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東京都台東区の歴史
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所在地 台東区根岸4-9-5 (西蔵院境外仏堂不動堂)

御行の松(おぎょうのまつ)

 江戸期から、根岸の大松と人々に親しまれ、『江戸名所図絵』や安藤広重の錦絵にも描かれた名松。現在の松はその3代目である。



 初代の松は、大正15年(1926)に天然記念物の指定を受けた当時、高さ13.63m、幹の周囲4.09m、樹齢350年と推定された。枝は大きな傘を広げたようで、遠くからもその姿が確認できたという。しかし、天災や環境悪化のため昭和3年(1928)に枯死。昭和5年(1930)に伐採した。



 2代目の松は、昭和31年(1956)に上野中学校敷地内から移植したが、これも枯死してしまい、昭和51年(1976)8月、3代目の松を植えた。戦後、初代の松の根を土地中より掘り出して保存し、不動堂の中にこの根の一部で彫った不動明王像をまつり、西蔵院と地元の不動講の人々によって護持されている。



 御行の松の名の由来に定説はないが、一説には松の下で寛永寺門主輪王寺宮が行法を修したからともいわれる。また、この地を時雨が岡といったところから、別名時雨の松とも呼ばれた。

 平成10年(1998)3月  台東区教育委員会



                      OGYO' PINE
 A famous pine tree known from "Edo Meisyo Zue" and from Ukiyo-e by Ando Hirosige,was loved by the people as the giant pine of Negishi. The present pine tree is its thirs generation.
 The first generation pine was estimated to be 13.63m hegh,4.09m in cirecumference,and aged 350 when it was designated a netural monumento in 1926. Le was said that the tree could be seen from afar. But due to natural desasters and a deteriorating environment,it withered and died in 1928 and was subsequently cut down in 1930.
 The second generation tree was mobed here from Ueno Junior high School grounds in 1956 but it also died. The third generation tree was planted in 1976. After World War Ⅱ,the roots from the first tree were dug up a preserved. A statue of a Fudo(the central Buddha of Esoterie Buddhism)was carved out of it and it is now worshipped by the people of the Saizo-in temple and Fudo worshippers.

 
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所在地 台東区根岸3−12−38 (西蔵院)

真言宗智山派
 圓明山 西蔵院 宝福寺



 境外仏堂不動堂んは『御行の松』があります。

 

 境内には『庚申塔』があります。



 根岸小学校発祥の地碑
真言宗祖弘法大師千百五十年御遠忌引奉修
台東区立根岸小学校創立百十周年        記念

  円明山西蔵院第丗三世 義光代達立


 根岸小学校破明治7年(1874)2月西蔵院庫裡に第5中学區5番小学根岸学校として開校せらる 教員3名生徒60名官給金月10円遺骸は悉く民費に依る
 昭和60年(1985)2月21日
 台東区立根岸小学校第23代校長藤原藤祐謹誌並書


所在地 台東区根岸3-13-22

鐵砂山観音院世尊寺



創建   応安5年(1372)9月
本尊   大日一宇金輪
所属   真言宗豊山派
総本山  長谷寺(奈良県桜井市初瀬) 

福智六地蔵菩薩





所在地 台東区根岸2-5-11

  子規庵
 正岡子規(1867~1902)は俳人・歌人・随筆家。幼名は升(のぼる)。本名は常規(つねのり)、別号を獺祭書屋主人(だっさいしょおくしゅじん)、竹の里人などといった。伊予国藤原新町(現・愛媛県松山市)に生まれ、俳句・短歌の革新を唱え、また写生文を提唱した。
 新聞「日本」及び俳誌「ホトトギス」により活動、子規庵での句会には森鴎外夏目漱石も訪れ、歌会には伊藤左千夫、長塚節等が参加、歌誌「アララギ」の源流となる。
 著書には、俳論『俳諧大要』『俳人蕪村』、歌論『歌よみに与ふる書』、歌集『竹の里歌』、随筆『墨汁一滴』『病牀六尺』『仰臥漫録』など多い。
 子規はこの場所に明治27年(1894)2月から住み、明治35年(1902)9月19日病のため没す。母八重、妹律は子規没後もここに居住し、其の後は子規の門弟寒川鼠骨が庵を守りつづけた。
 昭和20年(1945)戦災によって平屋造り家屋は焼失したが、昭和25年(1950)鼠骨らにより旧規の通り再建され現在に至っている。
 史跡に指定されている土地の面積は405.6平方メートル。
 平成12年(2000)3月設置 東京都教育委員会



所在地 台東区根岸2-10-4 (書道博物館)

東京都指定史跡
 中村不折旧宅(書道博物館)


 中村不折は、明治・大正・昭和初期の洋画家であり、慶應2年(1866)7月10日江戸八丁堀に生まれた。幼名を鈼太郎という。少年年時代を長野で過し明治20年(1887)上京し、浅井忠や小山正太郎鈼に師事し、明治美術会に出品するほか、「小日本」新聞の挿絵なども担当していた。明治34年(1901)から4年間フランスに留学し、ラファエル・コランやジャン=ポール・ローランスの教えを受けた。帰国後は、太平洋画会や帝国美術院の会員として展覧会活動を行う一方、太平洋美術学校校長として後進の育成にも力を入れ、多くの逸材を育て美術教育にも貢献した。
 書道界では、書家としての活動の他に書道博物館の創設者としても知られている。昭和11年(1936)11月3日に開館した書道博物館は、中国と日本の書道史研究上重要なコレクションを有する専門博物館で、重要文化財12点、重要美術品5点を含む1万6千点が収蔵されている。昭和20年(1945)4月の空襲で中村邸の居宅と蔵は焼失してしまったが、博物館とその収蔵資料および不折の胸像や石燈籠などは焼失を免れた。不折は大正2年(1913)から亡くなるまえまでの30年間、この根岸の地に住んだ。昭和18年(1943)6月6日78歳で死去、多磨霊園に葬られた。
 平成13年(2001)3月31日設置 東京都教育委員会

      Nakamura Fusetsu Kyu-taku
 Nakamura Fusaku was an European style painter and calligrapher active from the Meiji to early Showa Era.He was born on July 10,1866 in Hacchobori in Edo.He was called Sakutaro in his childhood;he spent his child days in Nagano before he moved to Tokyo in 1877.He was trained with Asai Chu and Koyama Shotaro.His paintings are shown at Meiji Art Society Exhibitions.Moreover,he undertook illustrations for the Newspaper Sho Nihon.He studied painting in France for 4 years since 1901,and had inputs from painters Rapael Collin and Jean-Paul Laurens.
 After his return to Japan,he was active in exhibitions as a member of the Pacific Paintinf Society and the ImperialFine Arts Academy,while he made great efforts in education of younger painters as a president of the Pacific Painting School,he thus contributed to the education in fine arts by producing excellent painters.He was a close friend of authors like Mori Ogai and Natsume Soseki,and painted illustrations and laid out the title strings for the cover pages of I Young Herbs,The Wild Daisy and others.
 In the field of calligraphy, he is known as a calligrapher as well as a founder of the Calligraphy Museum.In the Calligraphy Museum opened on November 3,1936,16000 pieces of which 12 are important cultural assets and 5 -important art treasures are collected.Nakamura family's residence and storehouse were lost with fires caused by US attacks in April 1945,but the museum and its collection,as well as a bust of Fusetsu and stone lantern escaped from fires.Fusetsu himself lived in the place of Negishi for 30 years since 1913.He died at the age of 78 on June 6,1943,and his body was buried in the Tama Cemetery.
    Tokyo Metropolitan Board of Education


所在地 台東区根岸2-19-10 (薬師寺) 

御隠殿跡
 輪王寺宮一品法親王は、天台座主に就き、東叡山・日光山・比叡山の各山主を兼帯したので「三山管領宮」とも呼ばれ、第3世から幕末の第15世まで、親王あるいは天皇の猶子(養子)を迎え継承されてきた。当地は、この輪王寺宮の別邸「御隠殿」があった所である。



 御隠殿の創建年代は明らかではないが、幕府編纂の絵図『御府内沿革図書』には、宝暦3年(1753)7月に「百姓地四反一畝」を買い上げ、「御隠殿前芝地」としたという記述があり、同年までには建造されていたようである。
 敷地はおよそ三千数百坪、入谷田圃の展望と老松の林に包まれた池をもつ優雅な庭園で、ことにここから眺める月は美しかったと言われている。
 輪王寺宮は1年の内9ヶ月は上野に常在していたので、その時は寛永寺本坊(現、東京国立博物館構内)で公務に就き、この御隠殿は休息の場として利用した。また、谷中7丁目と上野桜木2丁目境からJRの跨線橋へ至る御隠殿坂は、輪王寺宮が寛永寺と御隠殿を往復するために設けられたという。慶応4年(1868)5月、御隠殿は彰義隊の戦いによって焼失し、現在ではまったくその跡を留めていない。
 平成12年(2000)3月 台東区教育委員会



       The Site of Goinden
 The Head Priest of Kanei-ji temple was succeeded by princes or adopted sons of the Emperor from the 3rd to 15th generation priest.This person is called the "Rinnoujinomiya".(a prince of Rinnouji)
 The Goinden was built as the resting place for the Rinnoujinomiya.The period when it was constructed is not clearly known,but it is certain that it was built by the year 1753.The area of the site is over 10,000 square meters,with a garden surrounded by a pine forest.The view of the moon from here is said to be extremely beautiful.
 The Goinden was lost in the fires from the Ueno War in May of 1868.Presently,there are absolutely no traces of the old Goinden of that time.



所在地 台東区根岸5-1-13

浄土宗
佛名山 果号院 萬徳寺
 


                                    木食一心行者霊地碑


所在地 台東区根岸5-11-36 (㈱精華堂)

酒井抱一住居跡
 このあたりに、江戸時代後期の俳人画家酒井抱一(1761~1828)の晩年の住居雨華庵があった。
 抱一は姫路城主酒井忠以の弟。少壮より文武両芸に通じ、寛政9年(1797)京都で出家、文詮暉真の名を与えられ江戸の帰った。画は尾形光琳に私淑して一家をなし、また俳諧等にも秀で、谷文晁亀田鵬斎等の文人と親交があった。
 抱一は文化6年(1809)以来、この雨華庵に閑居し、土地の名物鴬に因んで鴬村(おうそん)と号し、正月15日には画始、10月5日には報恩講を開き、また文政9年(1826)6月には、庵で光琳忌を催している。抱一の後を継いだ画家鴬蒲もここに住して、雨華庵二世と呼ばれた。
 平成6年(1994)3月 台東区教育委員会


       SAKAI HOITSU'S HOUSE REMAINS
 In the end of Edo ara,the famous artist Sakai Hoitsu (1761~1828)lived around here.In his later years of life,he moved to this house and named it Uge-an.Hoitsu was a student of the famous artist Ogata Korin and was also good friends with the famous artists Tani Buntyo and Kameda Bosai. Since 1809 Hoitsu lived in Uge-an,on January 15th of each year he invited his artist friends to his home and together they all would start their first art piece of the new year.In 1826 in June he held a remembrance ceremony for his late teacher Ogata Korin.


所在地 台東区根岸5-18-5 

天台宗
 東光山 薬王寺



 境内には『背面地蔵』、『板碑』があります。




           故陸軍歩兵一等本勲八等堅中長太郎墓


所在地 台東区根岸5-18-5 (薬王寺)

背面地蔵尊の縁起
 其の昔この地蔵尊は上野から奥州へ向かう旧街道の傍に在した。その後道筋が改り、後背の箕輪町通りが新しく拓け、旧道に面していた地蔵尊が新道からはうしろ向きに見えるので、恰も此の尊称が起ったのである。



記録には、
「ここに又・不思議なるは御遷座の夜、主僧の夢に神人現わる。告げて曰く汝如何なれば我が面を東に 向わしめたるや そもこの寺の西辺は古陸奥への駅道なり、我はその道に臨み西に向い立ちたるなり、とありければ主僧驚きて遂に石工を招き寄せ事の仔細を語り聞かせしに、石工も夢に同じ告を蒙りたりとて その夜のうちに御像を動かし面を西に向わし奉りぬ。
 さればその後参詣せし人々はその有様を見て、さても不思議なるかな昨日は東に向ひたまいしにこんにちは西に向はせられたりとて、その事たちまち四方に伝わり背面地蔵の御名遠近に聞え渡りぬ」 頃明和元年(1764)
こうして薬王寺の背面地蔵尊は本尊薬師如来の治眼信仰と共に毎月の縁日で賑い栄えたのであった。
道路仏でもあり、延命子育てとしての地蔵信仰は今でも多くの人々に語り継がれている。
 寺史より抜粋



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