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東京都台東区の歴史
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所在地 台東区台東4-21-23

御祭神   火之迦具土(ほのかぐつち) 

 正一位 秋葉山 中宮 秋葉神社の御祭神は、火之迦具土命と申上げ火除けの守り神で御神徳は特に火の幸を恵み、悪火を鎮め、火防開運の神並びに火災消除、家内安全、厄除開運、商売繁盛、の霊験新たかにして全国より信仰されている。
 町内に
鎮座まします秋葉神社は28万石を有する東北地方屈指の大名で秋田藩12代藩主佐竹右京太夫義尭公、上屋敷の守護神にてこの地にあった広大な屋敷跡である明治維新の大変動期に秋田藩も財政難となり国に上屋敷を上納その時に新政府によりこの地の住居表示が決まり、竹町12番地1号地より24号地迄と制定され現在もその儘使用されている佐竹町会の号地区分はその時出来たものである、秋葉神社は明治22年(1989年)4月秋葉ヶ原より勧請遷座し昭和5年(1930年)4月町会先人有志の方々により現在地に社殿を造営したもので当町会では火伏せの神として崇め毎年11月第2日曜日に大祭を行なっている、世に名高い『秋葉の火祭り』は本宮秋葉神社で毎年12月15、16、の両日盛大に行われ火災消除の大祈祷が古式豊かに荘厳の内に執り行われている。

  平成10年(1998年)11月祥日 佐竹町会

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所在地 台東区台東4-13 (御徒町公園)

  < 碑 文 >

オペラの名手をして大正期

 天下の子女の血をわかせたる

  熱と義と愛の人     

              藤村梧郎

 

 一九五五・一・一八ここに昇天す

即ちこの処より平和の

歌声高らかにあがるしるし

人間の  愛  愛  愛 

 

 藤村梧郎は大正時代、浅草オペラの歌手として活躍した。

 昭和30年(1955)1月18日22:30、台東区御徒町2-30先の昭和通り軌道上で寝ていた藤村梧郎(57)が、北千住行きの都電に轢かれて死去。藤村梧郎は酔って寝ており、都電は急ブレーキをかけたが間に合わなかったという。



所在地 台東区台東2-24-11

御祭神  大物主命 崇徳天皇
御祭事  1月1日元旦祭 2月節分日節分祭
       毎月10日例祭 10月10日大祭



 大物主命は、天照皇大神の御弟、建速素盞鳴命の御子と伝えられ、又の御名を大國主命と申され他にも沢山の御名をもたれた神である。大八州の国土経営に頗る御苦心遊ばされ、国土遍く治まった時の御名が大物主命と称された。
 ニニギノ命降臨の時、国土を譲り奉まつり、福徳を與えられる神として尊崇せられている。
 崇徳天皇は第75代の天皇で、保元の乱(1156)に遭い、讃岐に配流せられ、金毘羅大権現に御参籠、日夜御尊信せらる。百人一首の 
  瀬を早み岩にせかるる滝川の
    われても末に逢はむとぞ思ふ
は、名高い御製である。長寛2年(1164)崩御。御寿46。翌、永万元年(1165)衆庶悼みて御相殿に合せ祀る。爾来、いよいよ霊験あらたかにて五穀豊穣・豊漁満帆・海陸安穏・萬民太平、幸福な結婚を成就せらるる神々として、御神徳は萬民に篤く敬仰せられている。
 御祭神は生駒氏中祖おり崇敬する処にして、從四位下、讃岐守生駒一正慶長年間、徳川家江戸開府のおり、竹町及び周辺を中屋敷に受領し、自家の崇敬並に領国民の信仰する処なるを以って、神祠を邸内に建営し、領国讃岐国象頭山、金刀比羅大権現の神霊を頒ってここに安置す。
 現社殿は、戦災で焼失せるものを、当町並に近隣の崇敬の念厚き人達の浄財により、昭和38年(1963)11月10日に、再建せるものである。
 尚、金刀比羅神社は分祀が多く建営されているが、当町(竹町)は江戸最古の神祠の由である。
 昭和59年(1984)10月10日 金刀比羅神社崇敬会


所在地 台東区台東2-6

  桜稲荷神社縁起

大正12年(1923)東京大震災の後当時藤堂家邸内ニ鎮座マシマセシ稲荷神社ノ放置荒廃ヲ案ジ岡本悟一氏世話人トナリ現在境内ニ建立シアル石碑ニ記名奇特ノ方々ト相ハカリ昭和3年(1928)11月新ニ神祠ヲ建立遷座ヲ奉ジ桜稲荷神社ト奉称今日ニ至ル



以後 大東亜戦争ノ末期昭和20年(1945)2月25日空爆ニヨリ神祠破壊焼却サルモ昭和27年(1952)4月隅井菊生氏御本体ヲ京都伏見稲荷本社ニ詣デ奉受シコヽニ改メテ鎮座ヲ拝ス



昭和55年(1980)5月川西惟隆氏ノ尽力ニヨリ祭礼用器具並ニ防災用具ノ倉庫構築



昭和56年(1981)4月祠屋ノ修理改築ヲ行フ

 以上は岡本いせ氏ノ記憶ニ基キ山室利夫縁起ヲ確認ス

御本体ハ伏見稲荷大明神
 行事 新年初詣祭1月10日(川西惟隆氏発祥)
     大祭 4月中旬金、土曜日
 役員講義元、講中世話人



  世話人

池田ミツ子 池浦昭男 井上美貴男 岩崎東一 岡本いせ
大熊伏 大塚安雄 大沢三郎 大谷英順 川西惟隆
加藤倉吉 金子正司 清野福松 工藤能男 小島重次
隅井菊生 武田みや子 武隈己登 鶴田豊吉 中崎甚作
中山円造 長沢良雄 長谷川久太郎 林伸吉 浜名敬次郎
松居藤作 三上照 宮本清


所在地 台東区台東1-5

 明治25年(1892)11月、下谷二長町1番地といったこの地に、市村座が開場した。市村座は歌舞伎劇場。寛永11年(1634)日本橋葺屋町に市村座は創始し、中村・森田(のち守田)座とともに、江戸三座と呼ばれた。天保13年(1842)浅草猿若町2丁目に移り、ついで当地に再転。
 二長町時代の市村座は、明治26年(1893)2月焼失。明治27年(1894)7月再建して東京市村座と呼称。大正12年(1923)9月の関東大震災で焼けたが再興、昭和7年(1932)5月に自火焼失し消滅という変遷を経た。明治27年(1894)再建の劇場は煉瓦造り3階建で、その舞台では、六世尾上菊五郎・初代中村吉右衛門らの人気役者が上演した。岩百合菊五郎・吉右衛門の二長町時代を現出し、満都の人気を集めた。しかし、その面影を伝えるものはほとんどなく、この裏手に菊五郎・吉右衛門が信仰したという、千代田区稲荷社が現存する程度である。
 平成6年(1994)3月  台東区教育委員会



                   ISHIMURA-ZA(THEATER)
 Ichimura-za was a Kabuki Theater first built in 1634 in NIhonbashi Hukiya-cho,and in 1842 it moved to Asakusa Saruwaka-cho,and moved agein to this location.The Ichimura-za,Nakamura-za,and Morita-za were the three famous and popular theaters in this area in the Edo era,they were known as the "Edo 3 za".The Ichimura-za was Ichimura-za.In1923 during the great kanto earthquake,it was curnt down again and rebuilt,but when it burnt down again for the third time in 1932,it was not rebuilt and therefore lost forever.


所在地 台東区台東1-5-1 凸版印刷本社

         建立之誌
 凸版印刷株式会社は、近代国家建設に意気揚がる明治の清新な気風のなかで、熟達した技師たちが熱き志を結集し、当時最新鋭とうたわれた精巧緻密な製版技術「エルヘート凸版法」により業を起こし、以て広く世に益することを企図して、明治33年(1900)に創業された、爾来星霜を重ねて百有余年、その間幾多の困難に遭遇するも、むしろこれを好機ととらえ事業の変革や技術の開発に取り組み、果敢な挑戦の歴史を刻んできた。
 この不屈と進取の気象は、創業以来の精神として代々受け継がれ、それがトッパンの社風を醸成してきた。顧みれば、この赫々たる事績の革新には常に人の営みがあった。そして今日の社業隆盛に導いたのは、印刷の使命に燃え、身命を捧げた、過去数万人にもおよぶ先人である。
 そこには、ひたむきな想いを成就するため奔走した創業者や、明日に向かって勇気ある一歩を踏み出した多くの人がいる。また、「誠意・熱意・創意」の三意主義を掲げ、彩の知と技をもとに、心をこめた作品を創り出すため総合品質を追求し、津々浦々を駆けめぐり商いに励んだ人びとや、日夜生産に勤しんだ人びとがいる。さらには可能性の芽を育み研究に没頭した人びとや組織を調え成長を支えた人びとがいる。
 棉芦たちは「社会から信頼され尊敬されその上で強い企業になる」ことを旗印に、こうした先人の有意にして貴重な歴史的体験を、今後の事業展開に活かしていかなければならないのである。
 ここに創業百十周年を記念して、人間尊重の精神のもと、高野山の霊地に『先人之碑』を建立し遺徳を顕彰するとともに幾久しくトッパングループ各社の先人の御霊を称揚してご冥福を祈り、併せて社業のさらなる繁栄を祈念するものである。
 平成22年(2010)6月4日 
 凸版印刷株式会社 代表取締役社長 足立直樹


  秋葉原トッパングループ「先人之碑」

 過去数万人にもおよぶトッパンの先人は、幾多の困難に遭遇するも、これを好機ととらえ、事業の変革や技術の開発に果敢に取り組み、挑戦の歴史を刻んできました。私たちは先人が残してくださった、この有意にして貴重な歴史的体験を、今後の事業展開に活かしていかなければなりません。
 こうした先人のご恩に報いるとともに、「変革と挑戦」の遺伝子を受け継ぎ、常に挑戦者であり続けることを自らに銘ずるため、平成22年(2010)6月4日、和歌山県の高野山にトッパングループ「先人之碑」を建立しました。
 そしてこの建立の主旨を、後世にわたりすべての社員と共有すべく、凸版印刷の創業の地である、ここ秋葉原に高野山と同型の「先人之碑」を建立しました。
 今後私たちは、社会から信頼され尊敬され、その上で強い企業になることを旗印に、トッパングループのさらなる繁栄のため邁進してまいります。
 平成23年(2011)3月8日  凸版印刷株式会社



所在地 台東区台東1-30


 この辺りに、蘭方医伊東玄朴の居宅兼家塾「象先堂」があった。伊東玄朴は、寛政12年(1800)肥前国仁比山村(現、佐賀県神埼郡神埼町)で農民の子として生まれた。後佐賀藩医の養子となり、長崎でドイツ人医師フランツ・フォン・シーボルトらに蘭学を学び、その後江戸に出て、天保4年(1833)当地に居を構えた。安政5年(1858)には、第13代将軍徳川家定の侍医も務め、その名声は高まり門人が列をなした。
 玄朴はまた、江戸においてはじめて種痘法を開始した人物である。種痘とは、1980年に世界保健機関(WHO)より撲滅浅間された天然痘に対する予防法。1796年、イギリス人エドワード・ジェンナーが発明し、天然痘によって多くの人間が命を落としていたため、種痘法は西洋医学をわか国で受け入れる決定的な要因になった。嘉永2年(1849)、長崎でドイツ人のオランダ商館医オットー・モーニケが、佐賀藩医楢林宗建の子供に接種したのがわか国における種痘精巧の最初である。
 江戸では、安政4年(1857)、神田お玉が池(現、千代田区岩本町)に玄朴ら80余名が金銭を供出して種痘所設立を図り、翌年竣工した。種痘所は、この翌年火災により焼失していしまったため、下谷和泉橋通の仮施設に移り、翌万延元年(1860)再建された。同年には幕府直轄の公認機関となり、この後「西洋医学所」「医学所」「医学校」「大学東校」という変遷をたどり、現在の東京大学医学部の前身となった。
 幕府の機関となった種痘所の位置は、伊東玄朴宅のすぐ南側、現在の台東1丁目30番地の南側半分、同28番地の全域に相当する。
 なお、台東区谷中4丁目4番地の天龍院門前には、伊東玄朴の墓(都指定旧跡)についての説明板が建っています。
 平成14年(2002)3月  台東区教育委員会

 


    The Site of Ito Genboku's Home and Inoculation center
 In this area stood the Shosen-do which served as both the house and private school of the famous physician of Dutch style medicine Ito Genboku.Born into an agricultural family from NiiyamaVillage in th Province of Hizen(present day Knzaki,Saga Prefecture)in 1800.Ito Genboku was later acopted by a physician from the Sagadomain.Under thetutelage of the german physician Philipp Franz von Sievold,Genboku engaged in Dutch studies inNagasaki.After his training,he left for Edo and in 1833,establidhed himself at this seite.In 1858 hiawas appointed the personal doctor of the Shofun Iesada,and with his increasing fame he attracted many pupils.
 Genboku was also responsible for establishing the first vaccination policies for the city of Edo.In 1980 the World Health Organization submitted the Declaration for the Global Eradication of Smallpox.Because many people succumbed to smallpox,the discovery of a vaccine by the Englishman Edward Jenner in 1796 became a decisive factor in the adoption of Western medical techniques inbuild an inoculation center in Kanda Otamagaike(present day Iwamoto-cho,Chiyoda City,Tokyo).Their plan was completed the following year but,due to a fire,the senter was temporarily relocated to Shitaya Izumibashi  Street in 1859,before being rebuilt again in 1860.In that same year it came under the direct control of the Bakufu government as an official agency.From this time itawas successively transformed into the Institute for Western Medicine(Seiyo igaku sho),the Medical Institute(Igakukan sho),the Medical School(Igakko),and the Great School of the East (Daigaku toko),before serving as the predecessor of the current University of tokyo School of Medical Science.
 The location of the inoculation senter maintained by the Bakufu was just south of Ito Genboku's residence,in an area comprising the entire 28th and southern half of the 30th block of Taito 1 chome.
 Further infomation can be found in the posted explanation at the designated Metropolitan Historical Site of Ito's grave located in front of the gate of Tenryu-in Temple at Yanaka 4-4. 



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