東京都台東区の歴史
× [PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。 所在地 台東区寿2-10-4 (金龍寺) 東京都指定旧跡 荷田在満(かだのありまろ)墓 都旧跡 昭和17年(1942)9月指定 江戸時代中期の国学者で、本姓は羽倉氏で、字(あざな)は持之、号を仁良斎という。通称は東之進、在満はその名である。京都伏見の稲荷神社の神宮荷田信詮(のぶあき)の三男高惟(たかのぶ){道員(みちかず)}の長男として京都に生まれた。23歳の享保13年(1728)9月24日、和学者として登用されることを求めて、妹蒼生子(たみこ)とともに江戸に下った。徳川吉宗の次男で有職故実(ゆうそくこじつ)の研究者として知られた田安宗武(たやすむねたけ)に仕え、有職故実の調査に従事した。元文3年(1738)桜町天王(さくらまちてんのう)の大嘗会(だいじょうえ){天王が即位後初めて行う新嘗祭(にいなめさい)}に際し、藩命により『大嘗会儀式具釈(だいじょうえぎしきぐしゃく)』九巻を撰進した。翌年別に『大嘗会弁蒙(だいじょうえべんもう)』二巻を無断刊行して幕府に咎められ、閉門を命じられた。また寛保2年(1742)に『国歌八論』が宗武の意見と対立し、延享3年(1746)田安家を退隠した。 叔父の春満(あずままろ)の有識故実の研究を継承発展させて精緻な家風を打ち立て、歌論では芸術主義を貫いて、近世歌論の発展にひとつの時期を画した。宝暦元年(1751)8月4日46歳で死去し、臨済宗京都妙心寺派の金龍寺に葬られた。著書に『大嘗会便蒙御咎顛末(だうじょうえべんもうおとがめてんまつ)』『令三辨(りょうさんべん)』『本朝度制略考(ほんちょうどせいりゃくごう)』『羽倉考(はぐらこう)』擬古文学(ぎこぶんがく)に『白猿物語(しろざるものがたり)』『落合物語』がある。 平成13年(2001)3月31日 東京都教育委員会 PR |
町名
サイト内検索
アクセス解析
プロフィール
HN:
永山
性別:
男性
|