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東京都台東区の歴史
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所在地 台東区浅草2-3-1 (浅草寺)

宝篋印塔(ほうきょういんとう)

高さ  9.6m

造り  銅造
建立  寛延2年(1749)
製作  荻原三郎右衛門作

 宝暦11年(1761)、浅草寺信徒1,000人によって建立され、明治40年(1907)に改修再建されたもの。唐銅製。
 宝篋印塔には、基礎部五重目に、宝篋印陀羅尼経の要文を記し、軸部に金剛界四仏の種字を配している。第二重の基礎四面に十六羅漢像を浮彫(陽刻)している。  金龍山 浅草寺

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所在地 台東区浅草2-3-1 (浅草寺 浅草神社) 

友情は 

  いつも宝物

 昭和51年(1976)に「週刊少年ジャンプ」で連載を開始して以来、多くの人々に愛されてきた「こちら葛飾区亀有公園前派出所」。物語の舞台となるここ浅草は主人公である両津勘吉を育み、また多くの感動を生み出してきました。この碑は、両津勘吉の少年時代の友情を描いた「浅草物語」にちなみ、人を思いやる気持ちの大切さ、そして子供たちが夢や遊び心を忘れず健全に成長してくれるよう願いを込めて建てられました。
  
平成17年(2005)8月6日 建立

 < 「浅草物語」概略 >

ある日、浅草で一緒に遊んだ同級生が偶然再会。

かつての悪ガキ両津勘吉は警察官に、

かつての優等生は、逃亡犯になっていました。

両津は、子供の頃にここ浅草神社(三社様)の神木、

槐(えんじゅ)の木の下に一緒に埋めた

ベーゴマの話を持ち出して二人の友情を確かめ合いました。

そして、逃亡犯は自首することになったのです。

ジャンプ・コミックス「こちら葛飾区亀有公園前派出所」57巻「浅草物語の巻」より

 

  < 「こちら葛飾区亀有公園前派出所」 >

作者  秋本治

連載開始  1976年週刊少年ジャンプ(集英社)

 

  < 両津勘吉 >

職業  警察官(巡査長)

誕生日  3月3日

出身地  東京都台東区千束

身長  約162cm

体重  約71kg

特技  自転車乗り

所在地 台東区浅草2-3-1 (浅草寺)

此華の

 古那木の中の

      桜の木

         藤吉古老挙定治鐫

所在地 台東区浅草2-3-1 (浅草寺 浅草神社) 

江戸・東京の農業 檜前の馬牧(ひのくまのうままき)

 大宝元年(701)、大宝律令で厩牧令が出され、全国に国営の牛馬を育てる牧場(官牧)が39ヶ所と、皇室に馬を供給するため、天皇の命により32ヶ所の牧場(勅旨牧)が設置されました。
 
東京には「檜前の馬牧」「浮嶋の牛牧」「神崎の牛牧」が置かれたと記録にあって「檜前の馬牧」は、ここ浅草に置かれたのではないかと考えられています。
 
浅草神社の祭神で、浅草寺本尊の発見者である、檜前浜成、竹成兄弟の説話から、檜前牧は浅草付近であったと「東京市史稿」では推定していて、「浮嶋の牛牧」は本所に、「神崎の牛牧」は牛込に置かれたとされています。
 
時代は変わり江戸時代、徳川綱吉の逝去で「生類憐みの令」が解かれたり、ペーリー来航で「鎖国令」が解けた事などから、江戸に欧米の文化が流れ込み、牛乳の需要が増え、明治19年(1886)の東京府牛乳搾取販売業組合の資料によると、浅草区の永住町、小島町、森下町、馬道と、浅草でもたくさんの乳牛が飼われるようになりました。
  
平成9年度JA東京グループ
  
農業協同組合法執行五十周年記念事業

所在地 台東区浅草2-3-1 (浅草寺) 

御祭神  少彦名命(すくなひこなのみこと)

 淡島堂は、元禄年間(1688~1703)紀伊国(現在の和歌山県)の加太神社を勘請したものである。加太神社は、淡島と呼ぶ小島に鎮座し、淡島明神の俗称があるため、この堂も淡島堂と呼ばれている。祭神は少彦名命(すくなひこなのみこと)、堂内には両手で宝珠を持つ坐形の神像を安置する。
 
淡島明神は、江戸時代より女性の守り神として、信仰を集めた。現在も毎年2月8日、ここで針供養が行なわれ、女性の参詣人が群集する。針供養は、日頃使いなれた針に感謝し、柔らかな豆腐にさし、供養する行事。かつては、この日に限り女性は針仕事をしない風習があった。
 平成8年(1996)3月 台東区教育委員会

<和歌山加太之淡島明神勧請 淡島大明神>
 
本地佛 虚空蔵菩薩  毎月13日 御縁日
 
2月8日 針供養 御昇堂 11時

<白木聖観世音菩薩>
 
正徳2年(1712) 御出現
 
平成11年(1999) 御遷座
 
毎歳 7月9日 大供養
 
御昇堂 11時

所在地 台東区浅草2-3-1 (浅草寺)

 思い出づる調べも哀し、昭和20年(1945)3月9日の夜、B29 150機の大空襲により浅草一帯は火の海となる。地をなめるようにして這う火焔と秒速30mをこす烈風にあふられ、親は子を呼び、子は親を求むれど、なすすべもなし。おののき叫び逃げまどい、悪夢の如き夜が去れば・・・・・・眼にうつるものは一面の焦土にて、一木一草の生づるもなく、あわれ身を焼かれ路傍に臥す無辜の犠牲者は一万余柱を数う。
 
当時その凄惨な状況は一片の新聞だに報道されることなく、敗戦後に生れた子供たちは戦争の惨禍を知るよしもない。いたましく悲しい夜もいつしか歴史の一駒として消えて行くであろう。
 
よって我々はここに当時を偲び、不幸散華された御霊の安らけく鎮まりまさんことを祈り、二度とあやまちを繰返すことなく永遠に世界の平和を守らんことを誓い、浅草観音の浄域にこの碑を建立する。
 
以って瞑せられよ。
 
昭和38年(1963)8月15日 浅草大平和搭維持会

所在地 台東区浅草2-3-1 (浅草寺  新奥山

 浅草は伝統と歴史の町である 庶民信仰の大本山 金龍山 浅草寺と共にこの町は幾百千年の世を逞しく生きてきた あるときは源平争乱の戦火に耐え あるときは江戸文化濫觴の地として栄えるなど幾多の興廃消長を繰り返して現在に及んでいる
 
今日浅草は 都内屈指の観光地として隆盛を極めているが その蔭に浅草を守ろうとする多くの人々の血の滲む努力があることを忘れてはならない
 
浅草観光連盟は 発足二十周年の佳日をトして浅草の繁栄に多大な貢献をした人々の業績を讃え 過去 現在 未来を通じここに芳名を列記して後世に永く伝えんとするものである
 
庶民の町浅草は この町を愛し慈しみその興隆に一身を捧げる地元の人々によって 滔々たる大河の流れのように淀みなく発展を重ねていくことであろう
 
昭和43年(1968)10月吉日 東京都台東区長 上條貢
                           
撰文並に謹書
   浅草観光事業功労者
大谷米太郎 岡田四郎 上條貢 清水谷恭順 山田兵三 小林総介 高坂公一 賴母木眞六 穂刈恒一 橋本秋利 村田藤治郎 澤田要蔵 和田長敬 松村繁一郎 森田新太郎 荒井哲郎 豊田正利 藤谷吉之輔 川喜多忠之助 原戸賴吉 葛谷輝明 市村一雄 堀安孝 阿部高之丞 内山榮一 飯村茂 永野章一郎 守山良順 壬生台舜 清水谷孝尚 穂刈幸雄 野口日出男 中塚泰蔵 小林晴男 矢野隆夫 飯村恵一 吉住弘 西村太刀夫 春木實 松村吉紘 鈴木秋雄 田中久五郎 松澤欣一 荒井修 岩瀬桂助 橋本秋彦

所在地 台東区浅草2-3-1 浅草寺  新奥山

  瓜生岩子女子(うりゅういわこじょし)
 岩子は通称。正しくは”岩”という。文政12年(1829)2月15日、岩代耶麻(いわしろやま)郡(現在の福島県耶麻郡)熱塩村渡辺家に生れたが、9才の時、父を失い、母は岩を連れて生家へ帰った。そのため、岩は母方の姓瓜生氏を称した。14才の時、若松(現福島県会津若松市)の叔母に預けられ、その夫で会津藩侍医を勤める山内春瓏の薫陶を受け、堕胎間引きの防止に関心を持つに至る。17才で佐瀬茂助を婿に迎え、若松で呉服屋を営み、一男三女を生んだが、早くに夫を亡くした。明治元年(1868)会津戦争で孤児となった幼童の教育に尽力したほか、堕胎等、当時のさまざまな悪習を正し、明治22年(1889)貧民孤児救済のため福島救済所を設立するなど、社会事業の推進に努めた。
 
明治30年(1897)4月19日、福島で没す。享年69。生涯を慈善事業に捧げた岩の善行を賞揚し、明治34年(1901)4月、篤志家によって、浅草寺境内にこの銅像が造立された。台石正面には、下田歌子女史の撰文を刻む。
 
平成8年(1996)7月 台東区教育委員会

        BRONE STATUE OF URYU IWAKO
 Uryu Iwako was born in Kitakata,Fukushima Prefecture on February 15,1829.Iwako was her popular name,and her real name was Iwa.At the age of nine,she lost her father,and her mother went back to her parents' home together with Iwa.When she was 14,she was entrusted to her aunt,and was educated by her uncle-in-law,who was a doctor in the Aizu clan.
 After the Meiji Restoration,she exerted dfforts for the eduction of young girls in the Aizu clan and also established the Fukushima Relief Facility for the assistance to the poor and orphans.She also founded the midwifery research institute and the Saisei Hospital in Kitakata,thereby promoting social work.She died in Fukushima on April 19,1897.To praise the good conduct of Iwa,who devoted her shole life to charitable work,this bronze statue of her was erected here in April 1901.

所在地 台東区寿2-10-4 (金龍寺)

 東京都指定旧跡  荷田在満(かだのありまろ)墓 

               都旧跡 昭和17年(1942)9月指定

 江戸時代中期の国学者で、本姓は羽倉氏で、字(あざな)は持之、号を仁良斎という。通称は東之進、在満はその名である。京都伏見の稲荷神社の神宮荷田信詮(のぶあき)の三男高惟(たかのぶ){道員(みちかず)}の長男として京都に生まれた。23歳の享保13年(1728)9月24日、和学者として登用されることを求めて、妹蒼生子(たみこ)とともに江戸に下った。徳川吉宗の次男で有職故実(ゆうそくこじつ)の研究者として知られた田安宗武(たやすむねたけ)に仕え、有職故実の調査に従事した。元文3年(1738)桜町天王(さくらまちてんのう)の大嘗会(だいじょうえ){天王が即位後初めて行う新嘗祭(にいなめさい)}に際し、藩命により『大嘗会儀式具釈(だいじょうえぎしきぐしゃく)』九巻を撰進した。翌年別に『大嘗会弁蒙(だいじょうえべんもう)』二巻を無断刊行して幕府に咎められ、閉門を命じられた。また寛保2年(1742)に『国歌八論』が宗武の意見と対立し、延享3年(1746)田安家を退隠した。

 叔父の春満(あずままろ)の有識故実の研究を継承発展させて精緻な家風を打ち立て、歌論では芸術主義を貫いて、近世歌論の発展にひとつの時期を画した。宝暦元年(1751)8月4日46歳で死去し、臨済宗京都妙心寺派の金龍寺に葬られた。著書に『大嘗会便蒙御咎顛末(だうじょうえべんもうおとがめてんまつ)』『令三辨(りょうさんべん)』『本朝度制略考(ほんちょうどせいりゃくごう)』『羽倉考(はぐらこう)』擬古文学(ぎこぶんがく)に『白猿物語(しろざるものがたり)』『落合物語』がある。

   平成13年(2001)3月31日 東京都教育委員会 

所在地 台東区浅草2-3-1 (浅草寺)

  久米平内堂(くめのへいないどう)
 久米平内は江戸時代前期の武士。『武江年表』によると、天和3年(1683)に没したとされるが、その生涯については諸説あり明らかではない。
 
平内堂には次のような伝承がある。平内は剣術に秀でており、多くの人をあやめてきた。後年、その供養のために、仁王坐禅の法を修業し、浅草寺内の金剛院に住んで禅に打ちこんだという。臨終にのぞみ自らの姿を石に刻ませ、多くの人に踏んでもらうことによって、犯した罪を償うために、この像を人通りの多い仁王門付近に埋めたと伝える。
 
その後、石像はお堂に納められたという。「踏付け」が「文付け」に転じ、願文をお堂に納めると願い事が叶うとされ、江戸時代中期以降、とくに縁結びの神として庶民の信仰を集めた。
 
平内堂は、昭和20年(1945)3月の戦災で焼失した。現在のお堂は昭和53年(1978)10月に浅草寺開創1350年記念として再建されたものである。
 
平成18年(2006)3月 台東区教育委員会

         Kume-no-Hinai-do
 Kume no Heinai was a samurai in the early Edo period (17th century);he is said to have passed away in 1683,but there are many stories about his life and not many facts are known for certain.
 According to oral tradition,Heinai excelled in Kenjutsu,the martial art of swordfightinf,and he killed many people over the years.Later in his life,he is said to have lived in the Kongo-in Temple in Senso-ji Temple,wherehe devoted himself to Zen- Buddhism and held religious services in honor of the souls of the people he killed.
 It is said that,just before his death,he ordered his followeres to carve his fiture on a stone and bury it near Nio-mon (Deva gate),one of the busy distreicts of the city.He wanted his statue be stepped on by as many people as possible in order to expiate the crimes he had committed in life.Afterward,the stone statue was eventually stored in this temple.
 From the middle of the Edo period,this temple was worshipped by the general public as a deity of marriage.
 Kume-no-Heinai-do was burned down during the ravages of World Wara Ⅱ in March 1945.The current temple was rebuilt in October 1978.

所在地 台東区駒形1-7-12 (駒形どぜう)

 神輿まつまの

   どぜう汁すゝりけり

久保田万太郎先生は市井のひとを愛し  とくに  また  ふるさとをおなじくする浅草ッ子を愛した  ここに駒形どぜう  越後屋  五代  助七  その生前の厚誼をしのんで  先生をしたう情は  まことに涙ぐましいものがあるが  昭和四十一年初夏  この句にゆかりの三社祭の吉日に当って駒形どぜうの店の前に  いま  先生の句碑を立てる  旧称田原町三丁目なる先生の生家にもっともちかくこの句碑の立てられたことは  さだめし先生も喜ばれていることと思われる  ここにつつしんでこれをしるす者は  おなじく浅草ッ子のひとり 

     昭和41年(1966)5月17日 安藤鶴夫

 

所在地 台東区浅草2-3-1 (浅草寺 新奥山

 (都旧跡) 戸田茂睡墓
 大正8年(1919)10月指定 

 元禄時代の歌人。はじめは渡辺氏を称し、のち戸田茂睡に改めた。名は馮(たのむ)、のちに恭光(ゆきみつ)、通称は茂右衛門。寒露軒などと号していた。徳川氏の家臣渡辺忠の第6男として、寛永6年(1629)5月19日に生まれた。その後は那須黒羽で暮らし、のち本多政長に仕えて300石を給されていた。延宝年間の末に致仕し浅草寺の近くに居をかまえ、「梨本集」を著して和歌の制の無用を説き、世に詠歌の派を立てた。宝永3年(1706)4月14日、年78で没した。「紫の一本」「御當代記」「隠家百首」「鳥の迹」などの作品がある。なお

塵の世を いとふ心の 積りては
     身の隠れかの 山となるらん

とよみ、隠れ家の茂睡と時の人々に呼ばれていた。
  昭和43年(1968)3月1日 東京都教育委員会

所在地 台東区浅草2-3-1 (浅草寺  新奥山

ながむとて 花にもいたし 頸の骨 宗因

花の雲 鐘は上野か 浅草か 芭蕉

ゆく水や 何にとどまる のりの味 其角

 <西山宗因(にしやまそういん)>
 
慶長10年(1605)肥後(熊本県)の生まれ。後、大阪に住み談林の俳風を開く。この句は「新古今集」にある西行法師の和歌「ながむとて花にもいたく・・・」からとった句。天和2年(1682)没。

 <松尾芭蕉(まつおばしょう)>
 
正保元年(1644)伊賀(三重県)の生まれ。数次の漂白の旅に出て作品集や紀行文を残し、「おくのほそ道」は世に知られている。蕉風俳諧を樹立。元禄7年(1694)大阪で没。

 <榎本其角(えのもときかく)>
 
寛文元年(1661)江戸に生まれる。蕉門十哲の一人。のち蕉風を脱し、その一派の傾向は、洒脱風などともいわれた。宝永4年(1707)の没。 

  碑は文化6年(1809)の建立。台石には明治27年春(1894)の移築の由来が記されている。
 
平成8年(1996)3月 台東区教育委員会

所在地 台東区浅草2-3-1 (浅草寺)

 東京随一の名刹として廣く世に知られる金龍山浅草寺は  幾多の興廃消長の中に法灯連綿として今日に及ぶ  とくに住吉に優る當山の隆昌は  大谷米太郎氏を会長とする浅草観光連盟の献身的努力に負うところ誠に多大である。
 
かねて上野  浅草の繁栄に意を注ぐ台東区長上條貢氏は  昨秋上野信用金庫理事長長野高一氏寄贈にかかる注誕噴水塔を上野公園入口に建設したが  さらに此の度同氏より多額の浄財の寄託を受くるに及び浅草寺  浅草観光連盟と相計り庶民信仰の霊域たる此の地に噴水塔建設を発意す
 
上條区長の委嘱により地元関係者を以て建設委員会が結成sれ  熟議検討の結果聖地に相応しき噴水塔の実現を期す  幸い彫塑家朝倉響子氏の好意により父君朝倉文夫先生の遺作「雲」の像の寄贈を受け  これに近代的噴水を配して「慈雲の泉」と名づく
 
朝倉文夫先生は  日本芸術界の巨匠たると共に我が台東区の名誉区民にして「雲」の像は明治40年(1965)壮年に至らんとする先生が未来への欣求を籠めた一代の傑作である
 
「慈雲の泉」が蓋し  長野高一  朝倉響子両氏を始め多くの人々の美しき善意の結晶と云えよう  幸い此の聖地に融和し  とこしえに庶民の街浅草の象徴として愛護されんことを祈念してここに讃を記す
  昭和40年(1965)9月吉日 慈雲の泉建設委員会

 < 建設委員 >

台東区長                           上條貢

台東区助役                         金津武夫

台東区収入役                      鈴木義尚

台東区議会議長                  永森久吉

上野信用金庫理事長           長野高一

浅草観光連盟会長            大谷米太郎

金龍山浅草寺貫主              清水谷恭順

常盤堂雷おこし本舗社長     穂刈恒一

雲の像寄付者                       朝倉響子

公園協会理事長                    井下清

所在地 台東区浅草2-3-1 (浅草寺)

 江戸時代、人々に時刻を知らせる役割を果たしていたのが時の鐘である。当初、江戸城内にあったが、江戸市街地の拡大にともない日本橋本石町にも設置され、さらには浅草寺寛永寺(上野山内)など、九個所でも時を知らせた。

 鐘の大きさは、高さ2.12m、直径1.52m。
 鐘銘によれば、撰文は浅草寺別当権僧正宣存で、元禄5年(1692)8月、5代将軍徳川綱吉の命により、深川住の太田近江大掾藤原正次が改鋳し、その費用として下総(現、千葉県)関宿藩主牧野備後守成貞が黄金200両を寄進した。
 
この鐘は、時の鐘として、あるいは浅草寺の梵鐘として、さまざまな文学作品にも登場しているが、中でも松雄芭蕉の句

 花の雲 鐘は上野か 浅草か

は、あまりにも著名である。
 
昭和20年(1945)3月の東京大空襲で火を浴びたが無事に残り、今なお昔のままの姿を見せている。なお、鐘楼は同空襲で焼け落ち、昭和25年(1950)5月再建されたものである。
 平成11年(1999)3月 台東区教育委員会

所在地 台東区寿1-11-2

 厳念寺は建長5年(1253)、武州足立郡槇村に真言宗の「證誠山成就院護念寺」として創建されました。開基は遊琳法印という僧侶でしたが、覚如上人の影響を受けて「覚了」という法名をいただき、浄土真宗に改宗しました。
 戦乱の中でお寺は移動を重ね、やがて江戸時代初期になってから中興の僧侶・釋宗心によって江戸鳥越村に移り「厳念寺」となりました。
 その後、火事などで場所を変えながら文化13年(1817)11月18日、浅草新堀端に「證誠山成就院厳念寺」といしてお寺を構え、現在に至ります。
  「御府内備考」江戸幕府による調査資料より
   平成17年(2000) 秋彼岸

所在地 台東区浅草2-3-1 (浅草寺)
 

くわんをんの いらか見やりつ 花の雲     
               
       はせを

 俳諧紀行文『奥の細道』などを著した松雄芭蕉は、寛永21年(1644)伊賀上野(現、三重県上野市)に生まれた。
 
芭蕉という俳号は、深川の小名木川ほとりの俳諧の道場『泊船堂』に、門人が芭蕉一枚を植えたことに由来します。独自の蕉風を開き『俳聖芭蕉』の異名をとった松雄芭蕉は、元禄7年(1694)10月12日、大坂の旅舎で51年の生涯を閉じました。
 
この句碑は寛永8年(1796)10月12日、芭蕉の103回忌に建立され、元は浅草寺本堂の北西、銭塚不動の近くにありましたが、戦後この地に移建されました。
 
83歳翁泰松堂の書に加えて、芭蕉のスケッチを得意とした、佐脇嵩雪が描いた芭蕉の坐像が線刻してありますが、200年の風雪を経て、碑石も欠損し、碑面の判読も困難となっております。
 
奥山庭園にある『三匠句碑』(花の雲 鐘は上野か浅草か)と共に、寄しくも『花の雲』という季語が詠みこまれております。
  
平成2年(1990)4月吉日 浅草観光連盟

所在地 台東区駒形1-4

 当社の創祀は定かなことを知る事は出来ませんが口碑によりますと「後冷泉天皇の御世である」と云われ、又一説には「承久の乱(1221)の後信濃国諏訪郡小日村の神主が諏訪大社の御分霊を当地に奉斎したのに始まる」とも云われております。
 諏訪信仰が関東に広まるのは鎌倉時代中頃で当時諏訪大社は鎌倉幕府より箱根権現や伊豆山権現或いは三島大社と共に特別の尊崇を受けていたのです。それは「諏訪上社の大祝家が源頼朝の旗上げに最初から協力し祈祷の効を積んだからである」と云われています。したがって頼朝も諏訪大社を「武家守護之神」(吾妻鏡)として崇敬しています。又後白河法皇の『梁塵秘抄』にも「関より東の軍神として鹿島大社、香取大社と並んで三番目に諏訪大社が挙げられています」その後時の執権となった北条氏は信濃国の守護職となり、諏訪郡を得宗領とし、諏訪上社の神主を得宗被官としたのです。こうした北条氏の支援によって諏訪大社の御分社が数多く関東に広まっていったものと考えられます。更に執権北条氏は支配する所領地に諏訪上社の御分社を奉斎すると共に得宗被官である諏訪氏の神主を招き神事、祭事を執り行っていたと伝えられています。
 当社は諏訪上社と同じ諏訪梶の御神紋を使用し天正年間以前には神主が数代にわたって奉仕して来たと社史に見えかつては諏訪大社最大の祭である御射山祭と関連する八朔の祭(風祭り神事)が行われていたと云われていますが定かではありません。
 当社の別当寺は浅草寺の十二衆徒の一院であった修善院で「江戸時代は別当として奉仕して来た」と『浅草寺史』に記され当社に関する史料が「修善院呈書」にわずかながら残されています。
 当社の所在地は『御府内備考』に「諏訪神社が鎮座してあったので諏訪丁とした」と記され江戸切絵図寛文十一年板の浅草絵図に「スワ大明神」と著されています。そして「再訂江戸鹿子」には「近年度その回禄により社頭は形の如くなれども神穂は社の損凶によらず唯霊験の灼をもって崇め祀る」と見えます。

所在地 台東区蔵前3-22-9 (正覚寺)

都旧跡
 石川雅望墓   
     昭和18年(1943)5月指定

 江戸時代著名な俳歌師、六樹園を称し、字(あざな)を子柏といった。五老斎、逆旅主人または蛾術斎と号した。また石川五郎兵衛といい狂歌を蜀山人に学び狂名を宿屋飯盛といった。小伝馬町3丁目の旅館糟屋七兵衛(画名を石川豊信)の子として生れ、青年期には行状放逸で、父の死に逢って学問を好むようになったという。しかし、強訴(ごうそ)を援助したという嫌疑をうけ、しばしば法廷によばれ、ついに江戸を追われて多摩群府中に住むようになった。彼はここで和歌を学び、晩年狂歌をよくした。著書には「源注余滴」「雅言集覧」などがあり、戯著小説類も数種ある。文政13年(1830)閏(うるう)3月24日歿。年78。
  昭和43年(1968)3月1日建設 東京都教育委員会           

所在地 台東区浅草2-3-1 (浅草寺)

君諱徳太郎田代氏明治十一年七月十一日浅草に生る六歳叔父初代寿輔の養子となり其薫陶を受く同二十四年十三歳西郷邸に於て英照皇太后御前舞踊鶴亀を演ず 同三十六年初代寿輔歿後大正十二年迄花柳家元を継承同三十八年柳櫻会創立公演九十八回に及ぶ大正七年初代寿輔嗣子芳三郎に家元を譲り大正十二年自ら分家家元となり昭和三十四年十一月三日多年舞踊界に盡瘁せる功に依り紫綬褒賞を授与せらる同三十八年一月十二日歿す 享年八十六歳安隆院達道寿徳居士と諡して深川増林寺に葬る二代徳太郎故人の遺志に依り茲に此碑を建つ

   昭和三十九年四月 二代花柳徳太郎
        蘭垌 野田朗書

所在地 台東区浅草2-3-1 (浅草寺)

 
つきいだす鐘は上野か浅草か
 往き来し絶えて月にふけゆく吾妻橋、
 誰を待つやら恨むやら
 身をば欄干に投げ島田、チョイトネ

  <建碑>
   唖蝉坊碑  昭和三十年十一月二十八日
   筆   塚  昭和五十七年三月七日

 <添田唖蝉坊>
 本名・平吉  筆名は唖蝉坊のほか不知山人、のむき山人、凡人など。神奈川県大磯に生
まれる。
昭和19年(1944)2月8日歿。享年73歳。明治20年代の壮士節の世界に入り、のち演歌の作詞、作曲、演奏に従事。作品は「四季の歌」「ストライキ節」「ラッパ節」「ああ金の世」「金色夜叉の歌」「むらさき節」「奈良丸くづし」「マックロ節」「青島節」「ノンキ節」「生活戦線異状あり」など。著書に「浅草底流記」「唖蝉坊流生記」「流行歌明治大正正史」ほか。

 <添田知道>
 唖蝉坊の長男。東京出身。昭和55年(1980)3月18日歿。享年77歳。父唖蝉坊とともに演歌の作詞、作曲に従事したあと作家活動に入る。筆名は知道のほか、さっき、吐蒙。演歌作品に「東京節」「復興節」「ストトン節」など。著書に新潮文芸賞受賞の長編小説「教育者」「利根川随歩」「演歌の明治大正史」などがある。

 
 浅草の会

所在地 台東区浅草2-3-1 (浅草寺)

 「濡れ仏」の名で世に知られるこの二尊仏は、観世音菩薩(かんぜおんぼさつ)(右)、勢至菩薩(せいしぼさつ)(左)二菩薩の金銅坐像で、像の高さは共に2.36m、蓮台を含めれば4.54mにおよぶ。基壇の組み石は、長さ約12m、幅6.21m、高さ1.5mとなっている。

 蓮弁台座銘によれば、願主は上野国(群馬県)館林在大久保村の高瀬善兵衛、かって奉公した日本橋伊勢町の米問屋成井家より受けた恩を謝し、観音像は、旧主善三郎の菩提を弔うため、勢至像はその子次郎助の繁栄を祈るため、貞享4年(1687)8月に造立した。
 江戸時代初期の優秀な鋳造仏の一つで神田鍋町東横町(現、千代田区鍛冶町2丁目)の太田久衛門正儀(藤原正儀)鋳造の作。
 安永6年(1777)2月高瀬仙右衛門が施主、千住の高瀬奥右衛門が願主となり、修理したことが観音像銘に追刻されている。
 高瀬仙右衛門は上野国館林大久保村の人、江戸伊勢町(中央区日本橋本町1丁目)の成井善三郎の店の番頭となり、後、主家への報恩菩提のためにこの像を寄進した。観音像はもと左手に蓮華を持っていたのであろう。
 なおこの像と同形で、寄進者・鋳造者も同じ元禄3年(1690)在銘の像が群馬県館林市茂林寺にある。
  平成10年(1998)3月 台東区教育委員会

所在地 台東区浅草2-3-1 (浅草寺)

 弁天大と呼ばれる小丘の上に立つこのお堂は、昭和58年(1983)に再建されたもの。
 ご本尊は白髪のため「老女弁財天」といわれる。関東三弁天(神奈川県江ノ島・千葉県柏市布施と合わせ)の1つとされ、小田原北条氏の信仰が篤かった。
 境内の鐘楼の鐘は、元禄5年(1692)5代将軍徳川綱吉公改鋳の江戸時代の「時の鐘」として、芭蕉の句『花の雲 鐘は上野か浅草か』で有名。現在は、毎朝6時に役僧が撞き鳴らし、大晦日には「除夜の鐘」が点灯される。
 弁財天さまのご縁日は、「巳の日」で、堂内にてお参りができる。
  金龍山 浅草寺

        Bentendo Hall
 Bentendo Hall was reconstructed in 1983 on the small hill called "Benten-yama".The principal image of this temple has white hair.Therefore we call it "Rounyo-Benzaiten".("Rounyo" means an old woman and "Benzaiten",the goddess of music,art and wealth,is the name of the image.)This statue is one of the Three famous Benzaiten around the Kanto district.In the medieval period Hojo,a great daimyo in Odawara,had faith in this statue.
 The bell in the belfry has been known as the hour bell casted in bronze by Tokugawa shogunate in 1692,and also famous for a haiku by Matsuo Basyo(1644-1694).Nowadays,a priest of Senso-ji strikes at six oclock every morning.

所在地 台東区浅草2-3-1 (浅草寺)

 鳩ポッポ歌碑(鳩ぽっぽ歌碑・ハトポッポ歌碑・はとぽっぽ歌碑)

 鳩ポッポ(鳩ぽっぽ)  東くめ 八十六才

はとポッポ  はとポッポ
    ポッポッポと  とんでこい
御寺のやねから下りてこい
    えさをやるから皆たべよ
食へてもすにかえらずに
    ポッポッポと鳴いて遊べ     

 鳩ポッポの歌碑   作詞 東くめ  作曲 滝廉太郎

この詩は日本中の多くの人々に親しまれている日本の代表的な童謡の一つです  東くめ女史が明治34年(1901)に観音さまの境内に於て鳩とたわむれている子供らの愛らしい姿をそのまま歌によまれたものであります  歌碑を建つるにあたりまして朝倉文夫先生から鳩五に題字を寄せられましたくめは作曲者滝廉太郎先生と同卸旧■の源いゆかりに係る洵にうるわしい御協賛でありました  鳩は平和の象徴です  そのためにもこの碑は永久に偲存いたしたいものであります
   昭和37年(1962)11月3日  浅草古恭順識

所在地 台東区浅草2-3-1 (浅草寺)

第二次世界大戦はその規模においても  その被害についてもまことに甚大であった  ことに昭和20年(1945)3月10日の大空襲には  この付近一帯は爆死者の屍が累として山をなし  その血潮は川となって流れた  その惨状はこの世の姿ではない  これ等の戦争犠牲者の霊を慰めることこそ  世界平和建設の基となるものである  ここに平和地蔵尊を祭り  その悲願を祈りるため  昭和24年(1949)4月ここに安置された次第である 



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