head Bonze of this temple Chozan was engraved. 境内には『築地塀』があります。 所在地 台東区谷中5-10-10 (長明寺) 本銅鐘は、総高122.9センチ、日径75.1センチ。銘文によると天和2年(1682)初冬(10月)16日、屋代安次が自らの逆修供養のために寄進した。逆修とは生前に自分の死後の冥福を祈るために仏事を修することである。撰文は下総国飯高(現、千葉県八日市場市)の日蓮宗檀林所として著名な飯高寺の僧性孝、書は長明示四世住職目習。鋳物師は椎名伊予良寛。鋳物師の椎名家は江戸時代初頭に多くの作例を遺し、椎名伊予吉次を初代とする江戸鋳物師の名家であった。 椎名伊予良寛は延宝9年(1681)頃から元禄13年(1700)頃にかけて活躍した鋳物師で、およそ26点の作品を残している。銅鐘が19点、銅燈籠が2対4点、宝塔・水盤が各1点である。とくに宝塔は上野寛永寺にある将軍家墓所のひとつで、4代将軍家綱(厳有院)の墓である。このように将軍家の墓の鋳造を任されている事からも、椎名良寛が当時実力を伴った著名な鋳物師であったことがわかる。 平成16年(2004)3月 台東区教育委員会 Copper Bell This copper bell was conated by Yashiro Yasutsugu for "Gyakusyu Kuyo".A "Gyakusyu Kuyo"is a Buddhist service held by worshipper while the subject is still alive so his soul should rest in peace after death. The bell,approx.48 inches high and 30 inches in diameter,was created by Shina Yoshihiro,a member of the renowned Shina Family.The Shina family was famous smith for their copper works in the latter falf of 1600s.Number of pieces produced by them remained to this day.Yoshihiro made a major contribution with hin craftsmanship cirea 1681-1700.Twenty-six pieces by him exist today,including 19 copper bells.2pairs of kopper lanterns,a basin,and a pagoda.The pagoda is of special note as it is the tomb of Tokugawa letsuna,located at Kan'eiji Temple in Ueno.Ietsuna was the fourth lord of Tokugawa clan and the Shogun.The fact that Yoshihiro was chosen to build Shogun's tomb tells that he was the copper craftsman with outstanding skill in his time. 所在地 台東区谷中5 ・ 荒川区 七面坂 宝暦年間の『再校江戸砂子』に「宗林寺前より七面へゆく坂」とある。宗林寺(台東区谷中3-10)は坂下にあるもと日蓮宗の寺、七面は坂上の北側にある日蓮宗延命院(荒川区西日暮里3-10)の七面堂を指す。七面堂は甲斐国(山梨県)身延山久遠寺の西方、七面山から勧請した日蓮宗の守護神七面天女を祀る堂である。 坂は『御府内備考』の文政9年(1826)の書上によれば、幅二間(約3.6メートル)ほど、長さ五十間(約90メートル)高さ二丈(約6メートル)ほどあった。 なお宗林寺は『再校江戸砂子』に、蛍の所在地とし、そのホタルは他より大きく、光もよいと記され、のちには、境内にハギが多かったので、萩寺と呼ばれた。 平成6年(1994)3月 台東区教育委員会 SHICHIMEN SLOPE In a book called Saiko Edo SUnago written in the mid 19th Century,it is written that the slope leading down from the Sorin-ji temple to a place called Shichimen,was called the Shichimen Slope.Toward the north of the top of the slope,there is the Enmeiin temple which has a small shrine called Shichimen-do in its precincts.So this place was called Shichimen and the slope took its name from the temple. Records in 1826 show that this slope was about 3.6 meters wide,90 meters long and 6 meters in height. 所在地 台東区谷中7-18-25 幸田露伴は、明治24年(1891)1月からほぼ2年間、この地(当時の下谷区谷中天王寺町21番地)に住んでいた。 ここから墓地に沿った銀杏横町を歩き、左に曲がると天王寺五重塔があった。五重塔は寛永21年(1644)に感応寺(天王寺の前身)の五重塔として創建され、明治9年(1772)2月に焼失、寛政3年(1791)棟梁八田清兵衛らにより再建された。 露伴は当地の居宅より日々五重塔をながめ、明治24年(1891)11月には清兵衛をモデルとした名作『五十塔』を発表した。 明治26年(1893)1月、京橋区円山町(現、中央区)へ転居したが、現在もかたわらに植わるサンゴジュ(珊瑚樹)は、露伴が居住していた頃からあったという。 露伴は、慶応3年(1867)7月、下谷三枚橋横町(現、上野4丁目)に生まれ、すぐれた文学作品や研究成果を多数発表するなど、日本文学史上に大きな足跡をのこした。昭和22年(1949)7月没、墓所は大田区池上本門寺にある。 平成14年(2002)3月 台東区教育委員会 The Remains of Koda Rohan's Home Koda Rohan(1867-1947)is one of the famous literary writers of modern Japan.From January of 1891,he lived on this site for nearly two years.The Sangoju or "Coral Tree"(Caprifoliaceae-Viburnum awabuki)growing on this spot is said to have been here since the time of Koda's home. From this point,approximately 250 meters to the southeast was the Gojunoto(Five-Storied Pagoda)of Ten-no-ji Temple.The Gojunoto was built in 1644 before being destroyed by fire in 1772 and subsequently rebuilt in 1791 by the master carpenter Hatta Seibei.From his home,Rohan spent his days gazing toward Gojunoto and,in November of 1891,he published his masterpeice Gojunoto(Five Storied Pagoda)whose main character is based upon Hatta Seibei.A storong willed hero spare with words;the"ponderous Jubei"is anaarchetypal image of Japan's craftsman. 所在地 台東区谷中7 ・ 荒川区 文政12年(1829)に成立した『御符内備考』には、「感応寺後と本行寺の間より根津坂本の方へ下る坂なり」とあるが、「根岸」の誤写の可能性がある。明治5年『東京府志科』には、長さ十五間(約 27.3メートル)幅二間(約 3.6メートル)とあるが、現在の坂の長さは 50メートル以上あり、数値が合致しない。以前は、谷中への上り口に当たる急坂を「御殿坂」と呼んだが、日暮里駅や JRの路線ができた際に消滅したため、その名残である坂の上の部分をこう呼ぶようになったと考えられる。俗に御隠殿(寛永寺輪王寺宮の隠居所)がこの先にあったからといわれるが、根拠は定かではない。 平成14年(2002)3月 台東区教育委員会 |
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