東京都台東区の歴史
× [PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。 所在地 台東区谷中 三崎坂(さんさきざか) 「三崎(さんさき)」という地名の由来には諸説あるが、駒込・田端・谷中の三つの高台にちなむといわれる。安永2年(1773)の『江戸志』によると、三崎坂の別名を「首ふり坂」といい、30年ほど以前、この坂の近所に首を振る僧侶がいたことにちなむという。 平成16年(2004)3月 台東区教育委員会 PR 所在地 台東区上野公園1-30 (上野恩賜公園) 日本芸術院は、美術、文芸、音楽など、芸術の各分野において功績が顕著な芸術家を優遇顕彰するために設けられた国の栄誉機関です。 その歴史は、明治40年(1907)文部省美術展覧会(文展)の開催に伴って設置された美術審査委員会を母体とし、大正8年(1919)「帝国美術院」として創設されたことに始まります。昭和12年(1937)美術の他に文芸、音楽、演劇、舞踊の分野を加えて「帝国美術院」に改組、さらに昭和22年(1947)「日本芸術院」と名称を変更して今日に至っています。 現在、同院は、院長1名と会員107名(うち日本画13名)で構成され、毎年、日本芸術院賞、恩賜賞の授与を行うほか、それら受賞作をはじめ、会員の作品を収集して公開するなど、芸術文化の振興に大きな役割を果しています。 平成23年(2011)6月現在 所在地 台東区上野公園1 (上野恩賜公園) 天海僧正毛髪塔 天海僧正は、江戸初期の天台宗の高僧で諡号を慈眼大師という。 天文5年(1536)に奥州会津郡高田郷(福島県)で生まれた。11歳で出家、14歳で比叡山に登り実全に師事して天台教観を学び、さらに三井寺や奈良で諸教学を学んだといわれる。のちに江戸崎不動院(茨城県江戸崎町)、川越喜多院(埼玉県川越市)などに住し、徳川家康の知遇を受けた。元和2年(1616)家康が没すると、その神格化にあたり権現号の勅許を計り、合わせて日光廟の基本的構想をたて造営を指導した。その後も将軍秀忠・家光の帰依を受け、江戸城鎮護のため上野忍岡に寺院の建立を進言し、寛永2年(1625)に寛永寺を創建した。 寛永20年(1643)に子院の本覚院にて108歳で示寂。遺命により日光山に葬られ、この地(旧本覚院跡)には供養塔が建てられた。後に本覚院伝来の毛髪を納めた塔も建てられ、毛髪塔と呼ばれるようになった。 平成15年(2003)3月 台東区教育委員会 Hair Pagoda For Priest Tenkai(Metropolitan Historical Site) Tenkai(1536-1643)was a high priest of the Tendai Sect at the veginning of the Edo PEriod.He was also known as Jigen Daishi.He took orders at age 11.At 14 he climbed Mt.Hiei and began formal training in the precepts of Tendai Buddhism. With the fouding of the Tokugawa bakufu government at Edo (Currently Tokyo),Tenkai received the faavor tof Tokugawa Ieyasu.Upon the death of Ieyasu,he was permitted to take a saintly name inaorder to deify the Tokugawa founding shogun.At roughly the same time the basic designs of the shrine at Nikko were being laid out and Tenkai served as an advisor in its construction.Following this,he also benefited from the attention of both Shoguns Hidetada and Iemitsu and was installed atathe newly built Kaneiji Temple in 1625 for the spiritual protection of Edo Castle. In 1643,atathe age of 108 he passed away at Hongakuin Temple,a branch temple of Kaneiji,and as ordered,was buried on Mt.Nikko.A pagoda to commemorate him was built at this site, and later,priest of Hongakuin built a second pagoda in order to house a lock of his hair.Thus this pagoda has come to be called the Hair Pagoda. 所在地 台東区上野公園5 (上野恩賜公園) 上野駅東西自由通路建設地点の遺跡(パンダ橋) 東京都立上野公園内は上野忍岡遺跡群として縄文時代~近世の遺跡が広がり、江戸耳朶には寛永寺境内地であった。本遺跡は上野台地の東南の緑辺に位置氏、北西に東京文化会館構内・国立西洋美術館構内の遺跡が分布している。当地は近世には寛永11年(1634)から寛永寺子院の常照院が存在していたが、1678年に凌雲院が移転してきた。凌雲院の境内は当地から東京文化会館と国立西洋美術館まで続き、18世紀中頃以降は徳川御三家(田安・一橋・清水家)の墓所となっていた。国立西洋美術館構内の発掘調査では清水家の墓が発見され、東京文化会館においても墓が確認されている。 当地は平成10年(1998)に東西自由通路(現パンダ橋)建設に伴い調査を実施した。調査地の北東側に17世紀頃の「段切状遺構」(雛壇状の区画)が検出され、また「地下室」等も見られ常照院に関係するものと推測される。その後北半分は整地されて墓所となっており、19世紀頃の板石組の石槨墓(5基)や墓所を区画する石組が発見され、一橋家の墓所と推測される。遺物では「地下室」から中国製磁器、銅製灯明具、松竹・鶴亀文印刻の土師質(素焼き)皿などが出土した。 近世以前では縄文時代前期、弥生時代末期頃、古墳時代後期、奈良・平安時代の住居跡が調査されており、古墳時代の住居跡は焼失して屋根材が炭化したまま残っていた。その他に道路状遺構や縄文時代の集石などが発見されている。火災住居跡からは完全な形の土師器坏、金環(金銀貼の銅製耳環)が出土し、付近の摺鉢山古墳等に関連した集落とも推測される。 1998年発掘調査での出土遺物は平成12年度台東区有形文化財(考古資料)に登載されている。 平成15年(2003)3月 台東区教育委員会 The Remains of Sites Along the Ueno Station Within the grounds of Ueno Tokyo Metropolitan Park are the clustered ruins of Ueno Shinobugaoka.Containing archeological sites spanning from the Jomon era(ca.8000-300 B.C.)up through the early modern period (17th-mid 19th centuries),this area was once part of the Kaneiji Temple complex.The actual ruins are located along the southeast edge of the Ueno plateau.From 1634 this was part of a branch temple of Kaneiji-Joshoin-however in 1678 it became Ryounin Temple.From the middle of the 18th century,Ryounin came to serve as the burial site for the three powerful houses of the Tokugawa bakufu;the Tayasu,Hitotsubashi,and Shimizu families. During an excavation in 1998 ti was descovered that the vortheast side of this site contained terrace and underground chamber etc.in 17th century.The remains are thought to be associated with Joshoin.In 19th century the north side was leveled in order to make a graveyard.Relics recovred from the underground chamber include Chinese porclean,copper lamps,and unglazed hajishitsu plates embossed with pine-bemboo and crane-turtle motifs. Remains from early Jomon,latest Yayoi(3th),later Kofun(6th-7th),Nara(710-794),and Heian(794-1192)periods have been descovered,including the carbonied roof from a Kofun period dwellilng that burned down.From the remains of the house fire,unglazed hajiki cups and kinkan(gold and silver embossed bronze earrings)have been recovered. パンダは上野をイメージし、子供から大人まで広く愛されています。この橋の名は、温か味がありかつ覚えやすいことから、公募により決まりました。 なお、この石は接触変成岩のひとつで、花崗岩マグマが上昇中に砂岩や頁岩などをとりこんでできたもので、白と黒のコントラストの面白さからパンダ石と呼ばれています。 台東区 所在地 台東区上野公園8 (上野恩賜公園) グラント将軍植樹碑 明治10年(1877)から明治13年(1880)にかけて、グラント将軍は家族同伴で、世界を周遊した。その際、来日。明治12年(1879)8月25日、ここ上野公園で開催の大歓迎会に臨み、将軍はロウソン槍、夫人は泰山木を記念に植えた。植樹の由来が忘れられるのを憂い、昭和4年(1929)8月、この碑を建設。碑は正面に将軍の胸像を刻み、向かって右側に和文、左側に英文で、将軍の略歴・日本滞在中の歓迎の模様、植樹の由来を記している。胸像下部には、英語で、将軍の言葉「平和を我等に」の文字を刻む。 グラント将軍のフルネームはユリシーズ・シンプソン・グラントという。北軍の義勇軍大佐として、南北戦争に従軍。戦功を重ね、のち総司令官となり、北軍を勝利に導いた。明治2年(1869)、アメリカ合衆国大統領に選ばれ、明治10年(1877)まで二期在任した。いま、将軍植樹の木は大木に成長している。 平成4年(1992)11月 台東区教育委員会 Memorial Tree planted by general Grant General Ulysses Simpson Grant had serbed in the American Cibil War as a colonel in the volunteer corps of the northern forces.Distinguishing himself on the battlefield,he later became Supreme Commander and led the northernforces to victory.In 1869 he was made president of the Uneted States of America and remained in office for two terms until 1877. From 1877 to 1880 General Grant foured the world with his family.He came to Japan and on August 25th 1879 at the large reception given for him here in Ueno Park he planted an oak and his wife planted a yulan in commenmorarion.The trees they planted have now grown large. 所在地 台東区上野公園8 (上野恩賜公園) 小松宮彰仁親王銅像 彰仁親王は伏見宮邦家親王の第8王子。安政5年(1858)京都仁和寺に入って純仁法親王と称し、慶応3年(1867)勅命により22歳で還俗、東伏見宮嘉彰親王と改称した。慶応4年(1868)1月に鳥羽・伏見の戦に、征東大将軍として参戦。ついで会津征討越後口総督となり、戊辰戦争に従軍した。 明治10年(1877)5月、西南戦争の負傷者救護団体として、博愛社が創立されると、9月その総長に就任した。明治15年(1882)には、小松宮彰仁親王と改称。明治20年(1887)、博愛社が日本赤十字社と改名すると、総裁として赤十字活動の発展に貢献した。明治36年(1903)1月18日、58歳で没。 銅像は明治45年(1912)2月に建てられ、同明治45年(1912)3月18日、除幕式が挙行された。作者は文展審査員の大熊氏廣。『下谷區史』は当地に建てた理由について、寛永寺最後の門跡・輪王寺宮公現法親王(のちの北白川宮能久親王)の兄宮であったことに因んだのだろうと推察している。 平成8年(1996)7月 台東区教育委員会 BRONZE STATUE OF PRINCE KOMATSU NO MIYA AKIHITO Akihito was the eighth prince of Fushimi no miya Kunie.He joined the Toda/Fushimi war in January,1868 as the commander-in-chief and also took part in the Boshin war. In 1877 he establidhed an arganization called "Hakuai-sha"to help the wounded of the Seinan war and headed the association.When it was renamed "Japan Red Cross Society",he assumed office as its president and contributed to the development of the society.He passed away at the age of 58 on the eighteenth January,1903. This bronze statue was erected in February of 1912.The sculptor was Okuma Ujihiro,a Bunten art exhibition judge.The reason why the statue was ercted here is presumed to be that Rinnoji no miya,Akihito's elder brother was the last Monseki of Kanei-ji temple. 所在地 台東区上野公園10-18 天台宗 護国院 谷中七福神 護国院は、天海の弟子生順が、釈迦堂の別当寺として、現在の東京国立博物館の右手裏に開創した。承応2年(1653)・延宝8年(1680)に寺地を西方へ移転し、さらに、宝永6年(1709)現在地に移った。延宝8年(1680)・宝永6年(1709)の移転は、それぞれ4代将軍家綱霊廟・5代将軍綱吉霊廟の建立にともなうものである。また、昭和2年(1927)、第二東京市立中学校(現、都立上野高校)建設にともない、本堂を現在の位置に移した。 現存する本堂は釈迦堂とも呼ばれ、享保7年(1722)3月の再建。間口七間(18.2メートル)、奥行五間(13.6メートル)。唐様の建築で、中央奥の須弥壇に本堂釈迦三尊坐像を安置する。また、大黒天画像は3代将軍徳川家光から贈られたものと伝え、谷中七福神のひとつとして信仰をあつめている。 庫裏の1階部分は、昭和2年(1927)の新築。東京美術学校(現、東京芸術大学美術学部)教授岡田信一郎の設計で、各間取りは機能的に配置されている。昭和初期の住宅建築の風潮を良く伝えており、平成13年(2001)、国登録有形文化財に指定された。 岡田は、東京美術学校・早稲田大学で設計教育に携わるかたわら、旧鳩山一郎邸(大正13年〔1924〕竣工)・歌舞伎座(同大正13年〔1924〕竣工)等を手がけ、和風建築の設計に手腕を発揮した人物である。 平成14年(1939)3月 台東区教育委員会 『護国院庫裏』があります。 Gokoku-in Temple Founded in 1630,Gokoku-in Temple is one of the affiliate temples under the asuspices of Kaneiji Temple. Rebuilt in 1722,the existing main hall enshrines a fugure of Shaka Nyorai(Sanskrit:Sakya Tathagata).The Daikokuten Painting is said to have been donated by the third shogun Tokugawa Iemitsu,and as one of the Yanaka Shichifuku Jin it is the object of religious devotion. The first floor of the temple's living quarters was rebuilt in 1927.Due to the careful planning of Professor Okad Shinichiro of Tokyo School of Fine Arts (currently Tokyo National University of Fine Arts and Music)each innovation is laid out in order to achievea certain functionality.Conveying trends in contemporaneous residential architecture of the time, the building was designated a Registered Tangible Cultural Property in 2001.While engaged in architectural design education at the Tokyo School of Fine Arts and Waseda University.Professor Okada also ezpressed his ideas and techniques of Japanese style architecture in his designs for the Kabukiza(1925) located in Ginza. 所在地 台東区上野公園12-53 黒田記念館 日本近代洋画の父とも言われる黒田清輝(1866~1924)は遺産の一部を美術の奨励事業に役立てるよう遺言しました。これを受けて、美術の学術的調査研究と資料収集・公開を行う美術研究所が1930年に開所しました。その建物として1928年に竣工したのが黒田記念館です。2階には黒田清輝の作品を展示・公開する黒田記念室が設置されています。東京美術学校建築家教授であった岡田信一郎の設計になり、昭和初期の西洋的美術館建築として貴重な建物です。 When Kuroda Seiki,often considered the father of modern Western-style painting in Japan,died in 1924,he dequeathed a portion of his estate to be used for the furtherment of fine art.The Kuroda Memorial Hall was built with this bequest in 1928,and The Institute of Art Research was founded soon after in 1930 for the academic study of art and the collection of research materials.Kuroda's works are on display to the public in the Kuroda Memorial Room on the building's second floor.The building was designed by Okada Shin'ichiro,a former professor of the department of Architecture at Tokyo Art School,and is deemed an important example of a Western-style museum building from the 1920s. 所在地 台東区上野公園13 重要文化財 旧因州池田屋敷表門(黒門) 昭和26年(1951)指定 この門は、もと因州池田家江戸屋敷の表門で丸の内大名小路(現丸の内3丁目)に建てられていたが、明治25年(1892)、芝高輪台町の常宮御殿の表門として移建された。のちに東宮御所として使用され、さらに高松宮家に引き継がれる。表門は昭和29年(1954)3月、さらにここに移建して修理を加えたものである。創建年代は明らかではないが、形式と手法からみて、江戸時代末期のものである。屋根は入母屋造、門の左右に向唐破風造の番所を備えており、大名屋敷表門として最も格式が高い。昭和26年(1951)9月、重要文化財に指定。 Gate of the Insyu-Ikeda Residence Known as "Kuromon(Black Gate)" This was the gate to the Edo(Tokyo)residence of the Ikeda family,daimyo lords of Inaba province(present-day Tottori prefecture).Originally constructed in the Marunouchi area,it was relocated to Takanawadai-machi in 1892,where it served as the gate to the crown prince's palace.It was subsequently transferred to the Takamatsu-no-miya household before being restored and reconstructed in its present location in March, 1954.The style and construction methods suggest it was originally built during the Edo period(1603-1868),however the exact date remains unknown.Featuring a hipped-gablr roof and twin sentry bowes with bargeboarded gables,this is a highly formal example of a daimyo residence gate.It was designated as Important Cultural Property in September 1951. 所在地 台東区上野公園14 両大師 このお堂には慈恵大師(良源大僧正)と慈眼大師(天海大僧正)をお祭りしている。 正保元年(1644)、寛永寺開山天海僧正の像を安置する堂として建立。天海僧正は慶安元年(1648)朝廷より慈眼(じげん)大師の諡号(しごう、没後に与えられる号)をうけたため、「開山堂」または「慈眼堂」と称した。 その後、天海僧正が最も尊敬した平安時代の高僧慈恵大師良源の像をも安置したため、慈眼大師天海とともに一般には”両大師”と呼ばれるようになった。 天海僧正の像は木造の坐像で、寂後まもなく制作され、多くの天海像の中でも優れたものの1つ(東京都指定有形文化財)。良源を描いた「元三大師画像」は、室町時代初期の制作。優れた画風を有し、江戸庶民の信仰を受けてきた(台東区指定有形文化財)。 また、江戸時代初期の銅鐘・銅燈籠が現存。いずれも、国の旧重要美術品である。 平成6年(1994)3月 台東区教育委員会 RYODAISHI(TWO SAINTS) The Ryodaishi was first built in 1644 to commemorate two saintly monks who were called the high priests Ryogen in the 10th century and Tenkai in the early 17th century (Tenkai opened the Kan-eiji Temple in his time.)The statues of thise two Saints are enshrined here,and thus the name,Ryodaishi (that means two Saints)was given.These two Saints performed many meritorious deeds throughout their lifetimes and after their deaths,the Imperial Court awarded them a single title"Daishi"and observed the many contributions to the development of Japanese Buffhidm. 1、慈恵大師小史 慈恵大師(良源大僧正)(912~985)は学徳行業が秀でて当時の仏教界に大師と肩をならべる僧はなく特にその学識は後世比叡山から輩出した鎌倉仏教の各祖師に強く影響したので比叡山中興の祖を称する大師のすぐれた学識を示したものに仏教史上で有名な応和問答がある。これは応和3年(963)に村上天皇が法華経書写の供養のために宮中の清凉殿で開かれた法華論義(法華経討論会)で大師は奈良仏教の巨匠といわれた法蔵を論破した。法蔵は大師を評して釈尊の弟子の富楼那尊者のように雄弁家である。とうてい自分の及ぶところでないと述べている。これについて大師の弟子恵心僧都(942~1017)の著述によると大師の雄弁は仏教論理学に基礎を置く大師独特の新祭明のもので論理学の本家である奈良仏教の学者がいっこうに及びもつかなかったものであるとのべてある。しかも、この恵心僧都の書かれた書物(四相違略註釈)は唐時の支那(中国)に贈られて仏教論理学者をおどろかせたという伝説がある位である。大師はその優れた学徳によって村上・一条・円融の三天皇の特別な御帰依があって慈恵大師の謚号を賜わったが宮中に参内しては密教の霊験をしばしばあらわされたのである。その霊験とは、天元4年(981)8月円融天皇が御病気になられたとき大師が参内すると忽ち平癒したと伝記にあり、また宮中で大師が護摩供を修すると大師が不動明王と同じ姿になったと伝えられる。そのほか大師が疫病神を降伏して自ら夜叉の姿になったということから今日でもその御影像を写して厄除角大師と申して尊崇しおまつりしているのである。そのほか大師の厄難消除・福願与時の御利益は数多く伝えられているが中でも大師の威力を現わしたことは天海大僧正が三代将軍家光公の靖によって世嗣安産を祈願するにあたって天海大僧正は民部法眼筆の慈恵大師御影像を寛永寺まつって大師の霊験を祈祷したところその効験があって後に四代将軍となった家綱公が誕生したのである。それより将軍家の信仰を得たばかりでなく江戸市民もこれを聞きつたえて子授け大師とよび信仰するようになった。 永観3年(985)正月3日に入寂されたので元三大師とも申して今日でも大師えの信仰は東叡山をその発祥地として広く関東一円に行なわれている。 2、慈眼大師小史 天海大僧正(1535~1643)は寛永寺開山、東叡・日光両輪王寺の開基であり、神儒仏の三教にわたってその神髄を会得された高僧である。 大僧正は天正18年(1590)徳川家康公と相識り江戸幕府が開かれるや仏教による平和政治を献言し治国平点火の祈願寺として、また源平依頼の戦乱犠牲者の冥福を追善する東叡山寛永寺を勅許により寛永2年(1625)に創建して開基となった。この寺名は天台宗祖伝教大師が比叡山を拓いて延暦寺を建て国家鎮護の道場とされたことにならわれたもので関東の比叡山という意味である。 また大僧正は将軍が江戸に住み政治の中心となったと同じく東叡山を宗教の中心地として永く泰平の基礎を確立するため正保4年(1647)後水尾天皇第三皇子尊敬法親王(後に守澄と改む)を勅許によってお迎えして輪王寺門主と申しあげ、法親王は天台宗を管領して比叡東叡日光の三山を統轄せられることとした。戊辰の役(1868)は第13世厘王子宮公現法親王(後の北白川能久親王)のときである。 これより先、大僧正は元和2年(1616)4月17日家康公の死にあい、遺命で葬儀の導師を勤めたが翌元和3年(1617)家康公に山王一実神道による東照大権現の神号を賜わり日光に東照宮を建てて奉祀した。日光山の今日あることは大僧正の偉業の一つである。 その他大僧正の遺業として特筆されるものに織田信長公によって焼土となった比叡山諸堂宇の再興があり、また天海版といって珍重される大蔵経の開眼がある。なかでもこの上野に桜樹を吉野山から移植されたことや不忍池を蓮の名所としたことは吾人の忘れてならないことである。 大僧正は108歳の長寿を保って寛永20年(1643)10月2日東叡山で遷化されたのでその御遺徳を追慕して翌正保元年(1645)に慈眼堂が建てられ、また大僧正が生前とくに「われなきあとは慈恵大師の御影と共に天海をまもり万人に利益を授けん」と語られた因縁により慈恵大師を併せておまつるし日々不退に御供養することは変わらない。慶安元年(1648)後光明天皇から慈眼大師の謚号を宣下された。 大僧正作の下の歌にあやかりたいものである。 気は長く つとめは堅く 色うすく 食ほそうして 心ひろかれ 長命は 粗食 正直 日湯 陀羅尼 おりおりご下風 あそばさるべし 誠心もって両大師の御前にぬかずかれ 無限の福徳を得られんことを 付記 いま社寺で行われているみくじは慈恵大師の創作をもととし前述のように慈眼大師が慈恵大師を尊信して夢中に得たものと御伝記にある 所在地 台東区上野公園18 (現龍院墓地) 殉死者の墓 慶安4年(1651)4月20日、3代将軍徳川家光が死去した。その後を追って家光の家臣5名が殉死、さらにその家臣や家族が殉死した。ここには家光の家臣4名と、その家臣8名の墓がある。 堀田正盛(元老中。下総国佐倉藩主)。 阿部重次(老中。無策国岩槻藩主)。家臣の新井頼母・山岡主馬・小高隼之助・鈴木佐五右衛門・村片某。 内田正信(小姓組番頭・御側出頭。下野国鹿沼藩主)。家臣の戸祭源兵衛・荻山主税助。 三枝守恵(元書院番頭)。家臣の秋葉又右衛門。 殉死とは、主君の死を追って家臣や家族らが自殺することで、とくに武士の世界では、戦死した主君に殉じ切腹するという追腹の風習があった。江戸時代になってもこの風習は残り、将軍や藩主に対する殉死者が増加、その是非が論議されるようになった。家光への殉死から12年後、寛文3年(1663)に幕府は殉死を禁止。その後、この風習はほぼ絶えた。 平成16年(2004)3月 台東区教育委員会 Tombs of the vassals who follwed their master to the grave The third Tokugawa shogun Iemitsu died in1651.After that,five of his vassals committed suicide to follow him;besides,their vassals and family members also killed themselves to follow them.There are tombs of four vassals of Iemitsu and tombs of their eight vassals here. It is called"Junshi"in Japanese that vassals and family members kill themselves to follow their master to the grave after his death and such people were admired as a loyal person.It was common especially for samurais to commit hara-kiri after their master died in a war.Since numbers of such people increased even in Edo period,the gavernment prohibited this custom in 1663.Later it almost desappeared. 所在地 台東区上野桜木1-16 ・ 上野公園18 新坂 明治になって、新しく作られた坂である。それで、新坂という。明治11年(1878) 内務省製作の『上野公園実測図』にある「鴬坂」がこの坂のことと考えられ、少なくともこの時期には造られたらしい。鶯谷を通る坂だったので、「鴬坂」ともいわれ、坂下の根岸にちなんだ「根岸坂」という別名もある。 平成12年(2000)8月 台東区教育委員会 所在地 台東区上野桜木2-10-6 台東区指定有形民俗文化財 旧吉田屋酒店 平成元年(1989)指定 かつて谷中6丁目の一角にあった商家建築。吉田屋酒店は江戸時代以来の老舗であった。旧店舗の建物が台東区に寄贈され、明治から昭和初期にいたる酒屋店舗の形態を後世に遺すため、昭和62年(1987)移築復元して、当時の店頭の姿を再現、展示している。平成元年(1989)には、1階店舗と2階部分及び道具・文書類が台東区指定有形民俗文化財となった。 棟札によれば、明治四43年(1910)に新築して、昭和10年(1935)に一部改築したもの。正面は1・2階とも出桁造りで商家特有の長い庇を支え、間口を広く使って販売・運搬の便を図った。1階は店と帳場で、展示している諸道具類や帳簿などの文書類も実際に使用されていたもの。帳場に続く階段をのぼると三畳半と八畳の部屋があり、店員等が使用していた。向かって右側の倉庫部分は、外観のみを明治43年(1910)の写真にもとづいて復元した。店舗後方の和室部分は構造的補強の必要から増設したものである。 平成16年(2004)3月 台東区教育委員会 Old Yoshida sake store Yoshida store was a sage store since Edo period.It was donated to Taito city,then was reconstructed and restored in order to hand down th from of the liquor store of the early in the 20th century to future generations. It was originally built in 1910,partly reconstructed in 1935.Its long eaves and wide entrance are characteristics of such merchant building,and th first floor was a counter and an office,the second floor was an employee's room.The warehouse was restored only on the outside based on a picture in 1910 and a Japanise-style room behaind a counter was added for reinforcement of the building. 所在地 台東区谷中1-2-14 (天眼寺) 東京都指定史跡 太宰春台墓だざいしゅんだいはか 昭和27年(1952)4月1日 旧史跡指定 昭和33年(1958)10月7日 史跡指定 太宰春台は江戸時代中期の儒学者、経世家です。名を純といい、字をと徳夫と称していました。信州飯田に生まれ、江戸に出て但馬出石(たじまいずし)藩の松平氏に仕えました。17歳で儒学者中野撝謙に師事し、朱子学を学びました。元禄13年(1700)、21歳で官を辞し、以後10年の間京都、畿内を遊学し、その間に古学派に親しみました。 正徳3年(1713)、再び江戸に出て、荻生徂徠に復古学を学びました。孔氏伝古文孝経を研究し、校訂して音註を作り、諸藩に分かちました。また儒学の基本をなす経学の分野では、『論語古訓』および『論語古訓外伝』など数十巻を著しました。儒学の思想に関するものとしては『聖学問答』、『弁道書』などがあります。 延享4年(1747)5月晦日、68歳で没しました。お墓は円頭角柱形の桿石に隷書で「春台太宰先生之墓」と題し、三面に銘文を刻んでいます。高さ1.32m。 平成22年(2010)3月建設 東京都教育委員会 Dazai Shundai Haka Dazai Shundai was a Confucian scholar and a writer on political thought from the Middle Edo Period.He was named Jun,but usually dalled Tokufu during his lifetime.He was born in Iida,Shinshu and went to Edo for the service of Matsudaira clan of Izushi domain of Tajima Province.He began his studies in the Neo-Confucianism of Zhu Xi at the age of 17 with a Confucian scholar Nakano Kiken.He was retired from his office at the age of 21 in 1700,and then traveled around Kyoto and Kansai region in the following 10 years.During his trip,he got acquainted with the doctrines of school of empirical approach to ancient writings.In 1713,he again went to Edo and learned about the doctrines of restoration school from Ogyu Sorai.He studied the Old Version of Classic of Filial Piety,as allegedly archived in a former Confucius' house;he further edited the text and prepared comments on pronunciation,and destributed his own works to various domains.Moreover,he wrote tens of volumes including Ancient Pronunciations of Confucius' Analects and Supplements to Ancient Pronunciaations of Coonfucius' Analects,in the field of studies on basic texts,which are essential for Confucianism.His works on Confucianism theories include Dialogue on Sacred Doctrine and Introduction to Differences in Philosophies and Religions in Japan. He died at the age of 68 on May 31,1747.The tomb has a title in clerical script stating:Shundai,Dr.Dazai's Tomb on a main body of a rectangular column shaped stone with circular head;inscriptions are engraved on three surfaces.The tomb is 1.32 m tall. |
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永山
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