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東京都台東区の歴史
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所在地 台東区下谷1-12-16 (真源寺)

 入谷鬼子母神は、日蓮上人の尊像とともにここ眞源寺内寺に祀られている。眞源寺は、万治2年(1659)日融上人により創建された。
 鬼子母神は、鬼神般闍迦の妻で、インド仏教上の女神のひとりである。性質凶暴で、子どもを奪い取っては食べてしまう悪神であった。釈迦は雉も陣の末子を隠し、子を失う悲しみを実感させ、改心させたという。以後、「小児の神」として児女を守る善神となり、安産・子育の守護神として信仰されるようになった。
 入谷鬼子母神では、子育の善神になったという由来からツノのない「■(ツノのない鬼)」の字を使っている。
 また、7月上旬、境内および門前の道路沿いは「朝顔市」で賑わう。入谷名物となったのは明治に入ってからで、十数軒の植木屋が朝顔を造り鑑賞させたのがはじまりといわれている。当時この地は、入りや田圃といわれ、朝顔や蓮の栽培に適していた。
 大正初期、市街化により朝顔市は途絶えたが、昭和25年(1950)復活。以後、下町情緒豊かな書家の行事として親しまれている。
 平成6年(1994)3月  台東区教育委員会

              IRIYA   KISHIMOJIN
 KIshimojin,a goddess of children,is one of the goddesses in Indian Buddhism. She was atrocious and was an evil goddess snatching children and eating them. According to a legend,Gautama Buddha hid the youngest son of this koddess and had her mend her ways by making her experience the sorrow of losing a child. Subsequently,shi became a good goddess protecting children and women and came to be worshipped an the guardian of child-birth and child-growing.
 In early July,the precincts of the temple are crowded with people coming to see"the Morning-Glory Market." The morning-glory was introduced from China as a kind of medicinal herb in the Heian era.It was the Meiji era when this market became the famous event at Iriya,and its origin is said to be the desplay of potted morning-glories at a near-by temple.  
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所在地 台東区下谷1-12-16 (真源寺)

  下谷七福神
    福禄寿
                  入谷鬼子母神 眞源寺



所在地 台東区下谷2-13-14

小野照崎神社
 
東京下町 八社福参り 学問芸能

 小野照崎神社の祭神は、平安初期の漢学者・歌人として著名な小野篁である。創祀の年代は不明だが、次のような伝承がある。篁は上野国司の人気を終え、帰洛の途についた際、上野照崎(忍岡、現在の上の公園付近)の風光を賞した。仁寿2年(852)篁が亡くなったとき、その風光を楽しんだ地に彼の霊を奉祀るした。その後、江戸時代をむかえ、寛永2年(1625)忍岡に東叡山寛永寺を創建するにあたり、当社を移転することとなり、坂本村の長左衛門稲荷社が鎮座していた現在地に遷した、というものである。また、一説には、忍岡から孔子聖廟昌平橋に移った元禄4年(1691)頃に遷座したのではないかともいう。



 現在の社殿は慶応2年(1866)の建築で、関東大震災や東京大空襲などを免れた。また、境内には、富士浅間神社・御嶽神社・三峰神社・琴平神社・稲荷神社・織姫神社、さらには庚申塔が現存する。


                                                                      御嶽神社・三峰神社

 例大祭は5月19日で、3年に1度、本社の神輿渡御が行われる。
 平成11年(1999)3月  台東区教育委員会


                                                                       稲荷神社・織姫神社

                 ONOTERUSAKI SHRINE
 The Ono Terusaki Shrine is dedicated to Ono-no-Takamura who was a schorar of Chinese classies in the carly years of the Heian Era.
 This shrine,which is lacated at Shinobugaoka,near Ueno Park(formerly knoun as UenoTerusaki),was of ten visited by Ono-no-Takamura.He felt at Peace here,and appreciated the landscape.He visited to come here unitil his death in 852.Afterwards in 1625,when the KaneijiTemple in Ueno was founded,the shrine was relocated tothepresent site.The current building was established in 1866 at the end of the Edo Era.It survived the Great Earthquake of 1923 and escaped destruction duringathe Second World War.
 Also in this shrine,there,is aminiature of Mt.Fuji,which was designated as an important tangible folk cultural asset.On July 1 of every year."Climbing"of the miniature Fuji takes place. 


                                                                                         庚申塔


所在地 台東区下谷2-13-14 (小野照崎神社)

 この塚は模造の富士山で、文政11年(1828)の築造と考えられている。『武江年表』同年の項に、『下谷小野照崎の社地へ、石を畳みて富士山を築く』とある。境内の”富士山建設之誌碑”によると、坂本の住人で東講先達の山本善光が、入谷の住人で東講講元の大坂屋甚助と協議して築造し、富士山浅間神社の祭神を勧請したという。
 東講は富士山信仰の集団、いわゆる富士講の一。富士山信仰は宝町末期頃に起り、井戸時代中期には非常に盛んになり、江戸をはじめとして富士講があちこちで結成された。それにともない、模造富士も多数築かれ、江戸とその均衡の富士塚は五十有余を数えるに至った。しかし、いまに伝わる塚は少ない。
 ここの富士塚は高さ約5メートル、直径約16メートル。塚は富士の溶岩でおおわれ、東北側一部が欠損しているものの、原形がよく保存されている。原形保存状態が良好な塚は東京に少ないので、この塚は貴重である。昭和54年(1979)5月21日、国の重要有形民俗文化財に指定された。
 平成6年(1994)3月  台東区教育委員会



          FUJIUKA OF SHITAYA-SAKAMOTO
 Fujizuka is a miniature mountain that an imitation man made in the image of Mt.Fuji. Many Japanese peaple believed that Mt.Fuji was god or that god lived in Mt.Fuji,and so many religious groups worshipping Mt.Fuji(they are called Fujikou)were formed among people living in Edo(Old Tokyo)and many miniature "Mt.Fujis"were built around the town.
 Sakamoto Fujizuka was built in 1828.It is zbout 5 meters talll and about 16 beters in diameter.This precious mound is preserved on good conditions. 


所在地 台東区下谷3-1 (台東区立金杉区民館)

   沿革
 嘉永6年(1853)渡邊英之助という漢学者が自宅で三学庠という塾を開き、明治8年(1875)に「渡邊学校」、明治9年(1876)に「渡邊小学校」と名前を変え、明治41年(1908)東京市が渡邊小学校を買い取り、名前も「東京市台東尋常小学校」に、その後、昭和16年(1941)「東京市台東国民学校」、昭和18年(1943)「東京都台東国民学校」、昭和22年(1947)「唐京都台東区立台東小学校」に各変りました。
 それから98年(三学庠からでは153年)の永きに亘り、それぞれの時代の使命を受け止め、新しい時代を担う多くの子供たちを育ててきました。平成18年(2006)3月児童数の激減というやむを得ない状況とはいえ、ほぼ一世紀に及ぶ歴史と伝統のある台東小学校が閉校されるに至りました。その間の卒業生は実に9420名にたっしております。 以上

  平成22年12月 台東小学校同窓会
            台東小学校記念碑制作委員会 建立

         東京飛翔ライオンズクラブ創立5周年記念  竣工 平成12年4月

所在地 台東区下谷1-11 

       入谷の朝顔について
入谷の朝顔は、明治2年(1869)近傍の寺院で鉢植を造って、人々の縦覧に供したのが、そのはじまりとされているが、15、6年ごろから朝顔は天下の名物となった。その後大正2年(1913)以来永らく中絶されていたが、第2次世界大戦後地元の復活運動によって昭和25年(1950)7月から再開され、今や東京の年中行事の1つとなっている。ついては、われらは往時の盛事をしのび、入谷朝顔の発祥の地として、ここに記念碑を建立するものである。
   入谷から出る朝顔の事かな   子規
 1956年7月6日 下谷北部観光連盟


所在地 台東区下谷3-7-5

 三島神社

 御祭神 大山積命
 配祀  身島姫命「木花開耶姫命」 
      和足彦命「石長姫命」 
      上津姫命「雷神」 
      下津姫命「龍神」
 御祭日 6月14日、15日



 当神社は凡670年前弘安の役勇将河野通有の發願により其の一族が伊豫國越智郡に鎮座する日本總鎮守大山積命を武蔵國豊島郡に勧請して金杉村上野山内の自邸に奉齋し此の地方一帯の守護神と定め社殿を建立したのに始まると謂う其の後歳月を経て此の地方が段々と開けて土地の人々も此の神の御神徳を尊び現に氏神産土神として崇敬し彌高き霊験を拝して居ります
   昭和29年(1954)6月 社務所


所在地 台東区下谷3-7-5 (三島神社)

 火除稲荷社


 御祭神  保食命ウケモチノミコト
 例祭日  3月6日(御縁日毎月6日)
 御由緒
往昔奥州街道に沿う町並として発達せる武蔵国豊島郡金杉村のこの地に御先稲荷を勧請したるあり後正保三年東叡山寛永寺の建立に当りこの地をその火除地と定められて以来火除稲荷と称し奉り三島神社の地主神であります
家内安全、商売繁昌、火災守護の大神として町人から崇敬されています


所在地 台東区下谷3-7-5 (三島神社)

 石橋跡
この横の道路は往昔より吉原土手に通ずる本通りで小高い土手であった頃三島神社に参詣するには石橋を渡ったのである。街が発展して土手がなくなった明治の末期よりその石橋を境内に敷き人々から親しまれた「三島様の石橋」を永く保存するものであります
(注)
樋口一葉の「たけくらべ」に三島様の角をまがりてよりこれぞと見ゆる家もなく・・・はこの道路で土手と小川が有った頃


所在地 台東区下谷3-7-5 (三島神社)

 雷井戸
昔武蔵国の原野は雷が多く里人は常におそれていた。時たま時たま神社の境内に雷が落ちたので神主が雷をこの井戸にとじ込めた処雷は「井戸から出して呉れ」と哀願するので「二度と此地に落ちない」と約束のもとに許してやったと云う。
爾来此地に雷が落ちないと伝えられている。この井戸の発掘年代は不祥なるも相当な古井戸で危険防止の為に蓋をしてあるが現在も満満と水をたヽえて雷除の井戸として信仰されている。


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