東京都台東区の歴史
× [PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。 所在地 台東区今戸2-6-12 (称福寺) 東京都指定史跡 亀田鵬斎墓(亀田鵬斉・亀田鵬齊・亀田鵬齋) 昭和33年(1958)10月7日指定 亀田鵬斎は江戸時代後期の著名な儒学者である。宝暦2年(1752)江戸・神田に生まれた。名は翼といい、のち長興。字は穉龍、通称文左衛門、鵬斎・善身堂と号した。折衷学者井上金峨(墓地は港区青松寺・東京都指定旧跡)に学び、山本北山とともに荻生徂徠おぎゅうそらい(墓地は港区長松寺・国指定史跡)の古文辞学を排撃し、朱子学を批判したために、寛政異学の禁では異端の筆頭と目されていた。 書をよくし、草書は近世を通じての名手といわれている。著書に「論語撮解」「善身堂詩鈔」などがある。 文政9年(1826)、75歳で没した。墓石には「鵬斎亀田先生之墓」と刻している。 平成8年(1996)3月8日建設 東京都教育委員会 Kameda Bosai Haka Kameda Bosai was a calligrapher and Confucian scholar from the Late Edo Period.He was bornin 1752 in Kanda,Edo.He was first named Yoku,and later Choko.During his lifetime,he was called Chiryu instead and further commonly dalled Bunzaemon;the calligrapher used other pseudonyms,Bosai and Zenshindo.At the age of 14,he started his studies with an eclectic scholar Inoue Kinga(his tomb is located in Seishoji Temple in Minato ward and designated as a historic remain by TokyoMetropolitan Government).He accused,together with Yamamoto Hokuzan,an approach of Ogyu Sorai(his tomb is located in Choshoji Temple in Minato ward and designated as a historic remain by the state)to the Confucian texts exclusively based on the meaning of words in the ancient times,and further criticized the doctrines of Zhu Xi,so that Bosai was regarded as a kind of heresiarch ,when the Kansei Edict against the Confucian doctrines other than those of Zhu Xi was issued after an appointment of Matsudaira Sadanobu to the highest rank governmental office of Elder.He was good at Early Modern Period.His works include Precise Commentaries to Confucius' Analects and Collected Poems of Zenshindo. He died at the age of 75 in 1826.A string stating:Tomb of Bosai,Dr.Kameda is engraved in a regular script on a tombstone shaped in a rectagular column. Tokyo Metropolitan Board of Education PR 所在地 台東区今戸2-6-12 (称福寺) 台東区史跡 柴田是真墓しばたぜしん 平成8年(1996) 柴田是真(しばたぜしん)(1807~1891)は、幕末から明治時代に活躍した絵師・蒔絵師。文化4年(1807)2月7日、橘町2丁目(中央区東日本橋)に生まれ、11歳の時に蒔絵師古満寛哉(こまかんさい)に師事して技術を学び、文政5年(1822)には絵師鈴木南嶺(すずきなんれい)について円山四条派の画技を修した。さらに文政13年(1830)には京へ上り、岡本豊彦にも師事している。その後、浅草平石衛門町石切河岸(浅草橋1丁目)に居を定め、居宅を「対柳居(たいりゅうきょ)」と名付けた。没するまでの50余年間、ここで数々の名品・優品を制作した。 是真は、創作活動だけでなく、漆工技術の普及・発展を目的とした「日本漆工会」を創設し、「竜池会」(日本美術境界の前身)や、「東洋絵画会」の設立に尽力するなど、美術界の公的活動に貢献した。さらに、後進の指導にも力を注ぎ、美術界の発展にも寄与した。 明治24年(1891)7月13日、85歳で没すると称福寺に葬られた。柴田家の墓地には、2基の墓標が建てられているが、向かって左側が是真の墓で、正面には是真の法名「弘道院釈是真居士」が刻まれている。 平成8年(1996)、台東区史跡として区民文化財台帳に登載された。 平成20年(2008)3月 台東区教育委員会 Graave of Zenshin Shibata(Important historic site of Taito City) Zenshin Shivata(1807-1891)was a famous painter,print maker and lacquereran artist and artisan of remarkable skill-active from near the end of the Tokugawa Shogunate to the middle of the Meiji era.He was not only a master in the creation of gold lacquer work,but also very energetic in the development and promotion of new techniques in the field of lacquering.He established th Japan Lacquerware artists Society,and assisred in the establishment of the Ryuchikai(Forerunner of the Japan Art Society)as well as in the creation of Tokyo Kaiga Kai(Oriental Art Society),in order to advance the artistic community and its members.He died on July 13,1891 at the age of 85,and was buried here in the Shofukuji Temple grounds.There are two gravestones in the cemetery plot of the Shibata Family;the one on the left hand side is Zeshin's -it was listed in the ledger of the city's cultural assets as an important site of Taito City in 1996. 所在地 台東区寿3-5-9 広沢稲荷神社 広沢稲荷神社は語り継がれる処に依りますと「宇迦之魂神」を祭神とし古くは田原町(旧町名、千束郷広沢新田のうち紙漉町部分を改名)あたりに鎮座されたのを浅草寺門前町の発展に伴い当時佐倉藩堀田家の屋敷の馬場の一隅の現在地に移転されたといわれます。鎮座されて以来町民先達に依り厚く守護され本日迄町内安全、火防の神様としてお守りを頂いて居ります。 今度、町会発足50周年を迎え神社の敷地に付き地主、世田谷区在住土屋徳之助様に御相談申し上げました処、永年にわたち町会員崇敬者により守護されている意を汲まれ、50周年記念として境内地を贈与頂ける事と相成りました。誠に有り難く、ここに神社の経緯と土屋様の御意思を永く伝えるべく記念の標を建てる事にいたしました。 平成13年(2001)5月吉日 寿3丁目町会 所在地 台東区松が谷3-10 秋葉神社御縁起 1、御祭神 火産霊大神(ホムスビノオオカミ) 火の神 水波能売神(ミヅハノメノカミ) 水の神 埴山比売神(ハニヤマヒメノカミ) 土の神 1、主祭日5月18日例大祭 11月6日鎮火祭・火渡神事 1、御由緒 明治初年東京府内に火災が頻発し市民の何渋せる状を御憂慮せられた英照皇太后(明治天皇御母)の思召を以て、明治天皇より太政官に御下命になり、宮城内紅葉山より鎮火三神を奉遷し東京府火災鎮護の神社として現今の秋葉原の地の創建せられたのが当社の始めである、明治21年(1888)鉄道駅設置のため境内地を払下げ現在地に御遷宮となる、秋葉原の駅名も当社名にその因を発する。 台東区松が台3丁目鎮座 秋葉神社 所在地 台東区上野公園4-17 (上野恩賜公園) 五條天神社・花園稲荷神社 五條天神社 御祭神 主神 大己貴命 少彦名命(医・薬祖神) 相殿 菅原道真命(寛永18年〔1641〕に合祀・約350年前) 御由緒 第12代景行天皇の御代、日本武尊が御東征の際、上野の忍岡で薬祖神二柱の大神が奇瑞を現し給い難を救われたので、ここに両神をお祀りしたと伝えられます。江戸初期、社地は神職の瀬川屋敷(上野公園下・旧五條町)に遷り、御創祀に近い現地には昭和3年(1928)9月に御遷座になりました。 御祭日 例大祭 5月25日 医薬祭 毎月10日 病気平癒祈願・無病健康祈願 月次祭 毎月25日 特殊神事 宝舟の神事1月1日と2日、うそ替えの神事1月25日うけらの神事2月節分の日の午後3時 教養部 弓道・茶道・花道 花園稲荷神社 御祭神 倉稲魂命(又の御名は豊受姫命・伊勢外宮の大神) 大祭 4月11日 講祭 11月11日 祭日 毎月11・午の日 御由緒 鎮座の年月、由緒は不詳ですが、往古より此地にあり「穴の稲荷」又は忍岡稲荷と云われました。 承応3年(330年位前)天海大僧正の高弟晃海僧正が霊夢に感じ廃絶のお社を再建して上野の山の守護神としました。この附近より北西一帯が寛永寺のお花畑であったので明治6年(1873)花園稲荷と改名し昭和3年(1928)現社殿にお遷ししました。 旧社殿の跡は俗称「お穴様」と呼ばれ晃海僧正再建の記が刻まれた岩穴が現存します。 安産の神とも云い、特に縁談、金談の願かけにいただく「白羽の矢」は古来から有名です。 花園稲荷神社 上野観光連盟 五條天神社・花園稲荷神社境内には『稲荷坂』があります。 所在地 台東区西浅草2-14-5 八幡神社 御祭神は応神天皇なり。元禄13年(1700)庚辰8月9日田島山快楽院誓願寺に於て豊前の国(大分県)宇佐八幡宮の御神霊分神を祖の地に御奉遷す。爾来旧浅草田島町の鎮護として御祭りす。御維新前誓願寺にて進退し明治6年(1873)1月浅草神社社務兼勤の命を蒙る。 昭和20年(1945)3月9日夜戦火に依り灰燼と帰すも地域住民有志の浄財寄進にて昭和24年(1949)2月再建、更に昭和47年(1972)5月近代的コンクリート造りの社殿、社務所が完成し現在に至る。 平成2年(1990)5月 西浅草2丁目町会 氏子総代 渡辺留三郎(百歳) 所在地 台東区千束3-18-7 鷲神社おおとりじんじゃ 東京下町 八社福参り 商売繁昌 鷲神社は、江戸時代「鷲大明神社」と称されていたが、明治のはじめ「鷲神社」と改称された。 祭神は天之日鷲命・日本武尊の二神。草創は不明である。社伝によれば、天之日鷲命の祠に、日本武尊が東国征伐の帰途、熊手をかけて戦勝を祝った。この日が11月酉の日で、以後、この日をお祭と定めたという。 酉の市は、江戸中期より冬の到来を告げる風物詩として発展し、足立区花畑を「大鳥」、浅草を「新鳥」と称した。浅草はとくに浅草観音・新吉原・猿若町芝居小屋を控え、賑わいをみせた。 一の酉、二の酉、年によって三の酉とあり、世俗に三の酉があると火事が多いと言われる。 酉の市は、当初、農産物や農具の一種として実用的な熊手を売る市であった。その後、熊では幸運や財産を「かきこむ」といわれ、縁起物として商売繁昌開運の御守として尊ばれてきた。また、八ツ頭は、人の頭になる、子宝に恵まれるといわれる。 平成6年(1994)3月 台東区教育委員会 OTORI SHRINE There are two gods to which the Otori Shrine is ddedicated Amenohiwashi-no^mikoto and Yamato-takeru-no-mikoto.According to the legend of the shrine,Yamato-takeru-no-mikoto felicitated his victory on his way back from his expedition by hanging a rake on the small shrine for Amenohiwashi-no-mikoto.It occurred on the Day of the Cock in November,so that the day was subsequently chosen as the date of the festival.The Cock Fair was developed in the middle of the Edo era as the peotical feature foreboding the arrival of winter.There is the First Cock Fair,the Second Cock Fair and,depending on the year,the ThirdCock Fair.The year having the Third Cock Fair is said to have many fires.Originally,the Cock Fair was a fair to sell rakes for practical use as a kind of agricultural product or implement.Subsequently,a rake was said to be useful in collecting fortune and assets.Therefore,it has been regarded as the charn for bringing about commercial prosperity or luck. 浅草「酉の祭」「酉の市」起源発祥の神社 「おとりさま」・鷲神社と鷲大明神 鷲神社は江戸時代以前より此の地にまつられ、江戸時代は鷲大明神と号し、強運にあずかる守り神として鷲大明神がまつられ、大明神と伝われるとおり神様をおまつりしてあります。 鷲大明神は天日鷲命と申され、開運・商売繁昌にあらたかな神として古くから崇敬されております。 その発祥は景行天皇の御代、日本武尊が東夷征討の時、鷲大明神社(鳥の社)に立ち寄られ、戦勝を祈願し、志をとげての帰途社前の松に武具の「熊手」をかけて勝ち戦を祝い、お礼参りをされました。その日が11月の酉の日であったので、この日を鷲神社の例祭日と定めたのが「酉の祭」即ち「酉の市」の起源・発祥です。 その后、日本武尊が併せまつられ、浅草「酉の祭」「酉の市」は次第に賑いを増し、酉の市に商われる縁起熊でも年毎に人気となり、江戸の庶民の春(正月)を迎える行事として益々盛大に華やかさを加えたのです。特に吉原遊郭の隆盛と共に賑い「吉原のおとりさま」とも云われました。 江戸時代からまつられている「鷲大明神」天日鷲命は、鷲の背に乗るお姿から「鷲大明神・おとりさま」といわれ、江戸の数々の火事、関東大震災、第二次大戦の戦禍にもお守りされ、300年以上にわたり鷲神社に安置されております。天日鷲命は、「東都歳時記」に”開運の守護神なり”とあり、日本武尊と共に福運・強運・商売繁昌・武運を司どる神様として厚く信仰されております。 東都歳時記 浅草田圃 酉の市 「酉の祭・酉の市」 歳末にあたり1年を神に感謝し、新年を迎えるにあたり福運を願う祭りである浅草「酉の市」は、江戸の昔の華やかさとその伝統を今に伝えると共に多くの善男善女の厚い信仰を集め、今に受け継がれております。 「酉の市」は江戸時代には「酉の祭」とよばれ、人と神が和楽する祭りを意味しております。 又、「市」は「斎(いつ)く」で神様をお祭りするために「身を清めてつつしむ」ということです。 このように「祭」・「市」も本来は「清浄な神祭」を表わしております。縁起熊手にも神社で使われる四手(紙で作った四垂れ)や神様を祭る場所であることを示す注連縄がつけられております。 この事からも「酉の市」の「市」は神社の御祭神と参詣する多くの善男善女の人々が共に和み楽しむ神社の祭を表わしており、佛教・寺とは何のかかわりのない祭なのです。 江戸時代の「酉の市」は鷲大明神社(鷲神社)として開かれており、当時は神佛混淆といい神社と寺が一緒に運営されておりました。別当長國寺(別当とは単に僧侶が神主を兼ねる僧職のこと。)は寛文9年(1669)に元鳥越より現在の所に移転して鷲大明神社(鷲神社)の別当となりました。 明治元年(1868)「神佛分離令」が出され、鷲大明神社と長國寺は分離されることになり、長國寺の別当を廃し、鷲大明神社は、社号を鷲神社と改め、当時の長國寺住職・田中常繁氏は鷲神社神主となり、本来の姿になったのです。 その后、長國寺は明治43年(1910)、それまでの山号の本立山を鷲在山と改めており、更に大正12年(1923)の関東大震災后に南向きの本堂を鷲神社と同じ西向きに改めております。 このように「鷲大明神社」「鷲大明神」といわれるように「おとりさま」は神様をおまつりする神社であり、その御由緒により11月の酉の日に「酉の市」が齊行され多人の参詣者が集い、鮮やかな感動をよび、人と祭りのふれあいを感じさせるのです。 浅草田甫 「酉の市 御本社」 鷲神社 谷文晁・鷲大明神社祭礼の図 境内には『正岡子規句碑』、『樋口一葉玉梓乃碑』、『樋口一葉文学碑』、『宝井其角句碑』があります。 江戸自慢三十六興 酉の丁名物くまで 三代歌川豊国・二代歌川広重画 所在地 台東区千束3-18-7 (鷲神社) 樋口一葉玉梓乃碑 年毎に昔の面影を失いつつある町のたたずまいを見聞きするにつけ、その当時の事どもを偲び後世に伝えんと此に明治文壇の閨秀作家樋口一葉の「たけくらべ」の一節、又書簡文を刻して残す。「たけくらべ」は一様が竜泉町に住みし明治26年(1893)7月より明治27年(1894)4月まで10ヶ月間の見聞きした事を書きしものである。文中の鷲神社酉の市の描写は、市の様子を卓越した文章にて記している。また、樋口一葉玉梓乃碑は、師半井桃水に宛てた未発表の書簡文である。 「塵中につ記」に一葉は明治27年(1894)3月26日に桃水を訪ねたと記されているが、この書簡はその直后のものであろう。”君はいたく青みやせてみし面かけは何方にか残るへき”とにつ記にも記してあり、書簡の行間にも一葉の心が滲みでているやに推われる。 此に樋口一葉歿後百年を前にし、更に平成発酉五年の酉年を記念し、若くして逝った一葉の文才を称え、その事蹟を永く伝えんと神社ゆかりの文学碑、玉梓乃碑を建立する。 平成5年(1993)10月吉日 鷲神社 宮司河野英男記 所在地 台東区千束3-18-7 (鷲神社) 樋口一葉文学碑 『たけくらべ』 此年三の酉まで有りて中一日は津ぶれしか土前後の上天氣に大鳥神社の賑わひすさまじく、此處をかこつけに檢査場の門より入り乱れ入る若人達の勢ひとては天柱くだけ地維かくるかと思はるゝ笑ひ聲のどよめき・・・ 所在地 台東区浅草2-14 浅草凌雲閣記念碑 1890年(明治23年)11月27日。この地、台東区浅草2丁目14番5号辺りに浅草凌雲閣(通称:十二階)が完成。設計は東京の上水道設計者でもある英国人ウィリアム・K・バルトンが担当。当時としては超高層の八角形12階の建物で、1階から10階までが煉瓦積、11・12階が木造で、屋根には風見の付いた避雷針がのり、8階までは日本で最初の電動エレベーターを設置、各階には凡そ50の店が軒をつらねた。最上階の12階には30倍の望遠鏡が設置され、隅田の流れからお台場を映し品川沖の海、遠くは筑波、秩父の山々が望めたとされる。観覧料は大人8銭(現在の約700円)子供4銭であったが高所から東京を一望しようという人が押し寄せ、東京随一の観光名所となった。開業から33年の1923年(大正12年)9月1日の関東大震災で破壊され、その幕を閉じた。 明治・大正の33年間、多くの人達にときめきと感動をあたえ、一世を風靡し浅草の振興に貢献した浅草凌雲閣、その跡地に記念碑を設立し後世に記録として残します。 凌雲閣史蹟保存の会 凌雲閣 高さ:173尺(約52m) 明治23年(1890)~大正12年(1923) 日本で一番高かった登高遊覧場 江戸時代という封建社会においては、庶民が支配階級よりも高い建物を建てることは厳しく禁止されていました。高場所から見下ろすという行為が強大な権力を象徴する特別なものとされていたからです。 明治に入って禁制が解かれると、こうした眺望を売りにした登高遊覧施設が相次いで登場してくるようになります。それらはまさに庶民の高みへの憧れを強く刺激するものでした。 こうした登高遊覧場ブームのピークを飾って登場してきたのが「凌雲閣」でした。 発起人は新潟長岡の生糸貿易商、福原庄七という人物で、1889年(明治22年)に完成したパリのエッフェル塔を実見したとも言われています。 所在地 台東区浅草3-33-5 (浅草三業会館) 記念樹 平成16年9月9日 2004年アテネオリンピック女子レスリング72㎏級メダリスト、浜口京子選手の功績を讃え、オリーブの木を記念樹として植樹いたします。 オリーブの木(平和の象徴) 浜口京子ピロフィール 生年月日 1978年1月11日 出身地 東京都 身長 170cm 1997年(フランス) 世界選手権75㎏級 優勝 1998年(ポーランド) 世界選手権75㎏級 優勝 1999年(スウェーデン) 世界選手権75㎏級 優勝 2002年(ギリシャ) 世界選手権72㎏級 優勝 2003年(アメリカ) 世界選手権72㎏級 優勝 2004年(ギリシャ) アテネ五輪72㎏級 銅メダル 浅草3丁目象一町会 浅草おかみさん会 所在地 台東区浅草3-39-10 宮戸座跡之碑 宮戸座は、明治29年(1896)9月開場、座名は隅田川の古稱”宮戸川”にちなんだ。関東大震災で焼失後、昭和3年(1928)11月この地に再建。昭和12年(1937)2月廃座。ここの舞台で修業しのち名優になった人々は多い。東京の代表的小芝居だった 大歌舞伎に対し規模小さな芝居を小芝居と呼んだ。 昭和53年(1978)6月24日 台東区教育委員会 所在地 台東区浅草3-39-10 松尾芭蕉象潟の句碑 江戸時代に現秋田県本荘藩主であった六郷公が、この浅草に下屋敷を構えたとき、その下屋敷付近の町に、六郷公地元の景勝地「象潟九十九島」にちなみ、「象潟町」と名付けました。 このことにより、平成5年(1993)7月22日に秋田県象潟町と台東区馬道地区町会連合会との間で「姉妹地」の盟約が締結されました。そして、今年が締結10年目にあたり、江戸開府400年目でもあります。 江戸文化の偉大なる俳聖「松尾芭蕉」が旅した「おくのほそ道」で秋田県象潟を訪れ、雨に煙る九十九島、八十八潟の絶景を中国の美女「西施」の憂いに満ちた姿と重ね合わせた素晴らしい句を残しております。 象潟や 雨に西施が ねぶの花 当浅草象潟地域と秋田県象潟町との強い「姉妹地」の関係は永久のものであり、末永い交流により相互の発展に寄与するとともに、江戸文化の復興とその継承を図るため、この句を石碑として浅草の地に建立したものです。 平成15年(2003)7月20日 台東区 馬道地区町会連合会 秋田県象潟町 所在地 台東区浅草5-3-2 浅間神社 (浅草のお富士さん・台東区有形民俗文化財) 浅間神社は、富士山への信仰に基き勧請された神社で、神体として「木造木花咲耶姫命坐像」を安置する。 創建年代は不明だが、『浅草寺志』所収「寛文11年江戸絵図」に表記があり、江戸時代初期の寛文11年(1671)までには鎮座していたようである。現在の鎮座地は、約2メートルほどの高みを成しているが、忠誠から江戸初期にかけて、関東地方では人口の塚、あるいは自然の高みに浅間神社を勧請する習俗があったとされており、当神社の立地もそうした習俗に基くものと思われる。 江戸時代には浅草寺子院修善院の管理のもと、修験道による祭祀が行われ、江戸を代表する富士信仰の聖地として、各所の富士講講員たちの尊崇を集めた。明治維新後は浅草寺の管理を離れ、明治6年(1873)には浅草神社が社務を兼ねることとなり、現在に至っている。 本殿は、平成9年(1997)、平成10年(1998)の改修工事によって外観のみ新たに漆喰塗がほどこされたが、内部には明治11年(1878)建築の土蔵造り本殿が遺されている。さらに、この改修工事に伴う所蔵品調査により、江戸時代以来の神像・祭祀用具・古文書などが大量に確認された。 これら、本殿・諸資料群・境内地は、江戸時代以後の江戸・東京における富士信仰のありさまを知る上で貴重であり、平成11年(1999)3月、台東区有形民俗文化財に指定された。 祭礼は、毎年7月1日の「富士山開き」が著名で、また、5、6月の最終土・日曜日には植木市が開催されている。 平成12年(2000)3月 台東区教育委員会 Sengen Shrine Sengen shrine is a shrine based on the faith for Mt.Fuji and built in numerous places in the Kanto and Tokai Regions. This particular Sengen shrine was built by the year 1671,and worships the god Konohanasakuyahime(goddess).From the 18th to the 19th centuries,a Mt.Fuji faith group(Fuji-ko)was organized in all parts of Edo.However,many Fuji-ko followers gathered at this shrine,and it vecame famous as the Sengen shrine representing Edo. During the Plant Festival held on the last Saturdays of May and June,and during the"Mt.Fuji Opening "on July 1,even now many followers go on pilgrimages to this shrine. The current main shrine building was reconstructed in 1998,but the inner shrine,which was constructed in 1878 in a storage house,style was left intact.Also,in the shrine are many items,including such things as figures of gods,articles of worship,and antique documents.At any rate,the Mt.Fuji faith after the 18th century has been recognized as being very valuable and was designated a Taito City Folklore Cultural Asset in 1999. 浅草猿若町碑 所在地 台東区浅草6-19-4 猿若三座 天保期、1丁目に中村座、2丁目に市村座、3丁目に河原崎座(のち守田座となる)があってわが國始めての芝居町を形成していた。 これがいわゆる猿若三座である。猿若は江戸役者の始祖猿若勘三郎に因んだ甼名で江戸歌舞伎の王國としてこの地は華美を誇り、殷賑を極めたのである。 所在地 台東区浅草6-4-12 江戸猿若中村座跡 中村座の定式幕は、左から「白」「柿色」「黒」三色の引幕であった。 「白」は、幕府から特に許されて中村座だけが使用していた。 猿若三座由来記 天保期、1丁目に中村座、2丁目に市村座、3丁目に河原崎座(のち守田座となる)があってわが國始めての芝居町を形成していた。 これがいわゆる猿若三座である。猿若は江戸役者の始祖猿若勘三郎に因んだ甼名で江戸歌舞伎の王國としてこの地は華美を誇り、殷賑を極めたのである。 所在地 台東区浅草6-18-13 江戸猿若町市村座跡碑 市村座の定式幕は、左から「黒」「萌葱(緑)」「柿色」三色の引幕であった。 現在、国立劇場が同じ定式幕を使用している。 猿若三座由来記 天保期、1丁目に中村座、2丁目に市村座、3丁目に河原崎座(のち守田座となる)があってわが國始めての芝居町を形成していた。 これがいわゆる猿若三座である。猿若は江戸役者の始祖猿若勘三郎に因んだ甼名で江戸歌舞伎の王國としてこの地は華美を誇り、殷賑を極めたのである。 昭和39年(1964)11月之を建つ 所在地 台東区浅草6-26-11 江戸猿若町守田座跡碑 猿若町は江戸役者の始祖猿若勘三郎の名に因んだ町名であり天保13年(1842)以来、昭和41年(1966)10月住居表示制度の実施に到るまで続いた町名である。 1丁目に中村座、2丁目に市村座、3丁目に河原崎座(のち守田座となる)があって明治初期までは江戸歌舞伎を中心に華美殷賑を極めたわが国芸能文化の歴史に一頁を刻んだ処である。 昭和52年(1977)5月 大正13年(1924)以来の3丁目住人 ■原周一郎之を建つ |
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HN:
永山
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男性
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