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東京都台東区の歴史
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所在地 台東区松が谷2-3-3 (聖徳寺)

 庄右衛門・清右衛門の兄弟は、玉川上水開削工事の請負者で、江戸の町人と言われているがその出身地は明らかではない。玉川上水の開削工事は、4代将軍家綱の承応2年(1653)1月13日に幕命が下り、2月11日に着工された。工事費として幕府から7500両が下賜されたという。

 

 羽村から四谷大木戸に至る43キロの導水部は、承応3年(1654)6月20日に完成した。其の後給水地域は順次拡大され、江戸城内をはじめ四谷・麹町・赤坂の高台などの山の手から、芝・京橋方面に及んでいる。現存する玉川上水は、江戸時代初期の土木技術の水準を今日に伝える貴重な文化財である。  

 

 近世都市江戸の水道施設建設の功績により、兄弟は200石の扶持を賜り、玉川上水役に任ぜられた。また玉川という名字を与えられ、帯刀も許された。兄の庄右衛門は元禄8年(1695)に、弟の清右衛門は翌年の元禄9年(1696)に死去した。明治44年(1911)政府は、玉川兄弟の功績に対して従五位を追贈した。
 平成3年(1991)10月31日 東京都教育委員会




 玉川氏兄弟墓碣復興記念碑
東京市水道玉川上水ノ創設者贈従五位玉川庄右衛門同玉川清右衛門兄弟両氏ハ距今二百八十餘年■元年幕府ノ命ヲ■ケテ水道開設ノ事ヲ督セル江戸町奉行神尾備前守ノ推挙ニ依リ江戸府中ニ上水導引ノ計晝ヲ命セラルルヤ全力ヲ盡シテ其ノ堪能ナル水理ヲ究明シ鋭意調査ノ結果武州羽村ヨリ多摩川ノ水ヲ取入レ江戸四谷大木戸迄導水スヘキ計ヲ樹テタリ幕府ハ大ニ之ヲ喜ヒ両氏ニ其ノ工事ヲ掌ラシメ翌二年四月四日水路■鑿ノ工ヲ起シ同年十一月十五日完成ス是レ即チ玉川上水路ナリ而シテ文化未タ進マサリシ當時ニ在リテハ測量器械ンカリシ為路線ノ位置高低等ハ線香ト提燈ノ火光ヲ利用シ専ら夜間ニ測定し又工事ハ高井戸村附近近ニ至リ工費ニ不足ヲ來シタルヲ以テ遂ニ家産ヲ投シテ之ヲ続行シタリト云フガ如キ其ノ献身的ノ努力ト犠牲的ノ苦心ハ蓋シ想像ノ及ハサル所ナルヘシ宣ナル哉幕府ハ深ク両氏ノ功ヲ賞シ各禄二百石ト玉川ノ姓ヲ賜ハリ上水役ヲ命シタリ 爾来多摩ノ清水ハ■々トシテ市中ニ脈流シ五郡八十四箇町村ヲ併合シテ大東京ノ殷賑ヲ見ルニ至リタル今日ニ於テモ尚大部分ノ地域ニ封シ給水能力ヲ発揮スル多摩川水系隨一ノ淵源トシテ依然活用セラレ帝都ノ繁栄ヲ養フテ其ノ惠千載ニ亡ヒス
畏クモ明治四十四年六月一日兄弟ノ勲功ヲ思召サレ特ニ従五位ヲ追贈セラル両氏ノ餘榮亦大ナリト賜フヘシ今茲玉川兄弟墓碑復興後援會ハ塋域ノ改築竝墓碣ノ復興成ルト共ニ墓側ニ記念碑ヲ建テ以て兄弟両氏の功績を不朽に傳ヘムトス寔ニ近代ノ美舉ナリ乃チ其ノ請ヲ諾シ略叙スルコト此ノ如シ
 昭和十二年丁丑春三月
   水道研究會理事長 井上秀二 題額
   水道研究會理事   大堀佐内 撰書

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所在地 台東区蔵前1-3

 この碑から約100メートル川下に当たる、浅草御蔵の四番堀と五番堀のあいだの隅田川岸に、枝が川面にさしかかるように枝垂れていた「首尾の松」があった。
 その由来については次のような諸説がある。
1.寛永年間(1624~1643)に隅田川が氾濫したとき、3代将軍家光の面前で謹慎中の阿部豊後守忠秋が、列中に伍している中から進み出て、人馬もろとも勇躍して川中に飛び入り見事対岸に渡りつき、家光がこれを賞して勘気を解いたので、かたわらにあった松を「首尾の松」と称したという。
2.吉原に遊びに行く通人たちは、隅田川をさかのぼり山谷堀から入り込んだものだが、上り下りの舟が、途中この松陰によって「首尾」を求め語ったところかたの説。
3.首尾は「ひび」の訛りから転じたとする説。江戸時代、このあたりで海苔をとるために「ひび」を水中に立てたが、訛って首尾となり、近くにあった松を「首尾の松」と称したという。
 初代「首尾の松」は、安永年間(1772~1780)風災に倒れ、更に植え継いだ松も安政年間(1854~1859)に枯れ、三度植え継いだ松も明治の末頃枯れてしまい、その後「河畔の蒼松」に改名したが、これも関東大震災、第二次大戦の戦災で全焼してしまった。昭和37年(1962)12月、これを惜しんだ浅草南部商工観光協会が、地元関係者とともに、この橋際に碑を建立した。現在の松は7代目といわれている。
 平成11年(1999)3月 台東区教育委員会


 

            SHUBI NO MATSU
 About 100 meters(about 330 ft.)down the Sumida River from this monument,on the riverbank,there used to be famous no Matsu ree'Shubi no Matsu'(pine tree of success).
 The origin of the name of the pine tree Shibi is not exactly clear but here are some explanations:
 1.It was named becouse a man, a shogun's retainer,'successfully'rode a horse across the flooded Sumida River from the pine tree to the other bank in the presence of the third shogun,Iemitsu.
2.Men of the world talked together under this pine tree about their 'Shubi(success)'at Yoshiwara when they crossed the Sumida river.
3.Laver (edible seaweed)used to be harvested here using 'hibi'(long sticks to collect laver)stuck in the river, and the pronunciation of 'hibi'was corrupted into 'shubi'.
 The first 'Shubi no Matsu'was blown down during the An'ei era(1772-1780),its successor died during the Ansei era(1854-1859),the third died at the end of the Meiji era(around 1910),and their succrssors were entirely destroyed by the fires of the Kanto Great Earthquake of 1923 and the Second World War.In Desember,1962,members of Asakusa-nanbu Association of Commerce,Industry and Tokugawa regretted the loss of these pines and built a monument close to this bridge in cooperation with the local people.The present pine monument is said to be the sebenth tree.


所在地 台東区蔵前1-4-3

第六天榊神社
 東京下町 八社福参り 健康長寿

御祭神  榊皇大神
御神徳  健康長寿 諸業繁栄
御鎮座  景行天皇御宇40年日本武尊御創祀
御祭壇  6月第1土・日曜日



 境内には『三ノ宮卯之助大鳳石〔力石〕』、『事比羅神社・豊受神社』、『七福稲荷神社』、『浅草文庫跡碑』、『蔵前工業学園の蹟』、『繁昌稲荷神社』があります。




所在地 台東区蔵前1-4-3 (榊神社)

 浅草文庫は、明治7年(1874)7月に創設された官立の図書館である。翌明治8年(1875)に開館し、公私の閲覧に供した。当時の和・漢・洋の蔵書数は11万余冊ともいわれている。現在、その蔵書は、国立公文書館内閣文庫や国立国会図書館、東京国立博物館などに所蔵され、太政大臣三条実美の筆蹟と伝える「浅草文庫」の朱印が押されている。
 明治14年(1881)5月に閉鎖。跡地は翌明治15年(1882)に設立の東京職工学校(旧東京高等工業学校、現東京工業大学)の敷地の一部となった。関東大震災後の大正13年(1924)、当時の東京高等工業学校は目黒区大岡山に移転。
 昭和3年(1928)に現在地に移ってきた榊神社のあたりは、かつて、浅草文庫が位置していたところである。高さ約4メートルの碑は、この文教の旧地を記念して、昭和15年(1940)11月建立された。
 平成13年(2001)3月 台東区教育委員会

      MONUMENT OF ASAKUSA PUBLIC LIBRARY
 In July 1874,the Asakusa public library was esstablished,and opened the following year for private and public use.
 While it was open,the library was said to have anywher between 110,000 to 13,000 books written in Japanise,Chinese and Western Languages.These books are now housed in the National Official document Cabinet library,National Diet Library and Tokyo National Museum Library.All the books that were in the Asakusa library have the sramp of the Asakusa library,that was hand stamped by on of the Cabinet ministers of the day,Sanjo Sanetomi.
 The library closed in May 1881 and in the following year,it became a part of Tokyo Techinology High School,now known as the Tokyo technology University.In 1924 the Tokyo Technology High School meved to it's current position in Ookayama in Meguro City.
 In 1928,the current Sakaki shrine was buuilt.Later in November 1940 the current monument(approx 4m)to mark the place of the previous Asakusa library as a cultural and educational area was built.


所在地 台東区蔵前1-4-3 (榊神社)

 蔵前工業学園之蹟

 本石碑は, 当地にあった東京高等工業学校(現東京工業大学)を記念し、工業教育発祥の地として同窓会の蔵前工業会が建立したものである。
 当校は、 工業指導者の養成を目的として、 明治十四年五月東京職工学校として創設され、 明治二十三年三月東京工業学校、 明治三十四年東京高等工業学校と改称された。
 当校は、常に日本の工業教育の指導的地位にあり、 また、 多くの留学生を教育するなど、 科学技術の発展に貢献し、 東京の出身者は「蔵前の出身」という愛称で重用された。
 しかし、 大正十二年九月の関東大震災により、校舎、 工場等が灰塵に帰したため、 学校当局は、当地での再建を断念、 目黒区大岡山に移転した。当地の敷地は、 正門の位置に建てられている本石碑を中心に、 隅田川に沿って面積四万三千平方メートルに及んでいた。
 側面に「昭和十八年三月吉日 社団法人蔵前工業会建立」裏面に「永田秀次郎選」の碑文が刻されている。
  平成十年三月 台東区教育委員会
 



  蔵前工業学園之蹟 碑文
裏面
 浅草蔵前ノ地ニ東京職工学校ヲ創設セラレタルハ実ニ明治十四年ノ事ニ属ス。爾来歳ヲ閲スルコト六十二星霜、技術者ヲ輩出スルコト万ヲ超エ、此間時勢ノ進運ニ伴ヒ校名ヲ明治二十三年東京工業学校ニ、同三十四年東京高等工業学校ニ改メラレタルガ,偶々大正十二年大震ニ遭ヒ、其復興ヲ企図スルニ当リ、寧ロ都心ヲ離レテ郊外ノ地ヲ卜スルニ若カズトナシ、翌十三年大岡山ノ地ニ移リ、昭和四年昇格シテ東京工業大学ト呼称セラルルニ至ル。其校門ヲ出ヅル者、何レモ質実剛健ノ校風ヲ継承シテ、今ヤ所謂蔵前出身ノ技術者ハ、全東亜ニ亘リテ建設ノ重要部門ヲ担ヒ、各其特色ヲ発揮シテ産業報国ノ実ヲ昂揚シツツアルハ、世ノ等シク認ムル所ナリ。然ルニ此工業発祥ノ地トモ謂フベキ蔵前学園ノ蹟ニ至リテハ、既ニ全ク変貌シテ其面影ヲ偲ブニ由ナク、今ニシテ之レヲ表示スルニ非ラザレバ、此由緒深キ学園ノ地モ、逐ニ湮滅セラレンコトヲ惧ル。恰モ好シ、往年其正門所在地付近一帯ハ榊神社ノ境内トナリ、之レヲ標識スルニ便アリ。是ニ於テ本会ハ神社関係者ト相図リ、石ニ刻シテ其地蹟ヲ表シ以テ蔵前工業学園ノ蹟ヲ永ク後世ニ伝ヘントス。
    昭和十七年一月吉日
            社団法人 蔵前工業会
            帝国教育会長 永田秀次郎撰
側面
  昭和十八年三月吉日
            社団法人 蔵前工業会建之
        昭和六十一年十一月吉日
            社団法人 蔵前工業会


東京高等工業學校全景(大正九年頃)(現 東京工業大学)


所在地 台東区蔵前2-1

 浅草御蔵は、江戸幕府が全国に散在する直轄地すなわち天領から年貢米や買い上げ米などを収納、保管した倉庫である。大坂、京都二条の御蔵とあわせて三御蔵といわれ、特に重要なものであった。浅草御蔵は、また浅草御米蔵ともいい、ここの米は、主として旗本、御家人の給米用に供され、勘定奉行の支配下に置かれた。
 元和6年(1620)浅草鳥越神社の丘を切り崩し、隅田川西岸の奥州街道沿い、現在の柳橋2丁目、蔵前1、2丁目にかけての地域を埋め立てて造営した。このため、それ以前に江戸にあった北の丸、代官町、矢の蔵などの米蔵は、享保(1716~1736)頃までに浅草御蔵に吸収された。
 江戸中期から幕末まで、浅草御蔵の前側を「御蔵前」といい、蔵米を取り扱う米問屋や札差の店が立ち並んでいた。現在も使われている「蔵前」という長命が生まれたのは、昭和9年(1934)のことである。
 碑は、昭和31年(1956)6月1日、浅草南部商工観光協会が建立したものである。
 平成11年(1999)3月 台東区教育委員会

       MONUMENT FOR THE TRACE OF ASAKUSA OKURA WAREHOUSE
 Asakusa warehouse was used for storing and keeping rice and so forth taht was submitted and paid as tax from land scattered across the country which was directly controlled by the Tokugawa Government,Rice in  the Asakusa was under the control of the chief treasurer.The warehouse was built in 1620 by excavating th hill of the Asakusa Torigoe Shrine and by filling the ground with earth at the present place.
 The front side of the Asakusa warehouse was called the "warehouse front" and there were many stores of rice wholesaters,weight checkers,momeytenders,etc.on this front side.
 The town name Kuramae was born in 1934 front the word OKURA front.


所在地 台東区蔵前2-2-12

祭神
 倉稲魂神(うかのみたまのかみ)
 御年神(みとしのかみ)
 豊受姫神(とようけひめのかみ)
祭日
 1月11日 5月11日 9月11日
由緒
 慶長年間江戸幕府米倉造営用の石を遠く肥後熊本より運搬の途中遠州灘の沖に於て屢々遭難あったが或る時稲荷の神の示現を得てより後は航海安全を得る事が出来た。その神徳賽の為め稲荷の社を浅草御蔵の中に創建名づけて揖取稲荷と称へ爾来今日に至って居る。鎮座以来既に370年氏神榊社の摂社として祭事怠る事無く奉仕、商売繁昌、火防の神として広く秀庶の尊信を集めてゐる。


所在地 台東区蔵前3-14-11

  御祭神 
誉田別天皇、息長足姫命、姫大神、倉稲魂命、菅原道真公、
塩土翁命
  御神徳
厄除開運、家内安全、交通安全、商売繁昌、学業成就、
安産子育
  例大祭
6月第一土曜日及日曜日

   御由緒
 当矢代は、徳川第五代将軍綱吉公が元禄6年(1693)8月5日、山城国(京都)男山の石清水八幡宮を当地に勧請したのが始まりです。依頼、江戸城鬼門除の守護神ならびに徳川将軍家祈願所の一社として篤く尊崇せられ、御朱印社領二百石を寄進せられました。文政年間の『御府内備考続編』ならびに『寺社書上』には次のように記されています。


 
 石清水八幡宮。御朱印社領二百石。当社、石清水八幡宮境内、拝領の儀は、元禄六酉年5月27日、高野山興山寺上り屋敷拝領つかまつり、同年8月、八幡宮社頭建立の節、御金子三百両拝領つかまつり、諸堂建立つかまつり候。其の節、境内坪数二千二百七十一坪六合拝領つかまつり候。其の後、享保17子年3月28日類焼つかまつり候に付、替地として、元坪の通り、浅草三嶋町に遷し置かれ候ところ、延享元子年3月20日、寺社御奉行大岡越前守忠相殿、三嶋町の儀、御祈願所に不相応にして、別けても、神前の向、宜しからず候に付、此の度、御上意を以て元地へ引き移し候よう仰せ付けられ候旨、申し渡され候。
 
 すなわち、創建39年後に類焼し、浅草三嶋町に遷されていましたが、その12年後の延享元年(1744)4月15日、元地である蔵前(八幡町)に還幸しました。当時は神仏習合思想に基づき、全国の主要な神社には付属して別当寺が建立されていました。そして、当社石清水八幡宮の別当寺としては、雄徳山大護院(新義真言宗)が営まれ、江戸の「切絵図」にも見られます。
 正式な社号は『石清水八幡宮』ですが、一般には『蔵前八幡』または『東石清水宮』と唱えられ、庶民の崇敬者がはなはだ多く関東地方における名社の一つに数えられました。
 また、天保12年(1841)12月には、日本橋の「成田不動」(成田山御旅宿)が、幕府の方針に基づく寺社御奉行松平伊賀守忠優の達を受けて、当社境内に遷されました。
 江戸時代も幕末の安政2年(1855)10月2日、江戸を襲った所謂「安政の大地震」では、儒学者藤田東湖を含む1万余人もの犠牲者を見てしまいましたが、幕府は安政4年(1857)7月、当社境内に高さ1丈5尺の「宝塔」1基(大施餓鬼塔)を建立し、その10月には開眼供養を行わしめました。 
 明治に入ると、その3月に「神仏分離令」が布告され、別当寺である雄徳山大護院は廃寺となりました。そして、成田不動は、明治2年(1869)深川に遷され、大施餓鬼塔も、明治3年(1870)練馬の東高野山に移されました。
 明治6年(1873)8月、郷社に列格し、明治11年(1878)11月、社号をそれまでの「石清水八幡宮」から、「石清水神社」と改称、さらに明治19年(1886)4月、再び『石清水八幡宮』と改称しました。
 其の後、大正12年(1923)9月の関東大震災および昭和20年(1945)3月の戦災により社殿を焼失、昭和22年(1947)9月、隣接の稲荷神社と相殿・北野天満宮とを合併合祀し、昭和26年(1951)3月、社号を『蔵前神社』と改称、平成7年(1995)10月、創建当初から境内神社として鎮座の「塩竃神社」(陸前国宮城郡鎮座塩竃神社遥拝殿)を合祀して現在に至っています。
 また、当社は相撲との深い関係があります。江戸時代のことですが、当社境内で勧進大相撲が開催されました。その回数は宝暦7年(1757)10月を始めとして、安永・天明・寛政・享和・文化・文政と約70年の間に23回にも及び、その三大拠点の一つでした。
 とくに、天明年間には、大関谷風や関脇小野川が、寛政年間には、大関雷電などの名力士も等社境内を舞台に活躍していました。当社で開催された本場所では幾多の名勝負が見られましたが、なかでも、天明2年(1782)2月場所7日目、安永7年(1778)以来、実に63連勝の谷風が新進小野川に「渡し込み」で敗れた一番は江戸中大騒ぎとなりました。現在の『縦番付』は宝暦7年(1757)10月、当社で開催された本場所から始められたものです。そして、当社で開催された宝暦11年(1761)10月場所より従来の勧進相撲が『勧進大相撲』となり、当場所以来の『全勝負付け』も現存しています。このように当社の境内は相撲熱で大いに賑わったものであり、明治時代には花相撲が行われたりもしていました。
 かヽる史実に基づいて、財団法人大日本相撲協会(現・財団法人日本相撲協会)より現存の社号標や石玉垣が奉納されています。
 境内神社(末社)
 福徳稲荷神社
御祭神 倉稲魂命
御神徳 商売繁昌、五穀豊穣、家内安全
例 祭 2月初午の日
  平成18年(2006)11月吉日  蔵前神社社務所


所在地 台東区蔵前墨田区

 蔵前(くらまえ)の名は、幕府の御米蔵がこの地にあったことに由来する。その蔵の前の地というのが、地名にもなったのである。
 この御米蔵は、元和年間に大川端を埋立てて建てられたが、盛時には、数十棟もの蔵が建ち並んでいたという。ここに関東各地から舟運によって、米が集積されたのである。
 近代になって、政府関係など倉庫となり、その中には浅草文庫地宇書庫などもあった。



 蔵前の地は、札差たち江戸商人発展の地であり、いきや通(つう)のあふれた土地柄となってきた。近代においても、大震災や戦災などの惨禍をのりこえて、種々の商品の問屋街として繁栄をつづけてきている。
 大震災復興事業の一環として、新しい構造の橋が、昭和2年(1927)に完成して、今日に至っている。
 昭和58年(1983)3月 東京都


 
                                                                                富士見の渡し 富岳三十六景より


所在地 台東区柳橋1-5-1

御祭神  倉稲魂命
例祭日  6月初旬
御由緒
 当社の創起年代は詳らかでないが古記に「大川辺に高き丘あり篠生い茂り里人ここに稲荷神を祀る」とあれば悠久の昔より奉斎藤し奉りあり
正平年間新田義貞の家臣篠塚伊賀守重廣主家再興の祈請をなし来国光の刀を神前に捧げ社傍に庵を結びて出家し日夜参篭怠うす為にいつしか篠塚稲荷大名人と尊称するに至った  延宝9年(1681)3月神社別当僧たる伊賀守子孫に醍醐寺三宝院御門跡より篠塚山玉蔵院宗林寺の称号を賜り元禄6年(1693)2月本多紀伊守殿寺社奉行の折には御府内古跡地と定められたが明治初年(1868)神佛分離の際玉蔵院は廃せられた 古来より商売繁昌火防神として厚く尊崇奉る


所在地 台東区東上野6-18 (源空寺)

都指定旧跡
 谷文晁墓
     昭和2年(1927)4月指定

 江戸後期文人画家。田安家の家臣で漢詩人谷麓谷の子である。
 名は正安、字は文晁のほかに子方、文五郎、号は画学斎、写山楼、文阿弥などといった。元・明・清画や狩野派、土佐派、文人画、西洋画など各派の手法を研究し画風を工夫し、関西文人画に対して江戸文人画壇の重鎮となった。門人として渡辺崋山、立原杏所、高久靄厓ら多い。文
晁の妻や娘も画家である。
 文晁は松平定信に従って諸国を巡歴し、『集古十種』の挿絵を描いた。このほか『名山図絵』『本朝画纂』『公余探勝図(重要文化財)』『五柳先生図』などがあり、人物、山水、花鳥、虫魚を得意とし、特に水墨山水に妙を得ていた。天保12年(1841)12月14日没。年78。
 昭和2年(1927)4月、東京都旧跡に指定された。
 平成13年(2001)3月 台東区教育委員会



  TOMB OF TANI BUNCHO(Metropolitan Historical Site)
 Tani Buncho was a painter,who painted inathe style of the southern Chinesea school.His rather was Tani Rokoku,aChinese style poet and a vassal of the Tayasu family.
 He studied painting of the Yuan(Mongol)dynasty,Ming dynasty,andChi'ng dynasty in China,Kano school and Tosa school in Japan,the southernChinese school at painting,and that of various schools of Europe and developped his unique painting style.He became a the Kansai's southern Chinese school of Chinese painting in contrast to the Kansai's southern Chinese school of painting.Watanabe Kaza,Tachihara Kyosho,Takaku Aigai were his pupils.His wife and daughter were also paiters.
 After he had travelled around Japan accompanying Matsudaira Sadanobu, a member of Shogun's Counsil,he produced the illustrations for "Shukojisshu".Beside this,his works are "Meisamzue","Honchogasan","Kouyotanshozu"(an important cultural property),etc.,and he was good at painting people,landscapes,floweres and birds,insects and fish. HIs forte,howecer,was landscape painting.
 He passed away at the age of 78 on the 14th of Desember,1841.
 His tomb was designated as a metropolitan historical site in 1927.


所在地 台東区松が谷3-3-3 (海禅寺)

 雲浜は名を始め義質、のち改めて定明といった。通称は源次郎。雲浜は号である。若狭国小浜(現、福井県)藩士、矢部岩十郎の二男として、文化12年(1815)6月7日生まれ、のち祖父の生家梅田氏を継いで改姓した。



 朱子学を修め、大津、京都で子弟を教える。嘉永5年(1852)、幕府を批判したため小浜藩を追放される。しかし藤田東湖・佐久間象山・高杉晋作らと交際し、尊皇攘夷論を唱え、梁川星巌とともに在京志士を指導した。その活動は常に幕政批判で、開国論者の大老井伊直弼排斥も企てたが、安政5年(1858)の「安政の大獄」で捕えられた。翌安政6年(1859)9月14日、小倉藩江戸邸の獄中で病没。遺体は海禅寺内の泊船軒に仮埋葬され、文久2年(1862)現存の墓石が建てられた。墓石は関東大震災で大破したが、正面に「勝倫斎俊巌義哲居士」と、戒名が刻まれている。
 平成7年(1995)3月 台東区教育委員会



    TOMB OF UMEDA UNPIN
 Born in 1815,Umeda was a clansman of the Obama Clan residing in Wakasa-no-kuni(now Fukui prefecture).
 He was later banished from the Obama Clan because he criticized the Shogunate Government,so but in association with Fujita Toko,Sakuma Shozan,and Takasugi Shinsaku,he pushed for advocating reverence for the Emperor and for the expulsion of foreigners.He guided supporters at Kyoto along with YanagawaSeigan.HIs activities always concentrated on criticizing the Shogunate Government,he plotted to depose Ii Naosuke,who was a Roju(member of the Shogun's Council of Elders) and an advocate for opening ports to foreign ships,Uemda was arrested in 1858 during the mass executions of the Ansei Era for his plotting.The next year,he died from illness shile in jail.



所在地 台東区松が谷3-7-2

曹洞宗
 巨嶽山 曹源寺

 
                                      かっぱのぎーちゃん

巨獄山曹源寺は曹洞宗に属し、天正16年(1588)に和田倉(千代田区)に開かれ、のち湯島天神下に移り、明暦の大火(1657)の後、現在地に移転したと伝える。当寺の通称を「かっぱ寺」という。

 

  伝承によると文化年間(1804~1817)に、当地の住人で雨合羽商の合羽川太郎(合羽屋喜八)という人物がいた。この付近は水はけの悪い低地で雨が降ると洪水となり、人々は困窮していた。そのため川太郎は私財を投じて排水のための堀割工事にとりかかった。このとき、かつて川太郎に助けられた隅田川の河童が工事を手伝い、堀割工事が完成した。この河童を目撃すると商売繁盛したという。
 この伝承が「かっぱ寺」という通称の由来であり、「合羽橋」(合羽橋交差点の付近にあった)という橋の名もまた、この伝承に由来するともいわれる。
 当寺には河童大名人が祭られるほか、合羽川太郎の墓とつたえる石碑があり、「てつへんへ手向けの水や川太郎」という句が刻まれている。
 平成15年(2003)3月 台東区教育委員会



 
            The Folklore of Kappa-dera Temple
 The common name of Sogenji TEmple is Kappa-dera.A Kappa is a mythical creature that is said to live in water.
 According to a legend,at the deginning of the 19th century there in the vicinity a raincoat maker named Kappa Kawataro.In Japanese the word for"raincoat"is also "kappa".This was once a basin with poor drainage,therefore rains would often dring floods causing undue trouble for the residents.Because of this,Kawataro began the construction of a series of drainage ditches with his own finances.The project was said to have been completed only with the assistance of the kappa living in the Sumida River whom had been helped by Kawataro in the past.It is said that those who actually witnessed the river kappa thrived in business.
 This legend is the origin of the name "Kappa-dera".Furthermore,the name of "Kappa bashi" (a bridge that once stood at the Kappa bashi intersection)is also said to come from this legend.At the temple they celebrate the Kappa Daimyojin and there is a stone monument that is said to be Kappa Kawataro's grabe.




所在地 台東区松が谷3-7

  台東区のへそ



ここが台東区のまん中
つまり「へそ」と言われている
          台東区



所在地 台東区西浅草3-4-5

浅草教会は1886年(明治19年)頃、メソヂスト監督派教会の宣教により浅草美以教会として浅草三間町2番地(駒形橋西側のあたり)に設立されました。
その後、三筋町、芝崎町、聖天横町を経て、1903年(明治36年)に現在の地に移りました。
当時の会堂は築地外国人居留地にあった築地美以教会の街道を移築したもので、尖塔に鐘の付いたモダンな建物であったようです。
現在地での会堂は、第1次会堂が1905年(明治38年)日露戦争の講和条約締結に反対する暴徒により焼き討ちを受け全焼、第2次会堂が関東大震災により焼失、第3次会堂が東京大空襲により灰爐に帰しました。
戦後はコンセットハットで礼拝を守り続けていましたが、1951年(昭和26年)、第4次の会堂が献堂されました。
この会堂は大正期より運営されていた小百合幼稚園の園舎としても使用され、多くの卒業生を送り出しました。
現在の会堂は2004年(平成16年)1月に献堂されたもので、礼拝堂とともに納骨堂を備えたものになっています。
また、教会創立期から関東大震災に至るまで、台東区生涯学習センターの南側にあたる場所で、美以美尋常高等小学校を併設していました。小百合幼稚園は少子化の永享から1996年(平成8年)にその70余年にわたる歴史を閉じました。
現在は1941年(昭和16年)にプロテスタント・キリスト教各派が合同した成立した日本基督教団に所属する教会となっています。
 教会創立120周年を記念して2006年8月15日設置


所在地 台東区西浅草3-14-1 (天嶽院)

東京都指定旧跡
 細井平洲墓 ほそいへいしゅう
       昭和17年(1942)9月指定

 江戸中期折衷学派の儒学者。享保13年(1728)尾張国知多郡に生まれた。名は徳民。通称甚三郎。延享年間に名古屋に出て、中西談淵に学び、やがて江戸に出て芝三島町(現在の港区芝大門1丁目)に談淵とともに叢桂社をおこした。出羽米沢藩主上杉治憲(鷹山)に招かれて藩校興譲館の教学振興に努め、藩政改革の教学面を指導して、改革理念の普及、家臣団の統制に大きな役割をはたした。また、天明3年(1783)には、尾張名古屋藩に招かれて藩校明倫同の督学兼継迷館総裁となり、民衆教化に努めた。享和元年(1801)6月29日江戸尾張藩邸で没した。著書に『平洲小語』『詩経夷考』などがある。
 平成2年12月27日再建 東京都教育委員会



所在地 台東区池之端1-6-13 (境稲荷神社)

 境稲荷神社の創建年代は不明だが、当地の伝承によれば、文明年間(1469~1486)に室町幕府第9代将軍足利義尚が再建したという。「境稲荷」の社名は、この付近が忍ヶ岡(上野台地)と向ヶ岡(本郷台地)の境であることに由来し、かつての茅町(現、池ノ端1・2丁目の一部)の鎮守として信仰をあつめている。
 社殿北側の井戸は、源義経とその従者が奥州へ向かう途中に弁慶が見つけ、一行ののどをうるおしたと伝え、『江戸志』など江戸時代の史料にも名水として記録がある。一時埋め戻したが、昭和15年(1940)に再び掘り出し、とくに昭和20年(1945)の東京大空襲などでは多くの被災者を飢渇から救った。井戸脇の石碑は掘り出した際の記念碑で、造立者の中には当地に住んでいた画伯横山大観の名も見える。
 平成6年(1994)3月 台東区教育委員会



   SAKAIINARI SHRINE AND BENKEI KAGAMI WELL
 Sakaiinari Shrine ia a legendary shrine that is bilieved by many residents today that have been first built in the mid 15th Century and burnt down and rebuilt time and time again.
 Toward the north side of the shrine is a well which was founded by Benkei who is a follower of a famous Samurai Minamoto no Yoshitsune in the late 12th Century and passed down through him from generation to generation. This well has be been long known to its delicious water,and during the big air raid in 1945,the well was a great sabiour providing water to drink for many victims of fire.


所在地 台東区東上野6-13-13

真宗大谷派
 高龍山 報恩寺



 境内には『鬼瓦』、『銅鐘』があります。


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