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東京都台東区の歴史
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所在地 台東区駒形1-7-12 (駒形どぜう)

 神輿まつまの

   どぜう汁すゝりけり

久保田万太郎先生は市井のひとを愛し  とくに  また  ふるさとをおなじくする浅草ッ子を愛した  ここに駒形どぜう  越後屋  五代  助七  その生前の厚誼をしのんで  先生をしたう情は  まことに涙ぐましいものがあるが  昭和四十一年初夏  この句にゆかりの三社祭の吉日に当って駒形どぜうの店の前に  いま  先生の句碑を立てる  旧称田原町三丁目なる先生の生家にもっともちかくこの句碑の立てられたことは  さだめし先生も喜ばれていることと思われる  ここにつつしんでこれをしるす者は  おなじく浅草ッ子のひとり 

     昭和41年(1966)5月17日 安藤鶴夫

 

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所在地 台東区駒形1-4

 当社の創祀は定かなことを知る事は出来ませんが口碑によりますと「後冷泉天皇の御世である」と云われ、又一説には「承久の乱(1221)の後信濃国諏訪郡小日村の神主が諏訪大社の御分霊を当地に奉斎したのに始まる」とも云われております。
 諏訪信仰が関東に広まるのは鎌倉時代中頃で当時諏訪大社は鎌倉幕府より箱根権現や伊豆山権現或いは三島大社と共に特別の尊崇を受けていたのです。それは「諏訪上社の大祝家が源頼朝の旗上げに最初から協力し祈祷の効を積んだからである」と云われています。したがって頼朝も諏訪大社を「武家守護之神」(吾妻鏡)として崇敬しています。又後白河法皇の『梁塵秘抄』にも「関より東の軍神として鹿島大社、香取大社と並んで三番目に諏訪大社が挙げられています」その後時の執権となった北条氏は信濃国の守護職となり、諏訪郡を得宗領とし、諏訪上社の神主を得宗被官としたのです。こうした北条氏の支援によって諏訪大社の御分社が数多く関東に広まっていったものと考えられます。更に執権北条氏は支配する所領地に諏訪上社の御分社を奉斎すると共に得宗被官である諏訪氏の神主を招き神事、祭事を執り行っていたと伝えられています。
 当社は諏訪上社と同じ諏訪梶の御神紋を使用し天正年間以前には神主が数代にわたって奉仕して来たと社史に見えかつては諏訪大社最大の祭である御射山祭と関連する八朔の祭(風祭り神事)が行われていたと云われていますが定かではありません。
 当社の別当寺は浅草寺の十二衆徒の一院であった修善院で「江戸時代は別当として奉仕して来た」と『浅草寺史』に記され当社に関する史料が「修善院呈書」にわずかながら残されています。
 当社の所在地は『御府内備考』に「諏訪神社が鎮座してあったので諏訪丁とした」と記され江戸切絵図寛文十一年板の浅草絵図に「スワ大明神」と著されています。そして「再訂江戸鹿子」には「近年度その回禄により社頭は形の如くなれども神穂は社の損凶によらず唯霊験の灼をもって崇め祀る」と見えます。



所在地 台東区駒形2・雷門2 ~ 墨田区

 駒形(こまかた)の名は、浅草寺に属する駒形堂に由来する。土地の人々によれば、コマカタは清く発音して、コマガタと濁らないと伝えている。
 ここは古来、交通の要地で、”駒形の渡し”のあったところである。
   江戸の巷説に有名な、
    君はいま 駒形あたり ほととぎす
の句は、文芸・美術などの上で、駒形堂とともに、この辺りの雰囲気を伝えるものである。
 関東大震災(1923)の後、復興事業の一環として、この地に新しく、優美なアーチ橋が設計され、昭和2年(1927)に完成した。
   歌人、正岡子規の和歌にも、
     浅草の林もわかず 暮れそめて
       三日月低し 駒形の上に
というのがあり、当時の景況がしのばれる。
 昭和58年(1983)3月  東京都




昭和62年度 東京都文化のデザイン事業
『 御柱 』 安達裕 作


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