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東京都台東区の歴史
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所在地 台東区上野7-1 (上野駅) 

高度成長期の昭和30~40年代、金の卵と呼ばれた若者達が地方から就職列車に乗って上野駅に降り立った。戦後、日本経済大繁栄の原動力となったのがこの集団就職者といっても過言ではない。
親もとを離れ、夢と不安を胸に抱きながら必死に生きていた少年、少女達。彼らを支えた心の応援歌『あヽ上野駅』は、昭和39年(1964)に発表され多くの人々に感動と勇気を与え、以後も綿々と唄い継がれている。
この歌の心を末長く大切にしたいとの思いから、また、東京台東区の地域活性化・都市再生プログラムの一環として、ゆかりの此の地に『あヽ上野駅』の歌碑を設立するものである。
 平成15年(2003)7月6日
     歌碑設立委員会・発起人
     総括責任者 深澤 壽一



 『 あヽ上野駅 』
    作詞 関口義明  作曲 荒井英一 唄 井沢八郎

1.どこかに故郷の 香りを乗せて
  入る列車の なつかしさ
  上野は おいらの 心の駅だ
  くじけちゃならない 人生が
  あの日ここから 始まった
 
2.就職列車に ゆられて着いた
  遠いあの夜を 思い出す
  上野は おいらの 心の駅だ
  配達帰りの 自転車を
  止めて聞いてる 国なまり

3.ホームの時計を 見つめていたら
  母の笑顔に なってきた
  上野は おいらの 心の駅だ
  お店の仕事は 辛いけど 
  胸にゃでっかい 夢がある
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所在地 台東区浅草橋3-13-4

甚内橋はこの四ツ角にあった橋、西から東へ流れる鳥越川の架橋だった。名称は橋畔に向坂(幸坂)甚内を祭る神社があったのにちなむ


所在地 台東区浅草橋4-16

医学館跡(都指定旧跡 旧躋寿館跡)

 江戸幕府唯一の医学専門学校、医学館が清洲橋通りのこの地にあった。
 明和2年(1765)、幕府奥医師多紀元孝が医師(漢方医)の教育のため、神田佐久間町に建てた私塾躋寿館から出発、寛政3年(1791)に、幕府が医師養成の重要性を認めて官立とし、医学館と改称、規模を拡大した。文化3年(1806)3月、大火に遭い焼失、文化3年(1806)4月に、前方の旧向柳原1丁目に移転、再建された。
 敷地約7千平方メートル、代々多紀家がその監督に当たり、天保14年(1843)には寄宿舎を設け、全寮制として、広く一般からも入学を許可し、子弟育成をはかるなど、江戸時代後期から明治維新に至る日本の医学振興に貢献した。
 平成7年(1995)3月  台東区教育委員会


         RUINS OF IFAKUKAN AND SEIJUKAN
            (Metropolitan Historical Site)
 This was the site of "IGAKUKAN",the only medical school of the Shogunate Government installed at Edo.It was formerly a private medical school called SEIJUKAN.
 SEIJUKAN was founded by Taki Genko a Kanda Sakuma-cho  to train physicians in the art of Chinese Government.The schoolburned down in March 1806.In the same year it was moved to this site of 7000㎡ and reconstructed.The school was supervised by the Taki family and greatly contributed to Japanese medical development during the latter Edo period until Meiji Restorarion. 


所在地 台東区浅草橋5-1-20

 現在、都立忍岡高等学校・柳北公園・柳北小学校のある一帯に、江戸時代、肥前国(現、佐賀県、長崎県の一部)平戸藩主松浦氏の屋敷があった。寛永9年(1632)、松浦氏は、幕府からこの地を与えられ、別邸を造営し、庭園を築造した。庭園はのち蓬莱園と命名された。
 明治40年(1907)刊行の『東京案内』には「文化文政の頃の築造に係り、東都名園中現存するものの一也」と記されている。園内の模様は大正3年(1914)刊行の『浅草区誌』に詳しい。同書によると、大池を中心に、岡を築き、樹木を植え、東屋を建て、13基余の燈籠を配し、園内各所に雅趣ある名称を付した。面積は約2千6百坪に及び、池水は鳥越川から取り入れていた。
 この名園も、関東大震災のため荒廃し、消滅した。現在は忍岡高等学校グラウンド東北隅に、池の一部と、都天然記念物指定の大イチョウを残すだけである。
 平成7年(1995)3月  台東区教育委員会


                     REMAINS OF HORAIEN
 Here stood the residence of the Matsura family and a huge garden called Horaien.The Matsuras were feudal lords of the Hirodo Clan(part of Saga and Nagasaki prefectures).Horaien was a beautiful Japanese garden,the area of which was about 8580㎡. It had a big pond in the centre and the pond was surrounded with hillocks,an arbour,and about thirteen stone lanterns.This beautiful garden was destroyed in the Great Kanto Earthquake of 1923.A part of the pond and a tall gingko tree (a cosmopolitan natural monument)still exist in the northeastern corner of the playground of the Shinobugaoka High School.  


所在地 台東区浅草橋5-1-35 (リセ・コレージュ フランコージャポネ柳北校)


      大正12年(1923)の校舎               平成13年(2001)の校舎

 柳北小学校百二十四年の歩み
明治9年(1876) 第五中学区第十四番公立小学柳北女学校として設立
明治20年(1887) 柳北女子尋常高等小学校と改称
明治41年(1908) 柳北尋常小学校と改称
大正15年(1926) 現在地に鉄筋コンクリート三階建校舎が竣工
昭和16年(1941) 東京府東京市柳北国民学校と改称
昭和18年(1943) 東京都柳北国民学校と改称
昭和22年(1947) 東京都台東区立柳北小学校と改称
昭和51年(1976) 創立百周年記念式典挙行、常陸宮殿下、同妃殿下御臨席
平成13年(2001) 統合新校設立のため閉校
東京都台東区浅草橋5-1-35 ここに「柳北小学校の碑」を設置する
 台東区教育委員会



所在地 台東区蔵前4-17-14 長應院(長応院)


                        石造宝篋印塔


所在地 台東区蔵前4-18 (浄念寺)

 都旧跡
三島政行墓
    昭和5年(1930)12月11日指定



 三島政行は通称を政蔵といい、知還翁、凸凹斎などの号を称していた。西丸御留守居三島政春の六男として江戸牛込船河原町(現在新宿区)で生まれた。15才の時に分家の三島大助政世の養子となり、文政元年(1818)御書院番となり、ついで清水殿物頭に転じた。
 文政9年(1826)幕命によって、江戸府内の地誌「御府内風土記」の編纂を行い、3年にして完了したが、明治6年(1873)に皇城炎上により焼失、その際に災を免れた資料集が「御府内備考」である。このほか昌平黌地理局総裁林述斎を中心として編纂した「新編武蔵風土記稿」「新編相模風土記稿」の事業にも参画し、「葛西志」などの編纂にも従事しており、その功績は大きい。安政3年(1856)9月29日、年77で歿した。
 昭和43年(1968)10月1日建設 東京都教育委員会


三島政行氏の御子孫の方よりご連絡頂き、訂正箇所・修正箇所等ご指導頂きました。原文そのまま以下に掲載させて頂きます。
拝啓。私は、三島政行の子孫の一人です。教育委員会設置の案内板の誤りについて、書きます。先ずは、知遇翁は知還翁の誤りです。墓石を見れば一目瞭然。御府内風土記は編纂された形跡が、幕府蔵書目からも見当たりません。御府内備考で終わっています。明治5年皇城炎上は、明治6年です。
2011年12月16日


所在地 台東区蔵前4-36-7 (竜宝寺) 

 都旧跡
  初代柄井川柳墓
                 昭和3年(1928)3月指定



 享保3年(1718)に生まれた江戸中期の川柳の点者。通称を八右衛門といい、名を正通、緑亭川柳、無名庵を号した。江戸浅草の人手浅草阿部川町の名主であった。はじめ談林派俳諧の点者となり、宝暦7年(1757)前句付点者としてすぐれた力量をあらわした。やがて、一派の狂句を発明し、世に彼の選句を川柳点といい、のち付句が独立して川柳と称せられるにいたったのである。川柳撰集として「柳樽」が有名である。川柳は雑俳の1つで、前句付が上方に流行したが、まもなく江戸に伝わり、柄井川柳が出てから盛況をきわめた。川柳と言われるようになったのは明治時代であり、季、切字などの制約がない。柄井川柳の名は13代まで受け継がれた。
 昭和43年(1968)3月1日 東京都教育委員会


所在地 台東区台東1-5

 明治25年(1892)11月、下谷二長町1番地といったこの地に、市村座が開場した。市村座は歌舞伎劇場。寛永11年(1634)日本橋葺屋町に市村座は創始し、中村・森田(のち守田)座とともに、江戸三座と呼ばれた。天保13年(1842)浅草猿若町2丁目に移り、ついで当地に再転。
 二長町時代の市村座は、明治26年(1893)2月焼失。明治27年(1894)7月再建して東京市村座と呼称。大正12年(1923)9月の関東大震災で焼けたが再興、昭和7年(1932)5月に自火焼失し消滅という変遷を経た。明治27年(1894)再建の劇場は煉瓦造り3階建で、その舞台では、六世尾上菊五郎・初代中村吉右衛門らの人気役者が上演した。岩百合菊五郎・吉右衛門の二長町時代を現出し、満都の人気を集めた。しかし、その面影を伝えるものはほとんどなく、この裏手に菊五郎・吉右衛門が信仰したという、千代田区稲荷社が現存する程度である。
 平成6年(1994)3月  台東区教育委員会



                   ISHIMURA-ZA(THEATER)
 Ichimura-za was a Kabuki Theater first built in 1634 in NIhonbashi Hukiya-cho,and in 1842 it moved to Asakusa Saruwaka-cho,and moved agein to this location.The Ichimura-za,Nakamura-za,and Morita-za were the three famous and popular theaters in this area in the Edo era,they were known as the "Edo 3 za".The Ichimura-za was Ichimura-za.In1923 during the great kanto earthquake,it was curnt down again and rebuilt,but when it burnt down again for the third time in 1932,it was not rebuilt and therefore lost forever.


所在地 台東区台東1-5-1 凸版印刷本社

         建立之誌
 凸版印刷株式会社は、近代国家建設に意気揚がる明治の清新な気風のなかで、熟達した技師たちが熱き志を結集し、当時最新鋭とうたわれた精巧緻密な製版技術「エルヘート凸版法」により業を起こし、以て広く世に益することを企図して、明治33年(1900)に創業された、爾来星霜を重ねて百有余年、その間幾多の困難に遭遇するも、むしろこれを好機ととらえ事業の変革や技術の開発に取り組み、果敢な挑戦の歴史を刻んできた。
 この不屈と進取の気象は、創業以来の精神として代々受け継がれ、それがトッパンの社風を醸成してきた。顧みれば、この赫々たる事績の革新には常に人の営みがあった。そして今日の社業隆盛に導いたのは、印刷の使命に燃え、身命を捧げた、過去数万人にもおよぶ先人である。
 そこには、ひたむきな想いを成就するため奔走した創業者や、明日に向かって勇気ある一歩を踏み出した多くの人がいる。また、「誠意・熱意・創意」の三意主義を掲げ、彩の知と技をもとに、心をこめた作品を創り出すため総合品質を追求し、津々浦々を駆けめぐり商いに励んだ人びとや、日夜生産に勤しんだ人びとがいる。さらには可能性の芽を育み研究に没頭した人びとや組織を調え成長を支えた人びとがいる。
 棉芦たちは「社会から信頼され尊敬されその上で強い企業になる」ことを旗印に、こうした先人の有意にして貴重な歴史的体験を、今後の事業展開に活かしていかなければならないのである。
 ここに創業百十周年を記念して、人間尊重の精神のもと、高野山の霊地に『先人之碑』を建立し遺徳を顕彰するとともに幾久しくトッパングループ各社の先人の御霊を称揚してご冥福を祈り、併せて社業のさらなる繁栄を祈念するものである。
 平成22年(2010)6月4日 
 凸版印刷株式会社 代表取締役社長 足立直樹


  秋葉原トッパングループ「先人之碑」

 過去数万人にもおよぶトッパンの先人は、幾多の困難に遭遇するも、これを好機ととらえ、事業の変革や技術の開発に果敢に取り組み、挑戦の歴史を刻んできました。私たちは先人が残してくださった、この有意にして貴重な歴史的体験を、今後の事業展開に活かしていかなければなりません。
 こうした先人のご恩に報いるとともに、「変革と挑戦」の遺伝子を受け継ぎ、常に挑戦者であり続けることを自らに銘ずるため、平成22年(2010)6月4日、和歌山県の高野山にトッパングループ「先人之碑」を建立しました。
 そしてこの建立の主旨を、後世にわたりすべての社員と共有すべく、凸版印刷の創業の地である、ここ秋葉原に高野山と同型の「先人之碑」を建立しました。
 今後私たちは、社会から信頼され尊敬され、その上で強い企業になることを旗印に、トッパングループのさらなる繁栄のため邁進してまいります。
 平成23年(2011)3月8日  凸版印刷株式会社



所在地 台東区台東1-30


 この辺りに、蘭方医伊東玄朴の居宅兼家塾「象先堂」があった。伊東玄朴は、寛政12年(1800)肥前国仁比山村(現、佐賀県神埼郡神埼町)で農民の子として生まれた。後佐賀藩医の養子となり、長崎でドイツ人医師フランツ・フォン・シーボルトらに蘭学を学び、その後江戸に出て、天保4年(1833)当地に居を構えた。安政5年(1858)には、第13代将軍徳川家定の侍医も務め、その名声は高まり門人が列をなした。
 玄朴はまた、江戸においてはじめて種痘法を開始した人物である。種痘とは、1980年に世界保健機関(WHO)より撲滅浅間された天然痘に対する予防法。1796年、イギリス人エドワード・ジェンナーが発明し、天然痘によって多くの人間が命を落としていたため、種痘法は西洋医学をわか国で受け入れる決定的な要因になった。嘉永2年(1849)、長崎でドイツ人のオランダ商館医オットー・モーニケが、佐賀藩医楢林宗建の子供に接種したのがわか国における種痘精巧の最初である。
 江戸では、安政4年(1857)、神田お玉が池(現、千代田区岩本町)に玄朴ら80余名が金銭を供出して種痘所設立を図り、翌年竣工した。種痘所は、この翌年火災により焼失していしまったため、下谷和泉橋通の仮施設に移り、翌万延元年(1860)再建された。同年には幕府直轄の公認機関となり、この後「西洋医学所」「医学所」「医学校」「大学東校」という変遷をたどり、現在の東京大学医学部の前身となった。
 幕府の機関となった種痘所の位置は、伊東玄朴宅のすぐ南側、現在の台東1丁目30番地の南側半分、同28番地の全域に相当する。
 なお、台東区谷中4丁目4番地の天龍院門前には、伊東玄朴の墓(都指定旧跡)についての説明板が建っています。
 平成14年(2002)3月  台東区教育委員会

 


    The Site of Ito Genboku's Home and Inoculation center
 In this area stood the Shosen-do which served as both the house and private school of the famous physician of Dutch style medicine Ito Genboku.Born into an agricultural family from NiiyamaVillage in th Province of Hizen(present day Knzaki,Saga Prefecture)in 1800.Ito Genboku was later acopted by a physician from the Sagadomain.Under thetutelage of the german physician Philipp Franz von Sievold,Genboku engaged in Dutch studies inNagasaki.After his training,he left for Edo and in 1833,establidhed himself at this seite.In 1858 hiawas appointed the personal doctor of the Shofun Iesada,and with his increasing fame he attracted many pupils.
 Genboku was also responsible for establishing the first vaccination policies for the city of Edo.In 1980 the World Health Organization submitted the Declaration for the Global Eradication of Smallpox.Because many people succumbed to smallpox,the discovery of a vaccine by the Englishman Edward Jenner in 1796 became a decisive factor in the adoption of Western medical techniques inbuild an inoculation center in Kanda Otamagaike(present day Iwamoto-cho,Chiyoda City,Tokyo).Their plan was completed the following year but,due to a fire,the senter was temporarily relocated to Shitaya Izumibashi  Street in 1859,before being rebuilt again in 1860.In that same year it came under the direct control of the Bakufu government as an official agency.From this time itawas successively transformed into the Institute for Western Medicine(Seiyo igaku sho),the Medical Institute(Igakukan sho),the Medical School(Igakko),and the Great School of the East (Daigaku toko),before serving as the predecessor of the current University of tokyo School of Medical Science.
 The location of the inoculation senter maintained by the Bakufu was just south of Ito Genboku's residence,in an area comprising the entire 28th and southern half of the 30th block of Taito 1 chome.
 Further infomation can be found in the posted explanation at the designated Metropolitan Historical Site of Ito's grave located in front of the gate of Tenryu-in Temple at Yanaka 4-4. 



所在地 台東区池之端1-2-5 (教証寺)

都旧跡
  柳瀬美仲墓
        昭和6年(1931)12月2日

 柳瀬美仲(1685~1740)は徳川時代中期の歌人。かれは宝永2年(1705)遠江国浜松に生まれ、名を方熟、字は美仲、号を隠江翁と称していた。京都に居住して詠歌を武者小路実陰の門に学び、のち、江戸に出て和歌を教授した。
  はつせ路や 初音聞かまく尋ねても
         まだこもりくの山ほととぎす
の一首によって、世人は美仲を「こもりくの美仲先生」と呼んでいた。著書には「秋夜随筆」その他がある。
 元文5年(1740)5月17日、年56で歿した。墓石には「隠口先生美仲甫之墓」とあり、巷間に「こもりく先生」の名がもてはやされたことが知られる。
 昭和43年(1968)10月1日 東京都教育委員会


所在地 台東区池之端1-3-45 旧岩崎邸庭園

   旧岩崎邸庭園

 旧岩崎邸庭園内の建物は、三菱の創始者岩崎家本邸の旧宅です。庭園内の建物のうち洋館と撞球室は、近代日本の建築界に大きな足跡を残したJ.コンドルの設計で、明治29年に建築されました。洋館は木造2階建て、地下室付で、イギリス17世紀初頭のジャコビアン様式を基調とし、明治洋風建築を代表する建物です。洋館に併置された和館は書院造りを基調とし、棟梁は財政界の大立者たちの屋敷を数多くてがけた大河喜十郎と伝えられています。和館内には橋本雅邦が下絵を描いたと伝えられる障壁画がのこっています。昭和36年(1961)に洋館と撞球室が重要文化財に指定されました。昭和44年(1969)には和館大広間と洋館東脇にある袖塀が、平成11年(1999)には宅地、煉瓦塀、実測図が国の重要文化財に指定されています。



The buildings in the Tokyo MEtropolitan Kyu Iwasaki-tei Gardens are the formerkprincipal residence of the Iwasaki famiy,the founder of the Mitsubishi funancial group.The Western-style building and the billiard room were designed by J.Conder who left his great foorprints over the modern Japan architectural world,and were builded in the 29th year of Meiji(1896).The Western-style building is a wooden,two-storied one with a basement and one of the representative Western-style buildings in the Meiji era,having the taste of Jakobean architecture developed in the 17th century England.The Japanese-style building was integrated with the Western-style building and the designed was based on the classic Shoin-style.The head Hapanese carpenter for the progect was Ookawa Kikujiro,a famous craftsman who created many residences for notables in the government and the financial world.Japanese artwork was painted on the alcove(Tokonoma)and sliding doors (Fusuma)in the Japanese-style building.Most of the paintings are the work of Gaho Hashimoto,founder of modern Japanese art.The Western-style building and the billiard room were designated as nationally important cultural properties in the 36th year of Showa(1961).The Japanese hall (O-hiroma)and the sode-dei wall on the side of the Western-style buileing were added to the list in the 44th year  of Showa (1969),and finally the resedential area,brick wall and measured map in the 11th year of Heisei(1999).


所在地 台東区池之端1-4-33 (東天紅)

   江戸六阿弥陀縁起
 聖武天皇の頃(724~749)、武蔵国足立郡(今の東京都足立区)に沼田の長者と呼ばれる庄司(荘園を管理する人)従二位藤原正成という人がいて、多年子宝に恵まれずにいたが、ある時、熊野権現(和歌山県)に詣でて祈願したところご利益を得てようよう一女を授かった。
 この息女は足立姫と呼ばれた程にみめ美しく、仏を崇い、天質聡明であったが、隣りの郡に住む領主豊島左ヱ門尉清光に嫁がせると、領主の姑が事々に辛くあたり悲歎の日々を送ることになった。
 そしてある時、里帰りの折りに思い余って沼田川(現荒川)に身を投げ、五人の侍女もまた姫の後を追って川に身を投じたのであった。
 後日、息女らの供養に諸国巡礼の旅に出た長者が再び熊野権現に詣でたところ夢に権現(衆生を救うために日本の神の姿をとって現れる仏)が立ち、一女を授けたのはそなたを仏道に導く方便であった、これより熊野山中にある霊木により六体の阿弥陀仏を彫み広く衆生を済度せよ、と申されたのであった。長者が熊野山中を探し歩くと果たして光り輝く霊木をみつけ、長者は念を込めてその霊木を海に流したのである。長者が帰国してみると霊木は沼田の入江に流れ着いており、間もなくこれも先の夢のお告げの通りに、諸国巡礼の途に沼田の地に立ち寄られた行基菩薩に乞うて六体の阿弥陀仏を彫り、六女ゆかりの地にそれぞれお堂を建ててこれを祀ったのである。



 江戸時代に入り、この六阿弥陀を巡拝し、極楽往生を願う信仰が行楽を伴って盛んになり、特に第5番常楽院は上野広小路の繁華街(現ABAB赤札堂地)にあったので両彼岸などは特に大いに賑わい、江戸名所図絵にも描かれている。広小路のお堂は、関東大震災と第二次大戦期の焼失を経て、ご本尊阿弥陀さまは調布市に移ったが、参詣の便を図って縁のある上野池之端、此東天紅の敷地を拝借して別院を設け、模刻の阿弥陀さまをお祀りしている。
 六阿弥陀第5番 常楽院 調布市西つつじヶ丘4-9-1


 江戸六阿弥陀
第1番 西福寺 北区豊島2-14-1
第2番 恵明寺(明治9年に延命寺を合併) 足立区江北2-4-3
第3番 無量寺 北区西が原1-34-8
第4番 与楽寺 北区田端1-25-1
第5番 常楽院 調布市西つつじヶ丘4-9-1
第6番 常光寺 江東区亀戸4-48-3


所在地 台東区池之端1-4-24 横山大観記念館



   横山大観顕彰碑
 横山大観先生は近代日本画壇の代表的巨匠である 明治元年水戸藩士酒井捨彦の長男として水戸に生まれ本名を秀麿 母方の横山の姓を継ぐ
 明治26年(1893)東京美術学校卒業 校長岡倉天心に愛されて終生大きな感化を受けた 明治30年(1897)東京美術学校助教授となったが1年で職を辞し岡倉天心が創設した日本美術院に下村観山 菱田春草とともに日本画の革新運動を起した その後美術研究のためインド ヨーロッパ各地及び中国などを視察し 師天心の思想である東洋の理想をうけつぎ 新しい日本画を創造した
 明治45年(1912)からこの地に居し画筆をとる 昭和10年(1935)帝国美術院会員 昭和12年(1937)第一回文化勲章受賞
 代表作に「無我」「満湘八景」「生々流転」の他多くの水墨山水 富士山などがある
 昭和32年(1957)5月台東区名誉区民に推戴された 昭和33年(1958)2月歿 90歳
 昭和43年(1968)10月 東京百年を記念し建立する
 東京都台東区長 上條 貢



所在地 台東区池之端1-6-13

  境稲荷神社

  祭神 倉稲魂命

 文明年間(1469~1487)足利9代将軍足利義尚公により創祀されたと伝えられ忍が岡と向が岡の境に鎮座するところから境稲荷と称され両村の総鎮守であった。
 寛延3年(1750)隣地岡上の松平邸より出火した火災により社殿をはじめ足利義尚公自筆の扁額や重宝古記録とも焼失したが別当慈海によって再建された。
 現参道口鳥居の扁額はこの時拝殿に奉納された半井大和守筆の額字を写したものである。



 古歌「忍ぶ岡向ふる岡の境なる神のやしろは松の下谷」
 その後明治28年(1895)3月戦禍を受け現在の本殿拝殿鳥居並に社務所は平成5年(1993)の造営である。
 境内本殿裏の井戸はその昔の当社別当原泉山三光寺の名称からも非常に古くからの湧水であることが知られ江戸の地誌にも「弁慶鏡ヶ井」と在り名水をもって知られている。
  境稲荷神社


所在地 台東区鳥越2-4-1 (鳥越神社)

 当神社は、白雉2年(651)の創建。日本武尊、天児屋根命、徳川家康を合祀している。
 社伝によると、日本武尊が、東国平定の道すがら、当時白鳥村といったこの地に滞在したが、その威徳を偲び、村民が白鳥明神として奉祀したことを起源とする。後、永承年間(1046~1052)、奥州の安倍貞任らの乱(前9年の役)鎮定のため、この地を通った源頼義、義家父子は、名も知らぬ鳥が越えるのを見て、浅瀬を知り、大川(隅田川)を渡ったということから鳥越大名人と名付けた。以後、神社名には鳥越の名を用いるようになり、この辺りは鳥越の里と呼ばれるようになった。天児屋根命は、武蔵の国司になった藤原氏がその祖神として祀ったものとされる。また、徳川家康を祀っていた松平神社(現、蔵前4丁目16番付近)は、関東大震災で焼失したため大正14年(1925)に当社に合祀された。
 例大祭は、姪とし6月9日前後の日曜。千貫神輿といわれる大みこしの渡御する「鳥越の夜祭」は盛大に賑い、また正月8日に正月の片付け物を燃やす行事「とんど焼き」も有名である。
 平成11年(1999)3月  台東区教育委員会

境内末社には「志志岐神社 」「福寿神社」があります。



                         TORIKOE SHIENE
 The Torikoe Shrine,founded in about 651,is an establlshment dedicated to Yamato-takeru-no-mikoto.Amanokoyano-no-mikoto and Tokugwa Ieyasu.Its festival is held on the Sunday near June 9,and the passage of a gigantic portable shrine,which is called a 1000-kan(quite heavy)portable shrine,attracts many people as the Night Festival of Torikoe.The Tondo-yaki held on January 8 is an event in which New Year decorations,the preceding year's charms,etc. are gathered and burned in the compounds of the shrine.


所在地 台東区鳥越2-4-1 (鳥越神社)

 御祭神 豊玉姫命
 御由緒 当社は、その本社対馬國下懸郡久田村にあり、往昔より安産を守る神として崇められている。

御祭神豊玉姫命は、海神の鸕鷀(うがや)の翼を用い草として葺けるに未だ葺き合えざるに安産し給うに依りて、御子鸕鷀葺不合尊(みこうがやふきあえずのみこと)と申奉る。此の故事により対馬國人本社を安産の神として崇め奉るに依りて、藩主宗対馬守、寛永年間にその邸内社を現在の台東1丁目2番辺りにに勧請し、屋敷の守護神となし、安産の神として諸人に参拝せしめられたり。産婦社域内の御石を頂き安産を祈り、お礼に御石を納め箒を納める風習あり。
 平成13年(2001)、鳥越神社御鎮座1350年を奉祝し、其の社を境内末社として鎮め祀る。
     鳥越神社


所在地 台東区鳥越2-4-1 (鳥越神社)

     福寿神社  
 
 例祭日 3月15日 10月25日

 祭神 倉稲魂命
お稲荷さんと一般に言われ、福徳開運十種の徳をそなえ、農工商、衣食住の守護神として、信仰の厚い神様です。

 祭神 大黒天神 恵比寿神
七福神のうちの二神で福徳開運、延寿、医療、智恵、善心を司どる神様です。

 祭神 菅原道真公(菅公)
文章博士、学問の神様として広く信仰があり、天神様と尊称されています。九州大宰府天満宮の飛梅のお話は、あまりにも有名です。

     鳥越神社


所在地 台東区松が谷1-12 (松葉公園)

 ラジオ体操は、昭和3年(1928)天皇陛下ご即位を記念し国民の健康増進を目的として郵政省(当時逓信省)簡易保険局が制定し、日本放送協会の電波にのせて全国に放送してから50年国民の愛好するところとなり体力づくりに大きな役割を果しつつあったが、第二次世界大戦の影響を受け昭和22年(1947)8月31日で放送も一時中断の止むなきに至った。その後、戦後の復興とともに、昭和26年(1951)5月6日、3年8ヶ月ぶりにラジオ体操の放送が再開され、昭和27年(1952)6月28日中継放送再開の第一声が、ここ松葉公園から全国に放送された。これを機として台東区ラジオ体操連盟が発足し、次いで東京都ラジオ体操会連盟及び全国ラジオ体操連盟と発展し今や全国に2千万人を突破する今日の隆盛を見るに至った。ここにラジオ体操制定50年と中継放送再開発祥の地を記念して永く後世に伝える。
 昭和52年(1978)6月25日 東京都台東区



所在地 台東区松が谷2-1-2 (正定寺)

 長八は鏝絵を描き、『異本日本絵類考』に、「最古の技に長ぜり」「柱等に種々にカイガを泥装するをもて、専門の業となし、又花瓶額面等に、花卉鳥獣の形を塗る、世人以て絶妙の技となす」と評された人物。鏝絵とは漆喰を塗った上に、鏝で絵を描き出したもので、石灰絵ともいう。
 文化12年(1815)8月5日、伊豆国松崎で誕生した。俗に伊豆長八と呼ばれ、世に知られた。天保元年(1830)に江戸へ出て、左官棟梁源太郎の弟子となった。修行のかたわら、狩野派の画法を学び、乾道と号した。また晩年には仏教学も学んで天佑と号したという。明治3年(1870)に苗字の名乗りが許されると、最初上田と名乗り、後に入江と改姓した。 



 明治22年(1889)10月8日に78歳で、深川に没すると、遺骨は正定寺に埋葬され、同時に松崎の浄感寺にも分骨された。正定寺の墓石には、「入江家先祖の墓」と刻まれ、台石には「深川播磨屋」と養家の家号が刻まれている。
 平成15年(2003)3月 台東区教育委員会



所在地 台東区松が谷2-1-2 (正定寺)

 虎之助は直心影流島田派の剣客。文化11年(1814)に豊前国中津(現大分県中津市)藩士、島田市郎右衛門親房の子として生まれた。10歳頃から、中津半剣術師範堀十郎左衛門の道場で学んだ。上達が早く数年後には、半内で相手になる者はいなかったという。16歳の春および翌年には九州一円を武者修行し名声をあげた。
 天保9年(1838)に江戸へ出て、男谷精一郎の内弟子となった。1年余で、師範免許を受け、男谷道場の師範代を勤める。天保14年(1843)、東北方面に武者修行の後、浅草新堀で道場を開く。その道場には、勝麟太郎(のちの)も通った。



 虎之助は男谷に次ぐ幕末の剣豪といわれたが、嘉永五年(1852)9月16日に39歳で病没。墓碑には、「余、哀歎ほとんど一臂を失うごとし」と男谷精一郎の銘文が刻まれている。
 平成15年(2003)3月 台東区教育委員会




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