東京都台東区の歴史
× [PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。 所在地 墨田区西浅草1-7-19 (清光寺) いわゆる歌舞伎文字である勘亭流の祖。勘六は、剛を勘亭と称し、延享3年(1746)江戸に生まれる。境町(現中央区日本橋)に住み、御家流の書を指南して能書家として知られていた。 勘六は、安永8年(1779)中村座の依頼を受け、従来の浄瑠璃正本の文字などを参考に春の狂言の大名題を書いた。これが、歌舞伎文字勘亭流のはじまりとされる。以来、中村座の看板を書きつづけ、その独特の書風は鳥居派の芝居絵とともに世に流行し、天明年中(1781~1788)からは勘亭流といえる一家の書法として公表。文化2年(1805)59歳で没するまで、もっぱら劇場のための看板や番付の執筆を業とした。 勘亭流は、御家流の書風に様式化を加えたもので、現在もこの伝統は継承され歌舞伎看板などで使われている。 墓石裏面には ありがたや心の雲の晴れ渡り 貝一筋に向かう極楽 と、勘亭流で刻まれている。 平成13年(2001)3月 台東区教育委員会 TOMB OF OKAZAKIYA KANROKU Okazakiya Kanroku was said to be the originator of the Kanteiryu style of calligraphy,used exclusively for Kabuki programs and billboards.Kantei style calligraphy originated when Kanroku was asked by Nakamuraza,a Kabuki theater,to write a billboard for kyougen.He continued to write billboards for Nakamuraza and(between 1781 to 1788),his unique calligraphy style was in vogue,together with"shibaie"or dramas of the day. Now buried at this temple,until his death at the age of 59 in 1805.Kanroku devoted his life to writing letters on billboards and progurams for theaters.Even now,his writing style is preserved and used at the Kabukiza theater. PR |
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永山
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