東京都台東区の歴史
× [PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。 所在地 台東区上野桜木1-14-11 (寛永寺) 13代将軍 徳川家定公正室 天璋院篤姫墓所(非公開) 天璋院篤姫は天保6年(1835)12月19日、薩摩藩今和泉島津家島津忠剛(ただたけ)の長女として今和泉島津家本邸(現在の鹿児島県指宿市)にて生を受けました。(幼名一子〔かつこ〕・於一〔おかつ〕) 嘉永6年(1853)、島津家28代当主島津斉彬(なりあきら)の養女となり、名を篤姫と改めて鶴丸(鹿児島)城に入り、また同嘉永6年(1853)中に鹿児島を出立し京都の近衛家に参殿ののちに江戸城下、芝の藩邸に入っています。 その後、安政3年(1856)に近衛家の養女となり、名を敬子(すみこ)と改め、同安政3年(1856)に徳川13代将軍家定(いえさだ)公の正室として輿入れしました。 この輿入れの際に、篤姫は斉彬より14代将軍に一橋慶喜を推すようにとの密命をうけていましたが、家定公は心身が虚弱で、入輿からわずか2年後の安政5年(1858)に逝去され、14代将軍には紀州の慶福(よしとみ〔のちの家茂公〕)が就任しています。(落飾し、天璋院とごうする。) また同安政5年(1858)、養父斉彬が逝去され、篤姫はその密命を果たせぬまま、夫と養父を相次いで亡くしました。 しかし、落胆の中でありながら、篤姫は若き将軍の補佐によく勤め、また大奥をまとめる為にも尽力しました。 公武合体のため、家茂公のもとへ降嫁した和宮(かずのみや)とは当初は対立していましたが、のちに心を通わす仲となり、その後敵対してしまった実家(薩摩)に対し、徳川家の存続を歎願するなど江戸城無血開城にも大きく貢献をしています。 明治になると、わずか6歳で徳川家を継いだ16代家達(いえさと)公の養育に余生を捧げ、明治16年11月に48歳で亡くなるまで、徳川家の為にその生涯を捧げました。 なお、墓所は5代綱吉公霊廟内、家定公の墓所の隣にあり、宝塔の脇には好物であったとされる枇杷(びわ)の木が植えられています。 平成20年(2008) 寛永寺教化部 PR |
町名
サイト内検索
アクセス解析
プロフィール
HN:
永山
性別:
男性
|