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東京都台東区の歴史
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所在地 台東区蔵前3-22-9 (正覚寺)

都旧跡
 石川雅望墓   
     昭和18年(1943)5月指定

 江戸時代著名な俳歌師、六樹園を称し、字(あざな)を子柏といった。五老斎、逆旅主人または蛾術斎と号した。また石川五郎兵衛といい狂歌を蜀山人に学び狂名を宿屋飯盛といった。小伝馬町3丁目の旅館糟屋七兵衛(画名を石川豊信)の子として生れ、青年期には行状放逸で、父の死に逢って学問を好むようになったという。しかし、強訴(ごうそ)を援助したという嫌疑をうけ、しばしば法廷によばれ、ついに江戸を追われて多摩群府中に住むようになった。彼はここで和歌を学び、晩年狂歌をよくした。著書には「源注余滴」「雅言集覧」などがあり、戯著小説類も数種ある。文政13年(1830)閏(うるう)3月24日歿。年78。
  昭和43年(1968)3月1日建設 東京都教育委員会           

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所在地 
台東区蔵前4-37-8

『 川柳発祥の地 』 台東区長 住吉弘

 宝暦7年(1757)8月25日、当地(旧浅草新堀端天台宗龍宝
寺門前)里正柄井八右衛門、無名庵川柳と号し、初めて万句合を開巻す。爾来文運旺んに、遂には文芸の名をもって呼ばれ、今日至る川柳隆盛の礎を開く。本年その250年に当たって、後学相語り、一碑を建てて開祖の遺業を顕彰し、永く歴史に留めん祈念するものなり

 平成19年(2007)8月25日  川柳250年実行委員会


所在地 台東区蔵前4-16-16 (西福寺)

 浮世絵師。宮川氏ともいい、旭朗斎または、西爾と号した。俗称は佑助。浮世絵を画き、また書を能した。はじめ嵩谷に学び、歌舞伎俳優の肖像および五人男の図をよくした。また武者絵に巧みで、はじめ人形町林屋七右衛門の家に寄食し、貧しいため名印がなく、林屋の受領印をもって代えた。印文は壺の中に林の字があった。このために人々は彼を壺屋と呼んだという。寛政4年(1792)12月8日没した。没後門人春好が二世春章となり、同じく壺形の印形を用いたため、人々は彼を小壺と呼んだ。

 昭和43年(1968)3月1日建設 東京都教育委員会



所在地 台東区蔵前4-16-16 (西福寺)

 明治2年(1869)3月、明治新政府は幕府・藩による政治体制にかわる新しい日本の構築にあたって、国民全体の教育の推進をはかるため、小学校の設置を定め、明治3年(1870)3月、東京に6つの小学校を設立した。
 その1つが、本寺境内に設立された「仮小学 第4校」で、現在の育英小学校の前身である。開校日は明治3年(1870)6月23日で、現蔵前・鳥越・浅草橋・柳橋・三筋付近に居住していた旧大名・旗本及びその家臣の子弟たちが入学したといわれる。したがって、当地は、明治5年(1872)8月の学制発布に先だつ、東京で最も早い公立小学校発祥の地である。
 当校は、明治7年(1874)4月中旬に医学館跡地(現浅草橋4丁目17番付近)へ移転、明治10年(1877)8月、育英小学校と改称し、明治18年(1885)10月に現在地(浅草橋2丁目26番8号)に移った。
 平成8年(1996)3月   台東区教育委員会

          BIRTHPLACE OF IKUEI PRIMARY SCHOOL
 In March of 1869 the Japanese government  started revolutionizing the Japanese education system. In the following March it opened 6 primary school in Tokyo. One of them was opened here in the precincts of Saifukuji temple and called the 4th school. This is the birthplace of one of the earliest public primary schools in Tokyo.
 The 4th school existed here until the middle of April in 1874. In August in 1877 it was renamed Ikuei primary school and in Octover 1885 this school was moved to the present siete (8-26,2-chome,Asakusabashi). 


所在地 台東区蔵前4-15-2 (法林寺)

         高嵩谷墓
 高嵩谷は、享保15年(1730)江戸に生まれる。江戸中期の画家で、名を一雄、号を屠竜翁、翠雲堂などと称した。画を英一蝶の門人佐脇嵩之に学んだ。
 英一蝶は、市井の風俗を軽妙に描写し、英派という一派を開いた元禄期を代表する画家の一人である。
 嵩谷は、一蝶風の風俗画を得意としたが、のちには、武者絵に新境地を開いた。浅草寺に現存する大絵馬「源三位頼政鵺退治図」は、天明7年(1787)の制作で、嵩谷の代表作のひとつ。『平家物語』に記されている。源頼政が紫宸殿で猪ノ早太と共に怪獣鵺を射止めた武勇伝を描いたものである。また、根岸3丁目の永称寺には、墨画竹虎図の屏風がある。
 文化元年(1804)8月、75歳で没し、当寺に葬られた。なお、墓所は非公開である。
 平成8年(1996)3月   台東区教育委員会

         TOMB OF KOU SUKOKU
 Kou Sukoku was born in 1730.He was a painter in the middle of the Edo era and excellent at pictures of famous samurai in combat.Among all,the pibture called"Extermination of a chimera",which is now kept at Sensoji temple,is considered one of the most representatives of his work.It depicts a legend from the Heike Monogatari(Story of Heike Family) about a warlord called Minamoto Yorimasa who exterminated a chimera.
 Kou Sukoku passed away at the age of 75 years old in August of 1804 and was buried in this temple.


所在地 台東区蔵前4-17-14 長應院(長応院)


                        石造宝篋印塔


所在地 台東区蔵前4-18 (浄念寺)

 都旧跡
三島政行墓
    昭和5年(1930)12月11日指定



 三島政行は通称を政蔵といい、知還翁、凸凹斎などの号を称していた。西丸御留守居三島政春の六男として江戸牛込船河原町(現在新宿区)で生まれた。15才の時に分家の三島大助政世の養子となり、文政元年(1818)御書院番となり、ついで清水殿物頭に転じた。
 文政9年(1826)幕命によって、江戸府内の地誌「御府内風土記」の編纂を行い、3年にして完了したが、明治6年(1873)に皇城炎上により焼失、その際に災を免れた資料集が「御府内備考」である。このほか昌平黌地理局総裁林述斎を中心として編纂した「新編武蔵風土記稿」「新編相模風土記稿」の事業にも参画し、「葛西志」などの編纂にも従事しており、その功績は大きい。安政3年(1856)9月29日、年77で歿した。
 昭和43年(1968)10月1日建設 東京都教育委員会


三島政行氏の御子孫の方よりご連絡頂き、訂正箇所・修正箇所等ご指導頂きました。原文そのまま以下に掲載させて頂きます。
拝啓。私は、三島政行の子孫の一人です。教育委員会設置の案内板の誤りについて、書きます。先ずは、知遇翁は知還翁の誤りです。墓石を見れば一目瞭然。御府内風土記は編纂された形跡が、幕府蔵書目からも見当たりません。御府内備考で終わっています。明治5年皇城炎上は、明治6年です。
2011年12月16日


所在地 台東区蔵前4-36-7 (竜宝寺) 

 都旧跡
  初代柄井川柳墓
                 昭和3年(1928)3月指定



 享保3年(1718)に生まれた江戸中期の川柳の点者。通称を八右衛門といい、名を正通、緑亭川柳、無名庵を号した。江戸浅草の人手浅草阿部川町の名主であった。はじめ談林派俳諧の点者となり、宝暦7年(1757)前句付点者としてすぐれた力量をあらわした。やがて、一派の狂句を発明し、世に彼の選句を川柳点といい、のち付句が独立して川柳と称せられるにいたったのである。川柳撰集として「柳樽」が有名である。川柳は雑俳の1つで、前句付が上方に流行したが、まもなく江戸に伝わり、柄井川柳が出てから盛況をきわめた。川柳と言われるようになったのは明治時代であり、季、切字などの制約がない。柄井川柳の名は13代まで受け継がれた。
 昭和43年(1968)3月1日 東京都教育委員会


所在地 台東区蔵前1-3

 この碑から約100メートル川下に当たる、浅草御蔵の四番堀と五番堀のあいだの隅田川岸に、枝が川面にさしかかるように枝垂れていた「首尾の松」があった。
 その由来については次のような諸説がある。
1.寛永年間(1624~1643)に隅田川が氾濫したとき、3代将軍家光の面前で謹慎中の阿部豊後守忠秋が、列中に伍している中から進み出て、人馬もろとも勇躍して川中に飛び入り見事対岸に渡りつき、家光がこれを賞して勘気を解いたので、かたわらにあった松を「首尾の松」と称したという。
2.吉原に遊びに行く通人たちは、隅田川をさかのぼり山谷堀から入り込んだものだが、上り下りの舟が、途中この松陰によって「首尾」を求め語ったところかたの説。
3.首尾は「ひび」の訛りから転じたとする説。江戸時代、このあたりで海苔をとるために「ひび」を水中に立てたが、訛って首尾となり、近くにあった松を「首尾の松」と称したという。
 初代「首尾の松」は、安永年間(1772~1780)風災に倒れ、更に植え継いだ松も安政年間(1854~1859)に枯れ、三度植え継いだ松も明治の末頃枯れてしまい、その後「河畔の蒼松」に改名したが、これも関東大震災、第二次大戦の戦災で全焼してしまった。昭和37年(1962)12月、これを惜しんだ浅草南部商工観光協会が、地元関係者とともに、この橋際に碑を建立した。現在の松は7代目といわれている。
 平成11年(1999)3月 台東区教育委員会


 

            SHUBI NO MATSU
 About 100 meters(about 330 ft.)down the Sumida River from this monument,on the riverbank,there used to be famous no Matsu ree'Shubi no Matsu'(pine tree of success).
 The origin of the name of the pine tree Shibi is not exactly clear but here are some explanations:
 1.It was named becouse a man, a shogun's retainer,'successfully'rode a horse across the flooded Sumida River from the pine tree to the other bank in the presence of the third shogun,Iemitsu.
2.Men of the world talked together under this pine tree about their 'Shubi(success)'at Yoshiwara when they crossed the Sumida river.
3.Laver (edible seaweed)used to be harvested here using 'hibi'(long sticks to collect laver)stuck in the river, and the pronunciation of 'hibi'was corrupted into 'shubi'.
 The first 'Shubi no Matsu'was blown down during the An'ei era(1772-1780),its successor died during the Ansei era(1854-1859),the third died at the end of the Meiji era(around 1910),and their succrssors were entirely destroyed by the fires of the Kanto Great Earthquake of 1923 and the Second World War.In Desember,1962,members of Asakusa-nanbu Association of Commerce,Industry and Tokugawa regretted the loss of these pines and built a monument close to this bridge in cooperation with the local people.The present pine monument is said to be the sebenth tree.


所在地 台東区蔵前1-4-3

第六天榊神社
 東京下町 八社福参り 健康長寿

御祭神  榊皇大神
御神徳  健康長寿 諸業繁栄
御鎮座  景行天皇御宇40年日本武尊御創祀
御祭壇  6月第1土・日曜日



 境内には『三ノ宮卯之助大鳳石〔力石〕』、『事比羅神社・豊受神社』、『七福稲荷神社』、『浅草文庫跡碑』、『蔵前工業学園の蹟』、『繁昌稲荷神社』があります。




所在地 台東区蔵前1-4-3 (榊神社)

 浅草文庫は、明治7年(1874)7月に創設された官立の図書館である。翌明治8年(1875)に開館し、公私の閲覧に供した。当時の和・漢・洋の蔵書数は11万余冊ともいわれている。現在、その蔵書は、国立公文書館内閣文庫や国立国会図書館、東京国立博物館などに所蔵され、太政大臣三条実美の筆蹟と伝える「浅草文庫」の朱印が押されている。
 明治14年(1881)5月に閉鎖。跡地は翌明治15年(1882)に設立の東京職工学校(旧東京高等工業学校、現東京工業大学)の敷地の一部となった。関東大震災後の大正13年(1924)、当時の東京高等工業学校は目黒区大岡山に移転。
 昭和3年(1928)に現在地に移ってきた榊神社のあたりは、かつて、浅草文庫が位置していたところである。高さ約4メートルの碑は、この文教の旧地を記念して、昭和15年(1940)11月建立された。
 平成13年(2001)3月 台東区教育委員会

      MONUMENT OF ASAKUSA PUBLIC LIBRARY
 In July 1874,the Asakusa public library was esstablished,and opened the following year for private and public use.
 While it was open,the library was said to have anywher between 110,000 to 13,000 books written in Japanise,Chinese and Western Languages.These books are now housed in the National Official document Cabinet library,National Diet Library and Tokyo National Museum Library.All the books that were in the Asakusa library have the sramp of the Asakusa library,that was hand stamped by on of the Cabinet ministers of the day,Sanjo Sanetomi.
 The library closed in May 1881 and in the following year,it became a part of Tokyo Techinology High School,now known as the Tokyo technology University.In 1924 the Tokyo Technology High School meved to it's current position in Ookayama in Meguro City.
 In 1928,the current Sakaki shrine was buuilt.Later in November 1940 the current monument(approx 4m)to mark the place of the previous Asakusa library as a cultural and educational area was built.


所在地 台東区蔵前1-4-3 (榊神社)

 蔵前工業学園之蹟

 本石碑は, 当地にあった東京高等工業学校(現東京工業大学)を記念し、工業教育発祥の地として同窓会の蔵前工業会が建立したものである。
 当校は、 工業指導者の養成を目的として、 明治十四年五月東京職工学校として創設され、 明治二十三年三月東京工業学校、 明治三十四年東京高等工業学校と改称された。
 当校は、常に日本の工業教育の指導的地位にあり、 また、 多くの留学生を教育するなど、 科学技術の発展に貢献し、 東京の出身者は「蔵前の出身」という愛称で重用された。
 しかし、 大正十二年九月の関東大震災により、校舎、 工場等が灰塵に帰したため、 学校当局は、当地での再建を断念、 目黒区大岡山に移転した。当地の敷地は、 正門の位置に建てられている本石碑を中心に、 隅田川に沿って面積四万三千平方メートルに及んでいた。
 側面に「昭和十八年三月吉日 社団法人蔵前工業会建立」裏面に「永田秀次郎選」の碑文が刻されている。
  平成十年三月 台東区教育委員会
 



  蔵前工業学園之蹟 碑文
裏面
 浅草蔵前ノ地ニ東京職工学校ヲ創設セラレタルハ実ニ明治十四年ノ事ニ属ス。爾来歳ヲ閲スルコト六十二星霜、技術者ヲ輩出スルコト万ヲ超エ、此間時勢ノ進運ニ伴ヒ校名ヲ明治二十三年東京工業学校ニ、同三十四年東京高等工業学校ニ改メラレタルガ,偶々大正十二年大震ニ遭ヒ、其復興ヲ企図スルニ当リ、寧ロ都心ヲ離レテ郊外ノ地ヲ卜スルニ若カズトナシ、翌十三年大岡山ノ地ニ移リ、昭和四年昇格シテ東京工業大学ト呼称セラルルニ至ル。其校門ヲ出ヅル者、何レモ質実剛健ノ校風ヲ継承シテ、今ヤ所謂蔵前出身ノ技術者ハ、全東亜ニ亘リテ建設ノ重要部門ヲ担ヒ、各其特色ヲ発揮シテ産業報国ノ実ヲ昂揚シツツアルハ、世ノ等シク認ムル所ナリ。然ルニ此工業発祥ノ地トモ謂フベキ蔵前学園ノ蹟ニ至リテハ、既ニ全ク変貌シテ其面影ヲ偲ブニ由ナク、今ニシテ之レヲ表示スルニ非ラザレバ、此由緒深キ学園ノ地モ、逐ニ湮滅セラレンコトヲ惧ル。恰モ好シ、往年其正門所在地付近一帯ハ榊神社ノ境内トナリ、之レヲ標識スルニ便アリ。是ニ於テ本会ハ神社関係者ト相図リ、石ニ刻シテ其地蹟ヲ表シ以テ蔵前工業学園ノ蹟ヲ永ク後世ニ伝ヘントス。
    昭和十七年一月吉日
            社団法人 蔵前工業会
            帝国教育会長 永田秀次郎撰
側面
  昭和十八年三月吉日
            社団法人 蔵前工業会建之
        昭和六十一年十一月吉日
            社団法人 蔵前工業会


東京高等工業學校全景(大正九年頃)(現 東京工業大学)


所在地 台東区蔵前2-1

 浅草御蔵は、江戸幕府が全国に散在する直轄地すなわち天領から年貢米や買い上げ米などを収納、保管した倉庫である。大坂、京都二条の御蔵とあわせて三御蔵といわれ、特に重要なものであった。浅草御蔵は、また浅草御米蔵ともいい、ここの米は、主として旗本、御家人の給米用に供され、勘定奉行の支配下に置かれた。
 元和6年(1620)浅草鳥越神社の丘を切り崩し、隅田川西岸の奥州街道沿い、現在の柳橋2丁目、蔵前1、2丁目にかけての地域を埋め立てて造営した。このため、それ以前に江戸にあった北の丸、代官町、矢の蔵などの米蔵は、享保(1716~1736)頃までに浅草御蔵に吸収された。
 江戸中期から幕末まで、浅草御蔵の前側を「御蔵前」といい、蔵米を取り扱う米問屋や札差の店が立ち並んでいた。現在も使われている「蔵前」という長命が生まれたのは、昭和9年(1934)のことである。
 碑は、昭和31年(1956)6月1日、浅草南部商工観光協会が建立したものである。
 平成11年(1999)3月 台東区教育委員会

       MONUMENT FOR THE TRACE OF ASAKUSA OKURA WAREHOUSE
 Asakusa warehouse was used for storing and keeping rice and so forth taht was submitted and paid as tax from land scattered across the country which was directly controlled by the Tokugawa Government,Rice in  the Asakusa was under the control of the chief treasurer.The warehouse was built in 1620 by excavating th hill of the Asakusa Torigoe Shrine and by filling the ground with earth at the present place.
 The front side of the Asakusa warehouse was called the "warehouse front" and there were many stores of rice wholesaters,weight checkers,momeytenders,etc.on this front side.
 The town name Kuramae was born in 1934 front the word OKURA front.


所在地 台東区蔵前2-2-12

祭神
 倉稲魂神(うかのみたまのかみ)
 御年神(みとしのかみ)
 豊受姫神(とようけひめのかみ)
祭日
 1月11日 5月11日 9月11日
由緒
 慶長年間江戸幕府米倉造営用の石を遠く肥後熊本より運搬の途中遠州灘の沖に於て屢々遭難あったが或る時稲荷の神の示現を得てより後は航海安全を得る事が出来た。その神徳賽の為め稲荷の社を浅草御蔵の中に創建名づけて揖取稲荷と称へ爾来今日に至って居る。鎮座以来既に370年氏神榊社の摂社として祭事怠る事無く奉仕、商売繁昌、火防の神として広く秀庶の尊信を集めてゐる。


所在地 台東区蔵前3-14-11

  御祭神 
誉田別天皇、息長足姫命、姫大神、倉稲魂命、菅原道真公、
塩土翁命
  御神徳
厄除開運、家内安全、交通安全、商売繁昌、学業成就、
安産子育
  例大祭
6月第一土曜日及日曜日

   御由緒
 当矢代は、徳川第五代将軍綱吉公が元禄6年(1693)8月5日、山城国(京都)男山の石清水八幡宮を当地に勧請したのが始まりです。依頼、江戸城鬼門除の守護神ならびに徳川将軍家祈願所の一社として篤く尊崇せられ、御朱印社領二百石を寄進せられました。文政年間の『御府内備考続編』ならびに『寺社書上』には次のように記されています。


 
 石清水八幡宮。御朱印社領二百石。当社、石清水八幡宮境内、拝領の儀は、元禄六酉年5月27日、高野山興山寺上り屋敷拝領つかまつり、同年8月、八幡宮社頭建立の節、御金子三百両拝領つかまつり、諸堂建立つかまつり候。其の節、境内坪数二千二百七十一坪六合拝領つかまつり候。其の後、享保17子年3月28日類焼つかまつり候に付、替地として、元坪の通り、浅草三嶋町に遷し置かれ候ところ、延享元子年3月20日、寺社御奉行大岡越前守忠相殿、三嶋町の儀、御祈願所に不相応にして、別けても、神前の向、宜しからず候に付、此の度、御上意を以て元地へ引き移し候よう仰せ付けられ候旨、申し渡され候。
 
 すなわち、創建39年後に類焼し、浅草三嶋町に遷されていましたが、その12年後の延享元年(1744)4月15日、元地である蔵前(八幡町)に還幸しました。当時は神仏習合思想に基づき、全国の主要な神社には付属して別当寺が建立されていました。そして、当社石清水八幡宮の別当寺としては、雄徳山大護院(新義真言宗)が営まれ、江戸の「切絵図」にも見られます。
 正式な社号は『石清水八幡宮』ですが、一般には『蔵前八幡』または『東石清水宮』と唱えられ、庶民の崇敬者がはなはだ多く関東地方における名社の一つに数えられました。
 また、天保12年(1841)12月には、日本橋の「成田不動」(成田山御旅宿)が、幕府の方針に基づく寺社御奉行松平伊賀守忠優の達を受けて、当社境内に遷されました。
 江戸時代も幕末の安政2年(1855)10月2日、江戸を襲った所謂「安政の大地震」では、儒学者藤田東湖を含む1万余人もの犠牲者を見てしまいましたが、幕府は安政4年(1857)7月、当社境内に高さ1丈5尺の「宝塔」1基(大施餓鬼塔)を建立し、その10月には開眼供養を行わしめました。 
 明治に入ると、その3月に「神仏分離令」が布告され、別当寺である雄徳山大護院は廃寺となりました。そして、成田不動は、明治2年(1869)深川に遷され、大施餓鬼塔も、明治3年(1870)練馬の東高野山に移されました。
 明治6年(1873)8月、郷社に列格し、明治11年(1878)11月、社号をそれまでの「石清水八幡宮」から、「石清水神社」と改称、さらに明治19年(1886)4月、再び『石清水八幡宮』と改称しました。
 其の後、大正12年(1923)9月の関東大震災および昭和20年(1945)3月の戦災により社殿を焼失、昭和22年(1947)9月、隣接の稲荷神社と相殿・北野天満宮とを合併合祀し、昭和26年(1951)3月、社号を『蔵前神社』と改称、平成7年(1995)10月、創建当初から境内神社として鎮座の「塩竃神社」(陸前国宮城郡鎮座塩竃神社遥拝殿)を合祀して現在に至っています。
 また、当社は相撲との深い関係があります。江戸時代のことですが、当社境内で勧進大相撲が開催されました。その回数は宝暦7年(1757)10月を始めとして、安永・天明・寛政・享和・文化・文政と約70年の間に23回にも及び、その三大拠点の一つでした。
 とくに、天明年間には、大関谷風や関脇小野川が、寛政年間には、大関雷電などの名力士も等社境内を舞台に活躍していました。当社で開催された本場所では幾多の名勝負が見られましたが、なかでも、天明2年(1782)2月場所7日目、安永7年(1778)以来、実に63連勝の谷風が新進小野川に「渡し込み」で敗れた一番は江戸中大騒ぎとなりました。現在の『縦番付』は宝暦7年(1757)10月、当社で開催された本場所から始められたものです。そして、当社で開催された宝暦11年(1761)10月場所より従来の勧進相撲が『勧進大相撲』となり、当場所以来の『全勝負付け』も現存しています。このように当社の境内は相撲熱で大いに賑わったものであり、明治時代には花相撲が行われたりもしていました。
 かヽる史実に基づいて、財団法人大日本相撲協会(現・財団法人日本相撲協会)より現存の社号標や石玉垣が奉納されています。
 境内神社(末社)
 福徳稲荷神社
御祭神 倉稲魂命
御神徳 商売繁昌、五穀豊穣、家内安全
例 祭 2月初午の日
  平成18年(2006)11月吉日  蔵前神社社務所


所在地 台東区蔵前墨田区

 蔵前(くらまえ)の名は、幕府の御米蔵がこの地にあったことに由来する。その蔵の前の地というのが、地名にもなったのである。
 この御米蔵は、元和年間に大川端を埋立てて建てられたが、盛時には、数十棟もの蔵が建ち並んでいたという。ここに関東各地から舟運によって、米が集積されたのである。
 近代になって、政府関係など倉庫となり、その中には浅草文庫地宇書庫などもあった。



 蔵前の地は、札差たち江戸商人発展の地であり、いきや通(つう)のあふれた土地柄となってきた。近代においても、大震災や戦災などの惨禍をのりこえて、種々の商品の問屋街として繁栄をつづけてきている。
 大震災復興事業の一環として、新しい構造の橋が、昭和2年(1927)に完成して、今日に至っている。
 昭和58年(1983)3月 東京都


 
                                                                                富士見の渡し 富岳三十六景より


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