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東京都台東区の歴史
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所在地 台東区池之端1-2-5 (教証寺)

都旧跡
  柳瀬美仲墓
        昭和6年(1931)12月2日

 柳瀬美仲(1685~1740)は徳川時代中期の歌人。かれは宝永2年(1705)遠江国浜松に生まれ、名を方熟、字は美仲、号を隠江翁と称していた。京都に居住して詠歌を武者小路実陰の門に学び、のち、江戸に出て和歌を教授した。
  はつせ路や 初音聞かまく尋ねても
         まだこもりくの山ほととぎす
の一首によって、世人は美仲を「こもりくの美仲先生」と呼んでいた。著書には「秋夜随筆」その他がある。
 元文5年(1740)5月17日、年56で歿した。墓石には「隠口先生美仲甫之墓」とあり、巷間に「こもりく先生」の名がもてはやされたことが知られる。
 昭和43年(1968)10月1日 東京都教育委員会
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所在地 台東区池之端1-3-45 旧岩崎邸庭園

   旧岩崎邸庭園

 旧岩崎邸庭園内の建物は、三菱の創始者岩崎家本邸の旧宅です。庭園内の建物のうち洋館と撞球室は、近代日本の建築界に大きな足跡を残したJ.コンドルの設計で、明治29年に建築されました。洋館は木造2階建て、地下室付で、イギリス17世紀初頭のジャコビアン様式を基調とし、明治洋風建築を代表する建物です。洋館に併置された和館は書院造りを基調とし、棟梁は財政界の大立者たちの屋敷を数多くてがけた大河喜十郎と伝えられています。和館内には橋本雅邦が下絵を描いたと伝えられる障壁画がのこっています。昭和36年(1961)に洋館と撞球室が重要文化財に指定されました。昭和44年(1969)には和館大広間と洋館東脇にある袖塀が、平成11年(1999)には宅地、煉瓦塀、実測図が国の重要文化財に指定されています。



The buildings in the Tokyo MEtropolitan Kyu Iwasaki-tei Gardens are the formerkprincipal residence of the Iwasaki famiy,the founder of the Mitsubishi funancial group.The Western-style building and the billiard room were designed by J.Conder who left his great foorprints over the modern Japan architectural world,and were builded in the 29th year of Meiji(1896).The Western-style building is a wooden,two-storied one with a basement and one of the representative Western-style buildings in the Meiji era,having the taste of Jakobean architecture developed in the 17th century England.The Japanese-style building was integrated with the Western-style building and the designed was based on the classic Shoin-style.The head Hapanese carpenter for the progect was Ookawa Kikujiro,a famous craftsman who created many residences for notables in the government and the financial world.Japanese artwork was painted on the alcove(Tokonoma)and sliding doors (Fusuma)in the Japanese-style building.Most of the paintings are the work of Gaho Hashimoto,founder of modern Japanese art.The Western-style building and the billiard room were designated as nationally important cultural properties in the 36th year of Showa(1961).The Japanese hall (O-hiroma)and the sode-dei wall on the side of the Western-style buileing were added to the list in the 44th year  of Showa (1969),and finally the resedential area,brick wall and measured map in the 11th year of Heisei(1999).


所在地 台東区池之端1-4-33 (東天紅)

   江戸六阿弥陀縁起
 聖武天皇の頃(724~749)、武蔵国足立郡(今の東京都足立区)に沼田の長者と呼ばれる庄司(荘園を管理する人)従二位藤原正成という人がいて、多年子宝に恵まれずにいたが、ある時、熊野権現(和歌山県)に詣でて祈願したところご利益を得てようよう一女を授かった。
 この息女は足立姫と呼ばれた程にみめ美しく、仏を崇い、天質聡明であったが、隣りの郡に住む領主豊島左ヱ門尉清光に嫁がせると、領主の姑が事々に辛くあたり悲歎の日々を送ることになった。
 そしてある時、里帰りの折りに思い余って沼田川(現荒川)に身を投げ、五人の侍女もまた姫の後を追って川に身を投じたのであった。
 後日、息女らの供養に諸国巡礼の旅に出た長者が再び熊野権現に詣でたところ夢に権現(衆生を救うために日本の神の姿をとって現れる仏)が立ち、一女を授けたのはそなたを仏道に導く方便であった、これより熊野山中にある霊木により六体の阿弥陀仏を彫み広く衆生を済度せよ、と申されたのであった。長者が熊野山中を探し歩くと果たして光り輝く霊木をみつけ、長者は念を込めてその霊木を海に流したのである。長者が帰国してみると霊木は沼田の入江に流れ着いており、間もなくこれも先の夢のお告げの通りに、諸国巡礼の途に沼田の地に立ち寄られた行基菩薩に乞うて六体の阿弥陀仏を彫り、六女ゆかりの地にそれぞれお堂を建ててこれを祀ったのである。



 江戸時代に入り、この六阿弥陀を巡拝し、極楽往生を願う信仰が行楽を伴って盛んになり、特に第5番常楽院は上野広小路の繁華街(現ABAB赤札堂地)にあったので両彼岸などは特に大いに賑わい、江戸名所図絵にも描かれている。広小路のお堂は、関東大震災と第二次大戦期の焼失を経て、ご本尊阿弥陀さまは調布市に移ったが、参詣の便を図って縁のある上野池之端、此東天紅の敷地を拝借して別院を設け、模刻の阿弥陀さまをお祀りしている。
 六阿弥陀第5番 常楽院 調布市西つつじヶ丘4-9-1


 江戸六阿弥陀
第1番 西福寺 北区豊島2-14-1
第2番 恵明寺(明治9年に延命寺を合併) 足立区江北2-4-3
第3番 無量寺 北区西が原1-34-8
第4番 与楽寺 北区田端1-25-1
第5番 常楽院 調布市西つつじヶ丘4-9-1
第6番 常光寺 江東区亀戸4-48-3


所在地 台東区池之端1-4-24 横山大観記念館



   横山大観顕彰碑
 横山大観先生は近代日本画壇の代表的巨匠である 明治元年水戸藩士酒井捨彦の長男として水戸に生まれ本名を秀麿 母方の横山の姓を継ぐ
 明治26年(1893)東京美術学校卒業 校長岡倉天心に愛されて終生大きな感化を受けた 明治30年(1897)東京美術学校助教授となったが1年で職を辞し岡倉天心が創設した日本美術院に下村観山 菱田春草とともに日本画の革新運動を起した その後美術研究のためインド ヨーロッパ各地及び中国などを視察し 師天心の思想である東洋の理想をうけつぎ 新しい日本画を創造した
 明治45年(1912)からこの地に居し画筆をとる 昭和10年(1935)帝国美術院会員 昭和12年(1937)第一回文化勲章受賞
 代表作に「無我」「満湘八景」「生々流転」の他多くの水墨山水 富士山などがある
 昭和32年(1957)5月台東区名誉区民に推戴された 昭和33年(1958)2月歿 90歳
 昭和43年(1968)10月 東京百年を記念し建立する
 東京都台東区長 上條 貢



所在地 台東区池之端1-6-13

  境稲荷神社

  祭神 倉稲魂命

 文明年間(1469~1487)足利9代将軍足利義尚公により創祀されたと伝えられ忍が岡と向が岡の境に鎮座するところから境稲荷と称され両村の総鎮守であった。
 寛延3年(1750)隣地岡上の松平邸より出火した火災により社殿をはじめ足利義尚公自筆の扁額や重宝古記録とも焼失したが別当慈海によって再建された。
 現参道口鳥居の扁額はこの時拝殿に奉納された半井大和守筆の額字を写したものである。



 古歌「忍ぶ岡向ふる岡の境なる神のやしろは松の下谷」
 その後明治28年(1895)3月戦禍を受け現在の本殿拝殿鳥居並に社務所は平成5年(1993)の造営である。
 境内本殿裏の井戸はその昔の当社別当原泉山三光寺の名称からも非常に古くからの湧水であることが知られ江戸の地誌にも「弁慶鏡ヶ井」と在り名水をもって知られている。
  境稲荷神社


所在地 台東区池之端1-6-13 (境稲荷神社)

 境稲荷神社の創建年代は不明だが、当地の伝承によれば、文明年間(1469~1486)に室町幕府第9代将軍足利義尚が再建したという。「境稲荷」の社名は、この付近が忍ヶ岡(上野台地)と向ヶ岡(本郷台地)の境であることに由来し、かつての茅町(現、池ノ端1・2丁目の一部)の鎮守として信仰をあつめている。
 社殿北側の井戸は、源義経とその従者が奥州へ向かう途中に弁慶が見つけ、一行ののどをうるおしたと伝え、『江戸志』など江戸時代の史料にも名水として記録がある。一時埋め戻したが、昭和15年(1940)に再び掘り出し、とくに昭和20年(1945)の東京大空襲などでは多くの被災者を飢渇から救った。井戸脇の石碑は掘り出した際の記念碑で、造立者の中には当地に住んでいた画伯横山大観の名も見える。
 平成6年(1994)3月 台東区教育委員会



   SAKAIINARI SHRINE AND BENKEI KAGAMI WELL
 Sakaiinari Shrine ia a legendary shrine that is bilieved by many residents today that have been first built in the mid 15th Century and burnt down and rebuilt time and time again.
 Toward the north side of the shrine is a well which was founded by Benkei who is a follower of a famous Samurai Minamoto no Yoshitsune in the late 12th Century and passed down through him from generation to generation. This well has be been long known to its delicious water,and during the big air raid in 1945,the well was a great sabiour providing water to drink for many victims of fire.


所在地 台東区池之端2-1-21 (大正寺)

川路聖謨墓かわじとしあきら
 享和元年(1801)4月25日、豊後国日田(現、大分県日田市)領代官の部下、内藤吉兵衛のことして生まれ、幕臣川路光房の養子となる。幼名は弥吉または万福。通称を三左衛門・左衛門尉といい、敬斎と号す。文政元年(1818)支配勘定出役に就任し、評定所留役・寺社奉行調役・勘定吟味役等を歴任。ついで佐渡・奈良・大坂町奉行等を経て、嘉永5年(1852)勘定奉行兼海防掛に任じられた。
 翌嘉永6年(1853)、米使ペリーの浦賀、露使プチャーチンの長崎来航により、国防の急務を痛感し、江戸湾品川沖に台場を築く。特に露使とは、応接全権となって交渉に当たり、樺太の北緯50度以南、千島列島エトロフ島のわが国領有を主張した。井伊直弼の大老就任により左遷されるが、文久3年(1863)、外国奉行に起用された。のち病のため退官し、江戸開城直前の明治元年(1868)3月15日に自害した。『長崎日記』『下田日記』『京都日記』など、彼の日記類は貴重な史料である。
 平成7年(1995)3月 台東区教育委員会

            TOMB OF KAWAJI TOSHIAKIRA
 Kawaji Toshiakira was born on April 25,1801 in Bungo-no-kuni (now Oita Prefecture).From 1818 hi held successive important posts in the Shogunate Government at Edo.In 1852 he was apponted Chief Treasurer and at the same time was ordered to supervise the coastal defenses.
 He built Daiva(forts)off the shore of Shinagawa as a defense against foreign warships,which viseted Japan to force the government in to opening its ports to foreign shipping.He negotiated with a Russian Mission as a representative of the Government and insisted that the area south of North Latitude 50゜ of Sakhalin and Itrurup of the Kuril Islands be annexed to Japan.In 1863 he hilled the post of the Magistrate of Foreign Affairs,but soon became ill and retired.He committed suicide on March 15,1868 when the Shigunate Government at Edo collapsed.


所在地 台東区池之端2-4-19 (妙顕寺)

鳥居清信墓とりいきよのぶ 
 鳥居清信は、江戸時代中期の浮世絵師で、鳥居派の始祖である。
 清信(俗称庄兵衛)は寛文4年(1664)浮世絵師鳥居清元の子として大坂に生まれた。貞享4年(1687)父に伴い江戸に移った。画技を父から学んだが、菱川師宣に私淑しその影響を大きく受けた。また狩野派や土佐派の画風もとり入れて独自の画風を築いた。父清元が江戸で歌舞伎の看板絵を描いていた関係で清信も役者絵を描き、ついに鳥居派の役者絵様式を完成した。以後鳥居派は江戸における歌舞伎絵の流派として定着し、代々、清信の子孫に世襲されていった。代表作に「立美人」「傘持美人」等がある。享保14年(1729)7月28日、66歳で没した。
 清信は浅草法成寺(現在豊島区駒込)に葬られたが、その後、墓所は妙顕寺に移された。墓石には清信夫妻および清信の父母の戒名が刻まれている。
 平成12年(2000)3月 台東区教育委員会

      Tomb of Torii Kiyonobu
 Torii KIyonobu was a painter of Ukiyoe in the middle period of Edo,and was the founder of the Torii school.He was born in Osaka in 1664 as a son of Torii Kiyomoto,a Ukiyoe painter.
 The father and son moved to Edo in 1687.He first learned painting technique from his father.Later he privately learned from Hishikawa Moronobu and was greatly affected by him.Then he created his own painting style.
 Since his father draw billboard pictures for Kabuki plays in Edo,Kiyonobu also drew pictures of Kabuki players and at last completed the Torii school's original picture style of Kabuki players.
 Thereafter,the Torii school was deeply rooted as one of the school for Kabuki pictures in Edo.


所在地 台東区池之端2-4-22 (正慶寺)

北村季吟墓きたむらきぎん
 季吟は江戸時代前期の歌人、俳人です。通称を久助といい、拾穂軒と号していました。はじめは祖父の宗竜、父の宗円を継いで医学を業としていました。俳人安原貞室、松永貞徳の門に入り、和歌・俳諧を学びました。元禄2年(1689)、幕府の歌学所に補せられ、元禄12年(1699)、再昌院法印の称を受けました。
 著書に『徒然草文段抄』、『枕草子春曙抄』、『源氏物語湖月抄』その他があります。
 宝永2年(1705)6月15日、82歳で逝去しました。円頂角石の正面に楷書で「再昌院法印季吟先生」と題し、右側面には丸に井桁の家紋を書き、下に行書で「花も見ず郭公をも待ち出つこの世後の世、おもふ事なき」と辞世の句が刻まれています。裏面には「宝永二乙酉六月十五日、八十二歳卒」と刻んでいます。
 平成22年(2010)3月建設 東京都教育委員会



                Kitamura Kigin Haka
 Kigin was a poet in tanke and haiku from the Early Edo Period.He was commonly called Kyusuke,and also known as Shusuiken.He was born in Kitamura,Yasu District,Omi Province (today's Yasu City,Shiga Pref.).He initially professionally engaged in medical science follwing the careers of his grandfather Soryu and his father So-en.Later he was appointed as a hafuri(person responsible for maintenance of the Shinto shrine)of the Shintamatsushima Shrine in Kyoto,and became a disciple of poet Karasumaru Mitsuhiro to a position in the tanka institute of the shogunate and granted a title of Saisho-in Hoin.The members of the Kitamura clan later took over the shogunate's function of overseeing tanka studies and productions.
 His works include Commentaries to Tsurezuregusa,Commentaries to the pollow Book and Commentaries to the Tale of Genji.He developed excellent desciples,like Yamaoka Genrin,Matsuo Basho and Yamaguchi Sodo.
 He died at the age of 82 on June 15,1705.The tombstone is shaped in a rectangular column with a circular top,having a string in a regular script,stating:Saisho-inHoin Dr.kigin on the front side,while his family crest of a circle with a diamond-shaped pattern in its inside is engraved on the right hand side,with a piece of tanka at the time of his own death,stating:Hana-mo mizu/kakko-womo/machi-idetsu/konoyo nochino yo/omoukotonaki(meaning:I'm leaving this world without seeing the blossom and still waiting cuckoo,I have nothing  to worry about this world and other world)in semi-cursive script below.On the backside,a string stating:He died at the age of 82 on June 15,1705,the Year of Itsuyu is engraved.
  Tokyo Metropolitan Board of Education


所在地 台東区池之端2-5-30

浄厳律師墓じょうごんりっしはか(妙極院)
 浄厳律師は、江戸時代の真言宗を代表する高僧の1人である。寛永16年(1639)、河内国錦部郡鬼住村に生まれる(現大阪府河内長野市)。俗姓上田氏。慶安元年(1648)、高野山で悉地院雲雪を師として出家した。字は覚彦。諱は雲農、のち浄厳。妙極堂などの号がある。修行・学問に努め、『法華経秘略要鈔』『悉曇三密鈔』『諸真言要集』など多数の著作がある。特に悉曇学(梵字・梵語の音声いや書法の学問)に大きな業績を残した。
 寛文11年(1671)下山して、各地で教化に努めた。元禄4年(1691)、柳沢吉保の邸宅で5代将軍徳川綱吉に謁見して、普門品(観音経)を講じた。綱吉は深く帰依し、浄厳を開基として、霊雲寺を創建した(文京区湯島2丁目)。元禄11年(1698)、幕府より霊雲寺墓所地として当地を拝領(1300坪)、妙極院が創建された。
 元禄15年(1702)6月27日、64歳で没した。当地のほか、教理の延命寺にも墓がある(大阪府河内長野市)。
 平成21年(2009)3月 台東区教育委員会



     The Grave of Priest Jogon
 Jogon(1639-1702)was one of the most renowned priests of the Shingon sect during the Edo Period(1603-1868).Born in the domain of Kawachi (present-day Osaka),Jogon joined the priesthood at Kongobuji on Mt.Koya.He trained in both the ascetic and academic aspects of Buddhism,authoring many works.He is particularly well-versed in the Sanskrit language,leaving his mark on the Sanskrit studies in Japan.In 1691 he gave lectures on Buddhist sutras before Tokugawa Tsunayoshi,the Shogunof Japan at the time.In the same year,with Tsunayoshi's help.Jogon constructed Reiun-ji Temple in yushima.In 1698,he was granted this land by the Shogunate to serve as gravesite at Reiun-ji Temple,and went on to build Myogoku-in Temple.Jogon passed away in 1702.




所在地 台東区池之端2-5-43

忠綱寺(『渡邉の綱』・『槍の半蔵』由縁の寺)
 當、忠綱寺は人皇52代に始まる所謂嵯峨源氏の流れをくみ左大臣源融から4代後の源綱が摂津の国、渡邉に住まいしたところから姓を渡邉と名乗るようになる。羅生門の鬼退治で有名な「渡邉の綱」がこの源綱である。更にこれより23代目が渡邉半蔵源守綱である。譜代である徳川家康に弘治3年(1557)16歳で出仕する。桶狭間の戦いより2年後の永禄5年(1562)三河八幡の戦いで今川の将、板倉弾正の率いる敵と戦い防戦一方になる時その殿りを任せられる、半蔵大いに奮闘し敵将山下八郎三郎と鎗を合わせその首級をあげその間に味方の士を数十人救って無事退却させた、家康大いに称揚し以後「槍の半蔵」の異名で知られることとなる。この後3千石を武蔵比企にて賜り更に数々の武功により凡そ1万4千石を各知行地併せて領す。息重綱、孫忠綱と続く、忠綱は悉地の内より3千石を分領されるが20才にて夭折する。弟大学が兄の所領「武蔵比企」を継ぎ丹後守吉綱となる、兄想いの吉綱は神田台に渡邉院忠綱寺と名を冠し一寺を建立しその菩提を弔った。その後下谷池之端の現在地に移ったものである。
 吉綱は4代将軍家綱の信任を受け御小姓番頭、御書院番頭と進み大阪定番となりまして1万石の加増を受け和泉国伯太藩1万3千5百余石の大名になり明治まで続く。
 ☆参考文献 
寛政重修諸家譜  天保武鑑
新編武蔵風土記   御府内寺社備考続編
 ☆本尊    
阿弥陀如来 三河国高綱山證誠院了善寺に在りし阿弥陀仏を丹後守領内のゆえ彼の地より移して安置する。恵心僧都の作と伝えられる。
   貞宗大谷派  向岡山渡邉院忠綱寺  住職 渡邉願勝


所在地 台東区池之端2-5-47

  七倉稲荷神社

祭神 倉稲魂命

神徳 商売繁盛 厄災消除

祭儀 例大祭 9月20日  
    朔旦祭 毎月1日  
    大祓 6月29日 12月29日


  
由緒
 当神社は古く江戸幕府の米蔵のあった浅草蔵前に鎮座七つの倉の守護神として崇められこれが社号の由来となっている
その頃の社伝によれば阿部豊後守が当社に祈願その加護により隅田川馬上渡河の功を奏したと伝えられ霊験顕たかな社として江戸町民の信仰篤かった
明治維新後蔵前より七軒町18番地に遷り更に明治9年(1876)8月現在の地に遷座した現社殿は平成元年(1989)7月の御造営である


所在地 台東区池之端2-9

 旧都電停留場跡(池之端七軒町)
ここ、池之端児童遊園は、かつて都電停留場(池之端七軒町)のあった場所です。
昭和30年代の都電全盛期の時代には、20系統(江戸橋~須田町)、37系統(三田~千駄木2丁目)、40系統(神明町車庫前~銀座七町目)と三つの路線が走っていた区間でしたが、昭和42年(1967)12月に37、40系統が廃止、昭和46年(1971)3月には20系統も廃止になり、池之端七軒町(廃止時は池之端2丁目に改称)の停留場は姿を消しました。
平成20年(2008)3月、都電停留場だったこの場所に都電車両を展示し、地域の歴史が学べ、まちのランドマークとなる児童遊園として整備しました。



  都電7500形(7506号車)
ここに展示された都電は7500形といわれる形式で、昭和37年(1962)に製造された旧7500形を車体更新したものです。旧7500形は昭和59年(1984)以降、台車と主要機器を流用した車体更新が施され現在の7500形となり、都電で初めて冷房装置が搭載されました。この車両は、平成20年(2008)1月末まで都電荒川線(三ノ輪橋から早稲田)を走行し、平成20年(2008)2月1日東京都交通局より台東区に譲渡されました。



所在地 台東区池之端3-3-21 (水月ホテル鷗外荘)

森鴎外旧居跡
 森鴎外は文久2年(1862)正月19日、石見国津和野藩典医森静男の長男として生まれた。本名を林太郎という。
 明治22年(1889)3月9日、海軍中将赤松則良の長女登志子と結婚し、その夏に根岸からこの地(下谷区上野花園町11番地)に移り住んだ。この家は、現在でもホテルの中庭に残されている。
 同明治22年(1889)8月に『国民之友』夏季附録として、『於母影』を発表。10月25日に文学評論『しがらみ草子』を創刊し、翌明治23年(1890)には処女作『舞姫』を『国民之友』に発表するなど、当地で初期の文学活動を行った。一方、陸軍二等軍医正に就任し、陸軍軍医学校教官としても活躍した。
 しかし、家庭的には恵まれず、長男於莵が生まれた明治23年(1890)9月に登志子と離婚し、翌10月、本郷区駒込千駄木町57番地に転居していった。
 平成15年(2003)3月 台東区教育委員会



           Remains of the former residence of Mori ogai
 Mori Ogai (1862-1922)is one of the most famous modrn writers in Japan.In March of 1889 he married Akamatsu Toshiko,and from the summer of that same year lived at this site.This house still stads in the inner garden of a hotel.In October of 1889 he published the literary review"Shigarami zoshi".In January of the follwing year he wrote his first novel Maihime(Dancing Girl).With the completion of these and other early works,this spot should be remambered as the site where he began his literary career.However his domestic life was not so fortunate and in September of 1890 he divorced Tsohiko and moved to a new place the follwing month.

 森鴎外(1862~1922)

島根県津和野出身。旧幕時代の範囲の長男に生まれる。東京大学医学部卒。陸軍省の軍医となり、日清戦争、日露戦争に従軍。
翻訳、創作、批評に活躍、明治文化人の重鎮。代表作に「於母影」(翻訳詩集)。「舞姫」・「雁」・「渋江抽斎」・「高瀬舟」・「うたかたの記」。

  森鴎外住居の跡
森鴎外は、明治23年(1890)この地において文壇処女作の「舞姫」発表しました。そして次々と文学作品を発表し、近代文学史上画期的な活躍をする基礎を築いた地でもあります。


所在地 台東区池之端4・上野公園

 清水坂(暗闇坂)
坂近くに、弘法大師にちなむ清泉が湧いていたといわれ、坂名はそれに由来したらしい。坂上にあった寛永寺の門を清水門と呼び、この付近を清水谷と称していた。かつては樹木繁茂し昼でも暗く、別名「暗闇坂」ともいう。
 平成12年(2000)8月 台東区教育委員会



所在地 台東区池之端4

  三段坂
『台東区史』は、この坂について、「戦後、この清水町に新しい呼名の坂が、19番地から21番地にかけて屋敷町の大通りに生まれた。段のついた坂なので三段坂と呼ばれている。」と記している。戦後は第二次大戦後であろう。清水町はこの地の旧町名。この坂道は明治20年(1887)版地図になく、同明治29年(1896)版地図が描いている。したがって、明治20年代に造られた坂道である。
 平成21年(2009)3月 台東区教育委員会



所在地 台東区池之端1-3文京区

 無縁坂むえんざか
 『御府内備考』に、「称仰院前通りより本郷筋へ往来の坂にて、往古 坂上に無縁寺有候に付 右様相唱候旨申伝・・・」とある。
 団子坂(汐見坂とも)に住んだ、森鴎外の作品『雁』の主人公岡田青年の散歩道ということで、多くの人びとに親しまれる坂となった。その『雁』に次のような一節がある。「岡田の日々の散歩は大抵道筋が極まっていた。寂しい無縁坂を降りて、藍染川のお歯黒のような水の流れこむ不忍の池の北側を廻って、上野の山をぶらつく。・・・」
 坂の南側は、江戸時代四天王の一人・康政を祖とする榊原式部大輔の中屋敷であった。坂を下ると不忍の池である。
  不忍の 池の面にふる春雨に 
    湯島の台は 今日も見えぬかも

  岡麓(本名三郎・旧本郷金助町生まれ1877~1951・墓は向立2丁目高林寺)
 昭和55年(1980)1月 文京区教育委員会

 


所在地 台東区池之端2-4-25

臨済宗妙心寺派
 潜龍山 東淵寺

 


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