東京都台東区の歴史
× [PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。 所在地 台東区西浅草1-7-19 (清光寺) 明治41年(1908)2月27日京都市伏見六地蔵に生る。大正2年(1913)5才の時、伏見大手座の「寺子屋」菅秀才に代役で初舞台を踏む。大正6年(1917)関西歌舞伎の琴高屋中村福円一座と共々浅草吾妻座に出演。芸名嵐佳寿夫、10才。大正7年(1918)関西歌舞伎の大御所中村雁次郎の門に入り長男林長三郎の下に預けられ林長丸と名のる。昭和元年(1926)12月25日松竹シネマ教と下加茂撮影所に入社。芸名林長二郎18才の時である。入社第1回作品「稚児の剣法」でデビュー、一躍映画界の人気スターとなる。昭和10年(1935)それまでの集大成として「雪之丞変化」三部作が作成され大当りをとる。昭和12年(1937)29才の時123本の作品を残して松竹を退社。東宝映画に転社。その第1回作品「源九郎義経」の撮影中暴漢に襲われ顔に致命的切創を受ける。号外が走る大事件となった。だが半年の療養後不屈の精神で再起。その第1作「藤十郎の恋」は不安を消す見事な出来で美男は蘇った。この転機に芸名林長二郎を返上、本名長谷川一夫となる。昭和19年太平洋戦争激しさを増 した召。36才の時である。除隊後は昭和20年(1945)8月終戦まで移動劇団として慰問公演を各地で行う。昭和23年(1948)東宝映画退社。 つづいて株式会社「新演伎座」を設立。自主作成映画「小判鮫」等を発表。昭和25年(1950)大映と契約、入社。42才。昭和30年(1955)宝塚社長小林一三氏との約束で洋楽を使った芝居に意欲を燃やす。東方歌舞伎の誕生である。第1回公演は歌舞伎から中村歌右ヱ門、中村勘三郎、中村扇雀それに長谷川一夫の豪華顔合せで幕が空いた。特に舞踊「春夏秋冬」は圧巻で、ぢかたには国宝級の顔が並び4人がせり上がってくると客席は総立ちになった。大衆演劇の新しい道がはっきりと見えたようである。大成功であった。昭和38年(1963)大映映画「江戸無情」を最後に大映を退社。映画時代を経る。それまでの主演映画301本、無声からトーキーそしてカラーへ、ワイドへと休息に進歩した映画界で変わらぬ人気を持つつづけた精進努力は次の仕事への飛躍となる。「地獄門」のカンヌ映画祭のグランプリ、ブルーリボン大衆賞菊池寛賞他映画時代の勲章を次々と受賞。昭和39年(1964)初めてテレビに進出NHK連続ドラマ「赤穂浪士」に1年間出演しこれまた大成功をおさめ茶の間の人気者となる。昭和40年(1965)紫綬褒章を受章。 昭和49年(1974)宝塚歌劇「ベルサイユのバラ」では演出家としても高く評価を受ける。昭和53年(1978)芸道65年の功績と精進に対して支部大臣特別賞が授与される。昭和54年(1979)勲三等瑞宝章受章。昭和58年(1983)第54回東方歌舞伎「半七捕物帖」が最後の舞台になるまで舞台活動は大都市、全国各地を含めて公演回数200回、上演回数3000回を超えるであろう。優雅で新鮮、贅沢なあの東宝歌舞伎は終りを告げた。昭和59年(1984)4月6日、東京港区西麻布で死去す。76才。この日総理大臣から国民栄誉賞を授与される。この最後の勲章は幕切れにふさわしく今までの業績に更に華を添えることになった。 PR |
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永山
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