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東京都台東区の歴史
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所在地 台東区浅草2-28

  元木場館通り
 この地は元「木場館通り」として親しまれていたが、昭和48年(1973)11月、浅草寺昭和五重塔の再建により、五重塔通りに改称された。浅草を懐古するとき、12階と瓢箪池と木場館の廻転木馬は、あの楽しいジンタの音楽とともに語り草となっている。明治30年代、木場館にあった昆虫館(昆虫研究家、名和清氏)や水族館は、当時東京における貴重な文化施設であった。とりわけ、ジンタの伴奏で子供達の夢をのせた廻転木馬は有名である。その「木馬」の行方はどうなっていることか、消息を知りたいものである。また、浅草名物となった木馬館の「安来節」は昭和52年(1977)6月に公演をもって終幕になったが、唄い続けて40年、木馬館の安来節は、浅草の大衆芸能史上に不朽の名をとどめている。昭和4年(1929)7月に水族館2階に日本最初のレヴュー劇場の「カジノフォリー」が旗挙げした。新進作家の川端康成が朝日新聞紙上にカジノフォリーの舞台を小説「浅草紅団」と題して連載したことから社会に知られ、学生やインテリが押しかけ有名となった。このカジノフォリーの舞台から喜劇の天才エノケンこと榎本健一が誕生している。
 昭和52年(1977)10月  浅草公園町会建札
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所在地 台東区谷中7-10-10

  沢木道場(擇木道場)たくぼくどうじょう
 明治の初期、旧藩幕体制が崩壊して明治新体制になると、西洋の合理主義思想が急激に流入して来た結果、その行き過ぎから一時的に社会思想の混乱や思想の頽廃が興りました。国の将来を心配した山岡鉄舟、中江兆民らの先覚者有志は日本古来の伝統文化である「禅」に根ざした人材を養成する必要を痛感し、鎌倉円覚寺管長「今北洪川禅師」を拝請して、禅修行の会「両忘会」を創立しました。
 この会は一時途絶えていましたが、明治34年(1901)洪川禅師の法嗣である円覚寺管長「釈宗演老師」の命により、その法嗣の「両忘庵釈宗活老師」によって再興されました。両忘庵老師は師命を奉じて二度にわたる渡米伝道をはじめ、国内の社会人への居子禅の布教教化の為に、精力的な普及活動を展開されました。
 擇木道場は、大正4年(1915)に両忘会員の田中大綱居士が建立して、両忘庵釈宗活老師に捧げられた道場です。両忘庵老師はこの道場を拠点として居士禅を大いに挙揚して、多くの学者、産業人、役人などを摂化し有為の人材として世の中に送り出しました。その中には、女性も多く含まれていました。
  擇木道場は、それまで宗派の僧侶にしか許されていなかった「伝法」を、職業を持った社会人にも許すと云う居士禅の発祥の地であり、いずれの宗派にも属しない我が国最初の「居士禅専門道場」であります。
 両忘庵老師は、夏目漱石の小説「門」の中に主人公「宗助」が鎌倉の老師(釈宗演老師)に参禅した時、身の周りを世話した若い修行僧「釈宣道」として登場しております。また女性解放運動家「平塚らいてう」も両忘庵老師に参禅しております。



 擇木道場は、建築後77年を経て老朽化しましたので、平成4年(1992)に有志より浄財を募って改築されました。




所在地 台東区谷中7

  紅葉坂
 坂道周辺の紅葉が美しかったので「紅葉坂」と命名されたのだろう。別名「幸庵坂」ともいった。この命名由来は不詳。江戸後期の国学者、山崎美成は『金杉日記』に、「天王寺うら幸庵坂下、又三しま社のほとり秋色尤もふかし、林間に酒を煖む」と記している。

 この記事によると、幸庵坂の名は江戸時代すでにあったことが知られる。
  平成12年(2000)3月 台東区教育委員会


所在地 台東区浅草2-3-1 (浅草寺)

 鎮護堂ちんごどうは「おたぬきさま」の名で親しまれ、防火、盗難除、商売繁昌の守護神として知られている。
 明治5年(1872)、浅草寺境内に住みついた狸の乱行を鎮めるため、浅草寺の用人であった大橋亘が浅草寺貫首唯我韶舜と相談の上、自身の邸内に祀ったことがはじまりと伝える。数度の移転を経て、明治16年(1883)伝法院内の当地に再建した。
 現在の入母屋造の本殿は、大正2年(1913)に再建されたものである。
 祭礼は、毎年3月17・18日に行われている。
 また境内には昭和38年(1963)に建てられた幇間塚がある。幇間のことを「たぬき」と呼んだことから、この地に建てられたもので、碑には幇間の由来と久保田万太郎の「またの名のたぬきづか春ふかきかな」の句が刻まれ、裏面には幇間一同の名が刻まれている。
 平成18年(2006)3月 台東区教育委員会


 鎮護堂域内には『封間塚』、『手水鉢』、『水子地蔵尊』、『鎮護堂の神木・公孫樹』があります。

             Chingo-do
 Chingo-do is also known as "Otanuki-sama(Sir Raccoon-dog)" and is famous for being the deity of protection against fire and theft as well as flouriching businesses.
 In 1872,a steward of Senso-ji Temple consulted with the chief priest of the temple and enshrined the deity in his own garden in order to prevent mischief by raccoon dogs that had taken up residence in Senso-ji Temple.This is said to mark the start of the history of the shrine as well as the origin of the name "Otanuki-sama." In 1883,the shrine was moved to the current location and the shrine building was constructed.
 The current main shrine was rebuilt in 1913 and festival rites are conducted on March 17 and 18 every year.


所在地 台東区浅草2-3-1 (浅草寺  鎮護堂

 この手水鉢は、明治13年(1880)市川一門により奉納される。
 制作者は部名で発起人は5代目市川新蔵。
 市川新蔵(1861~1897)は歌舞伎役者。8歳で4代目中村芝翫に入門、明治7年(1874)9代目市川団十郎の門下に就き、5代目市川新蔵を襲名、立役の花形として団門四天王の一人と称された。
 おたぬきさまは「たをぬく」と言われ、学芸成就のご利益があると、役者や芸能人にも信仰され、この手水鉢も人気の泉と呼ばれ親しまれている。
 金龍山 浅草寺


所在地 台東区浅草2-3-1 (浅草寺  鎮護堂

 昭和53年(1978)9月25日建立。(浅草寺ご本尊示現1350年)
 お地蔵さまは、地獄界から天上界に至る六道の苦の中に、生死を繰り返す私たち衆生の苦しみを救済する仏さまで、修行僧のお姿をして、右手に鍚枝、左手に宝珠を持つ、慈悲深い菩薩さまである。
 地蔵とは、万物を平等に育成する偉大な力の源である大地を現し、また母親の胎蔵を意味することから、地蔵尊が子どもたちを守るという信仰が生まれた。
 江戸時代には、六道(善悪の行為の結果として赴く六つの世界)救済のために、六地蔵尊が盛んに造像奉祀され、空無上人が自ら六地蔵尊の一つを、浅草寺の支院、正智院に安置したと伝える。
 生後間もない嬰児の健やかな成長を願い、また、受け難き人の命を宿しながら、育成し得なかった、多くの尊い命の、後生安穏の悲願を込め、ここに水子地蔵尊が建立された。
 毎月24日にお地蔵さまのご縁日には、水子供養法要が行われる。
 お地蔵さまのご真言・・・「おんかかか びさんまえいそわか」
 金龍山 浅草寺


所在地 台東区浅草2-3-1 (浅草寺  鎮護堂

推定樹齢4、500年。
この公孫樹の木は、昭和20年(1945)の3月10日の東京大空襲の時、焼夷弾を浴びながらも、その猛火から鎮護堂を守ったという神木である。
今でも木には当時の焼け跡が残っている。
戦争がこの世からなくなることを願いたい。
 金龍山 浅草寺


所在地 台東区浅草2-3-1 (浅草寺  鎮護堂

 「幇」は、たすける意。幇間とは、客の宴席に侍し、座を取り持つなどして遊興を助ける者。たいこもち、男芸者のこと。
 幇間有志によって、幇間物故供養のため、昭和38年(1963)に建立された。
 碑には、浅草生れで、大正・昭和期の小説家・劇作家・俳人、久保田万太郎氏の俳句がある。
「またの名の たぬきづか 春ふかきかな」
 金龍山 浅草寺


所在地 台東区浅草2-3-1 (浅草寺)

 伝法院は浅草寺の院号で、住職の居住する本坊の称号に用いられている。諸建物のうち、客殿・玄関・使者の間・大台所の一部は、安永6年(1777)の建造である。そのうち客殿には本尊阿弥陀如来像を安置し、6月の山家会(伝教大師の忌日法要)、11月の霜月会(天台大師の忌日法要)をはじめ、故人の追善供養、寺内僧侶の修行などが行われる。
 建物の背後には、大泉池を中心とする廻遊式庭園があり、江戸時代初期の築造といわれ、池畔には、至徳4年(1387)在銘の梵鐘や京都表千家の不審庵を模した茶室天祐庵がある(非公開である)。
 平成8年3月 台東区教育委員会

 伝法院域内には『天祐庵』、『石棺』、『至徳の古鐘』、『岩本乾什句碑』、『谷口楼川句碑』、『心字池』があります。



         DENBO-IN
 Abbots serving to Sensoji temple dwell here in DEnbo-In.
 The main building was built in 1777 and here is held Sange-e in June and Shimotsuki-e in November annually.The former is for a Japanese Tendai-Sect anniversary,the latter for a Chinese one.
 Behind this building is a garden with a fountain created in the early part of the 17th century.
 By the fountain,there is a temple bell which was cast in 1387 and also a tea-house called Tenyu-an which dates from the 18th century.


所在地 台東区上野公園4 (上野恩賜公園 花園稲荷神社・五條天神社

 花園稲荷神社は「穴稲荷」、「忍岡稲荷」とも呼ばれ、創建年代は諸説あるが、江戸時代初期には創建されていた。これにより江戸時代から「稲荷坂」の名がある。享保17年(1732)の『江戸砂子』にその名がみえ、明治29年(1896)の『新撰東京名所図会』には「稲荷坂 忍ヶ岡の西方に在りて、穴稲荷社へ出る坂路をいふ」とある。
 平成15年(2003)3月 台東区教育委員会


所在地 台東区上野公園4 (上野恩賜公園)

みちのくへ 漁みた行くや 下駄はいて
秋風や 旅の浮世の 果知らず      子規


所在地 台東区上野公園12-49 (国際子ども図書館)

  小泉八雲記念碑
先生原名ハらふかぢお・へるん英国ノ人西紀千八百五十年地中海ノれふかす島ニ生レ四十一歳ニシテ来朝シ尋デ帰化シ姓名ヲ改メテ小泉八雲ト日フ職ヲ東京帝国大学ニ奉ジ英文学ヲ教授シ日本ニ関スル著述頗ル多シ千九百四年東京ニ没シ雑司ヶ谷ニ葬ル先生ヲ景仰セル土井英一ノ遺言因リ父林吉松本喜一ト相謀リテ此記念碑ヲ帝国図書館ニ建ツ小倉右一郎コレガ彫刻設計ヲ為ス
 昭和10年(1935)6月
 藍谷温 撰    市河三喜 書

 


所在地 台東区浅草3-6

  道引長太郎地蔵尊縁起
 江戸末期文政嘉永の頃、金竜山浅草寺に資性純朴な長太郎と云う者がおり、良く寺に仕え、信者及び街の人々より信望を受け生涯を浅草寺と街の為に尽くし、長寿を全うしました。
 この事を聞いた当時の浅草寺住職であった上野輪王寺門跡の宮様である慈性法親王が浅草寺別当大僧正に命じ一体の延命地蔵尊を建立させ、之を長太郎地蔵尊と命名し長太郎の忠誠を末永く記念しました。
 そして、昭和以降この地蔵尊は俗に「道引長太郎地蔵尊」と呼ばれ、道引とは引導に通じ、この地蔵尊を信仰すれば将来浄土にみちびいて頂けると言う機縁に恵まれると云う意味であり又、俗説には浅草寺馬屋番の世話役男衆の弔い地蔵と言う説も有ります。
 地蔵尊祭礼は当町会により毎年7月24日、浅草寺の僧侶により回向が執り行われます。
 浅草3丁目象一町会

所在地 台東区西浅草1-5-5 (東本願寺)

  銅鐘
 本銅鐘は、総高302センチ、口径165.5センチあり、その大きさは区内随一であり、都内でも有数のものである。東本願寺十三世宣如上人が誌した銘文によれば、寛永7年(1630)に伽藍整備の一環として鋳造されたものである。東本願寺は明暦の大火(1657)以後、現在の地に移転したと伝えられるが、移転に際して本鐘も移された。
 本鐘を制作した鋳物師は明らかでないが、撞座や龍頭、下帯にみられる唐草文の意匠から、近世初期に活躍した長谷川越後守吉家による鋳造と推定される。
 本銅鐘は区内に現存する銅鐘の中でも古いものに属する。加えてその大きさからも、近世初期の鋳物師の活動や鋳造技術を知る上で貴重な遺品であることから、平成15年(2003)に台東区有形文化財として台東区区民文化財台帳に登載された。
 平成23年(2011)3月 台東区教育委員会

        Bronze Bell
 At 302 centimeters from its base to its top and with a base diameter of 165.5 sennbimeters,this bronze bell is the largest in Taito-ku and one of the largest in Tokyo.According to an inscription by Higashi Hongan-ji Temple's 13th Supreme Primate Sennyo,the bell was cast in 1630 during construction on the temple complex.Higashi Hongan-ji is said to have been moved to its current location after the Great Fire of Meireki(1657) that destroyed much of Edo,and the bell was relocated with it.
 It is not clear who cast the bell,but from the arabesque design seen on the reinforced striking marks,the "dragon head" crown,and the sound ring,it is presumed to have been cast by Hasegawa Echigo-no-kami Yoshiie,a caster who lived at the beginnig of the early modern era.
 This bronze bell is one of the okdest extant in Taito-ku.Its age and large size make it an important artifct in terms of shedding light on casters active at the beginning of the early modern era and the casting technigues in use at the time.For this reason,it was including in the list of tangible folk-cultural properties of Taito-ku in 2003.
  March 2011 Taito-ku Board of Education


所在地 台東区上野公園9-88 (上野恩賜公園 上野東照宮

  大石鳥居
寛永10年(1633)酒井忠世建築奉納。国指定重要文化財。




所在地 台東区上野4-7-8

 東北・上越新幹線 上野駅誘致住民運動 発祥の地碑
 東北・上越新幹線上野駅設置という国家的大事業は、台東区民が昭和46年(1971)2月新幹線誘致運動を開始して以来、台東区民の総力を挙げたねばり強い行動の積重ねにより実現しました。
 特に、昭和46年(1971)10月「東京駅を起点とし、上野には駅を作らず、上野公園地下を通過」という国鉄の新幹線計画発表は、地元台東区に大きな失望を与えました。この挫折の時期をのりこえ、昭和52年(1977)12月台東区案による新幹線上野駅設置決定に持ちこむまでの上野駅誘致実現期成同盟・同住民運動本部を始めとする関係地元団体の積極的な活動に対しまして、心から敬意を表します。
 ここに、新幹線上野駅開業による台東区の発展を祈念し、永年誘致運動に尽力された方々のご苦労を讃えるため、「上野駅誘致住民運動発祥の地」と刻み顕彰します。
 平成3年(1991)3月吉日 東京都台東区長 内山栄一


所在地 台東区上野公園2-1 (上野恩賜公園)

 駅伝の碑
我が国、最初の駅伝は、奠都50周年記念大博覧会「東海道駅伝徒歩競争」が大正6年(1917)4月27日、28日、29日の3日間にわたり開催された。スタートは、京都・三条大橋、ゴールは、ここ東京・上野不忍池の博覧記正面玄関であった。



所在地 台東区上野公園2-1 (上野恩賜公園)

 西條八十 顕彰碑
 「かなりや」の詩は大正7年(1918)秋不忍池畔にあった上野倶楽部というアパートの一室を仕事部屋にしていた西條八十が■葉散る上野の山東照宮のあたりを逍遥しているうちに得られた名作である。わが国の■術童謡興隆の機縁となったこの作誕生の地を記念して之を建てた
 昭和35年(1960)4月 西條八十会



うたをわすれた かなりやは
ざうげのふねに ぎんのかい
つきよのうみに うかべれば
わすれたうたを おもいだす    西條八十



所在地 台東区上野公園7-20 (上野恩賜公園 国立科学博物館

 D51型蒸気機関車は、おもに貨物用として昭和11年(1936)より製造されましたが、そのすぐれた性能から日本国有鉄道で当時もっとも多く使われ、デゴイチの愛称で人びとに親しまれました。この231号h昭和14年(1939)7月に日本国有鉄道長野工場で製作されてから、東海道本線・山陰本線・その他で活躍し、昭和50年(1975)12月15日北海道追分機関区で休車するまで約216万km(地球を約54周)を走行しました。
車軸配置          1D1
最大長            19,730mm
最大巾            2,936mm
最大高            3,980mm
動輪直径           1,400mm
機関車重量(運転整備)  78.37ton
炭水者重量(運転整備)  47.40ton
シリンダー(直径×行程)  550mm×600mm
最大動輪周馬力      1,280馬力
最大運転速度        時速85km
大煙管(直径×長さ×本数) 140mm×5,500mm×28本
小煙管(直径×長さ×本数) 57mm×5,500mm×90本
小タンク容量         20㎥
燃料積載量          8ton
  国立科学博物館













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