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東京都台東区の歴史
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所在地 台東区千束3-20-2

吉原神社
 御祭神
玄徳稲荷大神 開運稲荷大神 九郎助稲荷大神 榎本稲荷大神 明石稲荷大神 吉原弁財天
 御例祭
5月第3土曜・日曜

 明治5年(1872)に新吉原遊郭の四隅に祀られていた四稲荷社と、地主神である玄徳稲荷社を合祀して、吉原神社を創建した。さらに昭和10年(1935)吉原弁財天を合祀した。
 当社は新吉原遊郭の鎮守の社であり、遊郭の盛衰とともに歴史を重ね、初午・祭礼の賑い、ことに花魁の参拝は古書にも記されている。現在も幸せを祈る女性への御利益はよくしられている。
 当社は浅草名所七福神の一社(弁財天)であり、新春には福笹・福絵馬を授与する。
 千束稲荷神社

境内には『久保田万太郎句碑』があります。
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所在地 台東区千束3-20-2 (吉原神社)

久保田万太郎句碑

この里に おぼろふたヽび 濃きならむ  



所在地 台東区千束3-22

新吉原花園池跡(弁天池跡)(吉原弁財天)
 江戸時代初期までこの付近は湿地帯で、多くの池が点在していたが、明暦3年(1657)の大火後、幕府の命により、湿地の一部を埋立て、日本橋の吉原遊郭が移された。以来、昭和33年(1958)までの300年間に及ぶ遊郭街新吉原の歴史が始まり、とくに江戸時代にはさまざまな風俗・文化の源泉となった。
 遊郭造成の際、池の一部は残り、いつしか池畔に弁天祠が祀られ、遊郭楼主たちの信仰をあつめたが、現在は浅草七福神の一社として、毎年正月に多くの参拝者が訪れている。
 池は、花園池・弁天池の名で呼ばれたが、大正12年(1923)の関東大震災では多くの人々がこの池に逃れ、490人が溺死したという悲劇が起こった。弁天祠付近の築山に建つ大きな観音像は、溺死した人々の供養のため大正15年(1926)に造立されたものである。昭和34年(1959)吉原電話局(現在の吉原ビル)の建設に伴う埋立工事のため、池はわずかにその名残を留めるのみとなった。
 平成10年(1998)3月 台東区教育委員会



 SITE OF THE SHIN-YOSHIWARA HANAZONO POND(BENTEN POND)
 Until the early 17th Century,this area was marshland with many lakes.In 1657,the wetland was reclaimed and the pleasure district,Shin-Yoshiwara,was edtablished.This pond was left alone and from a certain period,Benten Shrine was worshipped on its shores.Presently,this Benten Shrine is considered one of the shrines on the Seven Lucky Gods of Good Fortun in Asakusa and many come to worship it on New Year's.
 The pond was called the Hanazono Pond or the Benten Pond.In the Great Kanto Earthquake of 1923 msny people sought refuge by its shores and 490 of them perished.The giant statue of the Bodhisattva Avalokiteshvara near the Benten Shrine was built in 1926 in memory of their souls.Most of the pond was filled up in 1959 when the Yoshiwara Building was constructed and now only traces of it remain.



地内には『花吉原名残碑』があります。


所在地 台東区千束3-22 (吉原弁財天)

花吉原名残碑

 吉原は、江戸における唯一の幕府公許の遊郭で、元和3年(1617)葺屋町東隣(現中央区日本橋人形町付近)に開設した。吉原の名称は、植物の葭の生い茂る湿地を埋め立てて町を造成したことにより、はじめ葭原と称したのを、のちに縁起の良い文字にあらためたことによるという。
 明暦3年(1657)の大火を契機に、幕府により吉原遊郭の郊外移転が実行され同明暦3年(1657)8月浅草千束村(現台東区千束)に移転した。これを「新吉原」と呼び移転前の遊郭を「元吉原」という。
 新吉原は江戸で有数の遊興地として繁栄を極め、華麗な江戸文化の一翼をにない、幾多の歴史を刻んだが、昭和33年(1958)「売春防止法」の成立によって廃止された。
 その名残を記す当碑は、昭和35年(1960)地域有志によって建てられたもので、碑文は共立女子大学教授で俳人、古川柳研究家の山路閑古による。
 昭和41年(1966)の住居標示の変更まで新吉原江戸町、京町、角町、揚屋町などのゆかりの町名が残っていた。
 平成17年(2005)3月 台東区教育委員会

   Monument in Memory of Hanano Yoshiwara
 Yoshiwara was the only red-light destrict approved by the Edo government,and was set up in 1617 at what is now Ningyo-cho in Nihonnbashi situated in Chuo-ku(Fukiya-cho Higashi-donari).The name of Yoshiwara is said to originate from the fact that the town was created by reclaiming a marsh area where ditch reed(Yoshi)grew in abundance.
 The government executed the order to move the Yoshiwara red-light destrict to a suburban area due to the desastrous fire in 1657,and Yoshiwara was moved to the location of present-day Senzoku in Taito-ku(Senzoku-mura in Asakusa)in August of the same year.The Yoshiwara in the new location was called "Shin-yoshiwara"as opposed to "Moto-yoshiwara",the original red-light district.
 Shin-yoshiwara was extremely prosperous as one of the greatest entertainment destric in Edo,became a part of the splended Edo culture,and was the scene of many historical events,before it was abolished in 1958 with the establishment of the Anti-Prostitution Act.This monument in memory of Shin-Yoshiwara was set up by local volunteers in 1960.The epitaph is written by Yamaji Kanko,a haiku poet,a researcher of the old senryu(old satirical seventeen-syllable poems),and a professor at Kyoritsu Women's Education Institution.Until the resedence indication was changed in 1966,various town names that were related to Yoshiwara,such as Shin-Yoshiwara Edo-cho,Kyo-machi,Sumi-cho and Ageya-cho, remained.


所在地 台東区千束4-10-8

見返り柳
 旧吉原遊郭の名所のひとつで、京都の島原遊郭の門口の柳を模したという。遊び帰りの客が、後ろ髪を引かれる思いを抱きつつ、この柳のあたりで遊郭を振り返ったということから、「見返り柳」の名があり、
 きぬぎぬのうしろ髪ひく柳かな
 見返れば意見か柳顔をうち

など、多くの川柳の題材となっている。
 かつては山谷堀脇の土手にあったが、道路や区画の整理に伴い現在地に移され、また、震災・戦災による焼失などによって、数代にわたり植え替えられている。
 平成8年(1996)7月 台東区教育委員会


   

MIKAERI YANAGI(Liiking-back willow tree)
 This is one of the memorial spots in the Yoshiwara Iicensed  red-light destrict, a willow tree which is said to have  been planted follwing another willow tree at the gate of Shimabara red-light destrict in Kyoro.This tree was called "Looking-back willow tree"because visitors returning home from the district looked back at this spot feeling painful reluctance to leave.This tree has been subjects of many Senryu poems such as
   Kinuginu no usirogami hiku yanagi kana
   Mikaereba ikenka yanagi kao wo uchi
 New trees have taken its place several times because of the Great Kanto Earthquake and air-raids during World War Ⅱ. The tree now standing used to be a little northward of its present site.It was transplanted due to road construction and re-zoning.


所在地 台東区千束3-18-7

鷲神社おおとりじんじゃ

 東京下町 八社福参り 商売繁昌

 鷲神社は、江戸時代「鷲大明神社」と称されていたが、明治のはじめ「鷲神社」と改称された。
 祭神は天之日鷲命・日本武尊の二神。草創は不明である。社伝によれば、天之日鷲命の祠に、日本武尊が東国征伐の帰途、熊手をかけて戦勝を祝った。この日が11月酉の日で、以後、この日をお祭と定めたという。
 酉の市は、江戸中期より冬の到来を告げる風物詩として発展し、足立区花畑を「大鳥」、浅草を「新鳥」と称した。浅草はとくに浅草観音新吉原猿若町芝居小屋を控え、賑わいをみせた。
 一の酉、二の酉、年によって三の酉とあり、世俗に三の酉があると火事が多いと言われる。
 酉の市は、当初、農産物や農具の一種として実用的な熊手を売る市であった。その後、熊では幸運や財産を「かきこむ」といわれ、縁起物として商売繁昌開運の御守として尊ばれてきた。また、八ツ頭は、人の頭になる、子宝に恵まれるといわれる。
 平成6年(1994)3月 台東区教育委員会



                OTORI SHRINE
 There are two gods to which the Otori Shrine is ddedicated Amenohiwashi-no^mikoto and Yamato-takeru-no-mikoto.According to the legend of the shrine,Yamato-takeru-no-mikoto felicitated his victory on his way back from his expedition by hanging a rake on the small shrine for Amenohiwashi-no-mikoto.It occurred on the Day of the Cock in November,so that the day was subsequently chosen as the date of the festival.The Cock Fair was developed in the middle of the Edo era as the peotical feature foreboding the arrival of winter.There is the First Cock Fair,the Second Cock Fair and,depending on the year,the ThirdCock Fair.The year having the Third Cock Fair is said to have many fires.Originally,the Cock Fair was a fair to sell rakes for practical use as a kind of agricultural product or implement.Subsequently,a rake was said to be useful in collecting fortune and assets.Therefore,it has been regarded as the charn for bringing about commercial prosperity or luck.



   浅草「酉の祭」「酉の市」起源発祥の神社
     「おとりさま」・鷲神社と鷲大明神
 鷲神社は江戸時代以前より此の地にまつられ、江戸時代は鷲大明神と号し、強運にあずかる守り神として鷲大明神がまつられ、大明神と伝われるとおり神様をおまつりしてあります。
 鷲大明神は天日鷲命と申され、開運・商売繁昌にあらたかな神として古くから崇敬されております。
 その発祥は景行天皇の御代、日本武尊が東夷征討の時、鷲大明神社(鳥の社)に立ち寄られ、戦勝を祈願し、志をとげての帰途社前の松に武具の「熊手」をかけて勝ち戦を祝い、お礼参りをされました。その日が11月の酉の日であったので、この日を鷲神社の例祭日と定めたのが「酉の祭」即ち「酉の市」の起源・発祥です。
 その后、日本武尊が併せまつられ、浅草「酉の祭」「酉の市」は次第に賑いを増し、酉の市に商われる縁起熊でも年毎に人気となり、江戸の庶民の春(正月)を迎える行事として益々盛大に華やかさを加えたのです。特に吉原遊郭の隆盛と共に賑い「吉原のおとりさま」とも云われました。
 江戸時代からまつられている「鷲大明神」天日鷲命は、鷲の背に乗るお姿から「鷲大明神・おとりさま」といわれ、江戸の数々の火事、関東大震災、第二次大戦の戦禍にもお守りされ、300年以上にわたり鷲神社に安置されております。天日鷲命は、「東都歳時記」に”開運の守護神なり”とあり、日本武尊と共に福運・強運・商売繁昌・武運を司どる神様として厚く信仰されております。
      

                             東都歳時記 浅草田圃 酉の市

 「酉の祭・酉の市」
 歳末にあたり1年を神に感謝し、新年を迎えるにあたり福運を願う祭りである浅草「酉の市」は、江戸の昔の華やかさとその伝統を今に伝えると共に多くの善男善女の厚い信仰を集め、今に受け継がれております。
 「酉の市」は江戸時代には「酉の祭」とよばれ、人と神が和楽する祭りを意味しております。
 又、「市」は「斎(いつ)く」で神様をお祭りするために「身を清めてつつしむ」ということです。
 このように「祭」・「市」も本来は「清浄な神祭」を表わしております。縁起熊手にも神社で使われる四手(紙で作った四垂れ)や神様を祭る場所であることを示す注連縄がつけられております。
 この事からも「酉の市」の「市」は神社の御祭神と参詣する多くの善男善女の人々が共に和み楽しむ神社の祭を表わしており、佛教・寺とは何のかかわりのない祭なのです。
 江戸時代の「酉の市」は鷲大明神社(鷲神社)として開かれており、当時は神佛混淆といい神社と寺が一緒に運営されておりました。別当長國寺(別当とは単に僧侶が神主を兼ねる僧職のこと。)は寛文9年(1669)に元鳥越より現在の所に移転して鷲大明神社(鷲神社)の別当となりました。
 明治元年(1868)「神佛分離令」が出され、鷲大明神社と長國寺は分離されることになり、長國寺の別当を廃し、鷲大明神社は、社号を鷲神社と改め、当時の長國寺住職・田中常繁氏は鷲神社神主となり、本来の姿になったのです。
 その后、長國寺は明治43年(1910)、それまでの山号の本立山を鷲在山と改めており、更に大正12年(1923)の関東大震災后に南向きの本堂を鷲神社と同じ西向きに改めております。
 このように「鷲大明神社」「鷲大明神」といわれるように「おとりさま」は神様をおまつりする神社であり、その御由緒により11月の酉の日に「酉の市」が齊行され多人の参詣者が集い、鮮やかな感動をよび、人と祭りのふれあいを感じさせるのです。
   浅草田甫 「酉の市 御本社」 鷲神社



                              谷文晁・鷲大明神社祭礼の図

 境内には『正岡子規句碑』、『樋口一葉玉梓乃碑』、『樋口一葉文学碑』、『宝井其角句碑』があります。


  江戸自慢三十六興 酉の丁名物くまで
          三代歌川豊国・二代歌川広重


所在地 台東区千束3-18-7 (鷲神社)

樋口一葉玉梓乃碑

 年毎に昔の面影を失いつつある町のたたずまいを見聞きするにつけ、その当時の事どもを偲び後世に伝えんと此に明治文壇の閨秀作家樋口一葉の「たけくらべ」の一節、又書簡文を刻して残す。「たけくらべ」は一様が竜泉町に住みし明治26年(1893)7月より明治27年(1894)4月まで10ヶ月間の見聞きした事を書きしものである。文中の鷲神社酉の市の描写は、市の様子を卓越した文章にて記している。また、樋口一葉玉梓乃碑は、師半井桃水に宛てた未発表の書簡文である。
 「塵中につ記」に一葉は明治27年(1894)3月26日に桃水を訪ねたと記されているが、この書簡はその直后のものであろう。”君はいたく青みやせてみし面かけは何方にか残るへき”とにつ記にも記してあり、書簡の行間にも一葉の心が滲みでているやに推われる。
 此に樋口一葉歿後百年を前にし、更に平成発酉五年の酉年を記念し、若くして逝った一葉の文才を称え、その事蹟を永く伝えんと神社ゆかりの文学碑、玉梓乃碑を建立する。
 平成5年(1993)10月吉日 鷲神社 宮司河野英男記


所在地 台東区千束3-18-7 (鷲神社)

樋口一葉文学碑


 『たけくらべ』
此年三の酉まで有りて中一日は津ぶれしか土前後の上天氣に大鳥神社の賑わひすさまじく、此處をかこつけに檢査場の門より入り乱れ入る若人達の勢ひとては天柱くだけ地維かくるかと思はるゝ笑ひ聲のどよめき・・・


所在地 台東区千束3-18-7 (鷲神社)

 宝井其角句碑

春をまつ ことのはじめや 酉の市



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