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東京都台東区の歴史
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所在地 台東区松が谷1-12 (松葉公園)

 ラジオ体操は、昭和3年(1928)天皇陛下ご即位を記念し国民の健康増進を目的として郵政省(当時逓信省)簡易保険局が制定し、日本放送協会の電波にのせて全国に放送してから50年国民の愛好するところとなり体力づくりに大きな役割を果しつつあったが、第二次世界大戦の影響を受け昭和22年(1947)8月31日で放送も一時中断の止むなきに至った。その後、戦後の復興とともに、昭和26年(1951)5月6日、3年8ヶ月ぶりにラジオ体操の放送が再開され、昭和27年(1952)6月28日中継放送再開の第一声が、ここ松葉公園から全国に放送された。これを機として台東区ラジオ体操連盟が発足し、次いで東京都ラジオ体操会連盟及び全国ラジオ体操連盟と発展し今や全国に2千万人を突破する今日の隆盛を見るに至った。ここにラジオ体操制定50年と中継放送再開発祥の地を記念して永く後世に伝える。
 昭和52年(1978)6月25日 東京都台東区



所在地 台東区松が谷2-1-2 (正定寺)

 長八は鏝絵を描き、『異本日本絵類考』に、「最古の技に長ぜり」「柱等に種々にカイガを泥装するをもて、専門の業となし、又花瓶額面等に、花卉鳥獣の形を塗る、世人以て絶妙の技となす」と評された人物。鏝絵とは漆喰を塗った上に、鏝で絵を描き出したもので、石灰絵ともいう。
 文化12年(1815)8月5日、伊豆国松崎で誕生した。俗に伊豆長八と呼ばれ、世に知られた。天保元年(1830)に江戸へ出て、左官棟梁源太郎の弟子となった。修行のかたわら、狩野派の画法を学び、乾道と号した。また晩年には仏教学も学んで天佑と号したという。明治3年(1870)に苗字の名乗りが許されると、最初上田と名乗り、後に入江と改姓した。 



 明治22年(1889)10月8日に78歳で、深川に没すると、遺骨は正定寺に埋葬され、同時に松崎の浄感寺にも分骨された。正定寺の墓石には、「入江家先祖の墓」と刻まれ、台石には「深川播磨屋」と養家の家号が刻まれている。
 平成15年(2003)3月 台東区教育委員会



所在地 台東区松が谷2-1-2 (正定寺)

 虎之助は直心影流島田派の剣客。文化11年(1814)に豊前国中津(現大分県中津市)藩士、島田市郎右衛門親房の子として生まれた。10歳頃から、中津半剣術師範堀十郎左衛門の道場で学んだ。上達が早く数年後には、半内で相手になる者はいなかったという。16歳の春および翌年には九州一円を武者修行し名声をあげた。
 天保9年(1838)に江戸へ出て、男谷精一郎の内弟子となった。1年余で、師範免許を受け、男谷道場の師範代を勤める。天保14年(1843)、東北方面に武者修行の後、浅草新堀で道場を開く。その道場には、勝麟太郎(のちの)も通った。



 虎之助は男谷に次ぐ幕末の剣豪といわれたが、嘉永五年(1852)9月16日に39歳で病没。墓碑には、「余、哀歎ほとんど一臂を失うごとし」と男谷精一郎の銘文が刻まれている。
 平成15年(2003)3月 台東区教育委員会




所在地 台東区松が谷2-3-3 (聖徳寺)

 庄右衛門・清右衛門の兄弟は、玉川上水開削工事の請負者で、江戸の町人と言われているがその出身地は明らかではない。玉川上水の開削工事は、4代将軍家綱の承応2年(1653)1月13日に幕命が下り、2月11日に着工された。工事費として幕府から7500両が下賜されたという。

 

 羽村から四谷大木戸に至る43キロの導水部は、承応3年(1654)6月20日に完成した。其の後給水地域は順次拡大され、江戸城内をはじめ四谷・麹町・赤坂の高台などの山の手から、芝・京橋方面に及んでいる。現存する玉川上水は、江戸時代初期の土木技術の水準を今日に伝える貴重な文化財である。  

 

 近世都市江戸の水道施設建設の功績により、兄弟は200石の扶持を賜り、玉川上水役に任ぜられた。また玉川という名字を与えられ、帯刀も許された。兄の庄右衛門は元禄8年(1695)に、弟の清右衛門は翌年の元禄9年(1696)に死去した。明治44年(1911)政府は、玉川兄弟の功績に対して従五位を追贈した。
 平成3年(1991)10月31日 東京都教育委員会




 玉川氏兄弟墓碣復興記念碑
東京市水道玉川上水ノ創設者贈従五位玉川庄右衛門同玉川清右衛門兄弟両氏ハ距今二百八十餘年■元年幕府ノ命ヲ■ケテ水道開設ノ事ヲ督セル江戸町奉行神尾備前守ノ推挙ニ依リ江戸府中ニ上水導引ノ計晝ヲ命セラルルヤ全力ヲ盡シテ其ノ堪能ナル水理ヲ究明シ鋭意調査ノ結果武州羽村ヨリ多摩川ノ水ヲ取入レ江戸四谷大木戸迄導水スヘキ計ヲ樹テタリ幕府ハ大ニ之ヲ喜ヒ両氏ニ其ノ工事ヲ掌ラシメ翌二年四月四日水路■鑿ノ工ヲ起シ同年十一月十五日完成ス是レ即チ玉川上水路ナリ而シテ文化未タ進マサリシ當時ニ在リテハ測量器械ンカリシ為路線ノ位置高低等ハ線香ト提燈ノ火光ヲ利用シ専ら夜間ニ測定し又工事ハ高井戸村附近近ニ至リ工費ニ不足ヲ來シタルヲ以テ遂ニ家産ヲ投シテ之ヲ続行シタリト云フガ如キ其ノ献身的ノ努力ト犠牲的ノ苦心ハ蓋シ想像ノ及ハサル所ナルヘシ宣ナル哉幕府ハ深ク両氏ノ功ヲ賞シ各禄二百石ト玉川ノ姓ヲ賜ハリ上水役ヲ命シタリ 爾来多摩ノ清水ハ■々トシテ市中ニ脈流シ五郡八十四箇町村ヲ併合シテ大東京ノ殷賑ヲ見ルニ至リタル今日ニ於テモ尚大部分ノ地域ニ封シ給水能力ヲ発揮スル多摩川水系隨一ノ淵源トシテ依然活用セラレ帝都ノ繁栄ヲ養フテ其ノ惠千載ニ亡ヒス
畏クモ明治四十四年六月一日兄弟ノ勲功ヲ思召サレ特ニ従五位ヲ追贈セラル両氏ノ餘榮亦大ナリト賜フヘシ今茲玉川兄弟墓碑復興後援會ハ塋域ノ改築竝墓碣ノ復興成ルト共ニ墓側ニ記念碑ヲ建テ以て兄弟両氏の功績を不朽に傳ヘムトス寔ニ近代ノ美舉ナリ乃チ其ノ請ヲ諾シ略叙スルコト此ノ如シ
 昭和十二年丁丑春三月
   水道研究會理事長 井上秀二 題額
   水道研究會理事   大堀佐内 撰書



所在地 台東区松が谷3-3-3 (海禅寺)

 雲浜は名を始め義質、のち改めて定明といった。通称は源次郎。雲浜は号である。若狭国小浜(現、福井県)藩士、矢部岩十郎の二男として、文化12年(1815)6月7日生まれ、のち祖父の生家梅田氏を継いで改姓した。



 朱子学を修め、大津、京都で子弟を教える。嘉永5年(1852)、幕府を批判したため小浜藩を追放される。しかし藤田東湖・佐久間象山・高杉晋作らと交際し、尊皇攘夷論を唱え、梁川星巌とともに在京志士を指導した。その活動は常に幕政批判で、開国論者の大老井伊直弼排斥も企てたが、安政5年(1858)の「安政の大獄」で捕えられた。翌安政6年(1859)9月14日、小倉藩江戸邸の獄中で病没。遺体は海禅寺内の泊船軒に仮埋葬され、文久2年(1862)現存の墓石が建てられた。墓石は関東大震災で大破したが、正面に「勝倫斎俊巌義哲居士」と、戒名が刻まれている。
 平成7年(1995)3月 台東区教育委員会



    TOMB OF UMEDA UNPIN
 Born in 1815,Umeda was a clansman of the Obama Clan residing in Wakasa-no-kuni(now Fukui prefecture).
 He was later banished from the Obama Clan because he criticized the Shogunate Government,so but in association with Fujita Toko,Sakuma Shozan,and Takasugi Shinsaku,he pushed for advocating reverence for the Emperor and for the expulsion of foreigners.He guided supporters at Kyoto along with YanagawaSeigan.HIs activities always concentrated on criticizing the Shogunate Government,he plotted to depose Ii Naosuke,who was a Roju(member of the Shogun's Council of Elders) and an advocate for opening ports to foreign ships,Uemda was arrested in 1858 during the mass executions of the Ansei Era for his plotting.The next year,he died from illness shile in jail.



所在地 台東区松が谷3-7-2

曹洞宗
 巨嶽山 曹源寺

 
                                      かっぱのぎーちゃん

巨獄山曹源寺は曹洞宗に属し、天正16年(1588)に和田倉(千代田区)に開かれ、のち湯島天神下に移り、明暦の大火(1657)の後、現在地に移転したと伝える。当寺の通称を「かっぱ寺」という。

 

  伝承によると文化年間(1804~1817)に、当地の住人で雨合羽商の合羽川太郎(合羽屋喜八)という人物がいた。この付近は水はけの悪い低地で雨が降ると洪水となり、人々は困窮していた。そのため川太郎は私財を投じて排水のための堀割工事にとりかかった。このとき、かつて川太郎に助けられた隅田川の河童が工事を手伝い、堀割工事が完成した。この河童を目撃すると商売繁盛したという。
 この伝承が「かっぱ寺」という通称の由来であり、「合羽橋」(合羽橋交差点の付近にあった)という橋の名もまた、この伝承に由来するともいわれる。
 当寺には河童大名人が祭られるほか、合羽川太郎の墓とつたえる石碑があり、「てつへんへ手向けの水や川太郎」という句が刻まれている。
 平成15年(2003)3月 台東区教育委員会



 
            The Folklore of Kappa-dera Temple
 The common name of Sogenji TEmple is Kappa-dera.A Kappa is a mythical creature that is said to live in water.
 According to a legend,at the deginning of the 19th century there in the vicinity a raincoat maker named Kappa Kawataro.In Japanese the word for"raincoat"is also "kappa".This was once a basin with poor drainage,therefore rains would often dring floods causing undue trouble for the residents.Because of this,Kawataro began the construction of a series of drainage ditches with his own finances.The project was said to have been completed only with the assistance of the kappa living in the Sumida River whom had been helped by Kawataro in the past.It is said that those who actually witnessed the river kappa thrived in business.
 This legend is the origin of the name "Kappa-dera".Furthermore,the name of "Kappa bashi" (a bridge that once stood at the Kappa bashi intersection)is also said to come from this legend.At the temple they celebrate the Kappa Daimyojin and there is a stone monument that is said to be Kappa Kawataro's grabe.




所在地 台東区松が谷3-7

  台東区のへそ



ここが台東区のまん中
つまり「へそ」と言われている
          台東区



所在地 台東区松が谷3-10

秋葉神社御縁起
1、御祭神 火産霊大神(ホムスビノオオカミ) 火の神
       水波能売神(ミヅハノメノカミ)    水の神
       埴山比売神(ハニヤマヒメノカミ)   土の神
1、主祭日5月18日例大祭
       11月6日鎮火祭・火渡神事



1、御由緒
 明治初年東京府内に火災が頻発し市民の何渋せる状を御憂慮せられた英照皇太后(明治天皇御母)の思召を以て、明治天皇より太政官に御下命になり、宮城内紅葉山より鎮火三神を奉遷し東京府火災鎮護の神社として現今の秋葉原の地の創建せられたのが当社の始めである、明治21年(1888)鉄道駅設置のため境内地を払下げ現在地に御遷宮となる、秋葉原の駅名も当社名にその因を発する。
 台東区松が台3丁目鎮座 秋葉神社


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