東京都台東区の歴史
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所在地 台東区西浅草1-5-5
浄土真宗 東本願寺派 PR 所在地 台東区西浅草3-25-16 (台東区生涯学習センター) 金竜小学校発祥の地 明治45年(1912)7月29日 校舎竣工 大正元年(1912)9月2日 開校 大正12年(1923)9月1日 関東大震災により校舎焼失 昭和3年(1928)9月20日 鉄筋コンクリート校舎竣工 昭和61年(1986)9月1日 新校舎へ移転 平成10年(1998)9月28日 生涯学習センター建築のため旧校舎解体 平成16年(2004)3月 台東区教育委員会 所在地 台東区西浅草1-6-7 (宗恩寺) 小田得能(おだとくのう)は、明治時代の真宗大谷派の僧侶。わが国初の仏教の辞典『仏教大辞典』を著した人物として殊に著名である。 万延元年(1860)、福井県坂井郡波寄村(現、福井市)の翫香寺住職である生田氏の三男として生まれる。郷里で教員をつとめたのち、真宗大谷派の高倉学寮で仏教学を修め、明治23年(1890)、島地黙雷とともにインド・中国・日本の仏教史を述解した『三国仏教略史』を編纂し、翌年、宗恩寺第24世住職となり、小田姓を名乗った。また、明治33年(1900)には、岡倉天心とともに、インド・中国の仏跡を訪ねまわり、その見識を更に高めた。 『仏教大辞典』の執筆は、明治32年(1899)から得能が亡くなるまで、宗恩寺の土蔵の中でただ一人の力で続けられた。生存中には刊行されることはなかったが、大正6年(1917)、彼の原稿を元に、上田万年・芳賀矢一・南条文雄・高楠順次郎によって刊行され、後学に大きく貢献した。 彼の遺骸は、当寺境内の歴代住職墓に合葬された。平成6年(1994)10月には、得能の筆「念仏成仏」の四文字を模刻した頌徳碑を建立した。 平成7年(1995)3月 台東区教育委員会 TOMB OF ODA TOKUNO Oda Tokuno was a monk in the Meiji Era. After studying Buddhism,hi edited "Sangoku Bukkyo Ryakushi",which contains brief histories of Buddhism in India,China,and Japan. Later,he became the chief priest of the So-onji temple priesrhood. He compiled "Bukkyo Daijiten"(Great glossary of Buddhism) in the storehouse of the temple from 1899 to 1911 when he died. The glossary was published in 1917 based on his draft. He was buried in the tomb of the priests of this temple. The monument bearing the carving "NENBUTSU JOBUTSU"which means attaining Buddhahood while chanting a prayer,was erected in 1994 by the then chief priest and supporters of the temple. 所在地 台東区西浅草3-27-22 曹洞宗 泰平山 萬隆寺 萬隆寺は南朝元中五年 北朝舞慶2年西紀1388年 出羽国に創立後江戸湯島天神に移り明暦3年 浅草田甫に換地を与えられて移転創立により尓来600余年 平成元年(1989)5月吉日 境内に『庚申塔』があります。 庚申塔(こうしんとう) (板駒型 三猿主尊) 寛文五年(1665)八月七日造立 所在地 墨田区西浅草1-7-19 (清光寺) いわゆる歌舞伎文字である勘亭流の祖。勘六は、剛を勘亭と称し、延享3年(1746)江戸に生まれる。境町(現中央区日本橋)に住み、御家流の書を指南して能書家として知られていた。 勘六は、安永8年(1779)中村座の依頼を受け、従来の浄瑠璃正本の文字などを参考に春の狂言の大名題を書いた。これが、歌舞伎文字勘亭流のはじまりとされる。以来、中村座の看板を書きつづけ、その独特の書風は鳥居派の芝居絵とともに世に流行し、天明年中(1781~1788)からは勘亭流といえる一家の書法として公表。文化2年(1805)59歳で没するまで、もっぱら劇場のための看板や番付の執筆を業とした。 勘亭流は、御家流の書風に様式化を加えたもので、現在もこの伝統は継承され歌舞伎看板などで使われている。 墓石裏面には ありがたや心の雲の晴れ渡り 貝一筋に向かう極楽 と、勘亭流で刻まれている。 平成13年(2001)3月 台東区教育委員会 TOMB OF OKAZAKIYA KANROKU Okazakiya Kanroku was said to be the originator of the Kanteiryu style of calligraphy,used exclusively for Kabuki programs and billboards.Kantei style calligraphy originated when Kanroku was asked by Nakamuraza,a Kabuki theater,to write a billboard for kyougen.He continued to write billboards for Nakamuraza and(between 1781 to 1788),his unique calligraphy style was in vogue,together with"shibaie"or dramas of the day. Now buried at this temple,until his death at the age of 59 in 1805.Kanroku devoted his life to writing letters on billboards and progurams for theaters.Even now,his writing style is preserved and used at the Kabukiza theater. 所在地 台東区西浅草1-7-19 (清光寺) 明治41年(1908)2月27日京都市伏見六地蔵に生る。大正2年(1913)5才の時、伏見大手座の「寺子屋」菅秀才に代役で初舞台を踏む。大正6年(1917)関西歌舞伎の琴高屋中村福円一座と共々浅草吾妻座に出演。芸名嵐佳寿夫、10才。大正7年(1918)関西歌舞伎の大御所中村雁次郎の門に入り長男林長三郎の下に預けられ林長丸と名のる。昭和元年(1926)12月25日松竹シネマ教と下加茂撮影所に入社。芸名林長二郎18才の時である。入社第1回作品「稚児の剣法」でデビュー、一躍映画界の人気スターとなる。昭和10年(1935)それまでの集大成として「雪之丞変化」三部作が作成され大当りをとる。昭和12年(1937)29才の時123本の作品を残して松竹を退社。東宝映画に転社。その第1回作品「源九郎義経」の撮影中暴漢に襲われ顔に致命的切創を受ける。号外が走る大事件となった。だが半年の療養後不屈の精神で再起。その第1作「藤十郎の恋」は不安を消す見事な出来で美男は蘇った。この転機に芸名林長二郎を返上、本名長谷川一夫となる。昭和19年太平洋戦争激しさを増 した召。36才の時である。除隊後は昭和20年(1945)8月終戦まで移動劇団として慰問公演を各地で行う。昭和23年(1948)東宝映画退社。 つづいて株式会社「新演伎座」を設立。自主作成映画「小判鮫」等を発表。昭和25年(1950)大映と契約、入社。42才。昭和30年(1955)宝塚社長小林一三氏との約束で洋楽を使った芝居に意欲を燃やす。東方歌舞伎の誕生である。第1回公演は歌舞伎から中村歌右ヱ門、中村勘三郎、中村扇雀それに長谷川一夫の豪華顔合せで幕が空いた。特に舞踊「春夏秋冬」は圧巻で、ぢかたには国宝級の顔が並び4人がせり上がってくると客席は総立ちになった。大衆演劇の新しい道がはっきりと見えたようである。大成功であった。昭和38年(1963)大映映画「江戸無情」を最後に大映を退社。映画時代を経る。それまでの主演映画301本、無声からトーキーそしてカラーへ、ワイドへと休息に進歩した映画界で変わらぬ人気を持つつづけた精進努力は次の仕事への飛躍となる。「地獄門」のカンヌ映画祭のグランプリ、ブルーリボン大衆賞菊池寛賞他映画時代の勲章を次々と受賞。昭和39年(1964)初めてテレビに進出NHK連続ドラマ「赤穂浪士」に1年間出演しこれまた大成功をおさめ茶の間の人気者となる。昭和40年(1965)紫綬褒章を受章。 昭和49年(1974)宝塚歌劇「ベルサイユのバラ」では演出家としても高く評価を受ける。昭和53年(1978)芸道65年の功績と精進に対して支部大臣特別賞が授与される。昭和54年(1979)勲三等瑞宝章受章。昭和58年(1983)第54回東方歌舞伎「半七捕物帖」が最後の舞台になるまで舞台活動は大都市、全国各地を含めて公演回数200回、上演回数3000回を超えるであろう。優雅で新鮮、贅沢なあの東宝歌舞伎は終りを告げた。昭和59年(1984)4月6日、東京港区西麻布で死去す。76才。この日総理大臣から国民栄誉賞を授与される。この最後の勲章は幕切れにふさわしく今までの業績に更に華を添えることになった。 所在地 台東区西浅草3-4-5 浅草教会は1886年(明治19年)頃、メソヂスト監督派教会の宣教により浅草美以教会として浅草三間町2番地(駒形橋西側のあたり)に設立されました。 その後、三筋町、芝崎町、聖天横町を経て、1903年(明治36年)に現在の地に移りました。 当時の会堂は築地外国人居留地にあった築地美以教会の街道を移築したもので、尖塔に鐘の付いたモダンな建物であったようです。 現在地での会堂は、第1次会堂が1905年(明治38年)日露戦争の講和条約締結に反対する暴徒により焼き討ちを受け全焼、第2次会堂が関東大震災により焼失、第3次会堂が東京大空襲により灰爐に帰しました。 戦後はコンセットハットで礼拝を守り続けていましたが、1951年(昭和26年)、第4次の会堂が献堂されました。 この会堂は大正期より運営されていた小百合幼稚園の園舎としても使用され、多くの卒業生を送り出しました。 現在の会堂は2004年(平成16年)1月に献堂されたもので、礼拝堂とともに納骨堂を備えたものになっています。 また、教会創立期から関東大震災に至るまで、台東区生涯学習センターの南側にあたる場所で、美以美尋常高等小学校を併設していました。小百合幼稚園は少子化の永享から1996年(平成8年)にその70余年にわたる歴史を閉じました。 現在は1941年(昭和16年)にプロテスタント・キリスト教各派が合同した成立した日本基督教団に所属する教会となっています。 教会創立120周年を記念して2006年8月15日設置 所在地 台東区西浅草3-14-1 (天嶽院) 東京都指定旧跡 細井平洲墓 ほそいへいしゅう 昭和17年(1942)9月指定 江戸中期折衷学派の儒学者。享保13年(1728)尾張国知多郡に生まれた。名は徳民。通称甚三郎。延享年間に名古屋に出て、中西談淵に学び、やがて江戸に出て芝三島町(現在の港区芝大門1丁目)に談淵とともに叢桂社をおこした。出羽米沢藩主上杉治憲(鷹山)に招かれて藩校興譲館の教学振興に努め、藩政改革の教学面を指導して、改革理念の普及、家臣団の統制に大きな役割をはたした。また、天明3年(1783)には、尾張名古屋藩に招かれて藩校明倫同の督学兼継迷館総裁となり、民衆教化に努めた。享和元年(1801)6月29日江戸尾張藩邸で没した。著書に『平洲小語』『詩経夷考』などがある。 平成2年12月27日再建 東京都教育委員会 所在地 台東区西浅草2-14-5 八幡神社 御祭神は応神天皇なり。元禄13年(1700)庚辰8月9日田島山快楽院誓願寺に於て豊前の国(大分県)宇佐八幡宮の御神霊分神を祖の地に御奉遷す。爾来旧浅草田島町の鎮護として御祭りす。御維新前誓願寺にて進退し明治6年(1873)1月浅草神社社務兼勤の命を蒙る。 昭和20年(1945)3月9日夜戦火に依り灰燼と帰すも地域住民有志の浄財寄進にて昭和24年(1949)2月再建、更に昭和47年(1972)5月近代的コンクリート造りの社殿、社務所が完成し現在に至る。 平成2年(1990)5月 西浅草2丁目町会 氏子総代 渡辺留三郎(百歳) 所在地 台東区西浅草1-5-5 (東本願寺) 銅鐘 本銅鐘は、総高302センチ、口径165.5センチあり、その大きさは区内随一であり、都内でも有数のものである。東本願寺十三世宣如上人が誌した銘文によれば、寛永7年(1630)に伽藍整備の一環として鋳造されたものである。東本願寺は明暦の大火(1657)以後、現在の地に移転したと伝えられるが、移転に際して本鐘も移された。 本鐘を制作した鋳物師は明らかでないが、撞座や龍頭、下帯にみられる唐草文の意匠から、近世初期に活躍した長谷川越後守吉家による鋳造と推定される。 本銅鐘は区内に現存する銅鐘の中でも古いものに属する。加えてその大きさからも、近世初期の鋳物師の活動や鋳造技術を知る上で貴重な遺品であることから、平成15年(2003)に台東区有形文化財として台東区区民文化財台帳に登載された。 平成23年(2011)3月 台東区教育委員会 Bronze Bell At 302 centimeters from its base to its top and with a base diameter of 165.5 sennbimeters,this bronze bell is the largest in Taito-ku and one of the largest in Tokyo.According to an inscription by Higashi Hongan-ji Temple's 13th Supreme Primate Sennyo,the bell was cast in 1630 during construction on the temple complex.Higashi Hongan-ji is said to have been moved to its current location after the Great Fire of Meireki(1657) that destroyed much of Edo,and the bell was relocated with it. It is not clear who cast the bell,but from the arabesque design seen on the reinforced striking marks,the "dragon head" crown,and the sound ring,it is presumed to have been cast by Hasegawa Echigo-no-kami Yoshiie,a caster who lived at the beginnig of the early modern era. This bronze bell is one of the okdest extant in Taito-ku.Its age and large size make it an important artifct in terms of shedding light on casters active at the beginning of the early modern era and the casting technigues in use at the time.For this reason,it was including in the list of tangible folk-cultural properties of Taito-ku in 2003. March 2011 Taito-ku Board of Education |
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永山
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