東京都台東区の歴史
× [PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。 所在地 台東区蔵前4-18 (浄念寺) 都旧跡 三島政行墓 昭和5年(1930)12月11日指定 三島政行は通称を政蔵といい、知還翁、凸凹斎などの号を称していた。西丸御留守居三島政春の六男として江戸牛込船河原町(現在新宿区)で生まれた。15才の時に分家の三島大助政世の養子となり、文政元年(1818)御書院番となり、ついで清水殿物頭に転じた。 文政9年(1826)幕命によって、江戸府内の地誌「御府内風土記」の編纂を行い、3年にして完了したが、明治6年(1873)に皇城炎上により焼失、その際に災を免れた資料集が「御府内備考」である。このほか昌平黌地理局総裁林述斎を中心として編纂した「新編武蔵風土記稿」「新編相模風土記稿」の事業にも参画し、「葛西志」などの編纂にも従事しており、その功績は大きい。安政3年(1856)9月29日、年77で歿した。 昭和43年(1968)10月1日建設 東京都教育委員会 三島政行氏の御子孫の方よりご連絡頂き、訂正箇所・修正箇所等ご指導頂きました。原文そのまま以下に掲載させて頂きます。
拝啓。私は、三島政行の子孫の一人です。教育委員会設置の案内板の誤りについて、書きます。先ずは、知遇翁は知還翁の誤りです。墓石を見れば一目瞭然。御府内風土記は編纂された形跡が、幕府蔵書目からも見当たりません。御府内備考で終わっています。明治5年皇城炎上は、明治6年です。
2011年12月16日 PR
三島政行墓の案内の誤り
拝啓。私は、三島政行の子孫の一人です。教育委員会設置の案内板の誤りについて、書きます。先ずは、知遇翁は知還翁の誤りです。墓石を見れば一目瞭然。御府内風土記は編纂された形跡が、幕府蔵書目からも見当たりません。御府内備考で終わっています。明治5年皇城炎上は、明治6年です。2011年12月16日
続:案内板の写し誤り
拝啓。東京都教育委員会設置の案内板の写し誤りを指摘させて頂きます。1.凹凸斎は、凸凹斎。2.三島大助政世の義子は、養子。3.清水穀物頭は、清水殿物頭。4.「御府内風記」は、「御府内風土記」。しかし、編纂されたのは、「御府内備考」のみです。2011年12月16日知還壮人
御礼
知還壮人様、ご指ご指摘頂きましてありがとうございます。
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永山
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