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東京都台東区の歴史
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所在地 台東区上野公園8 (上野恩賜公園 寛永寺

    大佛パゴダ
御本尊 薬師瑠璃光如来
御脇侍 日光・月光ニ菩薩
      (旧上野東照宮薬師堂ご本尊)
沿革
寛永8年(1631)堀丹後守直寄公が釈迦如来尊像を当山に建立せられ、1660年頃青銅の大仏に改鋳され。
大正12年(1923)、大震災で破損のため撤去する。

パゴダ建立
発願者 上野観光連盟
寄進者 大成建設株式会社
 昭和42年(1967)7月吉日竣工  東叡山 寛永寺




    上野大仏略記
寛永8年(1631)越後の国村上城主堀丹後守直寄公旧自邸内のこの高台に、戦乱に倒れた敵見方将兵の冥福を祈るために土で釈迦如来像を造立した。

 青銅大仏
明暦・万治の頃(1655~1660)木食僧浄雲師により銅佛に改められた。
 仏殿
元禄11年(1698)露座の大仏に仏殿が建立された。
 改鋳
天保12年(1841)火災に遭い、天保14年(1843)、末孫堀丹波守直央公が大仏を新鋳しまた仏殿を再建した。

大正12年(1923)関東大震災によって佛頭がおち、寛永寺にて保管、その後、佛体は解体され第二次世界大戦時に献納された。
昭和47年(1972)春彼岸、尊顔を再び旧地に迎えて祀り再建を計る一助とする。
 昭和47年(1972)春彼岸
   註、「上野大仏略史」は清水観音堂に有ります。

     上野大仏とパゴダ
 正面の丘は、かつて「大仏山」と呼ばれ、丘上にはその名のとおり大きな釈迦如来坐像が安置されていた。 
 最初の大仏は、越後(現、新潟県)村上藩主堀直寄が、寛永8年(1631)に造立した2メートル80センチ前後の釈迦如来像であったが、粘土を漆喰で固めたものであったため、正保4年(1647)の地震により倒壊してしまった。
 明暦~万治年間(1655~1660)には、木食僧浄雲が江戸市民からの浄財によって、3メートル60センチをこえる青銅製に堂々たる釈迦如来坐像を像立した。その後、元禄11年(1698)輪王寺宮公弁法親王が、同像を風雨から覆うための仏殿を建立。天保12年(1841)の火事によって大仏・仏殿ともに被害を受けたが、1年半後の天保14年(1843)には、最初の造立者堀直寄の子孫堀直央が大仏を修復、幕府が仏殿を再建した。さらに、安政2年(1855)の大地震では大仏の東部が倒壊したものの、間もなく堀家が修復している。
 しかし、明治6年(1873)上野公園開設の際に仏殿が取り壊され(年代については他に明治9年〔1876〕・明治10年〔1877〕の二説あり)、大正12年(1923)の関東大震災では大仏の面部が落下、さらに、第二次世界大戦における金属供出令により大仏の体・脚部を国へ供出したため、面部のみが寛永寺に遺った。寛永寺では、昭和47年(1972)丘陵上野左手に壁面を設け、ここに「上野大仏」の顔をレリーフ状に奉安した。
 なお、江戸時代の大仏は、いずれも南に向かって造立され、丘陵の南側には当時の参道(石段)が現存する。
 また、同じく丘陵上の正面にある建物は、「パゴダ」(仏塔のこと)と呼ばれている。上野観光連盟が上野公園の名所のひとつとするために建設したもので、昭和42年(1967)3月着工、同昭和42年(1967)6月に完成した。高さ15メートル、内部には中央に薬師如来、左側に月光菩薩、右側に日光菩薩を安置している。この薬師三尊像は、江戸末期まで東照宮境内にあった薬師堂の本尊で、明治初期の神仏分離令により寛永寺に移管、さらにパゴダの本尊として迎えられた。
 平成13年(2001)3月  台東区教育委員会

           UENO GREAT BUDDHA AND PAGODA
 During the Edo period within the precincts of Knei-ji temple,there wasa great Buddha statue on top of hill in front of you.This site is known as "Daibutsu yama"(Great Buddha hill).
 In 1631,the first great Buddha was created by a feudal lord Hori Naoyori,Lord Hori governed the area around Murakami in Niigata Prefecture.It was a seated Buddha of 2.8 meters in height,but was destroyed by an earthquake in 1647.
 The second Buddha was created by the monk Jyoun who collected(donations) money from Edo citizens.It was also a seated Buddha 3.6 meters tall.    
 The face of the second Buddha images fell off during the Great Kanto Earthquake in 1923,and later the body and pedestal were delivered to the government under theMetal Acquisition Law,which ardered the delivery of metallic goods owned by citizens to the government,to produce weapons during the WWII.Only the face remains at Knei-ji remple.In 1967 a wall was built on top of the hill and the Buddha head was enshrined on the wall in a relief style setting. Then in 1972 the Ueno Tourist Association built the current pagoda,including three Buddhist images of Yakushi Nyorai (Physician of souls),Gakko Bosatsu and Nikko Bosatsu.
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