東京都台東区の歴史
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所在地 台東区浅草2-3-1 (浅草寺)
宝暦11年(1761)、浅草寺信徒1,000人によって建立され、明治40年(1907)に改修再建されたもの。唐銅製。 PR
所在地 台東区浅草2-3-1 (浅草寺 浅草神社) いつも宝物
昭和51年(1976)に「週刊少年ジャンプ」で連載を開始して以来、多くの人々に愛されてきた「こちら葛飾区亀有公園前派出所」。物語の舞台となるここ浅草は主人公である両津勘吉を育み、また多くの感動を生み出してきました。この碑は、両津勘吉の少年時代の友情を描いた「浅草物語」にちなみ、人を思いやる気持ちの大切さ、そして子供たちが夢や遊び心を忘れず健全に成長してくれるよう願いを込めて建てられました。 < 「浅草物語」概略 > ある日、浅草で一緒に遊んだ同級生が偶然再会。 かつての悪ガキ両津勘吉は警察官に、 かつての優等生は、逃亡犯になっていました。 両津は、子供の頃にここ浅草神社(三社様)の神木、 槐(えんじゅ)の木の下に一緒に埋めた ベーゴマの話を持ち出して二人の友情を確かめ合いました。 そして、逃亡犯は自首することになったのです。 ジャンプ・コミックス「こちら葛飾区亀有公園前派出所」57巻「浅草物語の巻」より
< 「こちら葛飾区亀有公園前派出所」 > 作者 秋本治 連載開始 1976年週刊少年ジャンプ(集英社)
< 両津勘吉 > 職業 警察官(巡査長) 誕生日 3月3日 出身地 東京都台東区千束 身長 約162cm 体重 約71kg 特技 自転車乗り
所在地 台東区浅草2-3-1 (浅草寺 浅草神社)
大宝元年(701)、大宝律令で厩牧令が出され、全国に国営の牛馬を育てる牧場(官牧)が39ヶ所と、皇室に馬を供給するため、天皇の命により32ヶ所の牧場(勅旨牧)が設置されました。
所在地 台東区浅草2-3-1 (浅草寺)
淡島堂は、元禄年間(1688~1703)紀伊国(現在の和歌山県)の加太神社を勘請したものである。加太神社は、淡島と呼ぶ小島に鎮座し、淡島明神の俗称があるため、この堂も淡島堂と呼ばれている。祭神は少彦名命(すくなひこなのみこと)、堂内には両手で宝珠を持つ坐形の神像を安置する。
<和歌山加太之淡島明神勧請 淡島大明神>
<白木聖観世音菩薩>
所在地 台東区浅草2-3-1 (浅草寺)
所在地 台東区浅草2-3-1 (浅草寺 新奥山)
所在地 台東区浅草2-3-1 (浅草寺 新奥山) 所在地 台東区寿2-10-4 (金龍寺) 東京都指定旧跡 荷田在満(かだのありまろ)墓 都旧跡 昭和17年(1942)9月指定 江戸時代中期の国学者で、本姓は羽倉氏で、字(あざな)は持之、号を仁良斎という。通称は東之進、在満はその名である。京都伏見の稲荷神社の神宮荷田信詮(のぶあき)の三男高惟(たかのぶ){道員(みちかず)}の長男として京都に生まれた。23歳の享保13年(1728)9月24日、和学者として登用されることを求めて、妹蒼生子(たみこ)とともに江戸に下った。徳川吉宗の次男で有職故実(ゆうそくこじつ)の研究者として知られた田安宗武(たやすむねたけ)に仕え、有職故実の調査に従事した。元文3年(1738)桜町天王(さくらまちてんのう)の大嘗会(だいじょうえ){天王が即位後初めて行う新嘗祭(にいなめさい)}に際し、藩命により『大嘗会儀式具釈(だいじょうえぎしきぐしゃく)』九巻を撰進した。翌年別に『大嘗会弁蒙(だいじょうえべんもう)』二巻を無断刊行して幕府に咎められ、閉門を命じられた。また寛保2年(1742)に『国歌八論』が宗武の意見と対立し、延享3年(1746)田安家を退隠した。 叔父の春満(あずままろ)の有識故実の研究を継承発展させて精緻な家風を打ち立て、歌論では芸術主義を貫いて、近世歌論の発展にひとつの時期を画した。宝暦元年(1751)8月4日46歳で死去し、臨済宗京都妙心寺派の金龍寺に葬られた。著書に『大嘗会便蒙御咎顛末(だうじょうえべんもうおとがめてんまつ)』『令三辨(りょうさんべん)』『本朝度制略考(ほんちょうどせいりゃくごう)』『羽倉考(はぐらこう)』擬古文学(ぎこぶんがく)に『白猿物語(しろざるものがたり)』『落合物語』がある。 平成13年(2001)3月31日 東京都教育委員会
所在地 台東区浅草2-3-1 (浅草寺) 神輿まつまの どぜう汁すゝりけり 久保田万太郎先生は市井のひとを愛し とくに また ふるさとをおなじくする浅草ッ子を愛した ここに駒形どぜう 越後屋 五代 助七 その生前の厚誼をしのんで 先生をしたう情は まことに涙ぐましいものがあるが 昭和四十一年初夏 この句にゆかりの三社祭の吉日に当って駒形どぜうの店の前に いま 先生の句碑を立てる 旧称田原町三丁目なる先生の生家にもっともちかくこの句碑の立てられたことは さだめし先生も喜ばれていることと思われる ここにつつしんでこれをしるす者は おなじく浅草ッ子のひとり 昭和41年(1966)5月17日 安藤鶴夫
所在地 台東区浅草2-3-1 (浅草寺 新奥山) 元禄時代の歌人。はじめは渡辺氏を称し、のち戸田茂睡に改めた。名は馮(たのむ)、のちに恭光(ゆきみつ)、通称は茂右衛門。寒露軒などと号していた。徳川氏の家臣渡辺忠の第6男として、寛永6年(1629)5月19日に生まれた。その後は那須黒羽で暮らし、のち本多政長に仕えて300石を給されていた。延宝年間の末に致仕し浅草寺の近くに居をかまえ、「梨本集」を著して和歌の制の無用を説き、世に詠歌の派を立てた。宝永3年(1706)4月14日、年78で没した。「紫の一本」「御當代記」「隠家百首」「鳥の迹」などの作品がある。なお
塵の世を いとふ心の 積りては
とよみ、隠れ家の茂睡と時の人々に呼ばれていた。
所在地 台東区浅草2-3-1 (浅草寺 新奥山) 花の雲 鐘は上野か 浅草か 芭蕉 ゆく水や 何にとどまる のりの味 其角
<西山宗因(にしやまそういん)>
<松尾芭蕉(まつおばしょう)>
<榎本其角(えのもときかく)>
碑は文化6年(1809)の建立。台石には明治27年春(1894)の移築の由来が記されている。
所在地 台東区浅草2-3-1 (浅草寺) < 建設委員 > 台東区長 上條貢 台東区助役 金津武夫 台東区収入役 鈴木義尚 台東区議会議長 永森久吉 上野信用金庫理事長 長野高一 浅草観光連盟会長 大谷米太郎 金龍山浅草寺貫主 清水谷恭順 常盤堂雷おこし本舗社長 穂刈恒一 雲の像寄付者 朝倉響子 公園協会理事長 井下清
所在地 台東区浅草2-3-1 (浅草寺) 花の雲 鐘は上野か 浅草か
は、あまりにも著名である。
所在地 台東区寿1-11-2
厳念寺は建長5年(1253)、武州足立郡槇村に真言宗の「證誠山成就院護念寺」として創建されました。開基は遊琳法印という僧侶でしたが、覚如上人の影響を受けて「覚了」という法名をいただき、浄土真宗に改宗しました。
所在地 台東区浅草2-3-1 (浅草寺)
くわんをんの いらか見やりつ 花の雲
俳諧紀行文『奥の細道』などを著した松雄芭蕉は、寛永21年(1644)伊賀上野(現、三重県上野市)に生まれた。
所在地 台東区駒形1-4
当社の創祀は定かなことを知る事は出来ませんが口碑によりますと「後冷泉天皇の御世である」と云われ、又一説には「承久の乱(1221)の後信濃国諏訪郡小日村の神主が諏訪大社の御分霊を当地に奉斎したのに始まる」とも云われております。
都旧跡
江戸時代著名な俳歌師、六樹園を称し、字(あざな)を子柏といった。五老斎、逆旅主人または蛾術斎と号した。また石川五郎兵衛といい狂歌を蜀山人に学び狂名を宿屋飯盛といった。小伝馬町3丁目の旅館糟屋七兵衛(画名を石川豊信)の子として生れ、青年期には行状放逸で、父の死に逢って学問を好むようになったという。しかし、強訴(ごうそ)を援助したという嫌疑をうけ、しばしば法廷によばれ、ついに江戸を追われて多摩群府中に住むようになった。彼はここで和歌を学び、晩年狂歌をよくした。著書には「源注余滴」「雅言集覧」などがあり、戯著小説類も数種ある。文政13年(1830)閏(うるう)3月24日歿。年78。
所在地 台東区浅草2-3-1 (浅草寺)
所在地 台東区浅草2-3-1 (浅草寺)
<建碑>
<添田知道>
所在地 台東区浅草2-3-1 (浅草寺)
所在地 台東区浅草2-3-1 (浅草寺)
所在地 台東区浅草2-3-1 (浅草寺)
はとポッポ はとポッポ 鳩ポッポの歌碑 作詞 東くめ 作曲 滝廉太郎
この詩は日本中の多くの人々に親しまれている日本の代表的な童謡の一つです 東くめ女史が明治34年(1901)に観音さまの境内に於て鳩とたわむれている子供らの愛らしい姿をそのまま歌によまれたものであります 歌碑を建つるにあたりまして朝倉文夫先生から鳩五に題字を寄せられましたくめは作曲者滝廉太郎先生と同卸旧■の源いゆかりに係る洵にうるわしい御協賛でありました 鳩は平和の象徴です そのためにもこの碑は永久に偲存いたしたいものであります
所在地 台東区浅草2-3-1 (浅草寺) |
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