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東京都台東区の歴史
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所在地 台東区浅草橋1-1先

  神田川にかかる浅草橋は、江戸三十六門の一つ浅草御門で見付門といわれ寛永13年(1636年)にできました。

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所在地 台東区浅草橋3丁目

 この地点から西側、通りを一本隔てた区画(浅草橋3丁目21・22・23・24番地の全域及び19・25・26番地の一部)には、江戸時代後期に、幕府の天文・暦術・測量・地誌編纂・洋書翻訳などを行う施設として、天文台がおかれていた。
 天文台は、司天台(してんだい)、浅草天文台などと呼ばれ、天明2年(1782年)、牛込藁店(わらだな)(現、新宿区袋町)から移転、新築された。正式の名を「頒暦所御用屋敷」という。その名の通り、本来は暦を作る役所「天文方(てんもんがな)」の施設であり、正確な暦を作るためには観測を行う天文台が必要であった。
 その規模は、『司天台の記』という史料によると、周囲約93.6m、高さ約9.3mの築山の上に、約5.5m四方の天文台が築かれ、43段の石段があった。また、別の資料『寛政暦書』では、石段は二箇所に設けられ、各50段あり、築山の高さは9mだったという。
 幕末に活躍した浮世絵師、葛飾北斎の『富嶽百景』の内、「鳥越の不二」には、背景に富士山を、手前に天体の位置を測定する器具「渾天儀(こんてんぎ)」を据えた浅草天文台が描かれている。
 ここ浅草の天文台は、天文方高橋至時らが寛政の改暦に際して、観測した場所であり、至時の弟子には、伊能忠敬(いのうただたか)がいる。忠敬は、全国の測量を開始する以前に、深川の自宅からこの天文台までの方位と距離を測り、緯度一分の長さを求めようとした。また、至時の死後、父の跡を継いだ影保(かげやす)の進言により、文化8年(1811年)、天文方内に「蕃書和解御用(ばんしょわげごよう)」という外国語の翻訳局が設置された。これは後に、洋学書、藩書調所、洋書調所、開成所、開成学校、大学南校と変遷を経て、現在の東京大学へ移っていった機関である。
 天文台は、天保13年(1842年)、九段坂上(現、千代田区九段北)にも建てられたが、両方とも、明治2年(1869年)に新政府によって廃止された。
   平成11年(1999年) 台東区教育委員会

所在地 台東区浅草橋2-29-16

 

御祭神  素盞嗚尊(すさのおのみこと)

 須賀神社は江戸時代には牛頭天王社、蔵前天皇社、祇園社とも呼ばれておりましたが、笹団子天王社とも呼ばれておりました。
 御縁起書によりますと、昔この辺りの農家の娘が12歳になった夏、大変暑く、疫病が大流行して、その娘も病にかかってしまいました。両親は何とかして病を治そうと、この天王様に願をかけ、21日を経て、病が全快しました。
 両親は大変喜び、早速笹に娘の年の数と、1年の月の数を合わせた数だけ、団子を刺して、御礼のしるしにと6月8日例大祭の日に天王様のご神前にお供えしました。
 それ以来、心願成就とくに病気平癒のお参りが大変多くなりました。

所在地 台東区浅草橋5-20-5

教会堂名  聖パウロ

創立  明治10年(1877)12月25日



所在地 台東区浅草橋1-29-11

  御祭神 誉田別命ほんだわけのみこと(応神天皇)
        武内宿祢命たけのうちすくねのみこと

  御神徳 商売繁盛 学業成就 健康長寿 家内安全
  


  御由緒  後冷泉天皇の御代

源頼義公、八幡太郎義家公は、兆手の命に依り奥州の安倍貞任、宗任を平定する為に奥州街道を下向の砌当地に至りました。当時このところは小高い丘で隅田川の流れを一望出来る絶景の場所であった。一休止のため陣をとりました時、川上より流れくるものを拾い上げてみますと銀杏の枝でありました。その枝をこの丘の上に差し立て都の氏神を遥かに拝み「朝敵退治のあかつきには枝葉栄ふべし」と祈願し旅立ち安倍一族を平定の後、再びこの地に帰り至りました時丘の上に差した銀杏の枝葉大きく繁茂しておりましたので、義家公は御神恩に感謝し、この処に大刀一振を捧げ八幡宮を勧請いたしましたのが、康平5年(1062)当社の始と伝へられています。そしてこの銀杏は大樹となちまして、隅田川を上り下りする舟や街道を行き交う人々のよい目標となりましたが、時代は下り徳川家江戸入府後、元和4年(1618)この地は福井藩は松平家の屋敷となり、邸内社として尊崇されてまいりましたが、享保10年(1725)この地が公収され屋敷の跡地は町やとなり享保15年(1730)、時の町奉行大岡越前守様に依り福井町と命名され願いにより当社は地域の産土神として崇敬されてまいりました。大銀杏は延享2年(1745)9月14日台風のため中程より折れましたが、高さ6メートル位を残して繁茂しておりましたが、文化3年(1806)江戸大火の折焼失しました。



御祭礼は、江戸時代8月15日に執り行われていましたが、明治の中頃より6月15日にかわり、現在は原則として6月第1土曜、日曜日に執り行っています。



所在地 台東区浅草橋2-7

 當社正一位扇稲荷神社は桑名藩松平家の江戸屋敷(上屋敷、中屋敷、下屋敷)の邸内に鎮座してありたりところ



明治戊辰の事変により皆天朝に収められた其の後更に今の新福井町の邸を下賜わせられし時旧邸にありし稲荷社を新邸に移されたものなり
新福井町松平家新邸は元久保田藩佐竹の旧邸地なり



大正12年(1923)9月1日関東大震災で社殿及び御神体までも焼失せり
たとえ御神体は焼失すとも御神霊は消滅するものにあらずと昭和6年(1931)奉齋並びに敬神の念篤き睦会により再建し現在に至る
 御加護 火防、家内安全、商売繁昌            以上
            
              扇稲荷神社  奉賛会
     昭和56年(1981)9月13日


所在地 台東区浅草橋3-13-4

甚内橋はこの四ツ角にあった橋、西から東へ流れる鳥越川の架橋だった。名称は橋畔に向坂(幸坂)甚内を祭る神社があったのにちなむ


所在地 台東区浅草橋4-16

医学館跡(都指定旧跡 旧躋寿館跡)

 江戸幕府唯一の医学専門学校、医学館が清洲橋通りのこの地にあった。
 明和2年(1765)、幕府奥医師多紀元孝が医師(漢方医)の教育のため、神田佐久間町に建てた私塾躋寿館から出発、寛政3年(1791)に、幕府が医師養成の重要性を認めて官立とし、医学館と改称、規模を拡大した。文化3年(1806)3月、大火に遭い焼失、文化3年(1806)4月に、前方の旧向柳原1丁目に移転、再建された。
 敷地約7千平方メートル、代々多紀家がその監督に当たり、天保14年(1843)には寄宿舎を設け、全寮制として、広く一般からも入学を許可し、子弟育成をはかるなど、江戸時代後期から明治維新に至る日本の医学振興に貢献した。
 平成7年(1995)3月  台東区教育委員会


         RUINS OF IFAKUKAN AND SEIJUKAN
            (Metropolitan Historical Site)
 This was the site of "IGAKUKAN",the only medical school of the Shogunate Government installed at Edo.It was formerly a private medical school called SEIJUKAN.
 SEIJUKAN was founded by Taki Genko a Kanda Sakuma-cho  to train physicians in the art of Chinese Government.The schoolburned down in March 1806.In the same year it was moved to this site of 7000㎡ and reconstructed.The school was supervised by the Taki family and greatly contributed to Japanese medical development during the latter Edo period until Meiji Restorarion. 


所在地 台東区浅草橋5-1-20

 現在、都立忍岡高等学校・柳北公園・柳北小学校のある一帯に、江戸時代、肥前国(現、佐賀県、長崎県の一部)平戸藩主松浦氏の屋敷があった。寛永9年(1632)、松浦氏は、幕府からこの地を与えられ、別邸を造営し、庭園を築造した。庭園はのち蓬莱園と命名された。
 明治40年(1907)刊行の『東京案内』には「文化文政の頃の築造に係り、東都名園中現存するものの一也」と記されている。園内の模様は大正3年(1914)刊行の『浅草区誌』に詳しい。同書によると、大池を中心に、岡を築き、樹木を植え、東屋を建て、13基余の燈籠を配し、園内各所に雅趣ある名称を付した。面積は約2千6百坪に及び、池水は鳥越川から取り入れていた。
 この名園も、関東大震災のため荒廃し、消滅した。現在は忍岡高等学校グラウンド東北隅に、池の一部と、都天然記念物指定の大イチョウを残すだけである。
 平成7年(1995)3月  台東区教育委員会


                     REMAINS OF HORAIEN
 Here stood the residence of the Matsura family and a huge garden called Horaien.The Matsuras were feudal lords of the Hirodo Clan(part of Saga and Nagasaki prefectures).Horaien was a beautiful Japanese garden,the area of which was about 8580㎡. It had a big pond in the centre and the pond was surrounded with hillocks,an arbour,and about thirteen stone lanterns.This beautiful garden was destroyed in the Great Kanto Earthquake of 1923.A part of the pond and a tall gingko tree (a cosmopolitan natural monument)still exist in the northeastern corner of the playground of the Shinobugaoka High School.  


所在地 台東区浅草橋5-1-35 (リセ・コレージュ フランコージャポネ柳北校)


      大正12年(1923)の校舎               平成13年(2001)の校舎

 柳北小学校百二十四年の歩み
明治9年(1876) 第五中学区第十四番公立小学柳北女学校として設立
明治20年(1887) 柳北女子尋常高等小学校と改称
明治41年(1908) 柳北尋常小学校と改称
大正15年(1926) 現在地に鉄筋コンクリート三階建校舎が竣工
昭和16年(1941) 東京府東京市柳北国民学校と改称
昭和18年(1943) 東京都柳北国民学校と改称
昭和22年(1947) 東京都台東区立柳北小学校と改称
昭和51年(1976) 創立百周年記念式典挙行、常陸宮殿下、同妃殿下御臨席
平成13年(2001) 統合新校設立のため閉校
東京都台東区浅草橋5-1-35 ここに「柳北小学校の碑」を設置する
 台東区教育委員会



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