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東京都台東区の歴史
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所在地 台東区橋場1-16-2 (福寿院)

東京都指定旧跡
 安藤東野墓
     昭和17年(1942)9月指定

 江戸時代中期の儒学者。名は煥図、字は東壁、仁左衛門と称し、東野と号していた。元滝田氏といい、天和3年(1681)1月28日下野那須郡黒羽に生まれた。父大沼玄佐は医師として下野黒羽藩大関家に仕え、彼は次子であったが幼くして父を失い江戸に移った。ここで太宰春台とともに中野撝謙ぎけんの門に学び、後に安藤氏に養われ、これより安藤氏を称した。柳沢吉安に仕え萩生徂来に就いて詩文を学ぶ。たまたま将軍綱吉が柳沢邸に来た時講義したという。正徳元年(1711)29歳の時に致仕し駒込白山に隠居した。のち河内西代藩主本多忠統ただむねの賓師ひんしとなったが、肺を病み、享保4年(1719)4月13日37歳で死去した。著書「東野遺稿」は没後友人が編集して刊行したものである。
 平成5年(1993)3月31日建設 東京都教育委員会



所在地 台東区橋場1-28-3

東京都指定旧跡
 妙亀塚


 この妙亀塚のある地は、かつて浅茅ヶ原と呼ばれた原野で、近くを奥州街道が通じていた。
 妙亀塚は、「梅若伝説」にちなんだ名称である。「梅若伝説」とは平安時代、吉田少将惟房の子梅若が、信夫藤太という人買いにさらわれ、奥州へつれて行かれる途中、重い病にかかりこの地に捨てられ世を去った。我が子を探し求めてこの地まできた母親は、隅田川岸で里人かた梅若の死を知らされ、髪をおろして妙亀尼と称し庵をむすんだ、という説話である。謡曲「隅田川」はこの伝説をもとにしている。
 塚の上には板碑が祀られている。この板碑には「弘安11年(1288)戌子5月22日孝子敬白」と刻まれており、区内でも古いものである。しかし、妙亀塚と板碑との関係は、明らかではない。
 なお墨田川の対岸、木母寺(墨田区堤樋)境内には梅若にちなむ梅若塚(都旧跡)があり、この妙亀塚と相対するものと考えられている。
 平成15年(2003)3月 台東区教育委員会



       Myokizuka(Metropolitan Historical Site)
 This place marks the site where the Oshu Kaido Road once passed through the field of Asajigahara.Myokizuka taked its name from the Umewaka Legend.During the Heian Period(794-1192),the child of Yoshida Korefusa-Umewaka-was kidnapped by Shinobu no Tota.On the way to Oshu,Umewaka became very ill and is said to have passed away in this area.Looking for her child, Umewasa's mother came to this site where she learned of the youth's death from a villager.Legend has it that in order to grieve for her child's death the mother took holy orders with the Myoki hermitage.This is the subject of the Noh play Sumidagawa.
 There is a stone monument atop the burial mound.The date inscribed upon the tablet is the "May 22nd,1288 "making it one of the oldest historical sites in the Ward.However,the relationship between the burial mound and the stone monument is not quite clear.
 The Mokuboji Temple,still located on the opposite bank of the Sumida River (Sumida-ku,Tsutsumi dori),also has a burial mound "Umewaka"(Metropolitan Historical Site)named after Umewaka and it is thought to be related to this mound. 


所在地 台東区橋場2-1

 隅田川畔の橋場一帯は、風光明媚な地であり、かつては著名人の屋敷が軒を連ねていたという。対鷗荘(対鴎荘)もその1つで、明治時代の政治家三条実美(1837~1891)の別邸であった。
 「征韓論」をめぐって、政府内に対立が続いていた明治6年(1873)の10月、太政大臣の要職にあった実美は心労のあまり病に倒れ、この別邸で静養していたが、明治6年(1873)12月19日明治天皇は病床の実美を気使い、この邸を訪れている。
 隣りの碑は、この事跡を顕彰して、のち対鷗荘(対鴎荘)の所有者となった一市民の尽力によって建立されたものである。高さ3メートル余。側面に「昭和6年(1931)歳次辛末5月建立石井久太郎」、裏面に「多摩聖蹟記念館顧問中島利一郎謹撰 上条修徳謹書」の碑文が刻まれている。

 対鷗荘(対鴎荘)は、昭和3年(1928)、白髪橋か教興寺に伴い、多摩聖蹟記念館(多摩市連光寺)に移築された。
 平成7年(1995)3月 台東区教育委員会



       REMAINS OF TAIOSO
 Taioso was the villa of sanjo Sanetomi(1837-1891),statesman in the Meiji Era.He fell ill in October of 1873 and rested quietly in this villa.the Emperor Meiji was very anxious about his health and visited this villa himself to comfort Sanjo.This monument was created by a citizen who owned the villa later to commemorate the Emperor's visit.The villa was relocated to the Tama-Seiseki-Kinenkan at Tama City to allow the construction of the Shirahige Bridge in1928.



所在地 台東区橋場2-5-3 (松吟寺)

橋場のお化け地蔵
 「お化け地蔵」の名には、かつて大きな笠をかぶり、その笠が向きをかえたから、あるいは高さ3メートル余の並はずれて大きいからなど、いくつかの伝承がある。
 この辺りは、室町時代以来、禅宗の名刹総泉寺の境内地であった。門前一帯を浅茅ヶ原といい、明治40年(1907)刊『東京名所図会』には「浅茅ヶ原の松並木の道の傍らに大いなる石地蔵ありしを維新の際並木の松を伐りとり、石地蔵は総泉寺入口に移したり」とあり、「当寺入口に常夜灯あり、東畔に大地蔵安置す」とも記している。
 お化け地蔵の台石によれば、この石仏は享保6年(1721)の建立。関東大震災で2つに折れたが、補修し現在にいたっており頭部も取りかえられている。常夜灯は、寛政2年(1790)に建てられた。
 総泉寺は、昭和4年(1929)板橋区へ移転した。「お化け地蔵」近くにある「元総泉寺境内諸仏供養の為」の碑は移転に際し建てられたものと思われる。
 平成11年(1999)3月 台東区教育委員会



        OBAKE(BOGY)JIZO
 Once upon a time this area was within the premises of Sosenji Temple.The bogy Jizo is located at a corner of the Sosenji Temple and initially it was called "baby-raising Jizo."But the jizo,an image in stone,had a large hat and a large height of more than 3m.So,some people said that the hat moved in derection,and then they used to call it obake(bogy)Jizo.
 According to the foundation stone of the Jizo,it is recorded that the Jizo was built in 1721 and broken into two pieces after the Great Kanto Earthquake but it was repaired with the head portion replaced.


所在地 台東区橋場2-14-19

天台宗
 砂尾山 橋場寺 不動院

 橋場不動尊




浅草七福神 布袋尊



所在地 台東区橋場2-22-2

平賀源内墓
 平賀源内は享保13年(1728)、讃岐国志度浦(現香川県志度町)に生まれる(生年には諸説ある)。高松藩士白石良房の三男で名は国倫。源内は通称である。寛延2年(1749)に家督を継ぎ、祖先の姓である平賀姓を用いた。本草学・医学・儒学・絵画を学び、事業面では成功しなかったが、物産開発に尽力した。物産会の主催、鉱山開発、陶器製造、毛織物製造などをおこない、エレキテル(摩擦起電機)を復元製作、火浣布(石綿の耐火布)を発明した。一方で風来山人・福内鬼外などの号名をもち、「風流志道軒伝」などの滑稽本や、浄瑠璃「神霊矢口渡」などの作品を残している。
 安永8年(1779)11月に誤って殺傷事件を起こし、小伝馬町の牢内で12月18日に病死、遺体は橋場の総泉寺(曹洞宗)に葬られた。墓は角塔状で笠付、上段角石に「安永八己亥十二月十八日 智見霊雄居士 平賀源内墓」と刻む。後方に従僕福助の墓がある。
 総泉寺は昭和3年(1928)板橋区小豆沢へ移転したが、源内墓は当地に保存された。昭和4年(1929)に東京府史蹟に仮指定され、昭和6年(1931)には松平頼壽が(旧高松藩当主)により築地塀が整備される。昭和18年(1943)に国指定史跡となった。
 平成17年(2005)3月 台東区教育委員会



     Tomb of Hirag Gennai(National Historical Site)
 Hiraga Gennai was a scholar and author who lived in the middle of the Edo period (1728 to 1779).Although he was not a particuarly successful businessman,he made various inventions and took part in development of products for various purposes,including exploitation of mineral resources,production of ceramics and woolengoods.On the other hand,he did leave several literary works behind,such as books and dramas.He committed a murder in November 1779 and deid of illness in a prison on December 18.His body was buried in the Sosenji Temple that was situated in this area.The Sosenji Temple was moved to Azusawa in Itabashi-ku,Tokyo,in 1928,but the tomb of Gennai remained preserved in this area and was designated a national historical site in 1943.


所在地 台東区橋場2 ・ 荒川区 ~ 墨田区

  白鬚橋
 白髭しらひげの名は、天暦5年(951)創建の縁起のある向島の白髭神社に由来している。
 古来、梅若伝説で知られる渡船場もこの辺りにあり、のちには舟の浮橋などもかけられたという説もある。 ここを、「船場の渡し」といったのは、このゆかりの名であり、交通の要地であったことを示している。 大正3年(1914)には、地元の住民によって会社が設立され、有料の木橋がかけられた。
 関東大震災(1923)を経て、復興事業の一環として、昭和6年(1931)に重量感溢れるアーチ橋として かけかえられた。その後、東京大空襲などにも他の橋とともに多くの人を救う役割を果たした。
 現在も、荒川区墨田区・台東区の3区を結ぶ重要な橋である。

  昭和58年3月 東京都



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