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東京都台東区の歴史
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所在地 台東区浅草7-4-1 (待乳山聖天)

  十一世杵屋六左衛門(後に三世杵屋勘五郎)建立
この糸塚は元治元年(1864)十一世杵屋六左衛門が父十世杵屋六左衛門の遺志に依り供養の為建立せるものにして十世六左衛門三世勘五郎共に長唄三絃の名人と云われた人である
 昭和63年(1988)4月 六世杵屋勘五郎記
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所在地 台東区浅草7-4-1 (待乳山聖天)

昭和11年(1936)境内整地のおり御頭のみが出土され足利末期(1600年頃)の作と鑑定された学業芸道に志す者の尊信をあつめている



所在地 台東区浅草7-4-1 (待乳山聖天)

江戸時代の名残をとどめる唯一のもので貴重な文化財である、全長二十五間(45.5メートル)広重の錦絵にも描かれている



所在地 台東区浅草7-4-1  (待乳山聖天)


  銅造宝篋印塔(台東区有形文化財)
 宝篋印塔は「宝篋印陀羅尼経」という経典に基づいて造立された塔である。本塔は江戸時代中期以降に流行した、屋根型の笠をもつ宝篋印塔で、時代性をよく表している。基礎に刻まれた銘文から、天明元年(1781)に鋳物師西村和泉守が製作し、蔵前の札差等16名が奉納したものであることが分かる。西村和泉守は、江戸時代から大正時代にかけて、十一代にわたり鋳物師を務めた家で、本塔の作者は五代西村政平にあたると考えられる。
 銅造の宝篋印塔は全国的にも類例が少なく、特に区内では造立当初からほぼ完全な形で遺された唯一の事例である。各部の装飾は優れており、鋳物師の高い技能を知ることができる。また、蔵前の札差の奉納物としても貴重な歴史資料である。
 平成14年(2002)に台東区有形文化財として台東区区民文化財台帳に登載された。
 平成19年(2007)3月  台東区教育委員会

     Bronze Hokyoin-to (Cultural Asser of Taito City)
 Hokyoin-to refer to Buddhist pagodas constructed based on a sutra called Hokyoindarani-kyo.This particular pagoda has a roof style cover,popular after the latter half of the 18th century,making it very representative of the age it was built in.According to the inscription carved into the foundation,it was built by the caster Nishimura Izuminokami in 1781,and was a donation by 16 fudasashi(rice brokers/users)in Kuramae.The Nishimura Izumino-kami was a family of casters that lasted for 11 generations. This pagoda is thought to have been built by Nishimura V,Nishimura Masahira.
 Hokyoin-to made of btonze are a rarity in Japan.This pagoda is the only one in Taito city that has been preserved almost in its original condetion.It is marked by fine decorations on its various parts,and is an excellent example of the high level of skill of the caster. 

 



所在地 台東区駒形2・雷門2 ~ 墨田区

 駒形(こまかた)の名は、浅草寺に属する駒形堂に由来する。土地の人々によれば、コマカタは清く発音して、コマガタと濁らないと伝えている。
 ここは古来、交通の要地で、”駒形の渡し”のあったところである。
   江戸の巷説に有名な、
    君はいま 駒形あたり ほととぎす
の句は、文芸・美術などの上で、駒形堂とともに、この辺りの雰囲気を伝えるものである。
 関東大震災(1923)の後、復興事業の一環として、この地に新しく、優美なアーチ橋が設計され、昭和2年(1927)に完成した。
   歌人、正岡子規の和歌にも、
     浅草の林もわかず 暮れそめて
       三日月低し 駒形の上に
というのがあり、当時の景況がしのばれる。
 昭和58年(1983)3月  東京都




昭和62年度 東京都文化のデザイン事業
『 御柱 』 安達裕 作



所在地 台東区雷門2-2-2

 『浅草寺縁起』によると、創建年代は朱雀天皇の天慶5年(942)で、建立者は安房守平公雅。名称由来には、
①隅田川を舟で通りながらこの堂を見ると、まるで白駒が馳けているようなので、「駒馳け」の転訛。(『江戸名所図会』)
②観音様へ寄進する絵馬を掛けたので『駒掛け堂』と呼んだのが訛る。(『燕石雑誌』)
③駒形神を相州箱根山から勧請したのにちなむ。(『大日本地名辞典』)
これらの説がある。本尊は馬頭観世音菩薩。
 葛飾北斎・安藤広重らによって、堂は絵に描かれた。小さくとも、江戸で名高い堂だった。当時の堂の位置は現駒形橋西詰道路中央付近。堂は関東大震災で焼けた。
 平成4年(1992)11月  台東区教育委員会 

       Komagata-do Temple
 According to the recorded history of Senso-ji Temple,Komagata-do Hall was built in 942. The principal image is theBuddhist saint Bato Kanzeon. The hall appears on pictures by woodblock artists such as Katsushika Hokusai and Ando Hiroshige. Although it is small,the hall was famous in old Edo(Tokyo).
 In 1923 it was burnt down during the Great Kanto Earthquake,and it was rebuilt in 1933.



   ご本尊ご示現の聖地  駒形堂
 駒形堂は、浅草寺ご本尊の聖観世音菩薩さまが、およそ1400年前、隅田川よりご示現なされ、はじめて奉安された地に建つお堂。
 昔、この辺りは船着き場で、渡しや船宿もあり大変な賑わいをみせ、船で浅草寺参詣に訪れた人々は、まずこの地に上陸して駒形堂をお参りして、観音堂へと向った。
 このお堂のご本尊さまは馬頭観音様で、今も昔も、この地を行き交う人々をお守り下さっている。
 現在のお堂は平成15年(2003)に再建されたもの。
 今もこの地はご本尊ご示現の聖地として、人々の篤い信仰に支えられ、毎月の19日の馬頭観音さまのご縁日には、多くの参詣者で賑わう。
  馬頭観音さまのご真言・・・「おん あみりとどはばうんはった」
 金龍山 浅草寺

               Komagatado Hall
 Komagatado Hall is the temple built in the place where the principal image(bodhisattva Syo-Knnon)of Senso-ji appeared from the Sumida river and was enshrined about fourteen fundreds years ago. This area has been a port town and there were many inns for sailors and ferries. 
 Since the medieval period people who wanted to go on a pilgrimage to Senso-ji by ship visited Komagatado Hall before going to the main hall of Senso-ji. The principal image of Komagatado Hall is the god of traffic safety, bodhisattva"Bato-Kannon".
 The present temple was reconstructed in 2003.
 



浅草観音戒殺碑
 



所在地 台東区雷門2-2 (区立駒形公園内)

    都強度資料  浅草観音戒殺碑
 総高183.5センチ。元禄5年(1692)浅草寺本尊が垂迹した霊地として、駒形堂の地を中心に南は諏訪町より、北は聖天岸にいたる10町余の川筋を魚介殺生禁断の地にした。このことを記念し、元禄6年(1693)3月浅草寺第4世宣存が願主となり建立したものである。
 駒形堂はしばしば焼失しており、戒殺碑もいずれかの火災に際して倒壊しており、宝暦9年(1759)堂宇再建に伴い再び建てられたといわれる。現存の碑が当初のものであるか、再建のものであるかは詳かではないが、昭和2年(1927)5月に土中から発見、昭和8年(1933)修補再建されたものである。
 昭和46年(1971)10月1日  東京都教育委員会


所在地 台東区蔵前4-16-16 (西福寺)

 浮世絵師。宮川氏ともいい、旭朗斎または、西爾と号した。俗称は佑助。浮世絵を画き、また書を能した。はじめ嵩谷に学び、歌舞伎俳優の肖像および五人男の図をよくした。また武者絵に巧みで、はじめ人形町林屋七右衛門の家に寄食し、貧しいため名印がなく、林屋の受領印をもって代えた。印文は壺の中に林の字があった。このために人々は彼を壺屋と呼んだという。寛政4年(1792)12月8日没した。没後門人春好が二世春章となり、同じく壺形の印形を用いたため、人々は彼を小壺と呼んだ。

 昭和43年(1968)3月1日建設 東京都教育委員会



所在地 台東区蔵前4-16-16 (西福寺)

 明治2年(1869)3月、明治新政府は幕府・藩による政治体制にかわる新しい日本の構築にあたって、国民全体の教育の推進をはかるため、小学校の設置を定め、明治3年(1870)3月、東京に6つの小学校を設立した。
 その1つが、本寺境内に設立された「仮小学 第4校」で、現在の育英小学校の前身である。開校日は明治3年(1870)6月23日で、現蔵前・鳥越・浅草橋・柳橋・三筋付近に居住していた旧大名・旗本及びその家臣の子弟たちが入学したといわれる。したがって、当地は、明治5年(1872)8月の学制発布に先だつ、東京で最も早い公立小学校発祥の地である。
 当校は、明治7年(1874)4月中旬に医学館跡地(現浅草橋4丁目17番付近)へ移転、明治10年(1877)8月、育英小学校と改称し、明治18年(1885)10月に現在地(浅草橋2丁目26番8号)に移った。
 平成8年(1996)3月   台東区教育委員会

          BIRTHPLACE OF IKUEI PRIMARY SCHOOL
 In March of 1869 the Japanese government  started revolutionizing the Japanese education system. In the following March it opened 6 primary school in Tokyo. One of them was opened here in the precincts of Saifukuji temple and called the 4th school. This is the birthplace of one of the earliest public primary schools in Tokyo.
 The 4th school existed here until the middle of April in 1874. In August in 1877 it was renamed Ikuei primary school and in Octover 1885 this school was moved to the present siete (8-26,2-chome,Asakusabashi). 


所在地 台東区蔵前4-15-2 (法林寺)

         高嵩谷墓
 高嵩谷は、享保15年(1730)江戸に生まれる。江戸中期の画家で、名を一雄、号を屠竜翁、翠雲堂などと称した。画を英一蝶の門人佐脇嵩之に学んだ。
 英一蝶は、市井の風俗を軽妙に描写し、英派という一派を開いた元禄期を代表する画家の一人である。
 嵩谷は、一蝶風の風俗画を得意としたが、のちには、武者絵に新境地を開いた。浅草寺に現存する大絵馬「源三位頼政鵺退治図」は、天明7年(1787)の制作で、嵩谷の代表作のひとつ。『平家物語』に記されている。源頼政が紫宸殿で猪ノ早太と共に怪獣鵺を射止めた武勇伝を描いたものである。また、根岸3丁目の永称寺には、墨画竹虎図の屏風がある。
 文化元年(1804)8月、75歳で没し、当寺に葬られた。なお、墓所は非公開である。
 平成8年(1996)3月   台東区教育委員会

         TOMB OF KOU SUKOKU
 Kou Sukoku was born in 1730.He was a painter in the middle of the Edo era and excellent at pictures of famous samurai in combat.Among all,the pibture called"Extermination of a chimera",which is now kept at Sensoji temple,is considered one of the most representatives of his work.It depicts a legend from the Heike Monogatari(Story of Heike Family) about a warlord called Minamoto Yorimasa who exterminated a chimera.
 Kou Sukoku passed away at the age of 75 years old in August of 1804 and was buried in this temple.


所在地 台東区西浅草3-25-16 (台東区生涯学習センター)

金竜小学校発祥の地

明治45年(1912)7月29日 校舎竣工
大正元年(1912)9月2日  開校
大正12年(1923)9月1日  関東大震災により校舎焼失
昭和3年(1928)9月20日  鉄筋コンクリート校舎竣工
昭和61年(1986)9月1日  新校舎へ移転
平成10年(1998)9月28日 生涯学習センター建築のため旧校舎解体

     平成16年(2004)3月 台東区教育委員会



所在地 台東区根岸4-9-5 (西蔵院境外仏堂不動堂)

御行の松(おぎょうのまつ)

 江戸期から、根岸の大松と人々に親しまれ、『江戸名所図絵』や安藤広重の錦絵にも描かれた名松。現在の松はその3代目である。



 初代の松は、大正15年(1926)に天然記念物の指定を受けた当時、高さ13.63m、幹の周囲4.09m、樹齢350年と推定された。枝は大きな傘を広げたようで、遠くからもその姿が確認できたという。しかし、天災や環境悪化のため昭和3年(1928)に枯死。昭和5年(1930)に伐採した。



 2代目の松は、昭和31年(1956)に上野中学校敷地内から移植したが、これも枯死してしまい、昭和51年(1976)8月、3代目の松を植えた。戦後、初代の松の根を土地中より掘り出して保存し、不動堂の中にこの根の一部で彫った不動明王像をまつり、西蔵院と地元の不動講の人々によって護持されている。



 御行の松の名の由来に定説はないが、一説には松の下で寛永寺門主輪王寺宮が行法を修したからともいわれる。また、この地を時雨が岡といったところから、別名時雨の松とも呼ばれた。

 平成10年(1998)3月  台東区教育委員会



                      OGYO' PINE
 A famous pine tree known from "Edo Meisyo Zue" and from Ukiyo-e by Ando Hirosige,was loved by the people as the giant pine of Negishi. The present pine tree is its thirs generation.
 The first generation pine was estimated to be 13.63m hegh,4.09m in cirecumference,and aged 350 when it was designated a netural monumento in 1926. Le was said that the tree could be seen from afar. But due to natural desasters and a deteriorating environment,it withered and died in 1928 and was subsequently cut down in 1930.
 The second generation tree was mobed here from Ueno Junior high School grounds in 1956 but it also died. The third generation tree was planted in 1976. After World War Ⅱ,the roots from the first tree were dug up a preserved. A statue of a Fudo(the central Buddha of Esoterie Buddhism)was carved out of it and it is now worshipped by the people of the Saizo-in temple and Fudo worshippers.

 


所在地 台東区根岸3−12−38 (西蔵院)

真言宗智山派
 圓明山 西蔵院 宝福寺



 境外仏堂不動堂んは『御行の松』があります。

 

 境内には『庚申塔』があります。



 根岸小学校発祥の地碑
真言宗祖弘法大師千百五十年御遠忌引奉修
台東区立根岸小学校創立百十周年        記念

  円明山西蔵院第丗三世 義光代達立


 根岸小学校破明治7年(1874)2月西蔵院庫裡に第5中学區5番小学根岸学校として開校せらる 教員3名生徒60名官給金月10円遺骸は悉く民費に依る
 昭和60年(1985)2月21日
 台東区立根岸小学校第23代校長藤原藤祐謹誌並書


所在地 台東区西浅草1-6-7 (宗恩寺)

 小田得能(おだとくのう)は、明治時代の真宗大谷派の僧侶。わが国初の仏教の辞典『仏教大辞典』を著した人物として殊に著名である。
 万延元年(1860)、福井県坂井郡波寄村(現、福井市)の翫香寺住職である生田氏の三男として生まれる。郷里で教員をつとめたのち、真宗大谷派の高倉学寮で仏教学を修め、明治23年(1890)、島地黙雷とともにインド・中国・日本の仏教史を述解した『三国仏教略史』を編纂し、翌年、宗恩寺第24世住職となり、小田姓を名乗った。また、明治33年(1900)には、岡倉天心とともに、インド・中国の仏跡を訪ねまわり、その見識を更に高めた。
 『仏教大辞典』の執筆は、明治32年(1899)から得能が亡くなるまで、宗恩寺の土蔵の中でただ一人の力で続けられた。生存中には刊行されることはなかったが、大正6年(1917)、彼の原稿を元に、上田万年・芳賀矢一・南条文雄・高楠順次郎によって刊行され、後学に大きく貢献した。
 彼の遺骸は、当寺境内の歴代住職墓に合葬された。平成6年(1994)10月には、得能の筆「念仏成仏」の四文字を模刻した頌徳碑を建立した。
 平成7年(1995)3月   台東区教育委員会

                TOMB OF ODA TOKUNO
 Oda Tokuno was a monk in the Meiji Era. After studying Buddhism,hi edited "Sangoku Bukkyo Ryakushi",which contains brief histories of Buddhism in India,China,and Japan. Later,he became the chief priest of the So-onji temple priesrhood. He compiled "Bukkyo Daijiten"(Great glossary of Buddhism) in the storehouse of the temple from 1899 to 1911 when he died. The glossary was published in 1917 based on his draft. He was buried in the tomb of the priests of this temple.
 The monument bearing the carving "NENBUTSU JOBUTSU"which means attaining Buddhahood while chanting a prayer,was erected in 1994 by the then chief priest and supporters of the temple.


所在地 台東区根岸3-13-22

鐵砂山観音院世尊寺



創建   応安5年(1372)9月
本尊   大日一宇金輪
所属   真言宗豊山派
総本山  長谷寺(奈良県桜井市初瀬) 

福智六地蔵菩薩





所在地 台東区下谷1-12-16 (真源寺)

 入谷鬼子母神は、日蓮上人の尊像とともにここ眞源寺内寺に祀られている。眞源寺は、万治2年(1659)日融上人により創建された。
 鬼子母神は、鬼神般闍迦の妻で、インド仏教上の女神のひとりである。性質凶暴で、子どもを奪い取っては食べてしまう悪神であった。釈迦は雉も陣の末子を隠し、子を失う悲しみを実感させ、改心させたという。以後、「小児の神」として児女を守る善神となり、安産・子育の守護神として信仰されるようになった。
 入谷鬼子母神では、子育の善神になったという由来からツノのない「■(ツノのない鬼)」の字を使っている。
 また、7月上旬、境内および門前の道路沿いは「朝顔市」で賑わう。入谷名物となったのは明治に入ってからで、十数軒の植木屋が朝顔を造り鑑賞させたのがはじまりといわれている。当時この地は、入りや田圃といわれ、朝顔や蓮の栽培に適していた。
 大正初期、市街化により朝顔市は途絶えたが、昭和25年(1950)復活。以後、下町情緒豊かな書家の行事として親しまれている。
 平成6年(1994)3月  台東区教育委員会

              IRIYA   KISHIMOJIN
 KIshimojin,a goddess of children,is one of the goddesses in Indian Buddhism. She was atrocious and was an evil goddess snatching children and eating them. According to a legend,Gautama Buddha hid the youngest son of this koddess and had her mend her ways by making her experience the sorrow of losing a child. Subsequently,shi became a good goddess protecting children and women and came to be worshipped an the guardian of child-birth and child-growing.
 In early July,the precincts of the temple are crowded with people coming to see"the Morning-Glory Market." The morning-glory was introduced from China as a kind of medicinal herb in the Heian era.It was the Meiji era when this market became the famous event at Iriya,and its origin is said to be the desplay of potted morning-glories at a near-by temple.  


所在地 台東区下谷1-12-16 (真源寺)

  下谷七福神
    福禄寿
                  入谷鬼子母神 眞源寺



所在地 台東区西浅草3-27-22

曹洞宗
 泰平山 萬隆寺

萬隆寺は南朝元中五年 北朝舞慶2年西紀1388年 出羽国に創立後江戸湯島天神に移り明暦3年 浅草田甫に換地を与えられて移転創立により尓来600余年
 平成元年(1989)5月吉日



 境内に『庚申塔』があります。



庚申塔(こうしんとう)
(板駒型 三猿主尊)
寛文五年(1665)八月七日造立


 


所在地 台東区小島2-18-20


樂山堂病院跡

明治三十一年~昭和二十年

かつてここに東京市随一と呼ばれた病院がありました。


所在地 台東区下谷2-13-14

小野照崎神社
 
東京下町 八社福参り 学問芸能

 小野照崎神社の祭神は、平安初期の漢学者・歌人として著名な小野篁である。創祀の年代は不明だが、次のような伝承がある。篁は上野国司の人気を終え、帰洛の途についた際、上野照崎(忍岡、現在の上の公園付近)の風光を賞した。仁寿2年(852)篁が亡くなったとき、その風光を楽しんだ地に彼の霊を奉祀るした。その後、江戸時代をむかえ、寛永2年(1625)忍岡に東叡山寛永寺を創建するにあたり、当社を移転することとなり、坂本村の長左衛門稲荷社が鎮座していた現在地に遷した、というものである。また、一説には、忍岡から孔子聖廟昌平橋に移った元禄4年(1691)頃に遷座したのではないかともいう。



 現在の社殿は慶応2年(1866)の建築で、関東大震災や東京大空襲などを免れた。また、境内には、富士浅間神社・御嶽神社・三峰神社・琴平神社・稲荷神社・織姫神社、さらには庚申塔が現存する。


                                                                      御嶽神社・三峰神社

 例大祭は5月19日で、3年に1度、本社の神輿渡御が行われる。
 平成11年(1999)3月  台東区教育委員会


                                                                       稲荷神社・織姫神社

                 ONOTERUSAKI SHRINE
 The Ono Terusaki Shrine is dedicated to Ono-no-Takamura who was a schorar of Chinese classies in the carly years of the Heian Era.
 This shrine,which is lacated at Shinobugaoka,near Ueno Park(formerly knoun as UenoTerusaki),was of ten visited by Ono-no-Takamura.He felt at Peace here,and appreciated the landscape.He visited to come here unitil his death in 852.Afterwards in 1625,when the KaneijiTemple in Ueno was founded,the shrine was relocated tothepresent site.The current building was established in 1866 at the end of the Edo Era.It survived the Great Earthquake of 1923 and escaped destruction duringathe Second World War.
 Also in this shrine,there,is aminiature of Mt.Fuji,which was designated as an important tangible folk cultural asset.On July 1 of every year."Climbing"of the miniature Fuji takes place. 


                                                                                         庚申塔


所在地 台東区下谷2-13-14 (小野照崎神社)

 この塚は模造の富士山で、文政11年(1828)の築造と考えられている。『武江年表』同年の項に、『下谷小野照崎の社地へ、石を畳みて富士山を築く』とある。境内の”富士山建設之誌碑”によると、坂本の住人で東講先達の山本善光が、入谷の住人で東講講元の大坂屋甚助と協議して築造し、富士山浅間神社の祭神を勧請したという。
 東講は富士山信仰の集団、いわゆる富士講の一。富士山信仰は宝町末期頃に起り、井戸時代中期には非常に盛んになり、江戸をはじめとして富士講があちこちで結成された。それにともない、模造富士も多数築かれ、江戸とその均衡の富士塚は五十有余を数えるに至った。しかし、いまに伝わる塚は少ない。
 ここの富士塚は高さ約5メートル、直径約16メートル。塚は富士の溶岩でおおわれ、東北側一部が欠損しているものの、原形がよく保存されている。原形保存状態が良好な塚は東京に少ないので、この塚は貴重である。昭和54年(1979)5月21日、国の重要有形民俗文化財に指定された。
 平成6年(1994)3月  台東区教育委員会



          FUJIUKA OF SHITAYA-SAKAMOTO
 Fujizuka is a miniature mountain that an imitation man made in the image of Mt.Fuji. Many Japanese peaple believed that Mt.Fuji was god or that god lived in Mt.Fuji,and so many religious groups worshipping Mt.Fuji(they are called Fujikou)were formed among people living in Edo(Old Tokyo)and many miniature "Mt.Fujis"were built around the town.
 Sakamoto Fujizuka was built in 1828.It is zbout 5 meters talll and about 16 beters in diameter.This precious mound is preserved on good conditions. 


所在地 台東区下谷3-1 (台東区立金杉区民館)

   沿革
 嘉永6年(1853)渡邊英之助という漢学者が自宅で三学庠という塾を開き、明治8年(1875)に「渡邊学校」、明治9年(1876)に「渡邊小学校」と名前を変え、明治41年(1908)東京市が渡邊小学校を買い取り、名前も「東京市台東尋常小学校」に、その後、昭和16年(1941)「東京市台東国民学校」、昭和18年(1943)「東京都台東国民学校」、昭和22年(1947)「唐京都台東区立台東小学校」に各変りました。
 それから98年(三学庠からでは153年)の永きに亘り、それぞれの時代の使命を受け止め、新しい時代を担う多くの子供たちを育ててきました。平成18年(2006)3月児童数の激減というやむを得ない状況とはいえ、ほぼ一世紀に及ぶ歴史と伝統のある台東小学校が閉校されるに至りました。その間の卒業生は実に9420名にたっしております。 以上

  平成22年12月 台東小学校同窓会
            台東小学校記念碑制作委員会 建立


所在地 台東区東上野4-5-6 (台東区役所)



  広徳禅寺遺趾

     頌日 
髙掲法幢三百載
己憂斯地累兒孫
無邊廣大先人徳
饞勤碑陰去故園
  廣徳三十世 雪底謹織


所在地 台東区東上野5-1-2 (永昌寺)

 明治15年(1882)、講道館柔道の創始者嘉納治五郎(1860~1938)が友人や門弟とともに稽古をはじめたところが、当下谷永寺の書院であった。
 これが今日、世界各国に普及し国際的な広がりを持つ講道館柔道の発祥とされている。道場となった書院の広さは12畳、初年の門弟は9人であった。



 同明治15年(1882)夏、当時の住職朝舜法(1837~1914)の協力を得て、玄関脇の空地に、12畳のバラック建て道場を新築したが、翌明治16年(1883)神田に移った。
 永昌寺は、浄土宗で永禄元年(1558)下谷長者町に創建、寛永14年(1637)現在地に移転した。大正12年(1923)の大震災により当時の建物は焼失している。



 境内の「講道館柔道発祥之地」と刻む自然石の記念碑は、昭和43年(1968)10月、嘉納治五郎没後30周年を記念し、講道館が建立した。
 平成13年(2001)3月  台東区教育委員会


                                 銘石 『坐禅草石』

          BIRTHPLACE OF KODOKAN JUDO
 In 1882,it was here in the study of Eisho-ji temple in Shitaya,that Kano Jigoro(1860-1938),the founder of Kodokan judo,started training with his friends and follweres.
 This temple's study is regarded as the birthplace of Kodokan Judo.It has gained international popularity and has spread to various countries around the world. It has gained international popularity and has spread to various countries around the world.The study first used as a training holl,was just 12 tatami mats big and the first year saw just 9 followers join.
 In the summer of 1882,Kano JIgoro obtained the cooperation of Asahi Shunpo(1837~1914),the chief priest of Eisho-ji temple,and constructed a temporary drill hall. The drill hall was the size of 12 tatami mats and was situated in the vacant area next to the temple entrance.In 1883,the hall was relocated  to Kanda in Chiyoda Ciy.
 In 1558,Eisho-ji temmple was first edtablished in Shitaya Choja Machi,by the Jodo sect of Buddhism and was moved to its current position here in 1637.In 1923,the temple vurnt down in the first of the Great Kanto Earthquake.
 In Oktober 1968,a monument made of stone, was erected by Kodokan in the former position of the drill hall,with the inscription"Birthplace of Kodokan Judo"to commemorate the 30th anniversary of the passing of Jigoro Kano.  


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