忍者ブログ
東京都台東区の歴史
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。



所在地 台東区上野桜木1-14-11

    上野東叡山寛永寺
 天台宗の関東総本山。徳川歴代将軍の菩提所。寛永2年(1625)天海僧正の創建です。江戸時代、上野の山全体が寛永寺境内でした。創建当時は江戸城の鬼門を守る祈願所でしたが、のちに芝の増上寺とともに将軍家の菩提所にもなりました。
 寺名は、「寛永」の年号をとってつけられ、山号の東叡山は、天台宗総本山比叡山延暦寺にならい東の叡山という意味です。
 江戸時代最盛期の寛永寺は、子院三十六ヵ院(今は十九ヵ院)と本坊、根本中堂、文殊楼(吉祥閣)などの豪華な建造物をほこり、これを総称して寛永寺と言っていましたが、慶応4年(1868)5月15日の上野の戦争(彰義隊の戦争)により殆どの建物が焼失し、一部を残して新しく上野公園となりました。



 今の寛永寺本堂は、明治12年(1879)に天海僧正ゆかりの川越(埼玉県)の喜多院から本地堂(薬師堂)を子院であった大慈院の地に移築したもので、寛永15年(1638)の建造物といわれています。



  縁起   江戸開府400年記念
     東叡山寛永寺
 元和8年(1622)、徳川幕府2代将軍秀忠が、上野後を天台宗の僧天海に寄進したことから、寛永寺の歴史は始まります。本坊は寛永2年(1625)に竣工。根本中堂の完成は元禄11年(1698)のことです。江戸末期までの寛永寺は、いまの上野公園をはじめ、その周辺にも堂塔伽藍や子院が立ち並ぶ文字通りの巨刹であり、徳川将軍家ゆかりの寺にふさわしい威容を誇っていました。明治維新の際の上野戦争で大半が炎上し、その後明治政府の命令で境内も大幅に縮小され(約3万坪、江戸時代の十分の一ほど)現在に至っています。江戸開府400年を記念し、往時の寛永寺を描いた錦絵などで、江戸と現代を比較しつつここに寛永寺の歴史を紹介致します。



 境内には『本堂』、『銅鐘』、『慈海僧正墓』、『虫塚』、『尾形乾山墓碑・乾山深省蹟』、『了翁禅師塔碑』があります。
 境内墓地には
常憲院霊廟奥奥院
   5代将軍 徳川綱吉公(常憲院殿)墓所
   8代将軍 徳川吉宗公(有徳院殿)墓所
 13代将軍 徳川家定公(温恭院殿)墓所

 13代将軍 徳川家定公正室 天璋院篤姫墓所
厳有院霊廟奥院
   4代将軍 徳川家綱公(厳有院殿)墓所
 10代将軍 徳川家治公(浚明院殿)墓所
 11代将軍 徳川家斉公(文恭院殿)墓所)

厳有院霊廟 勅額門・水盤舎』、『常憲院霊廟 勅額門・水盤舎』があります。
PR


所在地 台東区上野桜木1-14-11  (寛永寺)

 旧本堂(根本中堂)は現在の東京国立博物館前の噴水池あたりにあったが、慶応4年(1868)彰義隊の兵火で焼失した。そのため明治9年(1876)から12年にかけて、埼玉県川越市の喜多院の本地堂が移築され、寛永寺の本堂となったのである。寛永15年(1638)の建造といわれる。
 間口・奥行ともに七間(17.4メートル)。全面に三間の向拝と五段の木階、背面には一間の向拝がある。周囲には勾欄付廻縁をまぐらしており、背面の廻縁には木階を設けて、基壇面に降りるようになっている。桟唐戸(正面中央など)、蔀戸(正面左右など)、板壁など、すべて素木のままである。屋根は入母屋造、本瓦葺、二重棰とし、細部の様式は和様を主とする。
 内部は、内陣が土間で、外陣と同じ高さの須弥壇が設けられている。須弥壇の上に本尊その他の仏像を安置する。内陣を土間とする構造は中堂造と呼ばれ、天台宗独特のものである。現在は仮の床が張られ、内外陣ともにすべて畳敷になっている。
 平成16年(2004)3月  台東区教育委員会

       The main hall of the Kaneiji Temple
 The former main hall of this temple that used to stand around the fountain across present Tokyo National Museum was burned down in 1868 in the war in the late Edo period.The present hall was relocated from Kita-in at Kawagoe city,Saitama prefecture from 1876 to 1879.This building is said to be built in 1638.
 It is 17.4m,wide and deep.Neither a paint nor coloring is used for the doors and the walls,construction and a design are styles unique to Japanese buildeings.
 The floor in the room with the Buddhist altar was originally an earthen floor tha is a style original with the Tendai sect of Buddhism,now flooring is laid and it is covered with tatami.


所在地 台東区上野桜木1-14-11  (寛永寺)
 
銅鐘(台東区有形文化財)
 本鐘の大きさは、総高177.2センチ、口径91.8センチ。厳有院殿(4代将軍家綱)の一周忌にあたる、延宝9年(1681)5月8日に厳有院殿廟前の鐘楼に奉献された。明治維新以降に、寛永寺根本中堂の鐘として、当所に移されたと伝えられる。現在は、除夜の鐘や重要な法要の際に使用されている。
 作者の椎名伊予守吉寛は、江戸時代前期(17世紀後半)に活躍した江戸の鋳物師で、神田鍋町に住した。延宝元年(1673)から貞亨3年(1686
)にかけて、銅鐘を中心に17例の作例が知られている。その中には増上寺や寛永寺などに関わるものも含まれており、幕府との関係の深さが窺える。
 本鐘は、将軍家霊廟の儀式鐘で、近世初期の鋳物師の活動や鋳物技術を知る上でも貴重な遺品のひとつである。
 平成18年(2006)に台東区有形文化財として台東区区民文化財台帳に登載された。
 平成19年(2007)3月  台東区教育委員会



   Copper Bell (Cultural Asset of Taito City)
 This Copper bell has a total height of 450 inches and a diameter at its wadest point of 233 inches.It was donated and pllaced in the bell towaer in front of the Genyuin mausoleum for the 4th Shogun Tokugawa Ietsuna on May 8th in 1681,marking the first anniversary of his death.It is said to have been transferred to Kan'ei-ji Temple's main hall to be its bell after the Meiji Restoration.
 The builder of the bell,Shiina Yoshihiro a caster in Edo,who was active during the latter half of the 17th century,and lived in Kndanabe-cho.There are 17 examples of his works,chiefly bells built between 1673 and 1686.Since many of them are related to Zojo-ji and Kan'ei-ji temples,he is thought to have had a deep relationship with the Tokugawa Shogunate.  


所在地 台東区上野桜木1-14-11 (寛永寺)
   
慈海僧正墓(都旧跡)
 墓石の正面中央に、聖観世音菩薩の像を彫り右側には「当山学頭第四世贈大僧正慈海」左側に「山門西塔執行宝園院住持仙波喜多院第三世」、背面に「元禄6年癸酉二月十六日寂」と刻む。
 慈海僧正は、学徳をもって知られ、東叡山護国院、目黒不動尊、比叡山西塔宝園院、川越仙波喜多院を経て東叡山凌雲院に入った。東叡山は、寛永寺一山の山号で、一山を統轄、代表する学頭には凌雲院の住職が就任することを慣例としたという。学頭は、また門主・輪王寺宮の名代をつとめうる唯一の有資格者であり、学頭の名のとおり宮や一山の学問上の師でもあった。慈海版として知られる「法華経」「薬師経」の翻刻や「四教義算注」「標指鈔」三十巻の著作がある。
 寛永元年(1624)目黒で生誕。70歳で没した。没後、公弁法親王の奏請によって大僧正の暗いが贈られた。
 墓は、初め凌雲院内にあったが、昭和33年(1958)東京文化会館建設のため寛永寺に移った。
 平成4年(1992)11月  台東区教育委員会

            The Grave of Pruest Jikai 
 The Buddhist priest Jikai was born in Meguro in1624.Known for his learning and virtue,he spent time in a couple of monasteries before entering Ryoun-in Monastery on Mount Toei(now Ueno Park).
 It is said tha he deid at the age of 70 and his grave was originally in Ryoun-in but in 1958 due to the construction of the Tokyo Metropolitan Festival Hall on the site,his grave was moved to Kanei-ji Temple.



所在地 台東区上野桜木1-14-11 (寛永寺)
       
虫塚(都指定旧跡)
 虫塚は、伊勢(現、三重県)長島藩主である増山雪斎の遺志により、写生に使った虫類の霊をなぐさめるため、文政4年(1821)に建てられたものである。
 増山雪斎は、宝暦4年(1754)の生まれ。本名を正賢といい、雪斎はその号であるが、玉園・蕉亭・石顛道人・巣丘隠人など多くの別号がある。江戸の文人大田南畝や大坂の豪商木村兼葭堂など、広く文人墨客と交流を持ち、その庇護者としても活躍した。自ら文が文雅風流を愛し、清朝の画家、沈南蘋に代表される南蘋派の写実的な画法に長じ、多くの花鳥画を描いた。中でも虫類者写生図譜『虫豸帖』は、その精緻さと本草学にのっとった正確さにおいて、殊に有名である。文政2年(1819)、66歳で没した。
 虫塚は、当初、増山家の菩薩寺、寛永寺子院勧善院内にあったが、昭和初期に寛永寺に合併されたため。現在の場所に移転した。
 勧善院は、4代将軍徳川家綱の生母で、増山氏の出である宝樹院の霊廟の別当寺として創建された。
 碑は自然石で、正面は、葛西因是の撰文を大窪詩仏が書し、裏面は、詩仏と菊池五山の自筆の詩が刻まれており、当時の有名な漢詩人が碑の建設に関わったことが知られる。
 平成8年(1996)7月  台東区教育委員会

               MUSHIZUKA
 This Mushizuka was built in 1821 for the rememvrance of the insects that died and used for sketching by Masuyama Sessai,the head of the Ise Nagashima Clan (Mie prefecture of the present).It was built to execute Sessai's will.
 He was born in 1754 and learned sketching from Shin Nappin,a famous Chinese artist in flower and bird paining.A collection of his painting of insects,titled"Chuuchi-jou"(A drawing block of sketches of insects)is famous.
 The monument made of natural stone says "MUSHIZUKA"together with a message engraved.


所在地 台東区上野桜木1-14-11 (寛永寺)
 
尾形乾山墓碑・乾山深省蹟
 尾形乾山(おがたけんざん)は、琳派の創始者として著名な画家・尾形光琳の弟である。寛文3年(1663)京都で生まれた。乾山のほか、深省・逃禅・習静堂・尚古斎・霊海・紫翠の別号がある。画業のほかにも書・茶をよくし、特に作陶は有名で、正徳・享保年間(1711~1735)輪王寺宮公寛王親王に従って江戸に下り、入谷に窯を開き、その作品は「入谷乾山」と呼ばれた。
 寛保3年(1743)81歳で没し、下谷坂本の善養寺に葬られた。しかし、月日の経過につれ、乾山乃墓の存在自体も忘れ去られてしまい、光琳の画風を慕う酒井抱一の手によって探り当てられ、文政6年(1823)顕彰碑である「乾山深省蹟」が建てられた。抱一は江戸琳派の中心人物で、文化12年(1815)に光琳百回忌を営み、『光琳百図』『尾形流略印譜』を刊行、文政2年(1819)には光琳の墓所を整備するなど積極的に尾形兄弟の顕彰に努めた人物である。墓碑及び「乾山深省蹟」は、上野駅拡張のため移転した善養寺(現、豊島区西巣鴨4-8-25)内に現存し、東京都旧跡に指定されている。
 当寛永寺境内の二つの碑は、昭和7年(1932)、その足跡が無くなることを惜しむ有志により復元建立されたものである。その経緯は、墓碑に刻まれ、それによると現、善養寺碑は、明治末の善養寺移転に際し、両碑共に当時鶯谷にあった国華倶楽部の庭へ、大正10年(1921)には公寛法親王との園により寛永寺境内に、その後、西巣鴨の善養寺へと、三たび移転を重ねたとある。
 なお、入谷ロータリーの一隅に「入谷乾山窯元碑」がある。
 平成11年(1999)3月  台東区教育委員会

    TOMB OF OGATA KENZAN AND KANAN SHINSWISWKI
 Ogata Kenzan is a younger brother of Ogata Korin,painter,and was born in Kyoto in 1663.Kenzan revealed his talent in painting,calligraphy,tea ceremony,ere,but was especially renowned for his ceremonic art.He possessed a kiln in Iriya,and named his works"Iria Kenzan".
 He died in 1743 at the age of 81,and was buried at Yozenji Templr in Shitayasakamoto (present address 7-chome 15-ban of Ueno)."Ogata Kenzan Shiseiseki"was built by a man of letters named Sakai Hoitu.The Shinseiseki was lost when Yozenji Temple moved,but its copy was erected in 1923 at this site.


所在地 
台東区上野桜木1-14-11 (寛永寺)
  
 都旧跡 了翁禅師塔碑
      指定 昭和5年(1930)6月2日



 了翁は号、諱名を道覚といい、黄檗宗の僧である。出羽国雄勝郡に生まれ、幼い頃から僧門に入った。承応年間(1652~1655)隠元禅師に師事し、のち諸国を巡錫している途中、夢の中でたまたま一種の薬法を修得し、是を錦袋円と名付けて、江戸上野不忍池の池畔に店舗を営んだ。数年にして数千両を得、江戸大火に際し、罹災民の救済に私財を投じ、さらには経典7千巻を購入して経庫を造ってこれを寛永寺に寄贈した。天和3年(1683)には勧学院を建てて教育に尽力、その功によって輪王寺宮より勧学院権大僧郡法印に任ぜられた。宝永4年(1707)5月歿、ときに78才。
 昭和43年(1968)10月1日建設  東京都教育委員会 


所在地 台東区上野桜木1-14-11  (寛永寺)

13代将軍 徳川家定公正室
  天璋院篤姫墓所(非公開)

 
 天璋院篤姫は天保6年(1835)12月19日、薩摩藩今和泉島津家島津忠剛(ただたけ)の長女として今和泉島津家本邸(現在の鹿児島県指宿市)にて生を受けました。(幼名一子〔かつこ〕・於一〔おかつ〕)
 嘉永6年(1853)、島津家28代当主島津斉彬(なりあきら)の養女となり、名を篤姫と改めて鶴丸(鹿児島)城に入り、また同嘉永6年(1853)中に鹿児島を出立し京都の近衛家に参殿ののちに江戸城下、芝の藩邸に入っています。
 その後、安政3年(1856)に近衛家の養女となり、名を敬子(すみこ)と改め、同安政3年(1856)に徳川13代将軍家定(いえさだ)公の正室として輿入れしました。
 この輿入れの際に、篤姫は斉彬より14代将軍に一橋慶喜を推すようにとの密命をうけていましたが、家定公は心身が虚弱で、入輿からわずか2年後の安政5年(1858)に逝去され、14代将軍には紀州の慶福(よしとみ〔のちの家茂公〕)が就任しています。(落飾し、天璋院とごうする。)
 また同安政5年(1858)、養父斉彬が逝去され、篤姫はその密命を果たせぬまま、夫と養父を相次いで亡くしました。
 しかし、落胆の中でありながら、篤姫は若き将軍の補佐によく勤め、また大奥をまとめる為にも尽力しました。
 公武合体のため、家茂公のもとへ降嫁した和宮(かずのみや)とは当初は対立していましたが、のちに心を通わす仲となり、その後敵対してしまった実家(薩摩)に対し、徳川家の存続を歎願するなど江戸城無血開城にも大きく貢献をしています。
 明治になると、わずか6歳で徳川家を継いだ16代家達(いえさと)公の養育に余生を捧げ、明治16年11月に48歳で亡くなるまで、徳川家の為にその生涯を捧げました。
 なお、墓所は5代綱吉公霊廟内、家定公の墓所の隣にあり、宝塔の脇には好物であったとされる枇杷(びわ)の木が植えられています。

 平成20年(2008)  寛永寺教化部


所在地 台東区上野桜木2-6-4

    縁起
昔は高重院、其後寛文6年(1667)圭海大僧都開基東叡山丗六坊の浄圓院と称し、寺領二百万石を賜う。5代将軍綱吉公の母寳樹院菩薩所となり、寛海和尚は養善院に移住さる。寛文12年(1673)当山第一世妙立和尚安楽律の新法門を唱導。之に對し山徒頻に誹謗せしが、妙立門下霊空和尚出で師説を顕揚す。
当時日本佛法の大王輪王寺宮の大御心を動かし奉るに到り、遂に享保8年(1723)御令旨に依り安楽一派を興立し、当山は浄名律院と改称し建立さる。又一山一ヶ寺の制を設けて、比叡山に安楽律院、東叡山に当山、日光山に興雲律院の三院県立本山とし、徳川幕末の本院棹尾の偉観を呈す。大明院宮、崇保院宮、隋宜楽院宮、御三代法親王の御崇敬を仰ぐ。殊に崇保院宮は地蔵信仰深く自ら尊藏を画き江戸府内院に賜り毎月廿四日(24日)の縁日はそれより始まる。
当山丗八世妙運和尚自他の人を合せ、8万4千の石地藏尊を建立し、上は佛祖の供恩に酬い、下澆末の衆生を救わんとして発願さるや、直に北白川宮能久親王殿下の拾数体奉納あり。徳川、小松、一條、近衛、毛利等各家の奉納に倣い、各界の人之に続き建立今日に至る。
境内には明治初年神佛分離に際し、江戸六地藏六番(永代寺富岡八幡宮の別当寺)は廃寺となり、地藏尊も破壊され、以来当寺に江戸六地藏第六番として再造された。
 江東区第五編第八章宗教1625頁に当時の地藏尊の背面銘文が書かれているので之を記す。
 東叡山 浄名院



あらい地蔵

江戸第六番地蔵尊



所在地 台東区上野桜木2-6-4 (浄名院)

 この寺の名は始め浄円院といい、寛文6年(1666)寛永寺三十六坊の一つとして創建された。享保8年(1723)浄名院となる。表門は享保年間(1716~1735)の建立。
 地蔵信仰の寺となったのは第38世地蔵比丘妙運和尚の代からである。妙運和尚は大坂に生まれ、25歳で日光山星宮の常観庵にこもったとき地蔵信仰を得、一千体の石像地蔵菩薩像建立の発願をたてた。明治9年
(1876)には地蔵山総本尊を建立。各地から多数の新者が加わり、地蔵菩薩像の数は増え続けている。
 境内にある青銅製の大きな地蔵菩薩坐像は、かつて江戸六地蔵第6番の地蔵菩薩像があった深川永代寺が明治維新のとき廃寺になったためと、日露戦争の戦没者を弔うため、明治39年(1906)新たに建立されたものである。
 なお、旧8月15日の「へちま供養」には、せき、ぜんそくに効験を願う人々で賑わう。
 平成13年(2001)3月  台東区教育委員会

     EIGHTY FOUR THOUSAND IMAGES OF JIZO (GUARDIAN DEITY OF CHILDREN)
 This temple was founded in 1666 and called Joen-in temple.Its present name,Jomyo-in temple was adopted in 1723.The front gate now standing built some time from 1716 to 1735.
 A priest called Myoun,who became the chief priest of this temple in 1876,had faith in the guardian deity of children (Jizo)and decided to erect one thousand stone imaged of Jizo.After having completed one thousand images,he reset his goal to eighty four thousand images.
 The great bronze image of Jizo in the precincts was built in 1906 in memory of those killed during the Russo-Japanese War.
 The religious service for Hechima(sponge cucumbers)"Hechima Kuyou"is performed every year on the 15th of August according to the lunar calender.A lot of people attend because the religious service is said to bring about miraculous cures of illness such as coughing and asthma.

明治12年浄名院第三十八世地蔵比丘妙蓮大和尚が衆生済度のため八万四千体地蔵尊の建立を発願された。その後歳と共に地蔵尊の数を増している。その中には北白川宮の十四体、五代目菊五郎の十三体等を含んでいる。
 台東区



所在地 台東区上野桜木1-16 ・ 上野公園18

新坂
 明治になって、新しく作られた坂である。それで、新坂という。明治11年(1878) 内務省製作の『上野公園実測図』にある「鴬坂」がこの坂のことと考えられ、少なくともこの時期には造られたらしい。鶯谷を通る坂だったので、「鴬坂」ともいわれ、坂下の根岸にちなんだ「根岸坂」という別名もある。
 平成12年(2000)8月 台東区教育委員会



所在地 台東区上野桜木2-10-6

台東区指定有形民俗文化財
 旧吉田屋酒店
     平成元年(1989)指定

 かつて谷中6丁目の一角にあった商家建築。吉田屋酒店は江戸時代以来の老舗であった。旧店舗の建物が台東区に寄贈され、明治から昭和初期にいたる酒屋店舗の形態を後世に遺すため、昭和62年(1987)移築復元して、当時の店頭の姿を再現、展示している。平成元年(1989)には、1階店舗と2階部分及び道具・文書類が台東区指定有形民俗文化財となった。
 棟札によれば、明治四43年(1910)に新築して、昭和10年(1935)に一部改築したもの。正面は1・2階とも出桁造りで商家特有の長い庇を支え、間口を広く使って販売・運搬の便を図った。1階は店と帳場で、展示している諸道具類や帳簿などの文書類も実際に使用されていたもの。帳場に続く階段をのぼると三畳半と八畳の部屋があり、店員等が使用していた。向かって右側の倉庫部分は、外観のみを明治43年(1910)の写真にもとづいて復元した。店舗後方の和室部分は構造的補強の必要から増設したものである。
 平成16年(2004)3月 台東区教育委員会



           Old Yoshida sake store
 Yoshida store was a sage store since Edo period.It was donated to Taito city,then was reconstructed and restored in order to hand down th from of the liquor store of the early in the 20th century to future generations.
 It was originally built in 1910,partly reconstructed in 1935.Its long eaves and wide entrance are characteristics of such merchant building,and th first floor was a counter and an office,the second floor was an employee's room.The warehouse was restored only on the outside based on a picture in 1910 and a Japanise-style room behaind a counter was added for reinforcement of the building.


所在地 台東区上野桜木

寛永寺坂
 大正年間(1912~1925)発行の地図からみて、この坂は大正10年(1921)ごろ、新設されたように推察される。当初は鉄道線路を踏切で越えていた。現在の跨線橋架設は 昭和3年(1928)8月1日。名称は寛永寺橋である。坂の名をとったと考えていい。坂の名は、坂上が寛永寺境内だったのにちなむという。寛永寺は徳川将軍の菩提寺だった。坂上、南に現存。
 平成12年(2000)3月 台東区教育委員会



所在地 台東区上野桜木1-16-15 (寛永寺) 

  厳有院霊廟 勅額門・水盤舎



 4代将軍家綱は、慶安4年(1651)4月に父・家光の死に伴って、わずか10才で将軍の座につき、延宝8年(1680)5月8日に39才で没した。法名を厳有院という。
 病気がちであった家綱時代の政務は、主として重臣の手に任されていたが、とくに後半の政治を担当した大老・酒井忠清が有名である。時代は家綱の襲職直後に起った由比正雪の乱の解決を機に、ようやく安定期に入った。
 家綱の霊廟の一部は維新後に解体されたり、第二次世界大戦で焼失したが、この勅額門と水盤舎(ともに重要文化財)は、その廟所と共に、これらの災を免れた貴重な遺構である。勅額門の形式は四脚門、切妻造、前後軒唐破風付、銅瓦葺。
 なお、このうち水盤舎は延宝8年(1680)に家綱のために造立されたものであるが、この勅額門は昭和32年(1957)の改修時に発見された墨書銘によって、もと家光の上野霊廟の勅額門であったものを転用したものと考えられる。
 平成6年(1994)3月 台東区教育委員会



      TOKUGAWA IETSUNA'S MAUSOLEUM GATE PLAQUE
 The fourth Shogun Tokugawa Ietsuna had to sit on the seat of the Shogun when he was merely 10 years old in April 1651,and he died in May 1680 at the age of 39.
 Ietsuna often became sick and thus his political affairs were mainly left to the senior statesmen.Especially,Sakai Tadakiyo,the Chief Minister who was in charge of the politics in the last half,is very famous.
 Part of Ietsuna's mausoleum was desassembled after the Meiji Restoration or burnt during the second World War,but this Ietsuna's mausoleum gate plaque directly written by the Emperor of the time was fortunately undamaged and still remains as an important cultural asset of the nation.



所在地 台東区上野桜木1-16-15 (寛永寺) 

 厳有院霊廟奥院

 4代将軍 徳川家綱公(厳有院殿)墓所

10代将軍 徳川家治公(明院殿)墓所

11代将軍 徳川家斉公(文恭院殿)墓所




所在地 台東区上野桜木1-16-15 (寛永寺) 

  常憲院霊廟 勅額門・水盤舎



 5代将軍綱吉は、延宝8年(1680)5月に兄・家綱の死に伴って将軍の座につき、宝永6年(1709)1月10日に63才で没した。法名を常憲院という。綱吉ははじめ、善政を行い「天和の治」と賛えられたが、今日では「生類憐みの令」などを施行した将軍として著名。
 元禄11年(1698)9月、この綱吉によって竹の台に寛永寺の根本中堂が建立された。造営の奉行は柳沢吉保、私財の調達は紀之国屋文左衛門と奈良屋茂左衛門である。又、それに伴って先聖殿(現湯島聖堂)が上野から湯島に移されている。
 綱吉の霊廟は宝永6年(1709)の11月に竣工したが、それは歴代将軍の霊廟を通じてみても、もっとも整ったものの一つであった。ただ、その一部は維新後に解体されたり、第二次世界大戦で焼失した。この勅額門と水盤舎(ともに重要文化財)は、その廟所と共に、これらの災を免れた重要な遺構である。勅額門の形式は四脚門、切妻造、前後軒唐破風付、銅瓦葺。
 台東区教育委員会 平成6年(1994)3月



  TOKUGAWA TSUNAYOSHI'S MAUSOREUM GATE PLAQUE
 The fifth Shogun Tokugawa Tsunayoshi constructed the Konpon Chudo Hall in Kan-eiji Temple in Takenodai area in September 1698.His mausoleum was completed in November 1709 and was one of the best arranged mausoleum among the other Shogun's.However,part of the mausoleum was desassembled after the Meiji  Restoration or burnt during the second World War.The Tsunayoshi's mausoleum gate plaque derectly written by the Emperor of the time (important cultural asset of the nation) was fortunately undamaged by the war and is very valuable.




所在地 台東区上野桜木2・谷中

  御隠殿坂

明治41年(1908)刊『新撰東京名所図会』に、「御隠殿坂は谷中墓地に沿ひ鉄道線路を経て御隠殿跡に下る坂路をいふ。もと上野より御隠殿への通路なりしをもっ以ってなり。」とある。
御隠殿東叡山寛永寺住職輪王寺宮法親王の別邸。江戸時代、寛永寺から別邸へ行くため、この坂が造られた。「鉄道線路を経て」は踏切を通ってである。


忍者ブログ [PR]
カウンター
現在の閲覧者数
サイト内検索
アクセス解析
プロフィール
HN:
歴史を未来に伝える。
HP:
性別:
男性