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東京都台東区の歴史
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所在地 台東区浅草2-3-1 (浅草寺 新奥山

 力石、または「さし石」ともいう。江戸後期、酒屋・米屋の人足たちの間で、酒樽や米俵を曲芸のように持ち上げて、その力を競うことが流行した。この力石は、境内で行われた「力くらべ大会」で競い持ち上げられたものである。



 正面の「力石・熊遊の碑」は、明治7年(1874)、熊次郎という男が持ち上げた百貫(約375キロ)ほどの力石であり、新門辰五郎らがその記念として建てたもの。
 金龍山 浅草寺

 


所在地 台東区上野桜木2・谷中

  御隠殿坂

明治41年(1908)刊『新撰東京名所図会』に、「御隠殿坂は谷中墓地に沿ひ鉄道線路を経て御隠殿跡に下る坂路をいふ。もと上野より御隠殿への通路なりしをもっ以ってなり。」とある。
御隠殿東叡山寛永寺住職輪王寺宮法親王の別邸。江戸時代、寛永寺から別邸へ行くため、この坂が造られた。「鉄道線路を経て」は踏切を通ってである。


所在地 台東区浅草2-3-1 (浅草寺)

 この二天門は、慶安2年(1649)頃に浅草寺の東門として建立されたようであるが、江戸時代を通じて浅草寺観音堂の西側に建てられた東照宮の随身門と伝えられ、随身像が安置されていた。なお、浅草寺の東照宮は元和4年(1618)に建立されたが、寛永8年(1631)と寛永19年(1642)の火災によって、浅草寺の他の諸堂とともに焼失し、その後東照宮は江戸城内の紅葉山に移された。
 明治初年(1868)の神仏分離令によって門に安置された随身像は、仏教を守護する四天王のうち持国天・増長天の二天像に変わり、名称も二天門と改称した。



 現在安置されている二天像は、京都七条の仏師、吉田兵部が江戸時代初期(17世紀後半)に制作したもので(東京都指定有形文化財)、昭和32年(1957)に寛永寺の厳有院殿(4代将軍徳川家綱)霊廟の勅使門から移されたものである。
 二天門は昭和25年(1950)、国指定重要文化財に指定された。
 平成23年(2011)3月 台東区教育委員会



          Nitennmon Gate (Important Cultural Property)
 Nitenmon Gate was evidently built circa 1649 as the east gate of Senso-ji Temple,but throughout the Edo period it was considered the zuishinmon(guarded gate) of Tosho-gu Shrine,which was built to the west of Senso-ji's Kannondo Hall,hence guardian statues were housed on either side of the gate.Tosho-gu Shrine was built at Senso-ji in 1618,but was destroyed in fires along with other buildings at the Senso-ji Temple complex in 1631 and 1642,after which  Tosho-gu was relocated to Momijiyama inside Edo Castle.
  After the decree forbidding  the gate were re-imagined as Jikoku-ten and Zojo-ten,which are two of the four main protective deities (called ten in Japanese,from Sanskrit dava),hence the name of the gate was changed to Nitenmon,or the "Gate of the Two Deities".
 The two statues currently flanking the gate were made in the early Edo period (the latter half of the 17th century) by the Buddhist sculptor Yoshida hyoubu of Kyoto's Shichijo district (they are now designated by Tokyo Prefectyre as Tangible Cultural Properties).They were moved in 1957 from Chokushimon Gate at Kan'ei-ji Temple's Genyuin Mausoleum (the mausoleum to Tokugawa Ietsuna,the 4th Tokugawa shogun).
 In 1950 Nitenmon Gate was designated as a National Important Cultural Property.
 March 2011 Taito-ku Board of Education




所在地 台東区浅草2-3-1 (浅草寺)

 怒りのお姿をした不動明王さまは、そのお姿をして教化し難い者を導き、その力でわれわれの迷いの心を打ち切ってくださる仏さま。
 この一言不動産は、何か願い事を一つに限って祈願すると、その願いがかなうとされ、古来より霊験が著しいといわれている。
 享保10年(1725)造立。   金龍山 浅草寺


所在地 台東区浅草2-3-1 (浅草寺)

 埼玉県の秩父三十四観音札所の第三十二番法性寺の観音像を模して造られた。蓮の一枚の花びらの上に乗り、楫を持ち、笠をかぶったお姿。
 新吉原の「ひで」という女の12歳の息子久次郎が、水難事故によって亡くなったことを偲び、息子の菩提のため、また今後このようなことのないようにとの、「ひで」の願いによって造立された。
 寛政9年(1797)に造立。唐銅製。  金龍山 浅草寺




所在地 台東区浅草2-3-1 (浅草寺)

 当初は観音堂の北方にあって、北薬師と呼ばれた。慶安2年(1649)3代将軍徳川家光が観音堂の北西に再建し、堀にかかる橋のかたわらにあったので、家光自身が橋本薬師堂と名付けた。平成6年(1994)、現在の場所に移転した。
 現在の建物は、桁行三間(約5.35メートル)、梁間三間(約5.10メートル)、屋根は入母屋造、瓦葺。外部はかなり改変され、前面にあった三間に一間の向拝は取り除かれているが、浅草寺境内に遺存する堂宇のうち、浅草神社の社殿と同時代で、二天門影向堂脇の六角堂に次ぐ古建築である。薬師如来坐像を本尊とし、他に前立の薬師如来と十二神将像が安置されている。
 平成8年(1996)3月 台東区教育委員会



         HASHIMOTO YAKUSI-DO TEMPLE
 This is a temple which houses a seating figure of Yakushi Nyorai (Physician of Souls).In 1649 it was reconstructed near a bridge,since then it has been called Hashimoto Yakusi-Do:a Yakushi Nyorai temple of worship at the foot of a bridge.
 This temple was built in the precincts of Sensoji temple following Niten mon gate (important national cultural asset),and Rokkoaku-Do temple (metropolitan tangible cultural asset),and of the same era as Asakusa Shrine (important national cultural asset).


所在地 台東区浅草2-3-1 (浅草寺)

 寺伝の縁起によれば、浅草寺ご本尊観音さまのご示現にあたり、天より百尺ばかりの金龍が舞い降りて、その功徳を讃え観音さまをお守りしたとされることから、浅草寺の山号を「金龍山」という。これにより奉安されたのが、この「金龍権現」である。
 このことに因み、現在、3月18日と10月18日の年2回、浅草寺境内にて寺舞「金龍の舞」が奉演されている。   金龍山 浅草寺


所在地 台東区浅草2-3-1 (浅草寺)

 龍神さまは、仏教をお守りし、雨を操り、われわれに五穀豊穣や福徳を授けてくださる。
 この九頭龍権現は長野県戸隠山の地主神で、昭和33年(1958)の本堂再建にあたって、その成就を祈るべく勧請された。現在も浅草寺の伽藍安穏の守護神である。   金龍山 浅草寺


所在地 台東区浅草2-3-1 (浅草寺)

 そもそも仏塔とは、遠くインドで釈尊の遺骨(仏舎利)を起塔供養したのがはじまり。アジア東漸を経て、さまざまな形となった。五重塔もその一形態。
 浅草寺五重塔は、天慶5年(942)、平公雅によって創建されたのをはじめとする。その後、数度倒壊に遭うも、その都度再建された。徳川家光によって再建された国宝五重塔も、昭和20年(1945)3月の戦災によって惜しくも焼失した。(戦後までの五重塔は、今と反対側の本堂向かって右側にあった)
 以来、浅草寺は十方各位のご信助を得て、また新たにスリランカ国の王立寺院より「聖仏舎利」を勧請(五重塔最上層に奉安)し、昭和48年(1973)に現在の五重塔を再建するに至った。
 地上からの高さは約53メートルある。(塔内非公開) 金龍山 浅草寺



       The Five-storied Pagoda
This pagoda,founded in 942,was rebuilt by Tokugawa Iemitsu in 1648.It burned in 1945 buring World War Ⅱand was reconstructed in 1973.On that occasion,memorial tablets of devout beliebers who had passed away were placed in the pgoda's foundation,and a bone relic of the Buddha presented by Sri Lanka was placed in the topmost storey of the pagoda.


所在地 台東区浅草2-3-1 (浅草寺)

 浅草寺では、昭和33年(1958)の本堂落慶を記念して、「観音写経経運動」を発願しご信徒各位にお写経をお勧めしており、ご奉納いただいたお写経は、毎年10月の写経供養会にてご本尊観音さまの御宝前に奉安され、供養されている。
 平成6年(1994)に造立されたこの宝塔型の写経供養塔には、その年にご奉納されたお写経の経題と巻数とを記した「目録」をご法安し、ご信徒各位のお写経の功徳を後世に伝え賛嘆している。 金龍山 浅草寺


所在地 台東区浅草2-3-1 (浅草寺)

 「手水鉢」とは、社寺の参拝前に手を清めるたまに置かれる鉢のことである。鉢の側面には「安永6年(1777)に観世音千百五十年法会供養の日に臨時連中によって寄附された」とあり、推古36年(628)のご本尊さまご示現から数えて1150年を祝う記念法会のために、明和6年(1769)に設置された浅草寺の消防組織である「臨時連中」によって献じられたと推定できる。
 また銘文に「随身門前」とあり、文化10年(1813)に編纂された『浅草寺志』にいも「裏門の外」と記されていることから、場所を変えずに今に至ると判明する。現在は使われていないが、江戸時代の多くの人々がここで手を清め、観音さまや三社さまにお参りをされたことであろう。  金龍山 浅草寺


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