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東京都台東区の歴史
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         東京飛翔ライオンズクラブ創立5周年記念  竣工 平成12年4月

所在地 台東区下谷1-11 

       入谷の朝顔について
入谷の朝顔は、明治2年(1869)近傍の寺院で鉢植を造って、人々の縦覧に供したのが、そのはじまりとされているが、15、6年ごろから朝顔は天下の名物となった。その後大正2年(1913)以来永らく中絶されていたが、第2次世界大戦後地元の復活運動によって昭和25年(1950)7月から再開され、今や東京の年中行事の1つとなっている。ついては、われらは往時の盛事をしのび、入谷朝顔の発祥の地として、ここに記念碑を建立するものである。
   入谷から出る朝顔の事かな   子規
 1956年7月6日 下谷北部観光連盟


所在地 台東区東上野6-17-3 (法善寺)

 齋藤家は美濃国の出身といわれ、家康入府の時から江戸神田に住んで、雉子町の草分け名主として六ヶ町を支配した。また、神田果物市場を監督して野菜上納のことうを掌っていた。代々市左衛門と称した。
 齋藤長秋(幸雄)とその子縣麿呂(幸孝)その孫月岑(幸成)は、三代にわたって、江戸の地誌を調べて『江戸名所図絵』を完成させた。
 『江戸名所図絵』7巻20冊は、江戸の風俗・行事・名所等を、絵入りで解説したもので、前編が天保5年(1834)に、後編が天保7年に出版され、さし絵は長谷川雪旦・雪堤父子の手による。文・絵ともに実地踏査に基づいており、江戸の都市景観を知る上で貴重な史料である。
 月岑は江戸年中行事を『東都歳時記』、江戸関係事項を『武江年表』と題し、出版した。いずれも江戸研究者必読の書である。
 平成7年(1995)3月  台東区教育委員会

   TOMB OF THREE GENERATIONS OF THE SAITO FAMIRY
            (Metropolitan Historical Site)
 The SAito family used to rule six city blocks,the central block of which was Kanda-Kiji-Machi.Three generations of the Saito family:Choshu,his son Kakemaro,and his grandson Gesshin,surveyed the topography of Edo and completed the publication of"EDO MEISHO ZUE"(Illustrated Map of Sightseeing areas in Edo).The illustrated publication consists of six scrolls and 20 volumes which explains social customs and manners,events,and sightseeing areas.It was illustrated by Hasegawa Setsutan and his son Hasegawa Settei.Illustrations and explanations were made based upon field surveys,so the publication is one of the most important references for providing information on the life and scenes ofEdo.Gesshin also published "TOTO SAIJIKI"and"BUKO NENNPYO"also indispensable reference books.


所在地 台東区東上野6-19-2 (源空寺)

 源空寺は浄土宗増上寺の末寺。寺伝によれば、円誉道阿が天正18年(1590)湯島(現、文京区)に草庵を結び、多くの信者を集めたことに始まり、徳川家康も道阿に深く帰依したという。慶長9年(1604)草庵の地に寺院を開き、開祖法然房源空の名にちなみ「源空寺」と称した。さらに、二世専誉直爾のとき、明暦3年(1657)の大火に遭って類焼、当地に移転した。



 源空寺の銅鐘は総高2メートル22センチで、江戸時代の銅鐘としては大型である。胴周りの銘文によれば、寛永13年(1636)三代将軍徳川家光の勧めをうけ、開山道阿が願主となり鋳造されたもので、徳川家康の法号「大相国一品徳蓮社崇誉道和大居士」、同秀忠の法号「台徳院殿一品大相国公」、家光の官職・姓名「淳和奨学両院別当氏長者正二位内大臣征夷大将軍源家光公」を刻んでいる。



 作者は「椎名勝十郎藤原義定」。鋳物師椎名家は、初代伊予守吉次より代々徳川将軍家御用鋳物師を務め、本銅鐘の作者義定もその一族と思われる。
 本銅鐘は、昭和19年(1944)に重要美術品の認定を受け、平成9年(1997)には台東区有形文化財として台東区区民文化財台帳に登録された。
 平成14年(2002)3月  台東区教育委員会



           Copper Bell(Cultural Asset of Taito City)
 Genku-ji Temple was opened in1604 and transferred to its current location after being severely damaged in the great fire of 1657.
 The copper bell of the present temple has a total height of 2.22 meters and is considered to be relatively large for copper bells produced  between the 17th and 19th centuries.Genku-ji Temple cast the bell in 1636 upon the request of thethird Tokugawa shogun.Tokugawa Iemitsu,Tokugawa Ieyasu,and his successor,Tokugawa Hideyada,as well as the third shogun Iemitsu's official governing name are inscribed on its surface.
 The artist responsible for making the bell was Shiina Yoshisada from the eminent Edo period foundry of Shiina.


所在地 台東区東上野6-18 (源空寺墓地)

 墓石は角石で、正面に「東河伊能先生之墓」と隷書で刻む。伊能忠敬は延享2年(1745)神保貞恒の子として上総国に生まれる。名を三治郎という。のち下総国佐原の酒造家・名主の伊能家を継ぐ。名を忠敬と改め、伊能家の家業興隆に精出すかたわら、数学・測量・天文などを研究。漢詩・狂句も良くし、子斉と字し、東河と号した。
 50歳の時、家督を譲り江戸に出て、高橋至時の門に入り、西洋暦法・測図法を学ぶ。寛政12年(1800)幕府に願い出て、蝦夷地(現、北海道)東南海岸の測量に着手。以来18年間、伊能忠敬は全国各地を測量して歩いた。しかし地図未完のうちに文政元年(1816)4月18日没す。享年74歳。
 地図作製は、幕府天文方が引き継ぎ、没後3年の文政4年(1821)に完成。その地図は『大日本沿海輿地全図』という。また『日本輿地全図』『実測輿地全図』ともいい、俗に『伊能図』と呼ぶ。わが国最初の実測精密地図である。
 平成7年(1995)3月  台東区教育委員会
 
     TOMB OF INO TADATAKA(National Historical Site)
 Ino Tadataka(1745-1818)studied mathematics,surbeying,and astronomy and after retiring from business at the age of 50,he became a neted Edo-period geographer and surveyor.
 In 1795 he went to Edo and apprenticed himself to Takahashi Yoshitoki inorder to learn about the European calendar and surveying.He started surveying the eastern coastline of Hokkaido in 1800.For eighteen years he carried out surveys throughout Japan.But died at the age of 74 on April 18,1818 before his map was  completed.
 The map was completed three years later,by "TENMONGATA",an office of the S hogunate Government at Edo,which superbised astronomy,thecalendar,and surveying and this is the first accurate map of Japan resulting from actual surveys and is commonly called the "INO-ZU(map)".



所在地 台東区東上野6-18 (源空寺墓地)

 角石の墓碑正面に、「東岡高橋君之墓」と隷書で刻み、三面には、尾藤二州の撰文を刻む。東岡は至時の号である。
 至時は江戸時代中期の暦学者。明和元年(1764)11月、大坂御蔵番同心、高橋元亮の子として生まる。名を至時、字を子春、通称を作左衛門といい、東岡または梅軒と号した。15歳で父の職を継ぐ。性来、数学・暦学を好み、公務のかたわら、それらの研究に励む。ついで、当時の天文学会の第一人者、麻田剛立の門に入って学ぶ。
 寛政7年(1795)、改暦の議が幕府で起きると、師剛立の推挙で、同門の間重富とともに天文方に抜擢され、寛政9年(1797)「寛政暦」をつくる。一方、伊能忠敬が幕命により、実測地図を作成する際には、測量を指導し、完成させた。その関係で、二人は後世「日本地図の父母」といわれている。文化元年(1804)1月5日、41歳で肺患のため没した。著書に『赤道日食法』等がある。
 平成7年(1995)3月  台東区教育委員会

         TOMB OF TAKAHASHI YOSHITOKI
             (National Historical Site)
 Takahashi Yoshitoki was born in Osaka in 1764 and became a famous astronomer in the latter half of the 18th century.He was appointed to "TENMONGATA" of the Shogunate Government at Edo,which was apost supervising astronomy,calendar making,and land surveying.He was the central fugure in a calendar improvement project initiated as the time.He guided Ino Tadataka in surbeying and assisted in producing a map of Japan using actual surveys.They were later known as the forefathers of Japanise map-making.Takahashi died at the age of 41 in 1804.



所在地 台東区東上野6-18 (源空寺)

 江戸初期の町奴。本名は塚本伊太郎。備前唐津の士族で、幡随院の住職向導に私淑(一説には向導の実弟、または幡随院の門守の子ともいう)し、浅草花川戸に住み、奉公人を周旋する口入れ業に従事していたといわれる。
 当時町奴と呼ばれる任侠の徒が横行し、また、大小神祇組という旗本奴も市街を乱していた。やがて長兵衛は町奴の頭領となり、旗本奴の頭領水野十郎左衛門と張り合ったという。この辺は多くの伝説と潤色で構成の人々にもてはやされているため、つまびらかにはできない。
 慶安3年(1650)4月13日、水野十郎左衛門のだまし討ちにあって没した。年36。
 昭和2年(1927)3月 台東区教育委員会



       TOMB OF BANUIIN CHOBEE
               (Metropolitan HIstorical Site)
 Chobee was a Machiyakko(a man of chivalrous spirit)early in the Edo period.His real name was Tsukamoto Itaro.He was a samurai from Hizenkaratsu(Nagasaki prefecture)and privately apprenticed himself to the chief priest of the temple Banzuiin.He was said to have libed at Asakusa Hanakawado and worked in an emplyment agency.
 In those days there were many Yakko(gallants)rampant along the streets:there were two kinds:Machiyakko and Hatamotoyakko.The latter were from the retainer families of Shogun and the former with other roots.Chobee became the head of Machiyakko and competed with Mizuno Jurozaemon,the head of Hatamotoyakko.The details of their kompetition was not clear because they are full of legendar events and embroidered stories created by the people of coming ages.
 He was led into a trap and killed by Mizuno Jurozaemon on the 13th April,1650.His tomb was designated as a metropolitan historical site in 1927.


所在地 墨田区西浅草1-7-19 (清光寺)

 いわゆる歌舞伎文字である勘亭流の祖。勘六は、剛を勘亭と称し、延享3年(1746)江戸に生まれる。境町(現中央区日本橋)に住み、御家流の書を指南して能書家として知られていた。
 勘六は、安永8年(1779)中村座の依頼を受け、従来の浄瑠璃正本の文字などを参考に春の狂言の大名題を書いた。これが、歌舞伎文字勘亭流のはじまりとされる。以来、中村座の看板を書きつづけ、その独特の書風は鳥居派の芝居絵とともに世に流行し、天明年中(1781~1788)からは勘亭流といえる一家の書法として公表。文化2年(1805)59歳で没するまで、もっぱら劇場のための看板や番付の執筆を業とした。
 勘亭流は、御家流の書風に様式化を加えたもので、現在もこの伝統は継承され歌舞伎看板などで使われている。
  墓石裏面には 
      ありがたや心の雲の晴れ渡り 
          貝一筋に向かう極楽
と、勘亭流で刻まれている。
 平成13年(2001)3月  台東区教育委員会



              TOMB OF OKAZAKIYA KANROKU
 Okazakiya Kanroku was said to be the originator of the Kanteiryu style of calligraphy,used exclusively for Kabuki programs and billboards.Kantei style calligraphy originated when Kanroku was asked by Nakamuraza,a Kabuki theater,to write a billboard for kyougen.He continued to write billboards for Nakamuraza and(between 1781 to 1788),his unique calligraphy style was in vogue,together with"shibaie"or dramas of the day.
 Now buried at this temple,until his death at the age of 59 in 1805.Kanroku devoted his life to writing letters on billboards and progurams for theaters.Even now,his writing style is preserved and used at the Kabukiza theater.


所在地 台東区西浅草1-7-19 (清光寺)

 明治41年(1908)2月27日京都市伏見六地蔵に生る。大正2年(1913)5才の時、伏見大手座の「寺子屋」菅秀才に代役で初舞台を踏む。大正6年(1917)関西歌舞伎の琴高屋中村福円一座と共々浅草吾妻座に出演。芸名嵐佳寿夫、10才。大正7年(1918)関西歌舞伎の大御所中村雁次郎の門に入り長男林長三郎の下に預けられ林長丸と名のる。昭和元年(1926)12月25日松竹シネマ教と下加茂撮影所に入社。芸名林長二郎18才の時である。入社第1回作品「稚児の剣法」でデビュー、一躍映画界の人気スターとなる。昭和10年(1935)それまでの集大成として「雪之丞変化」三部作が作成され大当りをとる。昭和12年(1937)29才の時123本の作品を残して松竹を退社。東宝映画に転社。その第1回作品「源九郎義経」の撮影中暴漢に襲われ顔に致命的切創を受ける。号外が走る大事件となった。だが半年の療養後不屈の精神で再起。その第1作「藤十郎の恋」は不安を消す見事な出来で美男は蘇った。この転機に芸名林長二郎を返上、本名長谷川一夫となる。昭和19年太平洋戦争激しさを増
した召。36才の時である。除隊後は昭和20年(1945)8月終戦まで移動劇団として慰問公演を各地で行う。昭和23年(1948)東宝映画退社。
 つづいて株式会社「新演伎座」を設立。自主作成映画「小判鮫」等を発表。昭和25年(1950)大映と契約、入社。42才。昭和30年(1955)宝塚社長小林一三氏との約束で洋楽を使った芝居に意欲を燃やす。東方歌舞伎の誕生である。第1回公演は歌舞伎から中村歌右ヱ門、中村勘三郎、中村扇雀それに長谷川一夫の豪華顔合せで幕が空いた。特に舞踊「春夏秋冬」は圧巻で、ぢかたには国宝級の顔が並び4人がせり上がってくると客席は総立ちになった。大衆演劇の新しい道がはっきりと見えたようである。大成功であった。昭和38年(1963)大映映画「江戸無情」を最後に大映を退社。映画時代を経る。それまでの主演映画301本、無声からトーキーそしてカラーへ、ワイドへと休息に進歩した映画界で変わらぬ人気を持つつづけた精進努力は次の仕事への飛躍となる。「地獄門」のカンヌ映画祭のグランプリ、ブルーリボン大衆賞菊池寛賞他映画時代の勲章を次々と受賞。昭和39年(1964)初めてテレビに進出NHK連続ドラマ「赤穂浪士」に1年間出演しこれまた大成功をおさめ茶の間の人気者となる。昭和40年(1965)紫綬褒章を受章。
 昭和49年(1974)宝塚歌劇「ベルサイユのバラ」では演出家としても高く評価を受ける。昭和53年(1978)芸道65年の功績と精進に対して支部大臣特別賞が授与される。昭和54年(1979)勲三等瑞宝章受章。昭和58年(1983)第54回東方歌舞伎「半七捕物帖」が最後の舞台になるまで舞台活動は大都市、全国各地を含めて公演回数200回、上演回数3000回を超えるであろう。優雅で新鮮、贅沢なあの東宝歌舞伎は終りを告げた。昭和59年(1984)4月6日、東京港区西麻布で死去す。76才。この日総理大臣から国民栄誉賞を授与される。この最後の勲章は幕切れにふさわしく今までの業績に更に華を添えることになった。



所在地 台東区雷門1-5

 この付近は、江戸時代、紙漉町といい江戸における最初の紙漉きが行われた場所である。江戸時代を通じて盛んに製紙業が行われ、その産紙は浅草紙と呼ばれて土地の特産物だった。
 延宝4年(1676)版の『江戸絵図』には田原町1丁目の西側の道に「かみすき丁」と記され、貞享4年(1687)刊『江戸鹿子』にも「紙すき町」の名が見える。また、安永2年(1773)に成立した『江戸図説』によると、田原町のほかに橋場・鳥越や足立区千住方面でも生産されていたという。
 明治時代になると、浅草紙の製造工場は橋場や南千住の方に移り、浅草付近では作られなくなる。わざかに紙漉きの名残をとどめているのは、以前山谷堀に架かっていた「紙洗橋」の名の交差点表示である。
 浅草紙は、不要になった古紙を手で漉き返して再利用する、今でいうリサイクルペーパーである。
 平成6年(1994)3月  台東区教育委員会



                    KAMISUKICHO RUINS
 'Kamisuki'means'making paper'.This neighbourhood was named afrer the very first Paper factory in Edo tha was here and prosperd from the late 17th Century through the 19th Century.Here paper produced was called"Asakusa paper"and was in fact made from recycling old and used paper.



所在地 台東区元浅草3-19-7

 この付近は、『御府内備考』によると、慶安年中(1648~1652)、川村某が駿河国安倍川(現在、静岡県静岡市域を中心に流れる一級河川)の鎮守「孫三稲荷」とともに駿河から当地へ移したことにより安倍川町と称していた。
 孫三稲荷は、当地に伝わっている由来によると、天正年間(1573~1592)、徳川家康が、「孫三」と名乗る者に馬の轡を取らせ安倍川を渡ったが、後にその孫三を探したところ該当者はなく、ただ安倍川の川辺に「孫三」の名を持つ祠があり、実はこの稲荷の化身であったという霊験から、天正18年(1590)関東入国の際、家康の命により稲荷の神体ごと川村某の手により江戸にもたらされ、慶安年中当地へ移したという。この伝承は、江戸へ招来した年も『御府内備考』と異なるが、『町方書上』に、慶安に安倍川より移安したことが記されており、江戸初期には地域の鎮守として信仰を集めていたことが知られる。
 『町方書上』にはまた、当町に店借していた修験者の善明院という人物が「正一位孫三稲荷大明神」を司っており、神像は木造で長さ3寸(約10センチメートル)であったと記されている。
 現在、静岡の孫三稲荷の所在は不明であり、当地も関東大震災、東京大空襲などによって、記録や社殿を失ったが、昭和26年(1951)、当町会(安倍川町・菊屋橋町会)によって、社殿が再建され、毎年3月8日に例祭が行われている。
 平成7年(1995)7月  台東区教育委員会

                        MAGOZO SHRINE
 The record "Gofunai Biko"of the Edo era says this neighbourhood was called Abekasacho because a village shrine called "Magozo Shrine"at Abekawa in Shizuoka prefecture was moved to here.
 A legend has been handed down in this district that at the end of the sixteenth century,Tokugawa Ieyasu had a spiritual experience while traversing the river Abe allowing a man called Magozo to hold the bit of his horse.Later this man was found to be an incarnation representing Magozo Shrine lacated near the river Abe.
 Another record "Machikata-kakiage"shows this shrine was attended by people living in the destrict and there was an enshrined wooden statue of about 10 cm in size.
 The location of the original shrine in the Shizuoka prefecture is not known and all the records and building of this shrine here were completely lost due to the Great Knto Earthquake and Tokyo air raids during World War Ⅱ.The present shrine was constructed by the neighbourhood association and a festival is performed here annually in March. 



所在地 台東区寿2-9-7 (本法寺

      熊谷稲荷の由来について
 江戸中期の享保年間の頃雷門の浅草寺境内にあった熊谷稲荷を熊谷安左衛門の菩提寺である当本法寺に勧請した。
 この熊谷稲荷は江戸時代から霊験あらたかな稲荷として信者も多く江戸誌に参詣頗る多しと書かれているように世に名高い稲荷である。
 稲荷を祀った狐にもさまざまな種類がありそのなかでも人間に福徳をわかつ福狐として白狐だけが稲荷大名人の御眷属にえらばれる資格があると云われている。
 白狐は財物に恵まれることと人生の幸福を授かると語りつがれているが熊谷稲荷は白狐を祀った稲荷で江戸浅草の本法寺と東北の弘前の津軽藩公が祀った二箇所だけしがないきわめて珍しい稲荷で江戸時代から霊験あらたかなお守札をだしている稲荷として世に知られている。

 一の守
伝教大師から伝授された身体加護・身にふりかかる全ての災難をとりのぞく熊谷稲荷の秘法とされているお守である。

 除火難 除盗難のお札
浅草寺誌にもあるとおり江戸時代から御利益のあるお札として世に名高い。


所在地 台東区元浅草2-5-13 (妙経寺)

  台東区有形文化財 
 妙経寺の銅鐘
          平成10年(1998)指定



 妙経寺は山号を寿量山という、日蓮宗の寺院である。『御府内寺社備考』によると、当寺は天文4年(1535)に武蔵国芝崎村(千代田区大手町)に建立され、慶長16年(1611)に現在地に移転した。
 銅鐘の大きさは、総高151.5センチ、口径96センチ。宝暦13年(1763)、4代西村和泉守藤原政時によって鋳造された。
 西村家は江戸時代中期から大正時代にかけて鋳物師を務めた家で、全国に多くの作品を残している。神田鍛冶町1丁目(千代田区神田)に居を構え、代々「和泉守藤原政時」を名乗った。4代は享保5年(1720)に3代の実子として生まれ、市郎兵衛・伊右衛門を称し、江戸府内の代表的な鋳物師であった。
 銅鐘の縦帯に「武陽浅草新寺町寿量山妙経寺十世日隆」の陽鋳銘があり、鋳造以来当寺に伝来したものである。
 平成10年(1998)に台東区有形文化財として台東区区民文化財台帳に登載された。
 平成15年(2003)3月  台東区教育委員会



          Copper Bell(Cultural Asset of Taito City)

 Myokyoji Temple was first founded in 1535 before being moved to its current location in 1611.The total height of thistemple's bell is 1.515 meters,making it a fairly typical example of copper bells produced between the 17th and 19th centuries.The craftsman who made the bell was Nishimura Masatoki,a fourth generation artist from the famous Edo period(1600-1868)metal casting house of Nishimura.


所在地 台東区元浅草3-17-2 (龍福院)

 小林清親は木版浮世絵師最後の人といえる。
 江戸の末、弘化4年(1847)8月1日、浅草御蔵屋敷に武士の子として生まれ、上野戦争には幕府方として参加、明治維新後は、新聞、雑誌にさし絵を描き、生計を立てた。その前後、イギリス人ワーグマンに洋画を、河鍋暁斎、柴田是真からは日本画を修得、浮世絵師としての大成をはかった。
 やがて小林清親の版画には、上野、浅草を中心に新しい東京の風俗・建物が光と影によって描きだされ、それらは、明けゆく明治の時代を先取りしたものとして、ひろく一般に迎えられた。それは、安藤広重や歌川国芳ともちがう、写実のなかに木版の刷りの美しさを生かしたものだが、浮世絵興亡の歴史からみれば、最後の光でもあった。巷説、わが家が焼けたとも知らず、両国の大火を写生していた男である。
 大正4年(1915)11月28日死去。69歳。寺内には小林氏墓「真生院泰岳清親居士」と清親画伯碑がある。
 平成4年(1992)11月  台東区教育委員会


          The Grave of Kobayashi Kiyochikagreat 
 Kobayashi Kiyochika can be said to have been the last woodblock print artist.
 He was born in Asakusa in 1847,the son of a samurai.He studied western art and Japanese art,aiming to become a great ukiyoe(woodblock print)artist.Kiyochika's prints were widely acclaimed because they depicted the early days of the Meiji period(1868-1912),showing the manners,customs and buildings of the new Tokyo,centering on Ueno and Asakusa.His style was realistic,whilst at the same time making the most of the beauty of woodblock printing.
 He died in 1915 at the age of 69.


所在地 台東区元浅草4-6-9 (誓教寺)

 都指定旧跡
 葛飾北斎墓
          昭和2年(1927)4月指定



 江戸後期の著名な浮世絵師で葛飾流の始祖である。本姓は中島、名ははじめ時太郎のち鉄蔵といった。号は春朗、宗理、可侯、画狂人、卍翁など三十余ある。宝暦10年(1760)9月23日江戸本所割下水(墨田区亀沢)で生まれ、父は徳川家用達の鏡師中島伊勢といった。14、5才の時彫刻師に学び、19の時に浮世絵師勝川春章の門に入った。このとき与えられた名前は「勝川春朗」で、画号は「春朗」、「宗理」、「画狂人」、「卍翁」など約30種類あります。寛政4年(1792)勝川春章が没したのち、狩野派の画法をひそかに学びしこと師の知るところとなり破門。以来土佐派、琳派、洋風画、中国画などを学び独自の画境を開いた。
 肉筆画、版画、絵本、さし絵などに手腕をふるい、特に風景画は広重とともに称賛され、「富岳三十六景」をはじめ傑作が多い。彼の作品はヨーロッパに多く流れ、フランスの印象派の人びとに大きな影響を与えた。
 葛飾北斎は、生涯に住居を93回も引っ越しましたが、嘉永2年(1849)4月18日、江戸浅草聖天町の長屋で三女の阿栄(おえい)(葛飾應為おうい
に看取られて没しました。
 葛飾北斎の墓は、幕末まで北斎の父と合葬されていましたが、現在の墓は、後に他家の養子となっていた次男の崎十郎が建てた説と、崎十郎の娘 白井多知が建てたという説があります。墓石には「画狂老人卍墓」とあり、右側面には次の句が刻まれています。

 ひと魂で ゆく気散じや 夏の原

 昭和43年(1968)3月1日 東京都教育委員会



          GRAVE OF HOKUSAI KATUSIKA
 Hokusai Katusika was born Edo(Old Tokyo)in 1760 and died at a ripe age of ninety in 1849.He was a celebrated Ukiyo-e painter.His series of views of Mt.Fuji are favorite with foreign collectors.
 Oct.1969  TAITO WARD



所在地 台東区三筋2-16-4 (三筋老人福祉館)

 浅草の 三筋町なる おもひでも 
     うたかたの如や 過ぎゆく光の如や
  
                     斉藤茂吉

 斉藤茂吉は、明治・大正・昭和にわたり、日本近代文学史上に偉大なる足跡を残したアララギ派の歌人で、医学者でもあった。
 山形県に生れ、明治29年(1896)、15歳のときに上京、浅草区東三筋町54番地、養父斉藤紀一方に寄寓し、開成中学・一高・東京大学医学部を経て、長崎医学専門学校教授となり、更に文部省在外研究員として欧州に研鑚し、その後、青山脳病院長となり、作歌の傍ら、研究・評論・随筆など独自の業績をあげ、その著「柿本人麿」にて学士院賞を、次いで昭和26年(1951)文化勲章を授与され、昭和28年(1953)2月25日、70年9か月の生涯を終えた。
 因みにこの三筋町は、茂吉が、第二の故郷として、夢多き少年時代を過し、生涯懐しんだところで、短歌は、長崎在住のときに当時を回想し、詠んだものである。
 昭和50年(1975)11月  東京都台東区教育委員会


  川柳」は人名(号)である
 現在わたしたちが「川柳」と呼んでいる短詩文芸の名称が定着してたのは、俳句と同様、明治以降のこと。
 本来は、川柳風狂句とか川柳狂句と称したもので、江戸の末期から恣意的には川柳とも呼んでいましたが、文芸そのものの近代化とともに、「川柳」が固定した呼び方となりました。
 というのも、この「川柳」というのは個人の名(俳名)で、江戸時代後期に江戸の浅草新堀端の天台宗・龍宝寺門前名主で、柄井八右衛門という人が、前句附という文芸の宗匠となって名のった俳名が川柳(かわやなぎ)、この人が、現在に受け継がれる十七音独立文芸の祖となりました。代表的な選句集に『誹風柳多留』があります。


所在地 台東区寿1-21-1 鯉寺(龍宝寺)


  鯉塚
 嘉永6年(1853)3月29日 浅草新堀川龍寶寺門前附近四尺五寸程なる大鯉浮かびいたるを見て、町に人々大騒ぎとなり之を捕えんとせせいも大鯉暴れ容易に捕獲出来ず遂に船を出し血気の若者達数名川に飛び込み各自刃物竹槍等にて突き刺し漸く大鯉の弱りたるところを捕え河畔なる龍寶寺庭内大池に放ちやりしが、4月3日大鯉は遂に死せり。
 然るに近隣の者、その夜大勢集りてこれを食せしところ にわかに高熱にうなされ吐血する者も有り 40日余大いに苦しみたり。特に料理せし者のうち2人は同月16日に、他の4人は同月23日相継いで悶死せり。遺族の者達この不思議なる祟りにおどろき、ゆかりの者一同と心を合わせ鯉の霊を慰めんと龍寶寺境内に供養の碑を建て篤く弔いたり。
 やがて風聞日々に廣まり参詣する者次第に多く又不思議にもろもろの奇瑞をあらわし、とりわけ安産子育て開運出世縁結びなどには霊験あらたかなるにこれよりいつしか龍寶寺を鯉寺と呼び碑を鯉塚と言い傳えたり。
 然るに大正12年(1923)9月1日の大震火災にて碑は崩れ去り、昭和12年(1937)4月3日、1000人に及ぶ善男善女の結縁協力に依り昔にまさる鯉塚の再現となり。あらたに昇鯉観音堂建立も實現し江戸以来の舊跡復活なると信徒の者達大いによろこびいたりしも、無情なり日米開戦後、昭和20年(1945)3月10日東京大空襲の折再度崩壊の厄に逢い、爾来39年の星霜を経て今日に至る。
 然るに此度信徒の有志の人々大いに惜しく思いて今ひとたび再建の大願成就を期し、精進結集の祈り空しからず遂に機熟してここに入魂かがやく鯉塚の新姿を仰ぐに至れり。今よりは寺檀信徒相い共に一層心を戒しめ、江戸舊跡の保存傳承並びに昇鯉観音信徒に思いを致し、併せて各精霊の冥福を祈り、廣く世の人々の幸福を分たんとするものなり。
   龍門の瀧ならなくに龍寶寺
    登りてたつとなりし 鯉塚    鶯亭金升 
鯉塚建立
昭和59年(1984)10月14日吉祥日
龍寶寺第27世雲譽信丈謹記   會川富華謹書


所在地 台東区小島1-5

 現在の清洲橋通りに面して、小島1丁目の西端に南北に広がっていた。寛永7年(1630)に鳥越川を掘り広げて造られ、その形状から三味線堀とよばれた。一説に、浅草猿屋町(現在の浅草橋3丁目あたり)の小島屋という人物が、この土砂で沼地を埋め立て、それが小島町となったという。
 不忍池から忍川を流れた水が、この三味線堀を経由して、鳥越川から隅田川へと通じていた。堀には船着場があり、下肥・木材・野菜・砂利などを輸送する船が隅田川方面から往来していた。
 なお天明3年(1783)には堀の西側に隣接していた秋田藩佐竹家の上屋敷に3階建ての高殿が建設された。大田南畝(おおたなんぼ)が、これにちなんだ狂歌をのこしている。
 三階に 三味線堀を 三下り 
   二上り見れど あきたらぬ景
 江戸・明治時代を通して、三味線堀は物資の集散所として機能していた。しかし明治末期から大正時代にかけて、市街地の整備や陸上こうつうの発達にともない次第に埋め立てられていき、その姿を消したのである。
 平成15年(2003)3月  台東区教育委員会


              The remains of Shamisen Moat
 Facing the present day Kiyosubashi Street and running north-south along the western side of Kojima 1 Chome marks the spot where,in 1630 the Torigoe River bed was widened to from what was to be called the Shamisen Moat based on the shape it assumed.A shamisen is a three-srtinged musical instrument.
 The water flowing from Shinobazu Pond to the Shinobu River passed through the Torigoe River onto the Sumida River via the Shamisen Moat.In docks along the moat,it was a thoroughfare for boats transporting fertilizer,lumber,vegetables,gravel,and other goods onto the Sumida River.
 Throughout the Edo(1600-1868)and the Meiji(1868-1912)periods the moat functioned as an important entrepot.However with shifts in towns and the development of overland transportation at the end of the Meiji through the Taisho (1912-1926)periods,the moat was eventually filled in and its traces disappeared.


所在地 台東区上野4-6-2 徳大寺(摩利支天)

摩利支天

 妙宣山 徳大寺



        略縁起
当山は凡そ六百年前この地に創立せられ摩利支尊天を祭祀し奉納る。当山安置の尊天は力(気力、体力、財力)の守護神として諸天善神中最も霊験顕著なり。依って古来より諸衆の崇敬絶えず。
現前の淸衆歩を進め詣られんことを。
 昭和34年(1959)己玄年正月吉日



所在地 台東区上野4-10

 この地は、五條天神社の別当、ならびに幕府の連歌宗匠を務めた徳川家が寛永15年(1638)より屋敷を構え、元禄10年(1697)から大正時代にかけては五條天神社が鎮座していた所である。
 五條天神社は薬祖神としての信仰をあつめた神社で、室町時代中期には上野山に鎮座していることが明らかな、区内でも有数の古社である。江戸初期までの鎮座地は、現在の上の公園内摺鉢山、さらには同公園南端付近(黒門脇)と伝えている。
 こうした遷座は、寛永2年(1625)以後の寛永寺諸堂の造営、寛永8年(1931)の摺鉢山上における清水観音堂建立など、寛永寺造営工事にからむものと思われる。
 元禄10年(1697)に五條天神社が当地(瀬川家屋敷)に移されると、やがて、この付近は「五條天神門前」という町屋が形成され、上野広小路の一角としてにぎわった。大正時代には、国鉄の敷設工事や関東大震災にともない、その都度付近への遷座を余儀なくされたが、昭和3年(1928)上野公園西端の地に社殿を新造し、現在に至っている。
 なお、「五條天神門前」の名は、明治2年(1869)「五條町」に改められた。五條天神の移転後もこの町名は存続したが、昭和39年(1964)の町名変更にともない「上野」の一部となった。
 平成11年(1999)3月  台東区教育委員会



   THE RUINS OF THE FORMER GOJO-TENJIN SHRINE

 This is the place where the Shrine of Gojo-Tenjin,well known as the god of medecine,was situated from 1697 to around 1923.
 Gojo-Tenjin shrine was previously lacated at Ueno-yama(present Ueno Park),at the latest,in the middle of 15th century,being one of many old "Shinto"shrines in Taito City.
 Soon after this shrine was moved from Ueno-yama in 1697,a town grew up surrounding this area to be called Gojo-Tenjin Monzen(Gojo-Tenjin shrine town)forming a lively quarter in Ueno-Hirokoji.The shrine was again moved to the nearby neighborhood due partially to railway construction by Japanese National Railways,and then to  the wastern part of Ueno Park in March,1928,where the shrine buildings were constructeda as they are now. 


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