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東京都台東区の歴史
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所在地 台東区上野公園1-29 (上野恩賜公園 寛永寺

国指定重要文化財
 東比叡山 寛永寺 清水観音堂


 清水観音堂(きよみずかんのんどう)は、寛永寺を開創した天海が京都の清水寺を模して寛永8年(1631年)に創建した。当初、現在地より100m余り北方の擂鉢山(すりばちやま)上にあったが、元禄7年(1694年)この地へ移築し、現在に至っている。堂宇は、桁行五間、梁間四間、単層入母屋造り、本瓦葺。とくに不忍池に臨む正面の舞台造りは、江戸時代より浮世絵に描かれるなど、著名な景観である。
 近年老朽化が目立ち、平成2年(1990年)より全面的な解体・修復工事を実施、平成8年(1996年)5月に完成した。この間、移築年代を元禄9年(1696年)とする定説をくつがえす、元禄7年(1694年)の棟札が発見されるなど、さまざまな事実が明らかとなっている。
 本尊は千手観音座像で京都清水寺より奉安したもの。秘仏で平常は厨子内に安置するが、毎年2月初午の日にのみ開扉され、多くの参詣者が訪れる。
   平成10年(1998年)3月 台東区教育委員会

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所在地 台東区上野公園 (上野恩賜公園)

  一めんお花は基盤の

      上野山 黒門前に

          かかるしら雲      蜀山人

 碑面には、大書してこの歌を刻む。ついで、蜀山人についての説明、碑建設のいきさつを、細字で刻んでいる。歌の文字は蜀山人の自筆であるという。
 蜀山人は姓を大田、名を蕈、通称を直次郎といった。蜀山人はその号である。南畝(なんば)・四方赤良(よものあから)など、別号多く、一般には大田南畝と呼ぶ。幕臣であったが、狂文・狂歌を良くし、漢学・国学を学んで博識であった。江戸文人の典型といわれ、狂歌の分野では唐衣橘洲(からごろもきっしゅう)・朱楽管江(あけらかんこう)とともに、三大家と評された。文政6年(1823年)没。
 江戸時代、上野は桜の名所であった。昭和13年(2001年)、寛永寺総門の黒門跡に、その桜と黒門を詠み込む蜀山人の歌一首を刻み、碑が建てられた。郷土色豊かな建碑といっていい。
 平成4年(1992年)11月 台東区教育委員会

所在地 台東区上野公園1-29 (上野恩賜公園 寛永寺 清水観音堂

 清水観音堂に安置されている子育観音は子宝に恵まれない人々が信仰すると願いが叶うと言い伝えられています。そして子供が授かると丈夫に育つようにと人形を奉納します。その奉納された人形と家庭で飾ってよごれたり、子供と遊んでこわれたりした人形を秋の彼岸の終り(毎年9月25日)にここに集めて供養する行事(読経のうえ茶毘に付します)がある。

 それらの人形を回向し供養するためにこの碑が建てられたのです。
   清水観音堂

所在地 台東区上野公園1 (上野恩賜公園)

  西郷隆盛と銅像の由来

 西郷隆盛は文政10年(1827年)12月7日薩摩藩士として鹿児島治屋町に生まれた。通称吉之助、南州はその号である。若くして薩摩藩主島津斉彬に重用され、幕末内外多難の際、大いに国事に奔走したが、これに関連して奄美大島に流されること2回。元治元年(1864年)許されて京都に上るや、朝廷の意を重んじて一旦は長州を敵としたが、後、木戸孝允と謀って薩長連合を結成し、慶応3年(1867年)12月ついに王政復古の大業を成就、その後も官軍の参謀として、大功を樹て、明治維新の基礎を確立した。 その間、高橋泥舟勝海舟山岡鉄舟等の請を容れて江戸城の無血開城を実現、江戸を戦禍から救ったことはあまりにも有名である。その後は、故郷に隠遁したが、明治4年(1871年)正月、三条実美以下新政府首脳の懇請を受けて上京、参議に就任し、廃藩置県その他近代国家建設のための主導的役割を果たした。然るに、明治6年(1873年)6月いわゆる征韓論が閣議に上るや断乎反対して、大使派遣による平和的修交を主張し、その決定を見るに至ったが、後欧米出張から帰国し、内治優先論を固執する岩倉具視、大久保利通等の反対に敗れて辞官帰郷。私学校を興して後進青年の育成に努めた。明治10年(1877年)2月当局者の謀に激した私学校生徒に擁せられて西南の役となり、転戦七ヵ月余、ついに敗れて城山に自刃した。9月24日、享年51才。そのため一時逆賊とされたが、明治22年(1889年)2月、明治天皇の特旨により賊名を除かれ、正三位を追贈された。この銅像はこれに感激した隆盛の旧友、吉井友美が同志と共に追慕の情を表すべく建立を計画したものであり、御下賜金のほか有志25,000人の醵金を得て、明治26年(1893年)起工、明治30年(1897年)竣工、我が国彫刻界の巨匠高村光雲の作である。西郷隆盛の偉大な功業は、その信条たる敬天愛人の精神に発した仁愛と至誠没我の所産であり、日本の代表的偉人として今なお、敬慕される所以は実にここにあるのである。

所在地 台東区上野公園 (上野恩賜公園)
 

台東区有形文化財
 彰義隊の墓
     平成2年(1990年)登録

 江戸幕府15代将軍徳川慶喜(よしのぶ)は大政奉還の後、鳥羽伏見の戦いに敗れて江戸へ戻った。東征軍(官軍)や公家の間では、徳川家の処分が議論されたが、慶喜の一橋家時代の側近家来であった小川興郷(おきさと)達は、大政奉還をして上野寛永寺に蟄居(ちっきょ)した慶喜の助命を求め、慶応4年(1868年)2月に同盟を結成、のちに彰義隊と称し、慶喜の水戸退隠後も徳川家霊廟の警護などを目的として上野山(東叡山寛永寺)にたてこもった。彰義隊には徳川政権を支持する各藩士をはじめ、新政府への不満武士、変革期に世に出ようとする人々で構成されていた。
 慶応4年(1868年)5月15日朝、大村益次郎指揮の東征軍は上野を総攻撃、彰義隊は同夕刻敗走した。いわゆる上野戦争である。彰義隊士の遺体は上野山内に放置されたが、南千住円通寺の住職仏磨らによって当地で荼毘に付された。
 正面の小墓石は、明治2年(1869年)寛永寺子院の寒松院と護国院の住職が密かに付近の地中に埋納したものだが、後に掘り出された。生き残った小川興郷(椙太)ら元彰義隊士は、明治7年(1874年)にようやく新政府の許可を得て、激戦地であり彰義隊隊士の遺体の火葬場となった当地に彰義隊戦死の墓を建立した。大墓石は、明治14年(1881年)12月に小川興郷(椙太)らによって造立。彰義隊は明治政府にとって賊軍であるため、政府をはばかって彰義隊の文字はないが、旧幕臣山岡鉄舟の筆になる「戦死之墓」の字を大きく刻む。
 なお、遺骨の一部は南千住円通寺内に合葬されている。以後、120年余りに渡り、小川一族によって墓所が守られてきた。現在、歴史的記念碑としてその管理は東京都に移されている。
 平成2年(1990年)に台東区有形文化財として区民文化財台帳に登載された。
  平成8年(1996年) 台東区教育委員会

所在地 台東区上野公園

総面積  約53万m²
管轄     東京都建設局

 上野恩賜公園(うえのおんしこうえん)は通称「上野公園」・「上野の山」と呼ばれる。
 江戸時代初期、この地は津軽、藤堂、堀家の屋敷であったが、江戸幕府 三代将軍 徳川家光が江戸の鬼門を封じるために、天海僧正に命じてこの地に寛永寺を建てた。寛永2年(1625)のことである。寛永寺建立が上野恩賜公園の始まりである。その後大きな変化もなく幕末を迎えるが慶応4年(1868)の彰義隊と官軍の戦争により寛永寺が焼失、一面焼け野原と化した。荒れ果てた姿のままであったが明治6年(1873)1月の大政官布告により公園に指定されたことから公園地となった。
 恩賜公園のいわれは、大正13年(1924)に帝室御料地だったものを東京市へ下賜されたことにちなんでいる。その後規模・景観はもとより施設など我が国有数の都市型公園として整備された。面積62万㎡余り。
 上野公園生みの親がオランダ人医師のボードワン博士。病院建設予定地であった上野の山を見て、その景観のよさから公園にすべきであることを政府に進言し実現したものである。
  東京都台東区

 


 公園内には『西郷隆盛像』、『彰義隊の墓』、『蜀山人の碑』、『清水観音堂」、「人形供養碑清水観音堂)』、『ボードワン博士像(上野公園生みの親)』、『国立西洋美術館』、『野口英世銅像』、『グラント将軍植樹碑』、『谷文晁碑』、『小松宮彰仁親王銅像』、『書寫名號塔』、『上野の森美術館』、『東京都美術館』、『東京芸大付属美術館』、『東京国立博物館』、『国立科学博物館、『上野動物園』、『台東区下町風俗資料館』、『黒田記念館』、『横山大観記念館』、『東京芸術大学』、『国立国会図書館』、『国際子ども図書館』、『小泉八雲記念碑国際子ども図書館)』、寛永寺(上野公園発祥)』、『大仏パゴダ』、『旧東京音楽学校奏楽堂』、『徳川家霊廟(5代将軍 徳川綱吉公墓所・8代将軍 徳川吉宗公墓所・13代将軍 徳川家定公墓所・篤姫墓所 4代将軍 徳川家綱公墓所・10代将軍 徳川家治公墓所・11代将軍 徳川家斉公墓所』、『両大師』、『旧因州池田屋敷表門(黒門)』、『五條天神社・花園稲荷神社』、『稲荷坂五條天神社・花園稲荷神社)』、『龍門橋跡碑』、『殉死者の墓(現龍院墓地)』、『森鴎外旧居跡』、『京成博物館』、『博物館動物園駅跡』、『東京文化会館』、『安井誠一郎胸像』、『学士会館』、『日本芸術院会館』、『忍ヶ丘』、『不忍池』、『正岡子規句碑』、『護国院』、『護国院庫裏』、『摺鉢山』、『忍坂』、『博士王仁碑』、『天海僧正毛髪塔』、『上野駅東西自由通路建設地点の遺跡(パンダ橋)』、『駅伝の碑』、『西條八十 顕彰碑』、『D51型蒸気機関車』、『寛永寺旧本坊表門』、『駅伝の碑』、

弁天島(弁天堂)』 弁天島には『不忍池由来碑』、『包丁塚』、『大黒天堂』、『聖天宮』、『地蔵尊』、『長谷川利行碑』、『長谷川利行歌碑』、『扇塚』、『虚中軒先生之碑』、『鳥塚』、『中根半僊碑』、『スッポン感謝塔』、『役行者像』、『魚塚』、『高久靄崖碑』、『めがね之碑』、『ふぐ供養碑』、『鶏図碑』、『いと塚』、『蓮花碑』、『般若心経碑』、『八橋検校顕彰碑』、『弁財天』、『真友碑』、『東京自動車三十年記念碑』、『長唄碑』、『芭蕉碑』、『暦塚』、『清水浜臣歌碑』、『蓮碑』があります。

上野東照宮』 上野東照宮域内には『銅燈籠』、『大石鳥居』、『唐門』、『お化け燈籠』、広島・長崎の火』があります。

所在地 台東区上野公園 (京成上野駅)

 この陶板レリーフは、メキシコ壁画界の大家ルイス・ニシザワによって製作された。鯉のぼりは不屈の大和魂を折紙の風車は未来のエネルギーである原子の力をそれぞれ象徴し、力強く生きる子どもの生命力とその宇宙を表現したものである。

 製作に際しては、信楽の登窯が用いられた。

          1981年9月26日



所在地 台東区上野公園5-45 (上野恩賜公園)



    正三位勲一等東京都名誉都民
     安井誠一郎君
 昭和乙酉の戦災に逢い灰燼に帰した東京 今や殷賑を極め無限に膨張発展してやまない東京 この東京を語る時 われわれは常に名を憶い出さずにはいられない
 君は岡山県の生れ 東京帝国大学卒業後宮界に入り要職を歴任したが 終戦直後東京都長官に任ぜられ さらに昭和22年(1947)以来実に12年の長きにわたって 公選知事をつとめられた 首都圏構想の樹立 太平洋市長会議の実現 オリンピック東京大会の招致など君の業績は数えきれないが 就中 廃墟と化した首都東京を 敗戦後の想像を絶する苦難の中で 見事復興させた努力と才腕と誠意とは 永久に忘れることができない
 いま 君が生前最後の偉業となった東京文化会館の一隅に この像を建て君の偉業を偲び 永く記念するは都民の心である
 昭和41年(1966)5月 東京都知事 東龍太郎撰並書


所在地 台東区上野公園8-43 (上野恩賜公園)

国指定重要文化財
 旧東京音楽学校奏楽堂
     昭和63年(1988)1月13日指定

 この建物は、明治23年(1890)東京音楽学校(現東京芸術大学)本館として建設された。設計は山口半六、久留正道で、わが国初の本格的な音楽ホールであり、音楽教育に記念碑的な存在である。
 中央天井をヴォールト状(かまぼこ型)に高くし、視覚、排気、音響上の配慮がなされている。また、壁面や床下に藁や大鋸屑が詰められ、遮音効果をあげるなど技術的な工夫があり、貴重な建築物である。
 この奏楽堂からは、滝廉太郎を始めとする幾多の音楽家を世に送り出してきたが、老朽化が進み、取壊しの危機にひんしていた。しかし、音楽関係者を始めとする多くの人々の保存に対する努力が実り、昭和62年(1987)3月、歴史と伝統を踏まえ、広く一般に活用されるよう、この地に移築復元された。
 また、移築工事とあわせて、日本唯一の空気式パイプオルガンも修復され舞台中央に甦った。昭和63年(1988)1月13日付で国の重要文化財に指定された。
 平成6年(1994)3月  台東区教育委員会



     SYMPHONY HALL OF THE OLD TOKYO MUSIC SCHOOL
 This structure was constructed as the main building of the Tokyo Music school(present Tokyo University of Arts)in 1890.The designers were Yamaguchi Hanroku and Kuru Masamichi,and it was the first ful-scale music education in this country.
 From this symphony hall,many musicians including Taki Rentaro emerged.However,superannuation of the building went on,and it was in danger of being demolished.Due to the endeavors of those concerned with music and other people,however ,it was relocated to this place in March 1987 with its original appearance restored.
 In coinciding with the relocation work,the only pneumatictype  organ in Japan was repaired,and resurrected in the center of the stage.It was designated as an important cultural asset of the nation in January 1988. 


所在地 台東区上野公園8 (上野恩賜公園 寛永寺

    大佛パゴダ
御本尊 薬師瑠璃光如来
御脇侍 日光・月光ニ菩薩
      (旧上野東照宮薬師堂ご本尊)
沿革
寛永8年(1631)堀丹後守直寄公が釈迦如来尊像を当山に建立せられ、1660年頃青銅の大仏に改鋳され。
大正12年(1923)、大震災で破損のため撤去する。

パゴダ建立
発願者 上野観光連盟
寄進者 大成建設株式会社
 昭和42年(1967)7月吉日竣工  東叡山 寛永寺




    上野大仏略記
寛永8年(1631)越後の国村上城主堀丹後守直寄公旧自邸内のこの高台に、戦乱に倒れた敵見方将兵の冥福を祈るために土で釈迦如来像を造立した。

 青銅大仏
明暦・万治の頃(1655~1660)木食僧浄雲師により銅佛に改められた。
 仏殿
元禄11年(1698)露座の大仏に仏殿が建立された。
 改鋳
天保12年(1841)火災に遭い、天保14年(1843)、末孫堀丹波守直央公が大仏を新鋳しまた仏殿を再建した。

大正12年(1923)関東大震災によって佛頭がおち、寛永寺にて保管、その後、佛体は解体され第二次世界大戦時に献納された。
昭和47年(1972)春彼岸、尊顔を再び旧地に迎えて祀り再建を計る一助とする。
 昭和47年(1972)春彼岸
   註、「上野大仏略史」は清水観音堂に有ります。

     上野大仏とパゴダ
 正面の丘は、かつて「大仏山」と呼ばれ、丘上にはその名のとおり大きな釈迦如来坐像が安置されていた。 
 最初の大仏は、越後(現、新潟県)村上藩主堀直寄が、寛永8年(1631)に造立した2メートル80センチ前後の釈迦如来像であったが、粘土を漆喰で固めたものであったため、正保4年(1647)の地震により倒壊してしまった。
 明暦~万治年間(1655~1660)には、木食僧浄雲が江戸市民からの浄財によって、3メートル60センチをこえる青銅製に堂々たる釈迦如来坐像を像立した。その後、元禄11年(1698)輪王寺宮公弁法親王が、同像を風雨から覆うための仏殿を建立。天保12年(1841)の火事によって大仏・仏殿ともに被害を受けたが、1年半後の天保14年(1843)には、最初の造立者堀直寄の子孫堀直央が大仏を修復、幕府が仏殿を再建した。さらに、安政2年(1855)の大地震では大仏の東部が倒壊したものの、間もなく堀家が修復している。
 しかし、明治6年(1873)上野公園開設の際に仏殿が取り壊され(年代については他に明治9年〔1876〕・明治10年〔1877〕の二説あり)、大正12年(1923)の関東大震災では大仏の面部が落下、さらに、第二次世界大戦における金属供出令により大仏の体・脚部を国へ供出したため、面部のみが寛永寺に遺った。寛永寺では、昭和47年(1972)丘陵上野左手に壁面を設け、ここに「上野大仏」の顔をレリーフ状に奉安した。
 なお、江戸時代の大仏は、いずれも南に向かって造立され、丘陵の南側には当時の参道(石段)が現存する。
 また、同じく丘陵上の正面にある建物は、「パゴダ」(仏塔のこと)と呼ばれている。上野観光連盟が上野公園の名所のひとつとするために建設したもので、昭和42年(1967)3月着工、同昭和42年(1967)6月に完成した。高さ15メートル、内部には中央に薬師如来、左側に月光菩薩、右側に日光菩薩を安置している。この薬師三尊像は、江戸末期まで東照宮境内にあった薬師堂の本尊で、明治初期の神仏分離令により寛永寺に移管、さらにパゴダの本尊として迎えられた。
 平成13年(2001)3月  台東区教育委員会

           UENO GREAT BUDDHA AND PAGODA
 During the Edo period within the precincts of Knei-ji temple,there wasa great Buddha statue on top of hill in front of you.This site is known as "Daibutsu yama"(Great Buddha hill).
 In 1631,the first great Buddha was created by a feudal lord Hori Naoyori,Lord Hori governed the area around Murakami in Niigata Prefecture.It was a seated Buddha of 2.8 meters in height,but was destroyed by an earthquake in 1647.
 The second Buddha was created by the monk Jyoun who collected(donations) money from Edo citizens.It was also a seated Buddha 3.6 meters tall.    
 The face of the second Buddha images fell off during the Great Kanto Earthquake in 1923,and later the body and pedestal were delivered to the government under theMetal Acquisition Law,which ardered the delivery of metallic goods owned by citizens to the government,to produce weapons during the WWII.Only the face remains at Knei-ji remple.In 1967 a wall was built on top of the hill and the Buddha head was enshrined on the wall in a relief style setting. Then in 1972 the Ueno Tourist Association built the current pagoda,including three Buddhist images of Yakushi Nyorai (Physician of souls),Gakko Bosatsu and Nikko Bosatsu.


所在地 台東区上野公園8 (上野恩賜公園)

 野口英世は、明治9年(1876)11月9日、福島県猪苗代湖畔の農家に生まれた。明治31年(1898)、北里柴三郎主宰の伝染病研究所助手となり、明治33年(1900)12月に渡米、明治37年(1904)よりロックフェラー医学研究所で梅毒スピロヘータ等の研究を重ね、国際的にも高い評価を受けた。大正7年(1918)からは中・南米やアフリカに赴き、黄熱病の研究に努めたが、やがて自らも感染してしまい、昭和3年(1928)5月21日、現在のアフリカ・ガーナ国の首都アクラで没した。享年53歳。
 野口英世銅像は総高約4.5メートル(台石を含む)、製作者は多摩武術大学教授吉田三郎。英世の写真に基づき、試験管をかざした実験中の姿を表現したもので、台石にはラテン語で「PRO BOMB HUMANIGENERIS(人類の幸福のために)」と刻まれている。
 銅像造立の活動をはじめて起こした人物は、福島県三春町出身の玉応不三雄である。玉応は英世の偉業を後世に伝えようと、昭和22年(1947)より募金活動を行ったが、国内の経済力が貧弱な時期にあって困難をきわめ、中途にして病に倒れた。その後、日本医師会・北里研究所・野口英世記念会等が活動を引き継ぎ、昭和25年(1950)には東京都教育委員山崎匡輔を建設委員長にむかえ、山崎の周施によて上野公園に造立されることが決定した。
 昭和26年(1951)3月、現在地に造立。月は異なるものの英世の命日である同月21日に除幕式が行われた。
 なお、銅像全面の標示石・敷石は昭和46年(1971)に会津会が設置したものである。
 平成14年(2002)3月  台東区教育委員会



         Brone Statue of Noguchi Hideyo
 Niguchi Hideyo was born in 1876 in Fukushima Prefecture.Going to the United Sttates of America in 1900,he began research on the syphilis sporochete at the Rockefeller Medical Research Institute in 1904.From 1918 he continued his research in Central and South America,as well as Africa where he hoped to study Yellow Fever.However,before long,he himself contradtes he descase and in 1928,at the age of 53,he passed away in what is now the country of Ghana.The approwimately four and a half meter statue of Noguchi was made by Professor Yoshida Saburo of the Tama Art University.Heating a test tube in the midst of experimentation ,the Latin wards."PRO BOMB HUMANI GENERIS"("For the Good of Humankind" ),are inscribed on the stone base.
 Plans for erecting the statue began in 1947 when Tamao Fumio of Fukushima continued with the Noguchi Hideyo Memorial Socienty after Mr.Tamao succumbed to illness.The fund drive was completed in March 1947.



所在地 台東区上野公園12-49 (上野恩賜公園)

東京都選定歴史的建造物
  国際子ども図書館(旧帝国図書館)
   設計者 久留正道 真水英夫 岡田時太郎
   建築年 明治39年(1906)3月  昭和4年(1929)


                          小泉八雲記念碑

 この図書館は、明治5年(1872)8月湯島の聖堂内に開館した書籍館(文部省博物局所管)以来の伝統を受け継いでいる。書籍館は幾度か名称の変更を経て、明治30年(1897)4月に帝国図書館となった。この建物は明治39年(1906)3月帝国図書館新築工事の第一期分として竣工したものである。
 当初の建設構想は大きく、全部が完成すると東洋一の図書館になる予定であったが、当時の財政事情により全体の四分の一程度が完成するに留まった。その後、建物の左側の部分が昭和4年(1929)に増築され、現在の規模となった。
 昭和24年(1949)からは、国立国会図書館支部上野図書館として一般公衆の利用に供することを主たる目的として運営されてきたが、改修工事を行い、平成12年(2000)5月5日国立国会図書館国際子ども図書館として開館、現在に至っている。躯体はほぼ創建時のままとすることで、全体として洗練されたネオ・ルネッサンス調の風格のある建築となり、明治の雰囲気を今に残している。
  東京都生活文化局


所在地 台東区上野公園13 (上野恩賜公園)


博物館動物園駅跡
              京成電鉄株式会社



所在地 台東区上野公園9-88 (上野恩賜公園)

 藤堂高虎(1556~1630)は上野山内の屋敷の中に、徳川家康を追慕し、家康を祭神とする宮祠を造った。これが上野東照宮の創建といわれている。あるいは寛永4年(1627)、宮祠を造営したのが創建ともいう。もとは「東照社」と称していたが、正保2年(1645)に宮号宣下があり、それ以後家康を祭る神社を東照宮と呼ぶようになった。
 現在の社殿は、慶安4年(1651)、3代将軍家光が大規模に造り替えたもので、数度の修理を経ているが、ほぼ当初の姿を今に伝える。社殿の構造は、手前より拝殿、幣殿、本殿からなり、その様式を権現造りという。社殿は都内でも代表的な江戸時代初期の権現造りで、華麗荘厳を極めている。
 唐門、透塀は社殿とともに構造、様式が優れており貴重であることから、参道入口の石造明神鳥居、唐門前に並ぶ銅燈籠四十八基と合わせて国の重要文化財に指定されている。
 平成21年(2009)3月 台東区教育委員会

    UENO TOSHOGU
 Todo Takatora(1556-1630) constructed a shrin dedicated to Tokugawa Ieyasu on the grounds of his residence on present-day Ueno Hill.This is said to be the beginnings of Ueno Toshogu.One theory places the year of its construction at 1627.It was originally called Toshosha,but was renamed Toshogu in 1645 when ti was officially recognezed as a shrine dedicated to the founder of the Tokugawa Shogunate.
 The current building was rebuilt in 1651 by Iemitsu,the fhird Tokugawa Shogun.It has gone through several renobations since then,but for the most part retains its original form.The shrine follows the Gongen style of architecture,with separate structures for pilgrims and for rituals,in addition to the main shrine building.Its austere but exquisite features make it one of the most representative examples of early Edo Gongen architecture still standing in Tokyo.
 Brcause of their historical value as well as superior form and structure, the Chinese-style gate and wall,the 48 bronze lanterns in front of them,and the stone torii-style shrine gate have all been designated by the Japanese government as important cultural assets together with the shrine itself.




 祭神  
徳川家康・徳川吉宗・徳川慶喜
 縁起  
元和2年(1616)2月見舞いのため駿府城にいた藤堂高虎と天海僧正は危篤の家康公の病床に招かれ三人一処に末永く魂鎮まるところを造って欲しいと遺言された そこで高虎の家敷地であるこの上野の山に寛永4年(1627)に本宮を造営した その後将軍家光はこの建物に満足出来ず慶安4年(1651)現在の社殿を造営替えし、江戸の象徴とした。



上野東照宮域内には以下のものがあります。

唐門(左甚五郎作竜)透塀拝殿(金色殿)幣殿本殿棟れー以上明治40年(1907)国宝指定
銅灯篭 昭和17年(1942)国宝指定
大石鳥居 寛永10年(1633)酒井忠世建築奉納 国指定重要文化財
紅葉山鳥居 寛永3年(1626)
石灯篭220基 主に慶安4年(1651)
水舎門 慶安4年(1651)
お化灯篭 寛永8年(1631)
茶室(明暦2年〔1656〕)
神門辰五郎水舎(明治6年〔1873〕)
神楽殿(明治7年〔1874〕勾配の美都下随一)
陣羽織(都重宝)
辻ヶ花染胴服(都重宝)
広島・長崎の火



所在地 台東区上野公園9-88 (上野恩賜公園 上野東照宮

 東照宮社殿唐門前と参道に、五十基の銅燈籠が並んでいる。燈籠は神事・法会を執行するときの浄火を目的とするもの。照明用具ではない。浄火は神事・仏事に使う清めた火。燈籠は上部から、宝珠・笠・火袋・中台・竿・基壇で構成されている。火袋は、八角・六角・四角などの形式に分かれ、各面には火口・円窓という窓を設けている。火袋下部の長い部分を竿といい、ここに銘文を刻むことが多い。
 これら銅燈籠は、諸国のだいみょうが東照大権現霊前に奉納したもの。竿の部分には、寄進した大名の姓名と官職名・奉納年月日等が刻字されている。それによると、伊勢国(現三重県)津藩主藤堂高虎奉献の寛永5年(1628)銘一基をはじめ、慶安4年(1651)正月17日奉献二基、同慶安4年(1651)4月17日奉献四十五基、慶安5年(1652)孟夏17日奉献二基となっている。慶安4年(1651)4月17日は東照宮社殿落慶の日。その日の奉献数が最も多い。これら銅燈籠は、東照宮社殿とともに一括して、国の重要文化財に指定されている。
 平成8年(1996)7月  台東区教育委員会

            COPPER LANTERNS
 There are 50 copper lanterns at Toshogushaden Karamonmae(in front of Karamon gate of Tosogu shrine main building) and Sando(the approach to the shrine).The lanterns are not used for illumination purposes,but are used forpurification and sacred fires required when performing religious ceremonies.There copper lanterns were the offerings of the Daimyos(feudal lords)from all over Japan to Toshogu shrine.The names of the donors are written on the supports of the lanerns.There oanterns,together with Toshogu shrine's main building,are designated as National Treasures of Japan.


所在地 台東区上野公園9-88 (上野恩賜公園 上野東照宮

   唐門(唐派風造り四脚門)



 日本には一つしかない金箔の唐門である。扉には梅に亀甲の透彫、門柱には左甚五郎作昇竜(右)降竜の高彫、門の側面左右上部の松竹梅に錦鶏鳥の透彫など非常に精巧を極めたものである。
 明治40年(1907)に国宝に指定された。



所在地 台東区上野公園9-88 (上野恩賜公園 上野東照宮

    「広島・長崎の火」の由来
 1945年8月6日・9日、広島・長崎に人類最初の原子爆弾が米軍によって投下、一瞬にして十数万人の尊い生命が奪われました。そして今も多くの被爆者が苦しんでいます。
 広島の惨禍を生きぬいた福岡県星野村の山本龍雄さんは、叔父の家の廃墟に燃える原爆の火を故郷に持ち帰り、はじめは形見の火、恨みの火として密かに灯し続けました。しかし、長い月日の中で、核兵器をなくし、平和を願う火として灯すようになり、1968年8月6日、星野村は、この「広島の火」を「平和の火」として、村人の手によって今日も灯し続けています。
 核兵器の使用は、人類の生存とすべての文明を破壊します。
 核兵器を廃絶することは、全人類の死活にかかわる緊急のものとなっています。
 第二のヒロシマを
 第二のナガサキを
  地球上のいずれの地にも出現させてはなりません。
 これは「ヒロシマ・ナガサきからのアピール」(1985年2月)の一節です。
 1988年、3千万人のこのアピール署名と共に「広島の火」は長崎の原爆瓦から取った火と合わされて、ニューヨークの第三回国連軍縮特別総会に届けられました。
 同1988年4月、「下町人間のつどい」の人々は、この火を首都東京上野東照宮境内に灯し続けることを提唱しました。上野東照宮嵯峨敞全宮司は、この提唱に心から賛同され、モニュメントの設置と火の維持管理に協力することを約束されました。
 広範な人々のよびかけによって、翌1989年4月、「上野東照宮境内に〈広島・長崎の火〉を灯す会」が結成されました。それから一年余、数万人が参加した草の根の運動と募金により、1990年7月21日、モニュメントが完成しました。
 被爆45周年を迎えた8月6日に星野村の「広島の火」が、8月9日に長崎の原爆瓦から採火した「長崎の火」が、このモニュメントに点火されました。
 私たちは、この火を灯す運動が、国境をこえて今緊急にもとめられている核兵器廃絶、平和の世論を強める全世界の人々の運動の発展に貢献することを確信し、誓いの火を灯し続けます。   
 1990年8月 上野東照宮境内に「広島・長崎の火」を灯す会



       The Origin of "the Flame of Hiroshima and Nagasaki"
On August6,1945,US forces dropped the world's first atomic bomb on Hiroshima,and anothe on Nagaski on August 9 the same year,claiming the lives of hundreds of thousands of people in an instant.Even now,many survivors are still suffering from the damage.
 
Sometime later,Tatsuo Yamamoto went to Hiroshima in search  of his uncle,and found a flame of the atomic bomb burning in the ruins of his uncle's house.He brought it back to Hoshino-mura,his houmetown in Fukuoka perfecture.He kept it burning in his house as a memento of his uncle and an expression of his resentment.But years went by,the meaning of the flame turned into a symbol of his desere for abolition of unclear weapons and for peace.Hosiino-mura village build a torch and transferred the flame to it on August 6,1968.It has been keeping the flame ever since as the flame for peace,with the support of the villagers.

 "The use of unclear weapons will destroy the whole human race and civilization ...The elimination of unclear weapons...has bicome the most urgent and crucial for the very survivals of the whole of fumanity.
There must never be another Hiroshima anywhere on earth.
There must never be another Nagasaki anywhere on earth."
(From the "Appeal from Hiroshima and Nagasaki"issued in February 1985)
In 1988,a flame was taken from the torch and was merged with another flame lit by the friction of broken roofing tiles of Nagasaki.Along with 30 million signatures collected in suppport of the"Appeal from Hiroshima and Nagasaki",it was carried to the third Special Session of the UN General Asembly for Disarmament takinga place in New York City.

In April the same year,members of "Shitamachi People Association"put forward an idea of lighting the flame at the precinct of Ueno Toshogu Shrine inTokyo.Rev.Shozen Saga,the chief priest,warmly welcomed the proposal,and promised to set upa monument and work together to keep the flame burning.

In April 1989,an "Association for the Flame of Hiroshima & Nagasaki Lit at the Ueno Toshogu"was founded with the people of wade ranging people.Tens of thousands of people took part in the fund-raising for over one year and the construction of the monument was completed on July 21,1990.

In commemoration of the 45th year of the A-bomb tragedies,a flame of Hiroshima was taken from Hoshino-mura and lit at the monument on August 6,and a flame of Nagasaki,generated by the fribtion of Nagasaki roofing tiles,was also added to the monument.

We,hereby pladge to keep burning the A-bomb flame,convinced that this monument should contribute to strengthening the worldwade people's movement to abolish unclear weapons and achieve peace,which is the most urgent task for the people across the borders.

August 1996
Association for the Flame of Hiroshima&Nagasaki Lit at the Ueno Toshogu     


所在地 台東区上野公園4-17 (上野恩賜公園)

  五條天神社
・花園稲荷神社


  
  五條天神社
御祭神 主神 大己貴命 少彦名命(医・薬祖神)
      相殿 菅原道真命(寛永18年〔1641〕に合祀・約350年前)
御由緒
 第12代景行天皇の御代、日本武尊が御東征の際、上野の忍岡で薬祖神二柱の大神が奇瑞を現し給い難を救われたので、ここに両神をお祀りしたと伝えられます。江戸初期、社地は神職の瀬川屋敷(上野公園下・旧五條町)に遷り、御創祀に近い現地には昭和3年(1928)9月に御遷座になりました。
 御祭日 例大祭 5月25日
医薬祭 毎月10日 病気平癒祈願・無病健康祈願
月次祭 毎月25日
 特殊神事
宝舟の神事1月1日と2日、うそ替えの神事1月25日うけらの神事2月節分の日の午後3時
 教養部 弓道・茶道・花道


  
  花園稲荷神社
御祭神 
倉稲魂命(又の御名は豊受姫命・伊勢外宮の大神)
大祭 4月11日
講祭 11月11日
祭日 毎月11・午の日
御由緒
 鎮座の年月、由緒は不詳ですが、往古より此地にあり「穴の稲荷」又は忍岡稲荷と云われました。
承応3年(330年位前)天海大僧正の高弟晃海僧正が霊夢に感じ廃絶のお社を再建して上野の山の守護神としました。この附近より北西一帯が寛永寺のお花畑であったので明治6年(1873)花園稲荷と改名し昭和3年(1928)現社殿にお遷ししました。
旧社殿の跡は俗称「お穴様」と呼ばれ晃海僧正再建の記が刻まれた岩穴が現存します。
安産の神とも云い、特に縁談、金談の願かけにいただく「白羽の矢」は古来から有名です。
 花園稲荷神社 上野観光連盟

五條天神社・花園稲荷神社境内には『稲荷坂』があります。


所在地 台東区上野公園1-30 (上野恩賜公園)

 日本芸術院は、美術、文芸、音楽など、芸術の各分野において功績が顕著な芸術家を優遇顕彰するために設けられた国の栄誉機関です。
 その歴史は、明治40年(1907)文部省美術展覧会(文展)の開催に伴って設置された美術審査委員会を母体とし、大正8年(1919)「帝国美術院」として創設されたことに始まります。昭和12年(1937)美術の他に文芸、音楽、演劇、舞踊の分野を加えて「帝国美術院」に改組、さらに昭和22年(1947)「日本芸術院」と名称を変更して今日に至っています。
 現在、同院は、院長1名と会員107名(うち日本画13名)で構成され、毎年、日本芸術院賞、恩賜賞の授与を行うほか、それら受賞作をはじめ、会員の作品を収集して公開するなど、芸術文化の振興に大きな役割を果しています。
 平成23年(2011)6月現在


所在地 台東区上野公園1 (上野恩賜公園)

天海僧正毛髪塔
 天海僧正は、江戸初期の天台宗の高僧で諡号を慈眼大師という。
 天文5年(1536)に奥州会津郡高田郷(福島県)で生まれた。11歳で出家、14歳で比叡山に登り実全に師事して天台教観を学び、さらに三井寺や奈良で諸教学を学んだといわれる。のちに江戸崎不動院(茨城県江戸崎町)、川越喜多院(埼玉県川越市)などに住し、徳川家康の知遇を受けた。元和2年(1616)家康が没すると、その神格化にあたり権現号の勅許を計り、合わせて日光廟の基本的構想をたて造営を指導した。その後も将軍秀忠・家光の帰依を受け、江戸城鎮護のため上野忍岡に寺院の建立を進言し、寛永2年(1625)に寛永寺を創建した。
 寛永20年(1643)に子院の本覚院にて108歳で示寂。遺命により日光山に葬られ、この地(旧本覚院跡)には供養塔が建てられた。後に本覚院伝来の毛髪を納めた塔も建てられ、毛髪塔と呼ばれるようになった。
 平成15年(2003)3月 台東区教育委員会



    Hair Pagoda For Priest Tenkai(Metropolitan Historical Site)
 Tenkai(1536-1643)was a high priest of the Tendai Sect at the veginning of the Edo PEriod.He was also known as Jigen Daishi.He took orders at age 11.At 14 he climbed Mt.Hiei and began formal training in the precepts of Tendai Buddhism. With the fouding of the Tokugawa bakufu government at Edo (Currently Tokyo),Tenkai received the faavor tof Tokugawa Ieyasu.Upon the death of Ieyasu,he was permitted to take a saintly name inaorder to deify the Tokugawa founding shogun.At roughly the same time the basic designs of the shrine at Nikko were being laid out and Tenkai served as an advisor in its construction.Following this,he also benefited from the attention of both Shoguns Hidetada and Iemitsu and was installed atathe newly built Kaneiji Temple in 1625 for the spiritual protection of Edo Castle.
 In 1643,atathe age of 108 he passed away at Hongakuin Temple,a branch temple of Kaneiji,and as ordered,was buried on Mt.Nikko.A pagoda to commemorate him was built at this site, and later,priest of Hongakuin built a second pagoda in order to house a lock of his hair.Thus this pagoda has come to be called the Hair Pagoda.


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