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東京都台東区の歴史
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所在地 台東区浅草2-3-1 (浅草寺)

 第二次世界大戦末期ソ連参戦で混乱状態となった中国東北部(旧満州)で避難行の末命を落とした日本人の数は二十万人を超えると云われています。

 酷寒の曠野を逃げ惑うの母子が生別れとなったり飢えや疫病に苦しみながら亡くなるなどその悲劇は数知れません。
 犠牲となられた母子の霊を慰め、また、いまだ再会かなわない親と子の心のよりどころとして二度と戦争という過ちを繰り返さない事を祈念しつつここに、母子地蔵を建立いたしました。
 1997年4月12日
  
願主    千野誠治
  
デザイン  ちばてつや
  
文字    森田拳次
     まんしゅう地蔵建立委員会
     まんしゅう地蔵建立応援団
     中国残留孤児援護基金

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所在地 台東区台東2-24-11

御祭神  大物主命 崇徳天皇
御祭事  1月1日元旦祭 2月節分日節分祭
       毎月10日例祭 10月10日大祭



 大物主命は、天照皇大神の御弟、建速素盞鳴命の御子と伝えられ、又の御名を大國主命と申され他にも沢山の御名をもたれた神である。大八州の国土経営に頗る御苦心遊ばされ、国土遍く治まった時の御名が大物主命と称された。
 ニニギノ命降臨の時、国土を譲り奉まつり、福徳を與えられる神として尊崇せられている。
 崇徳天皇は第75代の天皇で、保元の乱(1156)に遭い、讃岐に配流せられ、金毘羅大権現に御参籠、日夜御尊信せらる。百人一首の 
  瀬を早み岩にせかるる滝川の
    われても末に逢はむとぞ思ふ
は、名高い御製である。長寛2年(1164)崩御。御寿46。翌、永万元年(1165)衆庶悼みて御相殿に合せ祀る。爾来、いよいよ霊験あらたかにて五穀豊穣・豊漁満帆・海陸安穏・萬民太平、幸福な結婚を成就せらるる神々として、御神徳は萬民に篤く敬仰せられている。
 御祭神は生駒氏中祖おり崇敬する処にして、從四位下、讃岐守生駒一正慶長年間、徳川家江戸開府のおり、竹町及び周辺を中屋敷に受領し、自家の崇敬並に領国民の信仰する処なるを以って、神祠を邸内に建営し、領国讃岐国象頭山、金刀比羅大権現の神霊を頒ってここに安置す。
 現社殿は、戦災で焼失せるものを、当町並に近隣の崇敬の念厚き人達の浄財により、昭和38年(1963)11月10日に、再建せるものである。
 尚、金刀比羅神社は分祀が多く建営されているが、当町(竹町)は江戸最古の神祠の由である。
 昭和59年(1984)10月10日 金刀比羅神社崇敬会



所在地 台東区寿2-9-7 (本法寺)

 この塚が建立された昭和16年(1941)10月、当時国は太平洋戦争へと向かう戦時下にあり、各種芸能団体は、演題種目について自粛を強いられていた。落語界では、演題を甲乙丙丁の4種に分類し、丁種には時局にあわないものとして花柳界、酒、妾に関する噺、廓噺等53種を選び、禁演落語として発表、自粛の姿勢を示した。この中には江戸文芸の名作といわれた『明烏(あけがらす)』『五人廻し(ごにんまわし)』『木乃伊取(みいらとり)』等を含み、高座から聴けなくなった。
 「はなし塚」は、これら名作と落語界先輩の霊を弔うため、当時の講談落語協会、小咄を作る会、落語講談家一同、落語定席席主が建立したもので、塚には禁演となった落語の台本等が納められた。
 戦後の昭和21年(1946)9月、塚の前で禁演落語復活祭が行われ、それまで納められていたものに替えて、戦時中の台本などが納められた。

  平成16年(2004)3月 台東区教育委員会


          Hanashi Zuka

 This mound was built during the Pacific war in 1941.at that time,comic storytellers were forced to eliminate some of comic stories about the pleasure quarters,sake,a mistress,etc.and announced that they would not play these subjects of comic stories anymore,thereby showing their attitude toward to wartime to the government.Some of comic stories abolished were "Akegarasu(A crow in the morning)","Gonin mawashi(Rolling by five persons)" and "Miiratori(Mummy hunting)"which were said to be the masterpieces of Edo literature,however these stories have never been played thereafter.
 This mound was built in remembrance and memory of these masterpieces of comic stories and the deceased storytellers by the Rkugo association and all comic storytellers,etc.and scripts of the comic stories abolished were stored in the mound.
 After the war.the revivalfestival of abolished plays was held in front of the mound in September 1046.Scripts of comic stories played in wartime are stored in the mound now instead of what was stored before.



所在地 台東区寿2-9-7

   日蓮宗 長瀧山 本法寺



 天正19年(1591)太田道灌の居城のあった江戸城紅葉山に初代目先上人が開山したのが発祥の地である。
 その後北条氏が滅亡し徳川家康が新たに江戸城を築城するさいに紅葉山から外濠にあたる八丁堀に移った。
 さらに明暦2年(1657)江戸の振袖火事の大火で焼失し幕府が用達町人高原平兵衛に賜与した浅草の拝領町屋敷のあった現在の地に移った。
 住居表示で現在はその由来からとったものである。

     本法寺


                                      熊谷稲荷

 境内には熊谷稲荷はなし塚、吉見稲荷、お伽丸柳一の碑、筆塚、山谷なかま塚、江戸太郎左衛門の菩提所があります。


所在地 台東区上野1-1-10 (三洋電機東京ビル)

  日本最初の喫茶店『可否茶館(かひさかん)』跡地

 明治21年(1888)4月13日、日本人による初めての喫茶店が、鄭永慶(ていえいけい)(別名・西村鶴吉)によりこの地に設立された。 200坪の敷地に五間と八間の2階建ての木造洋館であった。
 1階には『トランプ、玉突き、クリケット、碁、将棋』を揃え、また硯に便箋や封筒もおき、更衣室、化粧室、シャワー室、調理場などの設備の他に、『内外の新聞、雑誌類、その他和漢洋書、書画を蒐集縦覧に供す』部屋を設け、2階が喫茶室で、丸テーブル、角テーブルを配置、椅子は藤であった。
 コーヒーは一杯1銭5厘、牛乳入りが2銭であり、一品料理、パン、カステラなども出していた。ちなみに当時、「もりそば」は8厘であった。


「可否茶館(かひさかん)」の創始者・鄭永慶(ていえいけい)

 設立者の鄭永慶(ていえいけい)は、近松門左衛門作の「国性爺合戦」で有名な鄭成功(ていせいこう)の弟、七左衛門を先祖にもち、庶民のためのサロンとして、また知識も学べる広場(コーヒーハウス)とすることを理念としての開店であった。


 当時読売新聞などに掲載された「可否茶館(かひさかん)」の開業案内広告

 「可否茶館(かひさかん)」の読み方は、ほかに「かひちゃかん」「かひーさかん」「かひーちゃかん」「こーひーちゃかん」などがある。

          可否茶館 記念会


所在地 台東区浅草橋1-29-11

  御祭神 誉田別命ほんだわけのみこと(応神天皇)
        武内宿祢命たけのうちすくねのみこと

  御神徳 商売繁盛 学業成就 健康長寿 家内安全
  


  御由緒  後冷泉天皇の御代

源頼義公、八幡太郎義家公は、兆手の命に依り奥州の安倍貞任、宗任を平定する為に奥州街道を下向の砌当地に至りました。当時このところは小高い丘で隅田川の流れを一望出来る絶景の場所であった。一休止のため陣をとりました時、川上より流れくるものを拾い上げてみますと銀杏の枝でありました。その枝をこの丘の上に差し立て都の氏神を遥かに拝み「朝敵退治のあかつきには枝葉栄ふべし」と祈願し旅立ち安倍一族を平定の後、再びこの地に帰り至りました時丘の上に差した銀杏の枝葉大きく繁茂しておりましたので、義家公は御神恩に感謝し、この処に大刀一振を捧げ八幡宮を勧請いたしましたのが、康平5年(1062)当社の始と伝へられています。そしてこの銀杏は大樹となちまして、隅田川を上り下りする舟や街道を行き交う人々のよい目標となりましたが、時代は下り徳川家江戸入府後、元和4年(1618)この地は福井藩は松平家の屋敷となり、邸内社として尊崇されてまいりましたが、享保10年(1725)この地が公収され屋敷の跡地は町やとなり享保15年(1730)、時の町奉行大岡越前守様に依り福井町と命名され願いにより当社は地域の産土神として崇敬されてまいりました。大銀杏は延享2年(1745)9月14日台風のため中程より折れましたが、高さ6メートル位を残して繁茂しておりましたが、文化3年(1806)江戸大火の折焼失しました。



御祭礼は、江戸時代8月15日に執り行われていましたが、明治の中頃より6月15日にかわり、現在は原則として6月第1土曜、日曜日に執り行っています。



所在地 台東区台東2-6

  桜稲荷神社縁起

大正12年(1923)東京大震災の後当時藤堂家邸内ニ鎮座マシマセシ稲荷神社ノ放置荒廃ヲ案ジ岡本悟一氏世話人トナリ現在境内ニ建立シアル石碑ニ記名奇特ノ方々ト相ハカリ昭和3年(1928)11月新ニ神祠ヲ建立遷座ヲ奉ジ桜稲荷神社ト奉称今日ニ至ル



以後 大東亜戦争ノ末期昭和20年(1945)2月25日空爆ニヨリ神祠破壊焼却サルモ昭和27年(1952)4月隅井菊生氏御本体ヲ京都伏見稲荷本社ニ詣デ奉受シコヽニ改メテ鎮座ヲ拝ス



昭和55年(1980)5月川西惟隆氏ノ尽力ニヨリ祭礼用器具並ニ防災用具ノ倉庫構築



昭和56年(1981)4月祠屋ノ修理改築ヲ行フ

 以上は岡本いせ氏ノ記憶ニ基キ山室利夫縁起ヲ確認ス

御本体ハ伏見稲荷大明神
 行事 新年初詣祭1月10日(川西惟隆氏発祥)
     大祭 4月中旬金、土曜日
 役員講義元、講中世話人



  世話人

池田ミツ子 池浦昭男 井上美貴男 岩崎東一 岡本いせ
大熊伏 大塚安雄 大沢三郎 大谷英順 川西惟隆
加藤倉吉 金子正司 清野福松 工藤能男 小島重次
隅井菊生 武田みや子 武隈己登 鶴田豊吉 中崎甚作
中山円造 長沢良雄 長谷川久太郎 林伸吉 浜名敬次郎
松居藤作 三上照 宮本清


所在地 台東区浅草橋2-7

 當社正一位扇稲荷神社は桑名藩松平家の江戸屋敷(上屋敷、中屋敷、下屋敷)の邸内に鎮座してありたりところ



明治戊辰の事変により皆天朝に収められた其の後更に今の新福井町の邸を下賜わせられし時旧邸にありし稲荷社を新邸に移されたものなり
新福井町松平家新邸は元久保田藩佐竹の旧邸地なり



大正12年(1923)9月1日関東大震災で社殿及び御神体までも焼失せり
たとえ御神体は焼失すとも御神霊は消滅するものにあらずと昭和6年(1931)奉齋並びに敬神の念篤き睦会により再建し現在に至る
 御加護 火防、家内安全、商売繁昌            以上
            
              扇稲荷神社  奉賛会
     昭和56年(1981)9月13日


所在地 
台東区蔵前4-37-8

『 川柳発祥の地 』 台東区長 住吉弘

 宝暦7年(1757)8月25日、当地(旧浅草新堀端天台宗龍宝
寺門前)里正柄井八右衛門、無名庵川柳と号し、初めて万句合を開巻す。爾来文運旺んに、遂には文芸の名をもって呼ばれ、今日至る川柳隆盛の礎を開く。本年その250年に当たって、後学相語り、一碑を建てて開祖の遺業を顕彰し、永く歴史に留めん祈念するものなり

 平成19年(2007)8月25日  川柳250年実行委員会


所在地 台東区上野公園5-45 (上野恩賜公園)



    正三位勲一等東京都名誉都民
     安井誠一郎君
 昭和乙酉の戦災に逢い灰燼に帰した東京 今や殷賑を極め無限に膨張発展してやまない東京 この東京を語る時 われわれは常に名を憶い出さずにはいられない
 君は岡山県の生れ 東京帝国大学卒業後宮界に入り要職を歴任したが 終戦直後東京都長官に任ぜられ さらに昭和22年(1947)以来実に12年の長きにわたって 公選知事をつとめられた 首都圏構想の樹立 太平洋市長会議の実現 オリンピック東京大会の招致など君の業績は数えきれないが 就中 廃墟と化した首都東京を 敗戦後の想像を絶する苦難の中で 見事復興させた努力と才腕と誠意とは 永久に忘れることができない
 いま 君が生前最後の偉業となった東京文化会館の一隅に この像を建て君の偉業を偲び 永く記念するは都民の心である
 昭和41年(1966)5月 東京都知事 東龍太郎撰並書


所在地 台東区上野公園8-43 (上野恩賜公園)

国指定重要文化財
 旧東京音楽学校奏楽堂
     昭和63年(1988)1月13日指定

 この建物は、明治23年(1890)東京音楽学校(現東京芸術大学)本館として建設された。設計は山口半六、久留正道で、わが国初の本格的な音楽ホールであり、音楽教育に記念碑的な存在である。
 中央天井をヴォールト状(かまぼこ型)に高くし、視覚、排気、音響上の配慮がなされている。また、壁面や床下に藁や大鋸屑が詰められ、遮音効果をあげるなど技術的な工夫があり、貴重な建築物である。
 この奏楽堂からは、滝廉太郎を始めとする幾多の音楽家を世に送り出してきたが、老朽化が進み、取壊しの危機にひんしていた。しかし、音楽関係者を始めとする多くの人々の保存に対する努力が実り、昭和62年(1987)3月、歴史と伝統を踏まえ、広く一般に活用されるよう、この地に移築復元された。
 また、移築工事とあわせて、日本唯一の空気式パイプオルガンも修復され舞台中央に甦った。昭和63年(1988)1月13日付で国の重要文化財に指定された。
 平成6年(1994)3月  台東区教育委員会



     SYMPHONY HALL OF THE OLD TOKYO MUSIC SCHOOL
 This structure was constructed as the main building of the Tokyo Music school(present Tokyo University of Arts)in 1890.The designers were Yamaguchi Hanroku and Kuru Masamichi,and it was the first ful-scale music education in this country.
 From this symphony hall,many musicians including Taki Rentaro emerged.However,superannuation of the building went on,and it was in danger of being demolished.Due to the endeavors of those concerned with music and other people,however ,it was relocated to this place in March 1987 with its original appearance restored.
 In coinciding with the relocation work,the only pneumatictype  organ in Japan was repaired,and resurrected in the center of the stage.It was designated as an important cultural asset of the nation in January 1988. 


所在地 台東区上野公園8 (上野恩賜公園 寛永寺

    大佛パゴダ
御本尊 薬師瑠璃光如来
御脇侍 日光・月光ニ菩薩
      (旧上野東照宮薬師堂ご本尊)
沿革
寛永8年(1631)堀丹後守直寄公が釈迦如来尊像を当山に建立せられ、1660年頃青銅の大仏に改鋳され。
大正12年(1923)、大震災で破損のため撤去する。

パゴダ建立
発願者 上野観光連盟
寄進者 大成建設株式会社
 昭和42年(1967)7月吉日竣工  東叡山 寛永寺




    上野大仏略記
寛永8年(1631)越後の国村上城主堀丹後守直寄公旧自邸内のこの高台に、戦乱に倒れた敵見方将兵の冥福を祈るために土で釈迦如来像を造立した。

 青銅大仏
明暦・万治の頃(1655~1660)木食僧浄雲師により銅佛に改められた。
 仏殿
元禄11年(1698)露座の大仏に仏殿が建立された。
 改鋳
天保12年(1841)火災に遭い、天保14年(1843)、末孫堀丹波守直央公が大仏を新鋳しまた仏殿を再建した。

大正12年(1923)関東大震災によって佛頭がおち、寛永寺にて保管、その後、佛体は解体され第二次世界大戦時に献納された。
昭和47年(1972)春彼岸、尊顔を再び旧地に迎えて祀り再建を計る一助とする。
 昭和47年(1972)春彼岸
   註、「上野大仏略史」は清水観音堂に有ります。

     上野大仏とパゴダ
 正面の丘は、かつて「大仏山」と呼ばれ、丘上にはその名のとおり大きな釈迦如来坐像が安置されていた。 
 最初の大仏は、越後(現、新潟県)村上藩主堀直寄が、寛永8年(1631)に造立した2メートル80センチ前後の釈迦如来像であったが、粘土を漆喰で固めたものであったため、正保4年(1647)の地震により倒壊してしまった。
 明暦~万治年間(1655~1660)には、木食僧浄雲が江戸市民からの浄財によって、3メートル60センチをこえる青銅製に堂々たる釈迦如来坐像を像立した。その後、元禄11年(1698)輪王寺宮公弁法親王が、同像を風雨から覆うための仏殿を建立。天保12年(1841)の火事によって大仏・仏殿ともに被害を受けたが、1年半後の天保14年(1843)には、最初の造立者堀直寄の子孫堀直央が大仏を修復、幕府が仏殿を再建した。さらに、安政2年(1855)の大地震では大仏の東部が倒壊したものの、間もなく堀家が修復している。
 しかし、明治6年(1873)上野公園開設の際に仏殿が取り壊され(年代については他に明治9年〔1876〕・明治10年〔1877〕の二説あり)、大正12年(1923)の関東大震災では大仏の面部が落下、さらに、第二次世界大戦における金属供出令により大仏の体・脚部を国へ供出したため、面部のみが寛永寺に遺った。寛永寺では、昭和47年(1972)丘陵上野左手に壁面を設け、ここに「上野大仏」の顔をレリーフ状に奉安した。
 なお、江戸時代の大仏は、いずれも南に向かって造立され、丘陵の南側には当時の参道(石段)が現存する。
 また、同じく丘陵上の正面にある建物は、「パゴダ」(仏塔のこと)と呼ばれている。上野観光連盟が上野公園の名所のひとつとするために建設したもので、昭和42年(1967)3月着工、同昭和42年(1967)6月に完成した。高さ15メートル、内部には中央に薬師如来、左側に月光菩薩、右側に日光菩薩を安置している。この薬師三尊像は、江戸末期まで東照宮境内にあった薬師堂の本尊で、明治初期の神仏分離令により寛永寺に移管、さらにパゴダの本尊として迎えられた。
 平成13年(2001)3月  台東区教育委員会

           UENO GREAT BUDDHA AND PAGODA
 During the Edo period within the precincts of Knei-ji temple,there wasa great Buddha statue on top of hill in front of you.This site is known as "Daibutsu yama"(Great Buddha hill).
 In 1631,the first great Buddha was created by a feudal lord Hori Naoyori,Lord Hori governed the area around Murakami in Niigata Prefecture.It was a seated Buddha of 2.8 meters in height,but was destroyed by an earthquake in 1647.
 The second Buddha was created by the monk Jyoun who collected(donations) money from Edo citizens.It was also a seated Buddha 3.6 meters tall.    
 The face of the second Buddha images fell off during the Great Kanto Earthquake in 1923,and later the body and pedestal were delivered to the government under theMetal Acquisition Law,which ardered the delivery of metallic goods owned by citizens to the government,to produce weapons during the WWII.Only the face remains at Knei-ji remple.In 1967 a wall was built on top of the hill and the Buddha head was enshrined on the wall in a relief style setting. Then in 1972 the Ueno Tourist Association built the current pagoda,including three Buddhist images of Yakushi Nyorai (Physician of souls),Gakko Bosatsu and Nikko Bosatsu.


所在地 台東区上野公園8 (上野恩賜公園)

 野口英世は、明治9年(1876)11月9日、福島県猪苗代湖畔の農家に生まれた。明治31年(1898)、北里柴三郎主宰の伝染病研究所助手となり、明治33年(1900)12月に渡米、明治37年(1904)よりロックフェラー医学研究所で梅毒スピロヘータ等の研究を重ね、国際的にも高い評価を受けた。大正7年(1918)からは中・南米やアフリカに赴き、黄熱病の研究に努めたが、やがて自らも感染してしまい、昭和3年(1928)5月21日、現在のアフリカ・ガーナ国の首都アクラで没した。享年53歳。
 野口英世銅像は総高約4.5メートル(台石を含む)、製作者は多摩武術大学教授吉田三郎。英世の写真に基づき、試験管をかざした実験中の姿を表現したもので、台石にはラテン語で「PRO BOMB HUMANIGENERIS(人類の幸福のために)」と刻まれている。
 銅像造立の活動をはじめて起こした人物は、福島県三春町出身の玉応不三雄である。玉応は英世の偉業を後世に伝えようと、昭和22年(1947)より募金活動を行ったが、国内の経済力が貧弱な時期にあって困難をきわめ、中途にして病に倒れた。その後、日本医師会・北里研究所・野口英世記念会等が活動を引き継ぎ、昭和25年(1950)には東京都教育委員山崎匡輔を建設委員長にむかえ、山崎の周施によて上野公園に造立されることが決定した。
 昭和26年(1951)3月、現在地に造立。月は異なるものの英世の命日である同月21日に除幕式が行われた。
 なお、銅像全面の標示石・敷石は昭和46年(1971)に会津会が設置したものである。
 平成14年(2002)3月  台東区教育委員会



         Brone Statue of Noguchi Hideyo
 Niguchi Hideyo was born in 1876 in Fukushima Prefecture.Going to the United Sttates of America in 1900,he began research on the syphilis sporochete at the Rockefeller Medical Research Institute in 1904.From 1918 he continued his research in Central and South America,as well as Africa where he hoped to study Yellow Fever.However,before long,he himself contradtes he descase and in 1928,at the age of 53,he passed away in what is now the country of Ghana.The approwimately four and a half meter statue of Noguchi was made by Professor Yoshida Saburo of the Tama Art University.Heating a test tube in the midst of experimentation ,the Latin wards."PRO BOMB HUMANI GENERIS"("For the Good of Humankind" ),are inscribed on the stone base.
 Plans for erecting the statue began in 1947 when Tamao Fumio of Fukushima continued with the Noguchi Hideyo Memorial Socienty after Mr.Tamao succumbed to illness.The fund drive was completed in March 1947.



所在地 台東区上野公園12-49 (上野恩賜公園)

東京都選定歴史的建造物
  国際子ども図書館(旧帝国図書館)
   設計者 久留正道 真水英夫 岡田時太郎
   建築年 明治39年(1906)3月  昭和4年(1929)


                          小泉八雲記念碑

 この図書館は、明治5年(1872)8月湯島の聖堂内に開館した書籍館(文部省博物局所管)以来の伝統を受け継いでいる。書籍館は幾度か名称の変更を経て、明治30年(1897)4月に帝国図書館となった。この建物は明治39年(1906)3月帝国図書館新築工事の第一期分として竣工したものである。
 当初の建設構想は大きく、全部が完成すると東洋一の図書館になる予定であったが、当時の財政事情により全体の四分の一程度が完成するに留まった。その後、建物の左側の部分が昭和4年(1929)に増築され、現在の規模となった。
 昭和24年(1949)からは、国立国会図書館支部上野図書館として一般公衆の利用に供することを主たる目的として運営されてきたが、改修工事を行い、平成12年(2000)5月5日国立国会図書館国際子ども図書館として開館、現在に至っている。躯体はほぼ創建時のままとすることで、全体として洗練されたネオ・ルネッサンス調の風格のある建築となり、明治の雰囲気を今に残している。
  東京都生活文化局


所在地 台東区上野公園13 (上野恩賜公園)


博物館動物園駅跡
              京成電鉄株式会社



所在地 台東区上野公園9-88 (上野恩賜公園)

 藤堂高虎(1556~1630)は上野山内の屋敷の中に、徳川家康を追慕し、家康を祭神とする宮祠を造った。これが上野東照宮の創建といわれている。あるいは寛永4年(1627)、宮祠を造営したのが創建ともいう。もとは「東照社」と称していたが、正保2年(1645)に宮号宣下があり、それ以後家康を祭る神社を東照宮と呼ぶようになった。
 現在の社殿は、慶安4年(1651)、3代将軍家光が大規模に造り替えたもので、数度の修理を経ているが、ほぼ当初の姿を今に伝える。社殿の構造は、手前より拝殿、幣殿、本殿からなり、その様式を権現造りという。社殿は都内でも代表的な江戸時代初期の権現造りで、華麗荘厳を極めている。
 唐門、透塀は社殿とともに構造、様式が優れており貴重であることから、参道入口の石造明神鳥居、唐門前に並ぶ銅燈籠四十八基と合わせて国の重要文化財に指定されている。
 平成21年(2009)3月 台東区教育委員会

    UENO TOSHOGU
 Todo Takatora(1556-1630) constructed a shrin dedicated to Tokugawa Ieyasu on the grounds of his residence on present-day Ueno Hill.This is said to be the beginnings of Ueno Toshogu.One theory places the year of its construction at 1627.It was originally called Toshosha,but was renamed Toshogu in 1645 when ti was officially recognezed as a shrine dedicated to the founder of the Tokugawa Shogunate.
 The current building was rebuilt in 1651 by Iemitsu,the fhird Tokugawa Shogun.It has gone through several renobations since then,but for the most part retains its original form.The shrine follows the Gongen style of architecture,with separate structures for pilgrims and for rituals,in addition to the main shrine building.Its austere but exquisite features make it one of the most representative examples of early Edo Gongen architecture still standing in Tokyo.
 Brcause of their historical value as well as superior form and structure, the Chinese-style gate and wall,the 48 bronze lanterns in front of them,and the stone torii-style shrine gate have all been designated by the Japanese government as important cultural assets together with the shrine itself.




 祭神  
徳川家康・徳川吉宗・徳川慶喜
 縁起  
元和2年(1616)2月見舞いのため駿府城にいた藤堂高虎と天海僧正は危篤の家康公の病床に招かれ三人一処に末永く魂鎮まるところを造って欲しいと遺言された そこで高虎の家敷地であるこの上野の山に寛永4年(1627)に本宮を造営した その後将軍家光はこの建物に満足出来ず慶安4年(1651)現在の社殿を造営替えし、江戸の象徴とした。



上野東照宮域内には以下のものがあります。

唐門(左甚五郎作竜)透塀拝殿(金色殿)幣殿本殿棟れー以上明治40年(1907)国宝指定
銅灯篭 昭和17年(1942)国宝指定
大石鳥居 寛永10年(1633)酒井忠世建築奉納 国指定重要文化財
紅葉山鳥居 寛永3年(1626)
石灯篭220基 主に慶安4年(1651)
水舎門 慶安4年(1651)
お化灯篭 寛永8年(1631)
茶室(明暦2年〔1656〕)
神門辰五郎水舎(明治6年〔1873〕)
神楽殿(明治7年〔1874〕勾配の美都下随一)
陣羽織(都重宝)
辻ヶ花染胴服(都重宝)
広島・長崎の火



所在地 台東区上野公園9-88 (上野恩賜公園 上野東照宮

 東照宮社殿唐門前と参道に、五十基の銅燈籠が並んでいる。燈籠は神事・法会を執行するときの浄火を目的とするもの。照明用具ではない。浄火は神事・仏事に使う清めた火。燈籠は上部から、宝珠・笠・火袋・中台・竿・基壇で構成されている。火袋は、八角・六角・四角などの形式に分かれ、各面には火口・円窓という窓を設けている。火袋下部の長い部分を竿といい、ここに銘文を刻むことが多い。
 これら銅燈籠は、諸国のだいみょうが東照大権現霊前に奉納したもの。竿の部分には、寄進した大名の姓名と官職名・奉納年月日等が刻字されている。それによると、伊勢国(現三重県)津藩主藤堂高虎奉献の寛永5年(1628)銘一基をはじめ、慶安4年(1651)正月17日奉献二基、同慶安4年(1651)4月17日奉献四十五基、慶安5年(1652)孟夏17日奉献二基となっている。慶安4年(1651)4月17日は東照宮社殿落慶の日。その日の奉献数が最も多い。これら銅燈籠は、東照宮社殿とともに一括して、国の重要文化財に指定されている。
 平成8年(1996)7月  台東区教育委員会

            COPPER LANTERNS
 There are 50 copper lanterns at Toshogushaden Karamonmae(in front of Karamon gate of Tosogu shrine main building) and Sando(the approach to the shrine).The lanterns are not used for illumination purposes,but are used forpurification and sacred fires required when performing religious ceremonies.There copper lanterns were the offerings of the Daimyos(feudal lords)from all over Japan to Toshogu shrine.The names of the donors are written on the supports of the lanerns.There oanterns,together with Toshogu shrine's main building,are designated as National Treasures of Japan.


所在地 台東区上野公園9-88 (上野恩賜公園 上野東照宮

   唐門(唐派風造り四脚門)



 日本には一つしかない金箔の唐門である。扉には梅に亀甲の透彫、門柱には左甚五郎作昇竜(右)降竜の高彫、門の側面左右上部の松竹梅に錦鶏鳥の透彫など非常に精巧を極めたものである。
 明治40年(1907)に国宝に指定された。



所在地 台東区上野公園9-88 (上野恩賜公園 上野東照宮

    「広島・長崎の火」の由来
 1945年8月6日・9日、広島・長崎に人類最初の原子爆弾が米軍によって投下、一瞬にして十数万人の尊い生命が奪われました。そして今も多くの被爆者が苦しんでいます。
 広島の惨禍を生きぬいた福岡県星野村の山本龍雄さんは、叔父の家の廃墟に燃える原爆の火を故郷に持ち帰り、はじめは形見の火、恨みの火として密かに灯し続けました。しかし、長い月日の中で、核兵器をなくし、平和を願う火として灯すようになり、1968年8月6日、星野村は、この「広島の火」を「平和の火」として、村人の手によって今日も灯し続けています。
 核兵器の使用は、人類の生存とすべての文明を破壊します。
 核兵器を廃絶することは、全人類の死活にかかわる緊急のものとなっています。
 第二のヒロシマを
 第二のナガサキを
  地球上のいずれの地にも出現させてはなりません。
 これは「ヒロシマ・ナガサきからのアピール」(1985年2月)の一節です。
 1988年、3千万人のこのアピール署名と共に「広島の火」は長崎の原爆瓦から取った火と合わされて、ニューヨークの第三回国連軍縮特別総会に届けられました。
 同1988年4月、「下町人間のつどい」の人々は、この火を首都東京上野東照宮境内に灯し続けることを提唱しました。上野東照宮嵯峨敞全宮司は、この提唱に心から賛同され、モニュメントの設置と火の維持管理に協力することを約束されました。
 広範な人々のよびかけによって、翌1989年4月、「上野東照宮境内に〈広島・長崎の火〉を灯す会」が結成されました。それから一年余、数万人が参加した草の根の運動と募金により、1990年7月21日、モニュメントが完成しました。
 被爆45周年を迎えた8月6日に星野村の「広島の火」が、8月9日に長崎の原爆瓦から採火した「長崎の火」が、このモニュメントに点火されました。
 私たちは、この火を灯す運動が、国境をこえて今緊急にもとめられている核兵器廃絶、平和の世論を強める全世界の人々の運動の発展に貢献することを確信し、誓いの火を灯し続けます。   
 1990年8月 上野東照宮境内に「広島・長崎の火」を灯す会



       The Origin of "the Flame of Hiroshima and Nagasaki"
On August6,1945,US forces dropped the world's first atomic bomb on Hiroshima,and anothe on Nagaski on August 9 the same year,claiming the lives of hundreds of thousands of people in an instant.Even now,many survivors are still suffering from the damage.
 
Sometime later,Tatsuo Yamamoto went to Hiroshima in search  of his uncle,and found a flame of the atomic bomb burning in the ruins of his uncle's house.He brought it back to Hoshino-mura,his houmetown in Fukuoka perfecture.He kept it burning in his house as a memento of his uncle and an expression of his resentment.But years went by,the meaning of the flame turned into a symbol of his desere for abolition of unclear weapons and for peace.Hosiino-mura village build a torch and transferred the flame to it on August 6,1968.It has been keeping the flame ever since as the flame for peace,with the support of the villagers.

 "The use of unclear weapons will destroy the whole human race and civilization ...The elimination of unclear weapons...has bicome the most urgent and crucial for the very survivals of the whole of fumanity.
There must never be another Hiroshima anywhere on earth.
There must never be another Nagasaki anywhere on earth."
(From the "Appeal from Hiroshima and Nagasaki"issued in February 1985)
In 1988,a flame was taken from the torch and was merged with another flame lit by the friction of broken roofing tiles of Nagasaki.Along with 30 million signatures collected in suppport of the"Appeal from Hiroshima and Nagasaki",it was carried to the third Special Session of the UN General Asembly for Disarmament takinga place in New York City.

In April the same year,members of "Shitamachi People Association"put forward an idea of lighting the flame at the precinct of Ueno Toshogu Shrine inTokyo.Rev.Shozen Saga,the chief priest,warmly welcomed the proposal,and promised to set upa monument and work together to keep the flame burning.

In April 1989,an "Association for the Flame of Hiroshima & Nagasaki Lit at the Ueno Toshogu"was founded with the people of wade ranging people.Tens of thousands of people took part in the fund-raising for over one year and the construction of the monument was completed on July 21,1990.

In commemoration of the 45th year of the A-bomb tragedies,a flame of Hiroshima was taken from Hoshino-mura and lit at the monument on August 6,and a flame of Nagasaki,generated by the fribtion of Nagasaki roofing tiles,was also added to the monument.

We,hereby pladge to keep burning the A-bomb flame,convinced that this monument should contribute to strengthening the worldwade people's movement to abolish unclear weapons and achieve peace,which is the most urgent task for the people across the borders.

August 1996
Association for the Flame of Hiroshima&Nagasaki Lit at the Ueno Toshogu     


所在地 台東区上野桜木1-14-11

    上野東叡山寛永寺
 天台宗の関東総本山。徳川歴代将軍の菩提所。寛永2年(1625)天海僧正の創建です。江戸時代、上野の山全体が寛永寺境内でした。創建当時は江戸城の鬼門を守る祈願所でしたが、のちに芝の増上寺とともに将軍家の菩提所にもなりました。
 寺名は、「寛永」の年号をとってつけられ、山号の東叡山は、天台宗総本山比叡山延暦寺にならい東の叡山という意味です。
 江戸時代最盛期の寛永寺は、子院三十六ヵ院(今は十九ヵ院)と本坊、根本中堂、文殊楼(吉祥閣)などの豪華な建造物をほこり、これを総称して寛永寺と言っていましたが、慶応4年(1868)5月15日の上野の戦争(彰義隊の戦争)により殆どの建物が焼失し、一部を残して新しく上野公園となりました。



 今の寛永寺本堂は、明治12年(1879)に天海僧正ゆかりの川越(埼玉県)の喜多院から本地堂(薬師堂)を子院であった大慈院の地に移築したもので、寛永15年(1638)の建造物といわれています。



  縁起   江戸開府400年記念
     東叡山寛永寺
 元和8年(1622)、徳川幕府2代将軍秀忠が、上野後を天台宗の僧天海に寄進したことから、寛永寺の歴史は始まります。本坊は寛永2年(1625)に竣工。根本中堂の完成は元禄11年(1698)のことです。江戸末期までの寛永寺は、いまの上野公園をはじめ、その周辺にも堂塔伽藍や子院が立ち並ぶ文字通りの巨刹であり、徳川将軍家ゆかりの寺にふさわしい威容を誇っていました。明治維新の際の上野戦争で大半が炎上し、その後明治政府の命令で境内も大幅に縮小され(約3万坪、江戸時代の十分の一ほど)現在に至っています。江戸開府400年を記念し、往時の寛永寺を描いた錦絵などで、江戸と現代を比較しつつここに寛永寺の歴史を紹介致します。



 境内には『本堂』、『銅鐘』、『慈海僧正墓』、『虫塚』、『尾形乾山墓碑・乾山深省蹟』、『了翁禅師塔碑』があります。
 境内墓地には
常憲院霊廟奥奥院
   5代将軍 徳川綱吉公(常憲院殿)墓所
   8代将軍 徳川吉宗公(有徳院殿)墓所
 13代将軍 徳川家定公(温恭院殿)墓所

 13代将軍 徳川家定公正室 天璋院篤姫墓所
厳有院霊廟奥院
   4代将軍 徳川家綱公(厳有院殿)墓所
 10代将軍 徳川家治公(浚明院殿)墓所
 11代将軍 徳川家斉公(文恭院殿)墓所)

厳有院霊廟 勅額門・水盤舎』、『常憲院霊廟 勅額門・水盤舎』があります。


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