東京都台東区の歴史
× [PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。 所在地 台東区上野公園8 (上野恩賜公園) 野口英世は、明治9年(1876)11月9日、福島県猪苗代湖畔の農家に生まれた。明治31年(1898)、北里柴三郎主宰の伝染病研究所助手となり、明治33年(1900)12月に渡米、明治37年(1904)よりロックフェラー医学研究所で梅毒スピロヘータ等の研究を重ね、国際的にも高い評価を受けた。大正7年(1918)からは中・南米やアフリカに赴き、黄熱病の研究に努めたが、やがて自らも感染してしまい、昭和3年(1928)5月21日、現在のアフリカ・ガーナ国の首都アクラで没した。享年53歳。 野口英世銅像は総高約4.5メートル(台石を含む)、製作者は多摩武術大学教授吉田三郎。英世の写真に基づき、試験管をかざした実験中の姿を表現したもので、台石にはラテン語で「PRO BOMB HUMANIGENERIS(人類の幸福のために)」と刻まれている。 銅像造立の活動をはじめて起こした人物は、福島県三春町出身の玉応不三雄である。玉応は英世の偉業を後世に伝えようと、昭和22年(1947)より募金活動を行ったが、国内の経済力が貧弱な時期にあって困難をきわめ、中途にして病に倒れた。その後、日本医師会・北里研究所・野口英世記念会等が活動を引き継ぎ、昭和25年(1950)には東京都教育委員山崎匡輔を建設委員長にむかえ、山崎の周施によて上野公園に造立されることが決定した。 昭和26年(1951)3月、現在地に造立。月は異なるものの英世の命日である同月21日に除幕式が行われた。 なお、銅像全面の標示石・敷石は昭和46年(1971)に会津会が設置したものである。 平成14年(2002)3月 台東区教育委員会 Brone Statue of Noguchi Hideyo Niguchi Hideyo was born in 1876 in Fukushima Prefecture.Going to the United Sttates of America in 1900,he began research on the syphilis sporochete at the Rockefeller Medical Research Institute in 1904.From 1918 he continued his research in Central and South America,as well as Africa where he hoped to study Yellow Fever.However,before long,he himself contradtes he descase and in 1928,at the age of 53,he passed away in what is now the country of Ghana.The approwimately four and a half meter statue of Noguchi was made by Professor Yoshida Saburo of the Tama Art University.Heating a test tube in the midst of experimentation ,the Latin wards."PRO BOMB HUMANI GENERIS"("For the Good of Humankind" ),are inscribed on the stone base. Plans for erecting the statue began in 1947 when Tamao Fumio of Fukushima continued with the Noguchi Hideyo Memorial Socienty after Mr.Tamao succumbed to illness.The fund drive was completed in March 1947. PR |
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永山
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