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東京都台東区の歴史
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所在地 台東区浅草橋1-1先

  神田川にかかる浅草橋は、江戸三十六門の一つ浅草御門で見付門といわれ寛永13年(1636年)にできました。

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所在地 台東区雷門1-15-12

 ふるさとの 月のつゆけさ 仰ぎけり

 久保田万太郎は明治22年(1887年)11月7日此地に生まれ 市立浅草尋常小学校へ入学 府立三中に学び大正3年(1914年)慶應義塾大学文科を卒業し 10月移転する迄の26年間在住した
 昭和38年(1963年)5月6日永眠するまでの明治 大正 昭和の三代に亘り 常に下町の義理と人情を描写した小説 戯曲の作品多く 其他文学 演劇界に多大の功績を残した作家であった 此の生誕の地に有志相はかり句碑を建立して永遠に久保田文学を讃えたい
  昭和52年(1977年)8月吉日 建立

題字:内山栄一台東区長
句:「九月二十六日、十五夜、たま々浅草にあり」として昭和二十五年作、二十七年『冬三日月』に収録されて居る句を碑に刻す

所在地 台東区浅草1-3 (浅草寺) 

   雷門(風雷神門)
 天慶5年(942)、平公雅によって創建されたのが始まり。
 門の正面向かって右に「風神」、左に「雷神」を祀る。このことから「雷門(風雷神門)」と呼ばれる。ともに鬼面蓬髪、風袋を担いで天空を駆ける風神と、虎の皮の褌を締め連鼓を打つ雷神の姿は、お馴染みのものである。また、門の裏側には、向かって右に「金龍」、左に「天龍」の龍神像が祀られ、これら四神は、浅草寺の護法善神として、伽藍守護・天下泰平・五穀豊穣の守り神とされる。
 現在の門は、慶応元年(1865)の浅草田原町の大火で炎上した門に替わり、昭和35年(1960)に松下幸之助氏のご寄進により修興された。
 浅草寺参詣の入口にあたる「総門」として、また、東京・浅草の顔として全国的に有名。
 金龍山  浅草寺

   Kaminarimon Gate
The Kaminarimon Gate ("thunder gate"),standing at the entrance to the processional road leading to Senso-ji,is Asakusa's most famous landmark.Inside the gate on either side are enormous wooden statues of the protective Buddhist deities Fujin(wind god) and Raijin(thunder god),from which the gate gets its name.The original gate was erected in 942 but burned down several timesover thr centuries.The one standingtoday was built in 1960,donated by Japanese entrepreneur KOnosuke Matsushita(1894-1989).

所在地 台東区西浅草1-5-5

浄土真宗 東本願寺派 
 本山 東本願寺


東本願寺境内には『銅鐘』があります。

         THE TOKYO HONGANJI
     The Headquarters of the Higashi HOnganji Sect
 Approximately 400 years ago the TOkyo Honganji temple was established in the city of Edo (modern Tokyo) under the patronage of Shogun Tokugawa Ieyasu by Kyonyo Shonin (1558-1614),the 12th successor descendant of Shinran Shonin (1173-1262),founder of Jodo Shinshu Buddhism.At this temple th 25th Supreme Primate Otani Kosho (Ko-nyo Shoni) Temple Master and Monzeki,has carried on Shinran Shonin's blood and Dharma succession to date.The Tokyo Honganji is at present the geadquarters of the Jodo Shinshu Higashi Honganji Sect with a following of some 400 temples.
 Historically,the city of Edo was constantlyravaged by fire and the Honganji was no exception.On several occasions when the city was destroyed,the temple was reduced to ashes.But every teime such a calamity occurred the storong religious devotion of Honganji followeres led to swift reconstructon.In more recent times the Knato earthquake of 1923,with its ensuing fires desttroyed the temple,but the principal image and major temple treasures were saved.In 1939 the present main hall was constructed,utilizing for the first time in Japan a concrete form of the traditional style of Buddhist temples.
 The principal image of the main hall,Amida Nyorai,was enshrined in 1609 and has miraculously survived the numerous calamities to date.It is not only an object of religious veneration,but is also regarded as an "Important Historical Property" of Tokyo Prefecture.
 The Asakusa columbarium,bearing a giant temple bell cast approximately in 1630 on its roof tower,is located within the temple gtounds.There is also the Otani Hall and Memorial Hall,which are both used for a variety of church activities as well as public lectures,and other research and ecucational activities.
 Under the leadership of the 25th Supreme Primate of the Higashi HOnganji,His  Eminence Kosho Ko-nyu Otani,the Tokyo Honganji preserves theorthodoxy of Shinran Shonin's teachings in the international city of Tokyo.The temple has become the living symbol of blood and Dharma succession in Jodo Shinshu Buddhism and works to propagate the spirit of Mahayana Buddhism towards all who seek spiritual salvation.The door to this living Buddhist temple is open towards all rasec,nationalities and peoples of the world.

所在地 台東区東上野3-29-8

台東区有形文化財 
 下谷神社拝殿雲竜図
     平成12年(2000年)指定

下谷神社
したやじんじゃ
 東京下町 八社福参り 円満和合

 天平2年(730年)、上野の忍ヶ岡(しのぶがおか)に創建されたと伝えられる。寛永4年(1627年)、寛永寺の建立のため山下(やました)に移された(現在の岩倉高校あたり)。しかし土地が狭く、延宝8年(1680年)に広徳寺前通り(現在の浅草通り)の南側に移る(現在地の近く)。その周囲には武家の屋敷や長屋が建ち並んでいた。
 本社は下谷の鎮守として広く信仰を集め、『下谷稲荷社』・『下谷惣社』などとよばれた。稲荷町という地名も、本社に由来する。江戸時代には開帳・人形芝居などがおこなわれ、祭礼の時には盛大な行列がみられた。
 『下谷神社』と改称したのは明治5年(1872年)である。関東大震災の後、昭和3年(1928年)の区画整理により、東南に50mほどの現在地に移る。新築された拝殿には、池之端に住んでいた日本画の巨匠、横山大観により雲竜図の天井画が描かれた(平成12年、台東区有形文化財)。
  平成16年(2004年)3月 台東区教育委員会

所在地 台東区上野公園1-29 (上野恩賜公園 寛永寺

国指定重要文化財
 東比叡山 寛永寺 清水観音堂


 清水観音堂(きよみずかんのんどう)は、寛永寺を開創した天海が京都の清水寺を模して寛永8年(1631年)に創建した。当初、現在地より100m余り北方の擂鉢山(すりばちやま)上にあったが、元禄7年(1694年)この地へ移築し、現在に至っている。堂宇は、桁行五間、梁間四間、単層入母屋造り、本瓦葺。とくに不忍池に臨む正面の舞台造りは、江戸時代より浮世絵に描かれるなど、著名な景観である。
 近年老朽化が目立ち、平成2年(1990年)より全面的な解体・修復工事を実施、平成8年(1996年)5月に完成した。この間、移築年代を元禄9年(1696年)とする定説をくつがえす、元禄7年(1694年)の棟札が発見されるなど、さまざまな事実が明らかとなっている。
 本尊は千手観音座像で京都清水寺より奉安したもの。秘仏で平常は厨子内に安置するが、毎年2月初午の日にのみ開扉され、多くの参詣者が訪れる。
   平成10年(1998年)3月 台東区教育委員会

所在地 台東区上野公園 (上野恩賜公園)

  一めんお花は基盤の

      上野山 黒門前に

          かかるしら雲      蜀山人

 碑面には、大書してこの歌を刻む。ついで、蜀山人についての説明、碑建設のいきさつを、細字で刻んでいる。歌の文字は蜀山人の自筆であるという。
 蜀山人は姓を大田、名を蕈、通称を直次郎といった。蜀山人はその号である。南畝(なんば)・四方赤良(よものあから)など、別号多く、一般には大田南畝と呼ぶ。幕臣であったが、狂文・狂歌を良くし、漢学・国学を学んで博識であった。江戸文人の典型といわれ、狂歌の分野では唐衣橘洲(からごろもきっしゅう)・朱楽管江(あけらかんこう)とともに、三大家と評された。文政6年(1823年)没。
 江戸時代、上野は桜の名所であった。昭和13年(2001年)、寛永寺総門の黒門跡に、その桜と黒門を詠み込む蜀山人の歌一首を刻み、碑が建てられた。郷土色豊かな建碑といっていい。
 平成4年(1992年)11月 台東区教育委員会

所在地 台東区上野公園1-29 (上野恩賜公園 寛永寺 清水観音堂

 清水観音堂に安置されている子育観音は子宝に恵まれない人々が信仰すると願いが叶うと言い伝えられています。そして子供が授かると丈夫に育つようにと人形を奉納します。その奉納された人形と家庭で飾ってよごれたり、子供と遊んでこわれたりした人形を秋の彼岸の終り(毎年9月25日)にここに集めて供養する行事(読経のうえ茶毘に付します)がある。

 それらの人形を回向し供養するためにこの碑が建てられたのです。
   清水観音堂

所在地 台東区上野公園1 (上野恩賜公園)

  西郷隆盛と銅像の由来

 西郷隆盛は文政10年(1827年)12月7日薩摩藩士として鹿児島治屋町に生まれた。通称吉之助、南州はその号である。若くして薩摩藩主島津斉彬に重用され、幕末内外多難の際、大いに国事に奔走したが、これに関連して奄美大島に流されること2回。元治元年(1864年)許されて京都に上るや、朝廷の意を重んじて一旦は長州を敵としたが、後、木戸孝允と謀って薩長連合を結成し、慶応3年(1867年)12月ついに王政復古の大業を成就、その後も官軍の参謀として、大功を樹て、明治維新の基礎を確立した。 その間、高橋泥舟勝海舟山岡鉄舟等の請を容れて江戸城の無血開城を実現、江戸を戦禍から救ったことはあまりにも有名である。その後は、故郷に隠遁したが、明治4年(1871年)正月、三条実美以下新政府首脳の懇請を受けて上京、参議に就任し、廃藩置県その他近代国家建設のための主導的役割を果たした。然るに、明治6年(1873年)6月いわゆる征韓論が閣議に上るや断乎反対して、大使派遣による平和的修交を主張し、その決定を見るに至ったが、後欧米出張から帰国し、内治優先論を固執する岩倉具視、大久保利通等の反対に敗れて辞官帰郷。私学校を興して後進青年の育成に努めた。明治10年(1877年)2月当局者の謀に激した私学校生徒に擁せられて西南の役となり、転戦七ヵ月余、ついに敗れて城山に自刃した。9月24日、享年51才。そのため一時逆賊とされたが、明治22年(1889年)2月、明治天皇の特旨により賊名を除かれ、正三位を追贈された。この銅像はこれに感激した隆盛の旧友、吉井友美が同志と共に追慕の情を表すべく建立を計画したものであり、御下賜金のほか有志25,000人の醵金を得て、明治26年(1893年)起工、明治30年(1897年)竣工、我が国彫刻界の巨匠高村光雲の作である。西郷隆盛の偉大な功業は、その信条たる敬天愛人の精神に発した仁愛と至誠没我の所産であり、日本の代表的偉人として今なお、敬慕される所以は実にここにあるのである。

所在地 台東区上野公園 (上野恩賜公園)
 

台東区有形文化財
 彰義隊の墓
     平成2年(1990年)登録

 江戸幕府15代将軍徳川慶喜(よしのぶ)は大政奉還の後、鳥羽伏見の戦いに敗れて江戸へ戻った。東征軍(官軍)や公家の間では、徳川家の処分が議論されたが、慶喜の一橋家時代の側近家来であった小川興郷(おきさと)達は、大政奉還をして上野寛永寺に蟄居(ちっきょ)した慶喜の助命を求め、慶応4年(1868年)2月に同盟を結成、のちに彰義隊と称し、慶喜の水戸退隠後も徳川家霊廟の警護などを目的として上野山(東叡山寛永寺)にたてこもった。彰義隊には徳川政権を支持する各藩士をはじめ、新政府への不満武士、変革期に世に出ようとする人々で構成されていた。
 慶応4年(1868年)5月15日朝、大村益次郎指揮の東征軍は上野を総攻撃、彰義隊は同夕刻敗走した。いわゆる上野戦争である。彰義隊士の遺体は上野山内に放置されたが、南千住円通寺の住職仏磨らによって当地で荼毘に付された。
 正面の小墓石は、明治2年(1869年)寛永寺子院の寒松院と護国院の住職が密かに付近の地中に埋納したものだが、後に掘り出された。生き残った小川興郷(椙太)ら元彰義隊士は、明治7年(1874年)にようやく新政府の許可を得て、激戦地であり彰義隊隊士の遺体の火葬場となった当地に彰義隊戦死の墓を建立した。大墓石は、明治14年(1881年)12月に小川興郷(椙太)らによって造立。彰義隊は明治政府にとって賊軍であるため、政府をはばかって彰義隊の文字はないが、旧幕臣山岡鉄舟の筆になる「戦死之墓」の字を大きく刻む。
 なお、遺骨の一部は南千住円通寺内に合葬されている。以後、120年余りに渡り、小川一族によって墓所が守られてきた。現在、歴史的記念碑としてその管理は東京都に移されている。
 平成2年(1990年)に台東区有形文化財として区民文化財台帳に登載された。
  平成8年(1996年) 台東区教育委員会

所在地 台東区上野公園

総面積  約53万m²
管轄     東京都建設局

 上野恩賜公園(うえのおんしこうえん)は通称「上野公園」・「上野の山」と呼ばれる。
 江戸時代初期、この地は津軽、藤堂、堀家の屋敷であったが、江戸幕府 三代将軍 徳川家光が江戸の鬼門を封じるために、天海僧正に命じてこの地に寛永寺を建てた。寛永2年(1625)のことである。寛永寺建立が上野恩賜公園の始まりである。その後大きな変化もなく幕末を迎えるが慶応4年(1868)の彰義隊と官軍の戦争により寛永寺が焼失、一面焼け野原と化した。荒れ果てた姿のままであったが明治6年(1873)1月の大政官布告により公園に指定されたことから公園地となった。
 恩賜公園のいわれは、大正13年(1924)に帝室御料地だったものを東京市へ下賜されたことにちなんでいる。その後規模・景観はもとより施設など我が国有数の都市型公園として整備された。面積62万㎡余り。
 上野公園生みの親がオランダ人医師のボードワン博士。病院建設予定地であった上野の山を見て、その景観のよさから公園にすべきであることを政府に進言し実現したものである。
  東京都台東区

 


 公園内には『西郷隆盛像』、『彰義隊の墓』、『蜀山人の碑』、『清水観音堂」、「人形供養碑清水観音堂)』、『ボードワン博士像(上野公園生みの親)』、『国立西洋美術館』、『野口英世銅像』、『グラント将軍植樹碑』、『谷文晁碑』、『小松宮彰仁親王銅像』、『書寫名號塔』、『上野の森美術館』、『東京都美術館』、『東京芸大付属美術館』、『東京国立博物館』、『国立科学博物館、『上野動物園』、『台東区下町風俗資料館』、『黒田記念館』、『横山大観記念館』、『東京芸術大学』、『国立国会図書館』、『国際子ども図書館』、『小泉八雲記念碑国際子ども図書館)』、寛永寺(上野公園発祥)』、『大仏パゴダ』、『旧東京音楽学校奏楽堂』、『徳川家霊廟(5代将軍 徳川綱吉公墓所・8代将軍 徳川吉宗公墓所・13代将軍 徳川家定公墓所・篤姫墓所 4代将軍 徳川家綱公墓所・10代将軍 徳川家治公墓所・11代将軍 徳川家斉公墓所』、『両大師』、『旧因州池田屋敷表門(黒門)』、『五條天神社・花園稲荷神社』、『稲荷坂五條天神社・花園稲荷神社)』、『龍門橋跡碑』、『殉死者の墓(現龍院墓地)』、『森鴎外旧居跡』、『京成博物館』、『博物館動物園駅跡』、『東京文化会館』、『安井誠一郎胸像』、『学士会館』、『日本芸術院会館』、『忍ヶ丘』、『不忍池』、『正岡子規句碑』、『護国院』、『護国院庫裏』、『摺鉢山』、『忍坂』、『博士王仁碑』、『天海僧正毛髪塔』、『上野駅東西自由通路建設地点の遺跡(パンダ橋)』、『駅伝の碑』、『西條八十 顕彰碑』、『D51型蒸気機関車』、『寛永寺旧本坊表門』、『駅伝の碑』、

弁天島(弁天堂)』 弁天島には『不忍池由来碑』、『包丁塚』、『大黒天堂』、『聖天宮』、『地蔵尊』、『長谷川利行碑』、『長谷川利行歌碑』、『扇塚』、『虚中軒先生之碑』、『鳥塚』、『中根半僊碑』、『スッポン感謝塔』、『役行者像』、『魚塚』、『高久靄崖碑』、『めがね之碑』、『ふぐ供養碑』、『鶏図碑』、『いと塚』、『蓮花碑』、『般若心経碑』、『八橋検校顕彰碑』、『弁財天』、『真友碑』、『東京自動車三十年記念碑』、『長唄碑』、『芭蕉碑』、『暦塚』、『清水浜臣歌碑』、『蓮碑』があります。

上野東照宮』 上野東照宮域内には『銅燈籠』、『大石鳥居』、『唐門』、『お化け燈籠』、広島・長崎の火』があります。

所在地 台東区台東4-21-23

御祭神   火之迦具土(ほのかぐつち) 

 正一位 秋葉山 中宮 秋葉神社の御祭神は、火之迦具土命と申上げ火除けの守り神で御神徳は特に火の幸を恵み、悪火を鎮め、火防開運の神並びに火災消除、家内安全、厄除開運、商売繁盛、の霊験新たかにして全国より信仰されている。
 町内に
鎮座まします秋葉神社は28万石を有する東北地方屈指の大名で秋田藩12代藩主佐竹右京太夫義尭公、上屋敷の守護神にてこの地にあった広大な屋敷跡である明治維新の大変動期に秋田藩も財政難となり国に上屋敷を上納その時に新政府によりこの地の住居表示が決まり、竹町12番地1号地より24号地迄と制定され現在もその儘使用されている佐竹町会の号地区分はその時出来たものである、秋葉神社は明治22年(1989年)4月秋葉ヶ原より勧請遷座し昭和5年(1930年)4月町会先人有志の方々により現在地に社殿を造営したもので当町会では火伏せの神として崇め毎年11月第2日曜日に大祭を行なっている、世に名高い『秋葉の火祭り』は本宮秋葉神社で毎年12月15、16、の両日盛大に行われ火災消除の大祈祷が古式豊かに荘厳の内に執り行われている。

  平成10年(1998年)11月祥日 佐竹町会

所在地 台東区浅草6-42

御祭神  保食命(うけもちのみこと)
御社殿  神明造
御創建  永禄年間(1558~1570)

 当社は永禄年中山谷村百姓一同にて郷中鎮守と奉斉す有り御祭神は生活の基をなす食を司どる神として御神威を発揚され約四百数十年御民の尊崇を集めている。

所在地 台東区竜泉3-18-4

台東区立 一葉記念館

TEL:03-3873-0004

ホームページ http//www.taitocity.net/taito/ichiyo

<交通>  

地下鉄日比谷線三ノ輪駅下車 徒歩10分

都バス  日暮里~錦糸町間 竜泉下車 徒歩3分
      めぐりん 一葉記念館入口下車 徒歩2分

主催  (財)台東区芸術文化財団

協賛  一葉際協賛実行委員会
            下谷観光連盟協力

     ボーイスカウト台東第一団

 

 

所在地 台東区竜泉3-19 (一葉記念公園)

 近代文学不朽の名作『たけくらべ』は樋口一葉在住当時の竜泉寺町を中心に吉原界隈が舞台となった。
 これを記念して昭和26年(1951年)11月、地元一葉記念公園協賛会によって建てら、その後台東区に移管された。
 碑文は女史の旧友歌人佐佐木信綱博士作並びに書による次の歌二首が刻まれている。

 紫の古りし光にたくへつべし

 君ここに住みてそめし 筆のあや

一葉女史たけくらべ記念碑

  『 そのかみの 美登利信如らも この園に

              来あそぶらむか 月しろき夜を 』

                              佐佐木信綱

 

所在地 台東区竜泉3-19 (一葉記念公園)

 ここは明治文壇の天才 樋口一葉舊居の跡なり。一葉この地に住みて『たけくらべ』を書く。明治時代の龍泉寺町の面影永く偲ぶべし。今町民一葉を慕ひて碑を建つ。一葉の霊欣びて必ずや来り留まらん。

 菊池寛右の如く文を撰してここに碑を建てたるは、昭和11年(1936年)7月のことなりき。その後軍人国を誤りて太平洋戦争を起し、我国土を空襲の惨に晒す。昭和20年(1945年)3月、この邊一帯も焼野ヶ原となり、碑も共に溶く。

 有志一葉のために悲しみ再び碑を建つ。愛せらるる事かくの如き、作家としての面目これに過ぎたるはなからむ。唯悲しいかな、菊池寛今は亡く、文章を次ぐに由なし。僕代って蕪辞を列ね、その後の事を記す。嗚呼。

                             菊池寛 撰

          昭和24年(1949年)3月  小島政次郎補書

 

                             森田春鶴 刻

所在地 台東区浅草橋3丁目

 この地点から西側、通りを一本隔てた区画(浅草橋3丁目21・22・23・24番地の全域及び19・25・26番地の一部)には、江戸時代後期に、幕府の天文・暦術・測量・地誌編纂・洋書翻訳などを行う施設として、天文台がおかれていた。
 天文台は、司天台(してんだい)、浅草天文台などと呼ばれ、天明2年(1782年)、牛込藁店(わらだな)(現、新宿区袋町)から移転、新築された。正式の名を「頒暦所御用屋敷」という。その名の通り、本来は暦を作る役所「天文方(てんもんがな)」の施設であり、正確な暦を作るためには観測を行う天文台が必要であった。
 その規模は、『司天台の記』という史料によると、周囲約93.6m、高さ約9.3mの築山の上に、約5.5m四方の天文台が築かれ、43段の石段があった。また、別の資料『寛政暦書』では、石段は二箇所に設けられ、各50段あり、築山の高さは9mだったという。
 幕末に活躍した浮世絵師、葛飾北斎の『富嶽百景』の内、「鳥越の不二」には、背景に富士山を、手前に天体の位置を測定する器具「渾天儀(こんてんぎ)」を据えた浅草天文台が描かれている。
 ここ浅草の天文台は、天文方高橋至時らが寛政の改暦に際して、観測した場所であり、至時の弟子には、伊能忠敬(いのうただたか)がいる。忠敬は、全国の測量を開始する以前に、深川の自宅からこの天文台までの方位と距離を測り、緯度一分の長さを求めようとした。また、至時の死後、父の跡を継いだ影保(かげやす)の進言により、文化8年(1811年)、天文方内に「蕃書和解御用(ばんしょわげごよう)」という外国語の翻訳局が設置された。これは後に、洋学書、藩書調所、洋書調所、開成所、開成学校、大学南校と変遷を経て、現在の東京大学へ移っていった機関である。
 天文台は、天保13年(1842年)、九段坂上(現、千代田区九段北)にも建てられたが、両方とも、明治2年(1869年)に新政府によって廃止された。
   平成11年(1999年) 台東区教育委員会

 所在地 台東区浅草2-3-1  (浅草寺)

 大正8年(1919年) 江戸歌舞伎ゆかりの地 浅草の浅草寺境内に 劇聖と謳われた明治の名優九代目市川團十郎の歌舞伎十八番「暫」の銅像が作られました この銅像は 近代彫刻の先駆者 新海竹太郎氏の傑作であり 歌舞伎の象徴として全國の人々から親しまれておりました ところが第二次世界大戦中の昭和19年(1944年)11月30日金属回収のため この「暫」の銅像も供出の命を受け 40余年を経てまいりました



 この度 12代市川團十郎襲名を機に 復元の機運が高まり浅草寺の御理解のもと 多くの方々に御尽力を賜り ここに「暫」の銅像が再現されました 11代目並びに12代市川團十郎父子 地元浅草及び松竹株式会社三者の永年の願いが叶えられたことになります
 こののちも 歌舞伎の隆盛とともに この「暫」の銅像が歌舞伎の象徴として 日本國民はもとより世界の人々からも 幾久しく愛されますことを願ってやみません
  
昭和61年(1986年)11月3日
             宇野信夫 撰書 

九代目市川團十郎「暫」銅像 復元建設委員会
   12代市川團十郎
   浅草観光連盟
   松竹株式会社

所在地 台東区浅草2-3-1 (浅草寺)

台東区有形文化財
山東京伝机塚(さんとうきょうでんつくえづか)
の碑

 山東京伝(1761~1816)は、浅草や吉原を題材とする戯作を多く著わし、北尾誠演の画号で浮世絵もよくした人物。
 この碑は,京伝の弟京山が文化14年(1817)に亡兄を偲んで建立。表面には晩年の京伝撰「書案之紀」を刻む。書案とは机のことで「九歳の時に寺子屋に入った際、親の買ってくれた机を生涯愛用し、この机で百部を越える戯作を書いた。しかし50年近くも使ったので、ゆがみ、老い込んださまは哀れである」という意味の文と、

 耳もそこね あし(足)もくしけて もろともに
       世にふる机 なれも老いたり

の歌が記されている。また、裏面には、京伝と親交のあった戯作者太田南畝(おおたなんぽ)の撰による京伝の経歴を刻む。
 京伝の生涯や人間性を伝える貴重な資料で、平成2年(1990)に台東区有形文化財として搭載。
  平成6年(1994)3月 台東区教育委員会

所在地 台東区浅草橋2-29-16

 

御祭神  素盞嗚尊(すさのおのみこと)

 須賀神社は江戸時代には牛頭天王社、蔵前天皇社、祇園社とも呼ばれておりましたが、笹団子天王社とも呼ばれておりました。
 御縁起書によりますと、昔この辺りの農家の娘が12歳になった夏、大変暑く、疫病が大流行して、その娘も病にかかってしまいました。両親は何とかして病を治そうと、この天王様に願をかけ、21日を経て、病が全快しました。
 両親は大変喜び、早速笹に娘の年の数と、1年の月の数を合わせた数だけ、団子を刺して、御礼のしるしにと6月8日例大祭の日に天王様のご神前にお供えしました。
 それ以来、心願成就とくに病気平癒のお参りが大変多くなりました。

所在地 台東区浅草2-3-1 (浅草寺)

 
昭和39年(1964)に再建されたこのお堂には、石造の「六地蔵尊」が安置されており、その下に「寛永通宝」が埋められているといわれることから「銭塚」の名がある。
 江戸時代、摂州有馬郡に山口なる者がおり、その妻がある日、庭先で寛永通宝が沢山入った壺を掘り当てた。だがこれに頼って働かずにいては、家は滅びてしまうと考え、誰にもいわず再び土中に埋め戻した。この心掛けによって一家は繁栄したので、この壺の上に地蔵尊を祀ったという。
 お堂のご本尊は、そのご分身を勧請したもので、商売繁昌のご利益があるといわれる。
 毎月「四の日」と正・五・九の各月二十四日に法要が営まれ、参拝者は塩と線香とローソクをお供えする。特に塩をお供えするので「塩なめ地蔵」の名もある。
 金龍山 浅草寺

      Zeniduka Jizoudou Hall
 Stone sculptures of "Roku-Jizou" are enshrined in this temple reconstructed in 1964.The coins of the Edo period called "Kanei-Tsuhou" are buried in the ground of this temple.We call this temple "Zeniduka-Jizou" after the coins.
 In those days,there was a man who named Yamaguchi.One day,his wife dug up a crock filled with coins "Kanei-Tsuhou" in the yard of their house.She thought that if they had relied on the money and had not worked,their family would have declined.So she reburied it.As a result,the family became prosperous and they enshrined "Jizou" above the underground coins.Therefore we call this area "Zeniduka",that is "Coin Mound" and people say this "Jizou" gives fortune to believers.

所在地 台東区浅草2-3-1 (浅草寺)

翁ハ明治十四季富山縣ニ生ル牡ニシテ上京大谷製鋼所ヲ創立シ社運隆々今日ノ大ヲナス夙ニ大慈ニ歸依シ浅草寺信徒總代トナリさと子夫人ト共ニ宝藏門ノ寄進ノ外伽籃ノ復興ニ盡力シ衆庶ノ信仰ヲ莊嚴ス其ノ功徳永ク金龍ト倶ニ輝カン

  昭和四十二年十月一日

 所在地 台東区浅草2-3-1 (浅草寺)

  被官稲荷神社(ひかんいなりじんじゃ)
 
安政元年(1854)、新門辰五郎(しんもんたつごろう)の妻女が重病で床に伏したとき、山城国(現、京都府南部)の伏見稲荷社に祈願した。その効果があって病気全快、安政2年(1855)、お礼の意味を込め、伏見から祭神を当地に勧請(かんじょう)し、小社を創建して被官稲荷社と名付けた。名称の由来は不詳だが、被官は「出世」と解せば良いという。
 辰五郎は上野寛永寺住職輪王寺宮の家来、町田仁右衛門の養子。本姓は町田であった。輪王寺宮舜仁法親王が浅草寺 伝法院に隠居し、上野へ行くのに便の良い新門を造った。その門の番を命じられたので、新門辰五郎と呼ばれた。辰五郎は町火消十番組の組頭としても、多彩な活躍をした。
 社殿は一間社流造(いっけんしゃながれづくり)、杉皮葺、創建以来のもの。間口約1.5m、奥行約1.4mと小さいが、覆屋(おおいや)を構えて保護している。覆屋は大正期の建築であろう。社前には、「安政二年九月立之 新門辰五郎」と刻む鳥居ほかがある。
  平成4年(1992)11月 台東区教育委員会

所在地 台東区浅草橋5-20-5

教会堂名  聖パウロ

創立  明治10年(1877)12月25日

所在地 台東区台東4-13 (御徒町公園)

  < 碑 文 >

オペラの名手をして大正期

 天下の子女の血をわかせたる

  熱と義と愛の人     

              藤村梧郎

 

 一九五五・一・一八ここに昇天す

即ちこの処より平和の

歌声高らかにあがるしるし

人間の  愛  愛  愛 

 

 藤村梧郎は大正時代、浅草オペラの歌手として活躍した。

 昭和30年(1955)1月18日22:30、台東区御徒町2-30先の昭和通り軌道上で寝ていた藤村梧郎(57)が、北千住行きの都電に轢かれて死去。藤村梧郎は酔って寝ており、都電は急ブレーキをかけたが間に合わなかったという。



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