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東京都台東区の歴史
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所在地 台東区雷門1-15-12

 ふるさとの 月のつゆけさ 仰ぎけり

 久保田万太郎は明治22年(1887年)11月7日此地に生まれ 市立浅草尋常小学校へ入学 府立三中に学び大正3年(1914年)慶應義塾大学文科を卒業し 10月移転する迄の26年間在住した
 昭和38年(1963年)5月6日永眠するまでの明治 大正 昭和の三代に亘り 常に下町の義理と人情を描写した小説 戯曲の作品多く 其他文学 演劇界に多大の功績を残した作家であった 此の生誕の地に有志相はかり句碑を建立して永遠に久保田文学を讃えたい
  昭和52年(1977年)8月吉日 建立

題字:内山栄一台東区長
句:「九月二十六日、十五夜、たま々浅草にあり」として昭和二十五年作、二十七年『冬三日月』に収録されて居る句を碑に刻す

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所在地 台東区雷門2-2-2

 『浅草寺縁起』によると、創建年代は朱雀天皇の天慶5年(942)で、建立者は安房守平公雅。名称由来には、
①隅田川を舟で通りながらこの堂を見ると、まるで白駒が馳けているようなので、「駒馳け」の転訛。(『江戸名所図会』)
②観音様へ寄進する絵馬を掛けたので『駒掛け堂』と呼んだのが訛る。(『燕石雑誌』)
③駒形神を相州箱根山から勧請したのにちなむ。(『大日本地名辞典』)
これらの説がある。本尊は馬頭観世音菩薩。
 葛飾北斎・安藤広重らによって、堂は絵に描かれた。小さくとも、江戸で名高い堂だった。当時の堂の位置は現駒形橋西詰道路中央付近。堂は関東大震災で焼けた。
 平成4年(1992)11月  台東区教育委員会 

       Komagata-do Temple
 According to the recorded history of Senso-ji Temple,Komagata-do Hall was built in 942. The principal image is theBuddhist saint Bato Kanzeon. The hall appears on pictures by woodblock artists such as Katsushika Hokusai and Ando Hiroshige. Although it is small,the hall was famous in old Edo(Tokyo).
 In 1923 it was burnt down during the Great Kanto Earthquake,and it was rebuilt in 1933.



   ご本尊ご示現の聖地  駒形堂
 駒形堂は、浅草寺ご本尊の聖観世音菩薩さまが、およそ1400年前、隅田川よりご示現なされ、はじめて奉安された地に建つお堂。
 昔、この辺りは船着き場で、渡しや船宿もあり大変な賑わいをみせ、船で浅草寺参詣に訪れた人々は、まずこの地に上陸して駒形堂をお参りして、観音堂へと向った。
 このお堂のご本尊さまは馬頭観音様で、今も昔も、この地を行き交う人々をお守り下さっている。
 現在のお堂は平成15年(2003)に再建されたもの。
 今もこの地はご本尊ご示現の聖地として、人々の篤い信仰に支えられ、毎月の19日の馬頭観音さまのご縁日には、多くの参詣者で賑わう。
  馬頭観音さまのご真言・・・「おん あみりとどはばうんはった」
 金龍山 浅草寺

               Komagatado Hall
 Komagatado Hall is the temple built in the place where the principal image(bodhisattva Syo-Knnon)of Senso-ji appeared from the Sumida river and was enshrined about fourteen fundreds years ago. This area has been a port town and there were many inns for sailors and ferries. 
 Since the medieval period people who wanted to go on a pilgrimage to Senso-ji by ship visited Komagatado Hall before going to the main hall of Senso-ji. The principal image of Komagatado Hall is the god of traffic safety, bodhisattva"Bato-Kannon".
 The present temple was reconstructed in 2003.
 



浅草観音戒殺碑
 



所在地 台東区雷門2-2 (区立駒形公園内)

    都強度資料  浅草観音戒殺碑
 総高183.5センチ。元禄5年(1692)浅草寺本尊が垂迹した霊地として、駒形堂の地を中心に南は諏訪町より、北は聖天岸にいたる10町余の川筋を魚介殺生禁断の地にした。このことを記念し、元禄6年(1693)3月浅草寺第4世宣存が願主となり建立したものである。
 駒形堂はしばしば焼失しており、戒殺碑もいずれかの火災に際して倒壊しており、宝暦9年(1759)堂宇再建に伴い再び建てられたといわれる。現存の碑が当初のものであるか、再建のものであるかは詳かではないが、昭和2年(1927)5月に土中から発見、昭和8年(1933)修補再建されたものである。
 昭和46年(1971)10月1日  東京都教育委員会


所在地 台東区雷門1-5

 この付近は、江戸時代、紙漉町といい江戸における最初の紙漉きが行われた場所である。江戸時代を通じて盛んに製紙業が行われ、その産紙は浅草紙と呼ばれて土地の特産物だった。
 延宝4年(1676)版の『江戸絵図』には田原町1丁目の西側の道に「かみすき丁」と記され、貞享4年(1687)刊『江戸鹿子』にも「紙すき町」の名が見える。また、安永2年(1773)に成立した『江戸図説』によると、田原町のほかに橋場・鳥越や足立区千住方面でも生産されていたという。
 明治時代になると、浅草紙の製造工場は橋場や南千住の方に移り、浅草付近では作られなくなる。わざかに紙漉きの名残をとどめているのは、以前山谷堀に架かっていた「紙洗橋」の名の交差点表示である。
 浅草紙は、不要になった古紙を手で漉き返して再利用する、今でいうリサイクルペーパーである。
 平成6年(1994)3月  台東区教育委員会



                    KAMISUKICHO RUINS
 'Kamisuki'means'making paper'.This neighbourhood was named afrer the very first Paper factory in Edo tha was here and prosperd from the late 17th Century through the 19th Century.Here paper produced was called"Asakusa paper"and was in fact made from recycling old and used paper.


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