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東京都台東区の歴史
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所在地 台東区池之端1-3文京区

 無縁坂むえんざか
 『御府内備考』に、「称仰院前通りより本郷筋へ往来の坂にて、往古 坂上に無縁寺有候に付 右様相唱候旨申伝・・・」とある。
 団子坂(汐見坂とも)に住んだ、森鴎外の作品『雁』の主人公岡田青年の散歩道ということで、多くの人びとに親しまれる坂となった。その『雁』に次のような一節がある。「岡田の日々の散歩は大抵道筋が極まっていた。寂しい無縁坂を降りて、藍染川のお歯黒のような水の流れこむ不忍の池の北側を廻って、上野の山をぶらつく。・・・」
 坂の南側は、江戸時代四天王の一人・康政を祖とする榊原式部大輔の中屋敷であった。坂を下ると不忍の池である。
  不忍の 池の面にふる春雨に 
    湯島の台は 今日も見えぬかも

  岡麓(本名三郎・旧本郷金助町生まれ1877~1951・墓は向立2丁目高林寺)
 昭和55年(1980)1月 文京区教育委員会

 
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所在地 台東区池之端2-4-25

臨済宗妙心寺派
 潜龍山 東淵寺

 


所在地 台東区上野公園2-1 (上野恩賜公園)

 弁天島の弁天堂
 寛永2年(1625)天海僧正は、比叡山延暦寺にならい、上野台地に東叡山寛永寺を創建した。不忍池は、琵琶湖に見立てられ、竹生島に因んで、常陸(現茨城県)下館城主水谷勝隆が池中に中之島(弁天島)を築き、さらに竹生島の宝厳寺の大弁才天を勧請し、弁天堂を建立した。
 当初、弁天島へは小船で渡っていたが、寛文年間(1661~1672)に石橋が架けられて、自由に往来できるようになり、弁天島は弁天堂に参詣する人々や行楽の人々で賑わった。
 弁天堂は、昭和20年(1945)の空襲で焼失し、昭和33年(1958)9月に再建された。弁天堂本尊は、慈覚大師の作と伝えられる八臂の大弁才天、脇士は毘沙門天、大黒天である。
 本堂天井には、児玉希望画伯による「金竜」の図が画かれている。また、本堂前、手水鉢の天井に、天保3年(1832)と銘のある谷文晁による「水墨の竜」を見ることができる。
 大祭は、9月の巳の日で、巳成金という。
 平成10年(1998)3月 台東区教育委員会

     BENTEN-DO
 This Benten-Do was constructed by Mizunoya Katsutaka in the early 17th Century.He was a lord of the present day Shimodate city,Ibaraki prefecture area.He made a man made island and made it a subsideary of the Benten at the Hogon-ji temple on Chikubu Island in Lake Biwa (Shiga prefebture).
 At the time,it seems that crossings to the island were made by boat but a stone bridge was erected in the late 17th Century and since then it has been visited by many people.The original haal and important Cultural Assets were destroyed by a US air raid in 1945.It was rebuilt in 1958.
 The "Kin ryu (golden dragon)" on the ceiling of the hall is a work by the painter Kodama Kibo and the dragon on the ceiling of the water basin was painted by the famous early 19th Century artist Tani Buncho.







 弁天島には『不忍池由来碑』、『包丁塚』、『大黒天堂』、『聖天宮』、『地蔵尊』、『長谷川利行碑』、『長谷川利行歌碑』、『扇塚』、『虚中軒先生之碑』、『鳥塚』、『中根半僊碑』、『スッポン感謝塔』、『役行者像』、『魚塚』、『高久靄崖碑』、『めがね之碑』、『ふぐ供養碑』、『鶏図碑』、『いと塚』、『蓮花碑』、『般若心経碑』、『八橋検校顕彰碑』、『弁財天』、『真友碑』、『東京自動車三十年記念碑』、『長唄碑』、『芭蕉碑』、『暦塚』、『清水浜臣歌碑』、『蓮碑』があります。




 


所在地 台東区上野公園2-1 (上野恩賜公園 弁天島

 ふぐ供養碑
世俗に「ふぐは喰いたし命は惜しむ」という文句がありますが昔は相當多くの中毒死者を出したものであります。私共ふぐ料理業者はこの天下の珍味のふぐを安心して都民の皆様に料理して提供した。念願から昭和5年(1930)ふぐ料理連盟を結成し古来秘密にされていた調理法も講習会などを開催してふぐの毒素を除去する調理法を組合員に公開。完全調理したふぐは安心であることを世人に認識せしめたのであります。
大東戦争の祈り、食糧難のため東京都に於て雑炊食堂開始にあたり當連盟は率先之に加わり活漁場に今迄廃棄していたふぐを中央市場に出荷するよう要請し完全除毒したふぐの雑炊を一般都民の方々に供し食料難の一端に寄與したのであります。斯してふぐの需要性に年々増加の一途を辿り中毒者は極限されてきたのであります。昭和24年(1949)東京都衛生局より當連盟に對り、ふぐ調理師試験實施について協力方の要請があり連盟は社会公共福祉のため全幅の支持をもってこれが實現を圖り努力を続けた結果今日では東京都のふぐ中毒者は皆無になった次第であります。私どもはこの天與の玉饌として天分を果たした幾千萬のふぐの霊に満腔の感謝を捧げ今後絶対安心してふぐを召し上がられることを祈念し茲に別記会員有志の協力によってふぐ供養碑を建立した所以であります。
 昭和40年(1965)9月 日建之
 東京ふぐ料理連盟 会長 宮崎 登 識






所在地 台東区上野公園2-1 (上野恩賜公園 弁天島

 めがね之碑
眼鏡がはるかに海を越え、我が日本に渡来したのは四百二十余年前のことであります。文化の発達につれてめがねの需要も増大し、文化、政治、経済に貢献した役割は誠に大なるものがあります。その間業界先覚者の研鑽努力により今日の発展をみるに至ったことを回想。
明治百年を記念してその功績を顕彰し慈眼大師ゆかりの地上野不忍池碑にこの碑を建立し感謝の念を新たにするものであります。



所在地 台東区上野公園2-1 (上野恩賜公園 弁天島

 虚中軒先生之碑
上州利根部月夜野町
 昭和53年(1978)7月吉日


所在地 台東区上野公園2-1 (上野恩賜公園 弁天島

 魚塚    東京魚商業協同組合
  建立趣旨
四面海に囲まれた我が國では古来から魚介類が海の幸として、また國民の蛋白補給源として食生活の上に重要な役割りを果たしている。因に東京都における魚市場の歴史は徳川家康が幕府を開いた慶長8年(1603)に始まり、いわゆる魚河岸と称され、當時魚屋の心意気を表徴した一心助けの人情噺は魚河岸の発展とともに江戸の萃としてその活躍が人々に云い傳えられた。
私共水産小売業者は年々全國各地で水揚げされる水産資源に感謝すると共に當組合一同が謹んで魚の霊を悼み、組合創立50周年を機会に供養のためこの塚を建立して慰霊の念を新たにする。
 昭和51年(1976)9月吉日建之




所在地 台東区上野公園2-1 (上野恩賜公園 弁天島

 真友碑
AS A SYMBOL OF MUTUAL RESPCT AND JAPANESE-AMERICAN INTERDEPENDENCE
     COMMEMORATED HERE ARE
SEKIZO UYEDA (1886~1949)
   PRESIDENT OF NIPPON DEMPO TSUSHINSHA (DENTSU)
                    AND
MILES W.VAUGHN (1891~1949)
   VICE PRESIDENT OF UNITED PRESS (U.P.I)

WHOSE TRUE FRIENDSHIP LIVES ON FOREVER THOUGH THEY PERISHED TOGETHER IN A TOKYO BAY SQUALL AFTER HAVING ACCOMPLISHED THEIR HISTORIC MISSION IN ESTABLISHING AN INDEPENDENT NETWORK FOR THE FREE FLOW OF WORLD NEWS AMID GLOBAL TIDES OF BIAS.



所在地 台東区上野公園2-1 (上野恩賜公園 弁天島

 扇塚
初代華柳壽美三周忌ニ當リテ門下及知友相謀リ故人初髻五才ヨリ齢五十二至ル舞踊生涯四十五年間ニ使用セル遺愛ノ舞扇ヲ篋中ニ納メ塚ヲ建テ供養シ以テ爰ニ追善ノ情ヲ遣リヌ
 昭和24年(1949)2月8日
 發起人
六代目  尾上菊五郎
二世    花柳壽輔
       花柳章太郎
       竹内金太郎
       辻二郎
       花柳壽美門下生
二代目  花柳壽美

 他知友 建立
   



所在地 台東区上野公園2-1 (上野恩賜公園 弁天島

 長谷川利行碑
・1891年(明治24年)
7月9日京都に生まれる。
・1921年(大正10年)
上京・博文館にて生田蝶介を知り小説を発表。岩田専太郎、矢野文夫等を知る。
・1923年(大正12年)
関東大震災起こる。震災を歌った歌集「火岸」を発行、京都に帰る。
・1926年(大正15年)
再び上京、日暮里の寺に住む。第7回帝展に「廃道」入選。第13回二科展に「田端変電所」發入選。
・1927年(昭和2年)
第14回二科展に「酒売場」「麦酒室」「鉄管のある工場」入選、樗牛賞を受賞。
・1928年(昭和3年)
里見勝蔵・藤川栄子・靉光・井上長三郎・麻生三郎・吉井忠・寺田政明等後の自由美術家協会の画家達を知る。
・1932年(昭和7年)
浅草今戸に仮住まい。浅草・千住・三河島・荒川放水路界隈を放浪す。天城俊彦(高崎正男)を知る。
・1936年(昭和11年)
新宿・天城画廊で個展5回開催する。
・1937年(昭和12年)
伊豆大島に遊ぶ。天城画廊で個展10回、喫茶店「エルテル」等で数回開催。二科展を去る。
・1939年(昭和14年)
胃潰瘍に苦しむ。千葉県太海・勝浦に写生旅行。
・1940年(昭和15年)
三河島救世軍宿泊所に住む。
5月17日、三河島駅付近の路上で倒れ、行路病者として東京市立養育院板橋本院に収容される。
10月12日胃癌で死去、満49歳。遺品類(絵も含む)すべて焼却される。
・1969年(昭和44年)
熊谷守一先生・洋画家揮毫の「長谷川利行碑」、有島生馬先生・洋画家揮毫の■■台東区不忍池弁天島に建立さる。10月15日羽黒洞主催の除幕式行われる。 
  正像院利行日描居士   羽黒洞主催遺作展数回開催
「養育院第五病室ニ胃ノ手術デ居リマス。午前中二一度ミニ来テ下サイ。詩集一冊下サイ。午後三時頃デモ何時デモオロシイノデス。(至急来テクレナイト死亡スル、動ケナイノデス)。市電板橋終点ヨリ二丁ホドノ処デス。何カ見学ニナルデシヤウ。氷サトウ、ゴマ塩一ケ忘レズニ持ッテ来テ下サイ。オ願ヒシマス。何カ甘イ菓子一折リ下サイ。死別トシテ。」
 矢野文夫宛     長谷川利行 出
昭和15年(1940)10月12日 満49才没
 人知れず 朽ちも果つべき身一つの
 いまがいとほし 涙拭わず
 己が身の影もとどめず 水すまし
 河の流れを 光りてすべる    利行短歌








所在地 台東区上野公園2-1 (上野恩賜公園 弁天島

 鳥塚
この鳥塚は東京都内に店舗を有する食鳥肉の販売業者が組織している東京食鳥鳥卵商業協同組合及び東京都食鳥肉販売業環境衛生同業組合の組合員融資が生活の糧であり子孫の繁栄に寄与する諸鶏類の霊魂を永久に慰めるため浄財を集め合って昭和37年(1962)3月24日この聖域に建立したものである。
建立の議が起ったのは昭和35年(1960)4月5日の両組合の役員総会の時であって満場一致建立することに決定したがその場所については永くこの塚を後代の同業者が守って行く為にはこの際都内の中心部であり有名地に建立することを一同が希望した。その後談合の結果東叡山寛永寺不忍池弁天堂貴台に内諾を得たので正式に両組合の役員総会にこの経過を報告し満場一致で決定73人の鳥塚建立実行委員が選ばれその委員会によって実行運動が続けられた結果寄進組合員総数395名の浄財の喜捨を得たので昭和37年(1962)1月より石材彫刻を依頼し同年3月24日にこの地に塚を立て前記吉日を選んで盛大なる開眼法要を執行したのである。
 昭和37年(1962)3月24日
 發願人
森田正四郎 武田喜久男 小林繫三 高島邦三郎 他有志一同



所在地 台東区上野公園2-1 (上野恩賜公園 弁天島

 東京自動車三十年記念碑
石澤愛三 柳田諒三 梁瀬長太郎 中谷保
 今日、自動車の発達は意想外で、人類の日常生活には切離せない、いわゆる自動車時代である。我国の自動車は明治33年(1900)在米邦人が購入して政府に献納したのが初めで以来大正12年(1923)の大震災では汽車、電車などあらゆる交通機関が途絶した際、自動車のみは大活躍して、その機能を発揮し国民から大きな松庵と感謝を受けた。国産自動車も初期は振わんかったが先人の研鑽と努力の結果最近では欧米はもちろん世界各地に輸出され、メイド・イン・ジャパンの名声を高めている。こえを振返れば、その蔭に自動車に生涯を献げた幾多の献身者、犠牲者のあたことを忘れることができない。それら先輩、同志を銘記し、霊を安んじるためにも記念碑を建て後世に残すものである。

川鍋秋蔵 波多野元二 多胡重則
石塚秀雄 多胡武雄 梁瀬次郎 吉岡照義 中島亮 中谷保平 新倉尚文 富士本軍次 北村調一 今井義勇 宮崎辰雄 富田金重 河村泰伸 松田吾助 中田長夫
鶴野定助 国分隆 酒井右衛 大場吉雄 一条芳雄 沢田仁郎 川瀬直治 荒川忠親 戸塚庫次郎 本田浅市 美沢辰雄 木村正文 浅見掌太郎 榎元三右ヱ門 富永政喜 島田光衛 小倉康臣 園田加之松 奥村寿郎
稲原啓三郎 玉田彦三郎 服部音五郎 小津緑平 今井福松 斎藤倉蔵
後藤仁助 加賀原鹿太郎 大田国男 小沢義詮 宮下直吉 小松重信 小跨孝義 西村清治 金子佐久男 岩田信三郎 今井真広 福田昌弘 島袋欣章 加藤佐市 宮川善之助 谷田部辰司 山中基伊知 日野光雄 木村健次郎 丸山留三郎 園塚時三郎 岩本正造 中沢溙吉 笠木由雄 伊藤卓 鈴木吉助 尾本佐一郎 大戸淳三 中瀬友信 田添一郎 伊藤喜代司 石川初治 泉藤吉 福島直衛 小山長喜知 中村寅蔵 市川漸 長尾寛治 杉田武夫 岡本暮松 竹中金吾 浅見新蔵 小川正直 宮城久仁 山尾鹿太郎 長尾実 辻靖剛 高橋清 谷向
 故 世話人 五十嵐新吉 神山左右悦 池田権次郎 斎藤治太郎 榎元三右ヱ門
記念碑建設世話人
 細川清 今井義勇 北調一 宮崎辰雄 日野光雄
西暦1975年5月



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永山
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