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東京都台東区の歴史
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所在地 台東区千束3-18-7

鷲神社おおとりじんじゃ

 東京下町 八社福参り 商売繁昌

 鷲神社は、江戸時代「鷲大明神社」と称されていたが、明治のはじめ「鷲神社」と改称された。
 祭神は天之日鷲命・日本武尊の二神。草創は不明である。社伝によれば、天之日鷲命の祠に、日本武尊が東国征伐の帰途、熊手をかけて戦勝を祝った。この日が11月酉の日で、以後、この日をお祭と定めたという。
 酉の市は、江戸中期より冬の到来を告げる風物詩として発展し、足立区花畑を「大鳥」、浅草を「新鳥」と称した。浅草はとくに浅草観音新吉原猿若町芝居小屋を控え、賑わいをみせた。
 一の酉、二の酉、年によって三の酉とあり、世俗に三の酉があると火事が多いと言われる。
 酉の市は、当初、農産物や農具の一種として実用的な熊手を売る市であった。その後、熊では幸運や財産を「かきこむ」といわれ、縁起物として商売繁昌開運の御守として尊ばれてきた。また、八ツ頭は、人の頭になる、子宝に恵まれるといわれる。
 平成6年(1994)3月 台東区教育委員会



                OTORI SHRINE
 There are two gods to which the Otori Shrine is ddedicated Amenohiwashi-no^mikoto and Yamato-takeru-no-mikoto.According to the legend of the shrine,Yamato-takeru-no-mikoto felicitated his victory on his way back from his expedition by hanging a rake on the small shrine for Amenohiwashi-no-mikoto.It occurred on the Day of the Cock in November,so that the day was subsequently chosen as the date of the festival.The Cock Fair was developed in the middle of the Edo era as the peotical feature foreboding the arrival of winter.There is the First Cock Fair,the Second Cock Fair and,depending on the year,the ThirdCock Fair.The year having the Third Cock Fair is said to have many fires.Originally,the Cock Fair was a fair to sell rakes for practical use as a kind of agricultural product or implement.Subsequently,a rake was said to be useful in collecting fortune and assets.Therefore,it has been regarded as the charn for bringing about commercial prosperity or luck.



   浅草「酉の祭」「酉の市」起源発祥の神社
     「おとりさま」・鷲神社と鷲大明神
 鷲神社は江戸時代以前より此の地にまつられ、江戸時代は鷲大明神と号し、強運にあずかる守り神として鷲大明神がまつられ、大明神と伝われるとおり神様をおまつりしてあります。
 鷲大明神は天日鷲命と申され、開運・商売繁昌にあらたかな神として古くから崇敬されております。
 その発祥は景行天皇の御代、日本武尊が東夷征討の時、鷲大明神社(鳥の社)に立ち寄られ、戦勝を祈願し、志をとげての帰途社前の松に武具の「熊手」をかけて勝ち戦を祝い、お礼参りをされました。その日が11月の酉の日であったので、この日を鷲神社の例祭日と定めたのが「酉の祭」即ち「酉の市」の起源・発祥です。
 その后、日本武尊が併せまつられ、浅草「酉の祭」「酉の市」は次第に賑いを増し、酉の市に商われる縁起熊でも年毎に人気となり、江戸の庶民の春(正月)を迎える行事として益々盛大に華やかさを加えたのです。特に吉原遊郭の隆盛と共に賑い「吉原のおとりさま」とも云われました。
 江戸時代からまつられている「鷲大明神」天日鷲命は、鷲の背に乗るお姿から「鷲大明神・おとりさま」といわれ、江戸の数々の火事、関東大震災、第二次大戦の戦禍にもお守りされ、300年以上にわたり鷲神社に安置されております。天日鷲命は、「東都歳時記」に”開運の守護神なり”とあり、日本武尊と共に福運・強運・商売繁昌・武運を司どる神様として厚く信仰されております。
      

                             東都歳時記 浅草田圃 酉の市

 「酉の祭・酉の市」
 歳末にあたり1年を神に感謝し、新年を迎えるにあたり福運を願う祭りである浅草「酉の市」は、江戸の昔の華やかさとその伝統を今に伝えると共に多くの善男善女の厚い信仰を集め、今に受け継がれております。
 「酉の市」は江戸時代には「酉の祭」とよばれ、人と神が和楽する祭りを意味しております。
 又、「市」は「斎(いつ)く」で神様をお祭りするために「身を清めてつつしむ」ということです。
 このように「祭」・「市」も本来は「清浄な神祭」を表わしております。縁起熊手にも神社で使われる四手(紙で作った四垂れ)や神様を祭る場所であることを示す注連縄がつけられております。
 この事からも「酉の市」の「市」は神社の御祭神と参詣する多くの善男善女の人々が共に和み楽しむ神社の祭を表わしており、佛教・寺とは何のかかわりのない祭なのです。
 江戸時代の「酉の市」は鷲大明神社(鷲神社)として開かれており、当時は神佛混淆といい神社と寺が一緒に運営されておりました。別当長國寺(別当とは単に僧侶が神主を兼ねる僧職のこと。)は寛文9年(1669)に元鳥越より現在の所に移転して鷲大明神社(鷲神社)の別当となりました。
 明治元年(1868)「神佛分離令」が出され、鷲大明神社と長國寺は分離されることになり、長國寺の別当を廃し、鷲大明神社は、社号を鷲神社と改め、当時の長國寺住職・田中常繁氏は鷲神社神主となり、本来の姿になったのです。
 その后、長國寺は明治43年(1910)、それまでの山号の本立山を鷲在山と改めており、更に大正12年(1923)の関東大震災后に南向きの本堂を鷲神社と同じ西向きに改めております。
 このように「鷲大明神社」「鷲大明神」といわれるように「おとりさま」は神様をおまつりする神社であり、その御由緒により11月の酉の日に「酉の市」が齊行され多人の参詣者が集い、鮮やかな感動をよび、人と祭りのふれあいを感じさせるのです。
   浅草田甫 「酉の市 御本社」 鷲神社



                              谷文晁・鷲大明神社祭礼の図

 境内には『正岡子規句碑』、『樋口一葉玉梓乃碑』、『樋口一葉文学碑』、『宝井其角句碑』があります。


  江戸自慢三十六興 酉の丁名物くまで
          三代歌川豊国・二代歌川広重
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