東京都台東区の歴史
× [PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。 所在地 台東区上野桜木1-14-11 (寛永寺) 尾形乾山墓碑・乾山深省蹟 尾形乾山(おがたけんざん)は、琳派の創始者として著名な画家・尾形光琳の弟である。寛文3年(1663)京都で生まれた。乾山のほか、深省・逃禅・習静堂・尚古斎・霊海・紫翠の別号がある。画業のほかにも書・茶をよくし、特に作陶は有名で、正徳・享保年間(1711~1735)輪王寺宮公寛王親王に従って江戸に下り、入谷に窯を開き、その作品は「入谷乾山」と呼ばれた。 寛保3年(1743)81歳で没し、下谷坂本の善養寺に葬られた。しかし、月日の経過につれ、乾山乃墓の存在自体も忘れ去られてしまい、光琳の画風を慕う酒井抱一の手によって探り当てられ、文政6年(1823)顕彰碑である「乾山深省蹟」が建てられた。抱一は江戸琳派の中心人物で、文化12年(1815)に光琳百回忌を営み、『光琳百図』『尾形流略印譜』を刊行、文政2年(1819)には光琳の墓所を整備するなど積極的に尾形兄弟の顕彰に努めた人物である。墓碑及び「乾山深省蹟」は、上野駅拡張のため移転した善養寺(現、豊島区西巣鴨4-8-25)内に現存し、東京都旧跡に指定されている。 当寛永寺境内の二つの碑は、昭和7年(1932)、その足跡が無くなることを惜しむ有志により復元建立されたものである。その経緯は、墓碑に刻まれ、それによると現、善養寺碑は、明治末の善養寺移転に際し、両碑共に当時鶯谷にあった国華倶楽部の庭へ、大正10年(1921)には公寛法親王との園により寛永寺境内に、その後、西巣鴨の善養寺へと、三たび移転を重ねたとある。 なお、入谷ロータリーの一隅に「入谷乾山窯元碑」がある。 平成11年(1999)3月 台東区教育委員会 TOMB OF OGATA KENZAN AND KANAN SHINSWISWKI Ogata Kenzan is a younger brother of Ogata Korin,painter,and was born in Kyoto in 1663.Kenzan revealed his talent in painting,calligraphy,tea ceremony,ere,but was especially renowned for his ceremonic art.He possessed a kiln in Iriya,and named his works"Iria Kenzan". He died in 1743 at the age of 81,and was buried at Yozenji Templr in Shitayasakamoto (present address 7-chome 15-ban of Ueno)."Ogata Kenzan Shiseiseki"was built by a man of letters named Sakai Hoitu.The Shinseiseki was lost when Yozenji Temple moved,but its copy was erected in 1923 at this site. PR |
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永山
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