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東京都台東区の歴史
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所在地 台東区上野桜木1-14-11  (寛永寺)

 旧本堂(根本中堂)は現在の東京国立博物館前の噴水池あたりにあったが、慶応4年(1868)彰義隊の兵火で焼失した。そのため明治9年(1876)から12年にかけて、埼玉県川越市の喜多院の本地堂が移築され、寛永寺の本堂となったのである。寛永15年(1638)の建造といわれる。
 間口・奥行ともに七間(17.4メートル)。全面に三間の向拝と五段の木階、背面には一間の向拝がある。周囲には勾欄付廻縁をまぐらしており、背面の廻縁には木階を設けて、基壇面に降りるようになっている。桟唐戸(正面中央など)、蔀戸(正面左右など)、板壁など、すべて素木のままである。屋根は入母屋造、本瓦葺、二重棰とし、細部の様式は和様を主とする。
 内部は、内陣が土間で、外陣と同じ高さの須弥壇が設けられている。須弥壇の上に本尊その他の仏像を安置する。内陣を土間とする構造は中堂造と呼ばれ、天台宗独特のものである。現在は仮の床が張られ、内外陣ともにすべて畳敷になっている。
 平成16年(2004)3月  台東区教育委員会

       The main hall of the Kaneiji Temple
 The former main hall of this temple that used to stand around the fountain across present Tokyo National Museum was burned down in 1868 in the war in the late Edo period.The present hall was relocated from Kita-in at Kawagoe city,Saitama prefecture from 1876 to 1879.This building is said to be built in 1638.
 It is 17.4m,wide and deep.Neither a paint nor coloring is used for the doors and the walls,construction and a design are styles unique to Japanese buildeings.
 The floor in the room with the Buddhist altar was originally an earthen floor tha is a style original with the Tendai sect of Buddhism,now flooring is laid and it is covered with tatami.
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所在地 台東区上野桜木1-14-11  (寛永寺)
 
銅鐘(台東区有形文化財)
 本鐘の大きさは、総高177.2センチ、口径91.8センチ。厳有院殿(4代将軍家綱)の一周忌にあたる、延宝9年(1681)5月8日に厳有院殿廟前の鐘楼に奉献された。明治維新以降に、寛永寺根本中堂の鐘として、当所に移されたと伝えられる。現在は、除夜の鐘や重要な法要の際に使用されている。
 作者の椎名伊予守吉寛は、江戸時代前期(17世紀後半)に活躍した江戸の鋳物師で、神田鍋町に住した。延宝元年(1673)から貞亨3年(1686
)にかけて、銅鐘を中心に17例の作例が知られている。その中には増上寺や寛永寺などに関わるものも含まれており、幕府との関係の深さが窺える。
 本鐘は、将軍家霊廟の儀式鐘で、近世初期の鋳物師の活動や鋳物技術を知る上でも貴重な遺品のひとつである。
 平成18年(2006)に台東区有形文化財として台東区区民文化財台帳に登載された。
 平成19年(2007)3月  台東区教育委員会



   Copper Bell (Cultural Asset of Taito City)
 This Copper bell has a total height of 450 inches and a diameter at its wadest point of 233 inches.It was donated and pllaced in the bell towaer in front of the Genyuin mausoleum for the 4th Shogun Tokugawa Ietsuna on May 8th in 1681,marking the first anniversary of his death.It is said to have been transferred to Kan'ei-ji Temple's main hall to be its bell after the Meiji Restoration.
 The builder of the bell,Shiina Yoshihiro a caster in Edo,who was active during the latter half of the 17th century,and lived in Kndanabe-cho.There are 17 examples of his works,chiefly bells built between 1673 and 1686.Since many of them are related to Zojo-ji and Kan'ei-ji temples,he is thought to have had a deep relationship with the Tokugawa Shogunate.  


所在地 台東区上野桜木1-14-11 (寛永寺)
   
慈海僧正墓(都旧跡)
 墓石の正面中央に、聖観世音菩薩の像を彫り右側には「当山学頭第四世贈大僧正慈海」左側に「山門西塔執行宝園院住持仙波喜多院第三世」、背面に「元禄6年癸酉二月十六日寂」と刻む。
 慈海僧正は、学徳をもって知られ、東叡山護国院、目黒不動尊、比叡山西塔宝園院、川越仙波喜多院を経て東叡山凌雲院に入った。東叡山は、寛永寺一山の山号で、一山を統轄、代表する学頭には凌雲院の住職が就任することを慣例としたという。学頭は、また門主・輪王寺宮の名代をつとめうる唯一の有資格者であり、学頭の名のとおり宮や一山の学問上の師でもあった。慈海版として知られる「法華経」「薬師経」の翻刻や「四教義算注」「標指鈔」三十巻の著作がある。
 寛永元年(1624)目黒で生誕。70歳で没した。没後、公弁法親王の奏請によって大僧正の暗いが贈られた。
 墓は、初め凌雲院内にあったが、昭和33年(1958)東京文化会館建設のため寛永寺に移った。
 平成4年(1992)11月  台東区教育委員会

            The Grave of Pruest Jikai 
 The Buddhist priest Jikai was born in Meguro in1624.Known for his learning and virtue,he spent time in a couple of monasteries before entering Ryoun-in Monastery on Mount Toei(now Ueno Park).
 It is said tha he deid at the age of 70 and his grave was originally in Ryoun-in but in 1958 due to the construction of the Tokyo Metropolitan Festival Hall on the site,his grave was moved to Kanei-ji Temple.



所在地 台東区上野桜木1-14-11 (寛永寺)
       
虫塚(都指定旧跡)
 虫塚は、伊勢(現、三重県)長島藩主である増山雪斎の遺志により、写生に使った虫類の霊をなぐさめるため、文政4年(1821)に建てられたものである。
 増山雪斎は、宝暦4年(1754)の生まれ。本名を正賢といい、雪斎はその号であるが、玉園・蕉亭・石顛道人・巣丘隠人など多くの別号がある。江戸の文人大田南畝や大坂の豪商木村兼葭堂など、広く文人墨客と交流を持ち、その庇護者としても活躍した。自ら文が文雅風流を愛し、清朝の画家、沈南蘋に代表される南蘋派の写実的な画法に長じ、多くの花鳥画を描いた。中でも虫類者写生図譜『虫豸帖』は、その精緻さと本草学にのっとった正確さにおいて、殊に有名である。文政2年(1819)、66歳で没した。
 虫塚は、当初、増山家の菩薩寺、寛永寺子院勧善院内にあったが、昭和初期に寛永寺に合併されたため。現在の場所に移転した。
 勧善院は、4代将軍徳川家綱の生母で、増山氏の出である宝樹院の霊廟の別当寺として創建された。
 碑は自然石で、正面は、葛西因是の撰文を大窪詩仏が書し、裏面は、詩仏と菊池五山の自筆の詩が刻まれており、当時の有名な漢詩人が碑の建設に関わったことが知られる。
 平成8年(1996)7月  台東区教育委員会

               MUSHIZUKA
 This Mushizuka was built in 1821 for the rememvrance of the insects that died and used for sketching by Masuyama Sessai,the head of the Ise Nagashima Clan (Mie prefecture of the present).It was built to execute Sessai's will.
 He was born in 1754 and learned sketching from Shin Nappin,a famous Chinese artist in flower and bird paining.A collection of his painting of insects,titled"Chuuchi-jou"(A drawing block of sketches of insects)is famous.
 The monument made of natural stone says "MUSHIZUKA"together with a message engraved.


所在地 台東区上野桜木1-14-11 (寛永寺)
 
尾形乾山墓碑・乾山深省蹟
 尾形乾山(おがたけんざん)は、琳派の創始者として著名な画家・尾形光琳の弟である。寛文3年(1663)京都で生まれた。乾山のほか、深省・逃禅・習静堂・尚古斎・霊海・紫翠の別号がある。画業のほかにも書・茶をよくし、特に作陶は有名で、正徳・享保年間(1711~1735)輪王寺宮公寛王親王に従って江戸に下り、入谷に窯を開き、その作品は「入谷乾山」と呼ばれた。
 寛保3年(1743)81歳で没し、下谷坂本の善養寺に葬られた。しかし、月日の経過につれ、乾山乃墓の存在自体も忘れ去られてしまい、光琳の画風を慕う酒井抱一の手によって探り当てられ、文政6年(1823)顕彰碑である「乾山深省蹟」が建てられた。抱一は江戸琳派の中心人物で、文化12年(1815)に光琳百回忌を営み、『光琳百図』『尾形流略印譜』を刊行、文政2年(1819)には光琳の墓所を整備するなど積極的に尾形兄弟の顕彰に努めた人物である。墓碑及び「乾山深省蹟」は、上野駅拡張のため移転した善養寺(現、豊島区西巣鴨4-8-25)内に現存し、東京都旧跡に指定されている。
 当寛永寺境内の二つの碑は、昭和7年(1932)、その足跡が無くなることを惜しむ有志により復元建立されたものである。その経緯は、墓碑に刻まれ、それによると現、善養寺碑は、明治末の善養寺移転に際し、両碑共に当時鶯谷にあった国華倶楽部の庭へ、大正10年(1921)には公寛法親王との園により寛永寺境内に、その後、西巣鴨の善養寺へと、三たび移転を重ねたとある。
 なお、入谷ロータリーの一隅に「入谷乾山窯元碑」がある。
 平成11年(1999)3月  台東区教育委員会

    TOMB OF OGATA KENZAN AND KANAN SHINSWISWKI
 Ogata Kenzan is a younger brother of Ogata Korin,painter,and was born in Kyoto in 1663.Kenzan revealed his talent in painting,calligraphy,tea ceremony,ere,but was especially renowned for his ceremonic art.He possessed a kiln in Iriya,and named his works"Iria Kenzan".
 He died in 1743 at the age of 81,and was buried at Yozenji Templr in Shitayasakamoto (present address 7-chome 15-ban of Ueno)."Ogata Kenzan Shiseiseki"was built by a man of letters named Sakai Hoitu.The Shinseiseki was lost when Yozenji Temple moved,but its copy was erected in 1923 at this site.


所在地 
台東区上野桜木1-14-11 (寛永寺)
  
 都旧跡 了翁禅師塔碑
      指定 昭和5年(1930)6月2日



 了翁は号、諱名を道覚といい、黄檗宗の僧である。出羽国雄勝郡に生まれ、幼い頃から僧門に入った。承応年間(1652~1655)隠元禅師に師事し、のち諸国を巡錫している途中、夢の中でたまたま一種の薬法を修得し、是を錦袋円と名付けて、江戸上野不忍池の池畔に店舗を営んだ。数年にして数千両を得、江戸大火に際し、罹災民の救済に私財を投じ、さらには経典7千巻を購入して経庫を造ってこれを寛永寺に寄贈した。天和3年(1683)には勧学院を建てて教育に尽力、その功によって輪王寺宮より勧学院権大僧郡法印に任ぜられた。宝永4年(1707)5月歿、ときに78才。
 昭和43年(1968)10月1日建設  東京都教育委員会 


所在地 台東区上野桜木1-14-11  (寛永寺)

13代将軍 徳川家定公正室
  天璋院篤姫墓所(非公開)

 
 天璋院篤姫は天保6年(1835)12月19日、薩摩藩今和泉島津家島津忠剛(ただたけ)の長女として今和泉島津家本邸(現在の鹿児島県指宿市)にて生を受けました。(幼名一子〔かつこ〕・於一〔おかつ〕)
 嘉永6年(1853)、島津家28代当主島津斉彬(なりあきら)の養女となり、名を篤姫と改めて鶴丸(鹿児島)城に入り、また同嘉永6年(1853)中に鹿児島を出立し京都の近衛家に参殿ののちに江戸城下、芝の藩邸に入っています。
 その後、安政3年(1856)に近衛家の養女となり、名を敬子(すみこ)と改め、同安政3年(1856)に徳川13代将軍家定(いえさだ)公の正室として輿入れしました。
 この輿入れの際に、篤姫は斉彬より14代将軍に一橋慶喜を推すようにとの密命をうけていましたが、家定公は心身が虚弱で、入輿からわずか2年後の安政5年(1858)に逝去され、14代将軍には紀州の慶福(よしとみ〔のちの家茂公〕)が就任しています。(落飾し、天璋院とごうする。)
 また同安政5年(1858)、養父斉彬が逝去され、篤姫はその密命を果たせぬまま、夫と養父を相次いで亡くしました。
 しかし、落胆の中でありながら、篤姫は若き将軍の補佐によく勤め、また大奥をまとめる為にも尽力しました。
 公武合体のため、家茂公のもとへ降嫁した和宮(かずのみや)とは当初は対立していましたが、のちに心を通わす仲となり、その後敵対してしまった実家(薩摩)に対し、徳川家の存続を歎願するなど江戸城無血開城にも大きく貢献をしています。
 明治になると、わずか6歳で徳川家を継いだ16代家達(いえさと)公の養育に余生を捧げ、明治16年11月に48歳で亡くなるまで、徳川家の為にその生涯を捧げました。
 なお、墓所は5代綱吉公霊廟内、家定公の墓所の隣にあり、宝塔の脇には好物であったとされる枇杷(びわ)の木が植えられています。

 平成20年(2008)  寛永寺教化部


所在地 台東区上野桜木2-6-4

    縁起
昔は高重院、其後寛文6年(1667)圭海大僧都開基東叡山丗六坊の浄圓院と称し、寺領二百万石を賜う。5代将軍綱吉公の母寳樹院菩薩所となり、寛海和尚は養善院に移住さる。寛文12年(1673)当山第一世妙立和尚安楽律の新法門を唱導。之に對し山徒頻に誹謗せしが、妙立門下霊空和尚出で師説を顕揚す。
当時日本佛法の大王輪王寺宮の大御心を動かし奉るに到り、遂に享保8年(1723)御令旨に依り安楽一派を興立し、当山は浄名律院と改称し建立さる。又一山一ヶ寺の制を設けて、比叡山に安楽律院、東叡山に当山、日光山に興雲律院の三院県立本山とし、徳川幕末の本院棹尾の偉観を呈す。大明院宮、崇保院宮、隋宜楽院宮、御三代法親王の御崇敬を仰ぐ。殊に崇保院宮は地蔵信仰深く自ら尊藏を画き江戸府内院に賜り毎月廿四日(24日)の縁日はそれより始まる。
当山丗八世妙運和尚自他の人を合せ、8万4千の石地藏尊を建立し、上は佛祖の供恩に酬い、下澆末の衆生を救わんとして発願さるや、直に北白川宮能久親王殿下の拾数体奉納あり。徳川、小松、一條、近衛、毛利等各家の奉納に倣い、各界の人之に続き建立今日に至る。
境内には明治初年神佛分離に際し、江戸六地藏六番(永代寺富岡八幡宮の別当寺)は廃寺となり、地藏尊も破壊され、以来当寺に江戸六地藏第六番として再造された。
 江東区第五編第八章宗教1625頁に当時の地藏尊の背面銘文が書かれているので之を記す。
 東叡山 浄名院



あらい地蔵

江戸第六番地蔵尊



所在地 台東区上野桜木2-6-4 (浄名院)

 この寺の名は始め浄円院といい、寛文6年(1666)寛永寺三十六坊の一つとして創建された。享保8年(1723)浄名院となる。表門は享保年間(1716~1735)の建立。
 地蔵信仰の寺となったのは第38世地蔵比丘妙運和尚の代からである。妙運和尚は大坂に生まれ、25歳で日光山星宮の常観庵にこもったとき地蔵信仰を得、一千体の石像地蔵菩薩像建立の発願をたてた。明治9年
(1876)には地蔵山総本尊を建立。各地から多数の新者が加わり、地蔵菩薩像の数は増え続けている。
 境内にある青銅製の大きな地蔵菩薩坐像は、かつて江戸六地蔵第6番の地蔵菩薩像があった深川永代寺が明治維新のとき廃寺になったためと、日露戦争の戦没者を弔うため、明治39年(1906)新たに建立されたものである。
 なお、旧8月15日の「へちま供養」には、せき、ぜんそくに効験を願う人々で賑わう。
 平成13年(2001)3月  台東区教育委員会

     EIGHTY FOUR THOUSAND IMAGES OF JIZO (GUARDIAN DEITY OF CHILDREN)
 This temple was founded in 1666 and called Joen-in temple.Its present name,Jomyo-in temple was adopted in 1723.The front gate now standing built some time from 1716 to 1735.
 A priest called Myoun,who became the chief priest of this temple in 1876,had faith in the guardian deity of children (Jizo)and decided to erect one thousand stone imaged of Jizo.After having completed one thousand images,he reset his goal to eighty four thousand images.
 The great bronze image of Jizo in the precincts was built in 1906 in memory of those killed during the Russo-Japanese War.
 The religious service for Hechima(sponge cucumbers)"Hechima Kuyou"is performed every year on the 15th of August according to the lunar calender.A lot of people attend because the religious service is said to bring about miraculous cures of illness such as coughing and asthma.

明治12年浄名院第三十八世地蔵比丘妙蓮大和尚が衆生済度のため八万四千体地蔵尊の建立を発願された。その後歳と共に地蔵尊の数を増している。その中には北白川宮の十四体、五代目菊五郎の十三体等を含んでいる。
 台東区



所在地 台東区谷中5-2-22 (長安寺)

   狩野芳崖墓(台東区史跡)
 明治初期の日本画家で、文政11年(1828)長府藩御用絵師狩野晴皐の長男として、長門国長府(現、山口県下関市)に生まれる。19歳の時江戸に出て、可能勝川院雅信に師事。橋本政邦とともに勝川院門下の龍虎とうたわれた。
 明治維新後、西洋画の流入により日本画の人気は凋落し、芳崖は窮乏に陥ったが、岡倉天心や米人フェノロサ等の日本が復興運動に加わり、明治17年(1884)第2回内国絵画共進会で作品が褒状を受け、次第に当時の美術界を代表する画家として認められた。芳崖は狩野派の伝統的な筆法を基礎としながら、室町時代の雪舟・雪村の水墨画にも傾倒、さらには西洋画の陰影法を取り入れるなどして、独自の画風を確立した。その代表作「悲母観音図」「不動明王図」(ともに東京芸術大学蔵)は、いずれも重要文化財である。
 明治21年(1888)、天心・雅邦等とともに東京美術学校(現、東京芸術大学美術学部)の創設に尽力したが、開校間近の同明治21年(1888)11月、61歳で没した。
 墓所は長安寺墓地の中ほどにあり、明治20年(1887)没の妻ヨシとともに眠る。また、本堂前面には芳崖の略歴・功績を刻んだ「狩野芳崖翁碑」(大正6年〔1917〕造立)が建つ。
  平成5年(1993)、台東区史跡として区民文化財大腸に登載された。
 平成8年(1996)7月  台東区教育委員会
   
     TOMB OF KANO HOGAI (HISTORYCAL SPOT IN TAITO CITY)
 Kano Hogai was a Japanese-style painter in the early Meiji period.He was born in Choufu city,Yamaguchi prefecture in 1828.At the age of 19 he left for Edo to be apprenticed to Kano Masanobu and mastered painting techniques of Kano school.He was never bound however by the tradition of his school.He was also influenced by Sesshu and Sesson,famous painters of another school and also mastered shading techniques found in western painting."Hibo Kannon Zu"(goddess merciful like a mother) and "Fudo Myo-o Zu"(god of fire),two of his representative works are designated as Important Cultural Assets.
 He contributed much together with Okakura Tenshin to establish the Tokyo Fine Art School(present-day fine art faculty of the Tokyo University of Arts)but passed away in November of 1888 at the age of 61 just before  the school opened.
 His tomb is located near the center of the graveyard of this temple and a stone monument,which was erected in front of the main building in 1917 describes his brief history and achievements. 



所在地 台東区谷中5-2-22 (長安寺)

   板碑(台東区有形文化財)
 死者の菩薩を弔うため、あるいは生前に自らの死後に備えて供養を行う(逆修という)ために建立した、塔婆の一種。板石塔婆・青石塔婆ともいう。関東地方では、秩父地方産の緑泥片岩を用い、鎌倉時代から室町時代まで盛んに造られた。頂上を山形にし、その下に二段の切り込み(二条線)を造る。身部には供養の対象となる本尊を、仏像、または梵字の種子(阿弥陀如来の種子〔キリーク〕が多い)で表し、願文・年号等を刻んだ。
 長安寺には、鎌倉時代の板碑三基・室町時代の板碑一基がある。
1、建治2年(1276)4月 円内にキリーク種子を刻む
2、弘安8年(1285)8月 上部にキリーク種子を刻む
3、正安2年(1300)2月 「比丘尼妙阿」と刻む
4、応永3年(1396)正月 上部に阿弥陀三尊の種子を刻む
 長安寺の開基は、寛文9年(1669)とされ、同寺に残る板碑は、開基をさかのぼることおよそ400年も前である。長安寺開基以前、この地には真言宗の寺があったと伝えられ、これらの板碑と何らかの関連があったと思われる。
  平成3年(1991)台東区有形文化財として区民文化財台帳に登載された。
 平成8年(1996)7月  台東区教育委員会

        ITABI
 Itabi,also called the stone board stupa or blue stone stupa,is originally a type erected for the repose of  the souls of the deceased.Many were made between the Kamakura and Muromachi periods.In Choan-ji temple,there are three Itabi dating back to the Kamakura period and from the Muromachi period. As Choan-ji temple is said to have been establidhed in 1669,the Itabimust be about 400 years older than the temple itself. It is said that here was a temple of the Shingon-sect before Choan-ji temple was erected,and therefore,it is considered that the Itabi must have had some connection with the original temple. 



所在地 台東区谷中5-8-28

   赤穂浪士ゆかりの寺
 赤穂浪士の吉良邸討入りは「忠臣蔵」の題材として、広く世に知られている。
 四十七士に名をつらねる近松勘六行重と奥田貞右衛門行高は、当寺で修行していた文良の兄と弟であった。文良とは、のち当寺第6世となた朝山大和尚のことである。
 寺伝によれば、文良は浪士らにでき得る限りの便宜をはかり、寺内ではしばしば彼らの会合が開かれたという。明治末の福本日南の著作『元禄快挙録』には、勘六は死にのぞみ「今日の仕儀勘六喜んで身罷ったと、長福寺の文良へお伝え下されたい」と遺言したというエピソードが記されている。当寺はもと長福寺と称し、享保元年(1716)観音寺と改称した。
 本堂に向って右側にある宝篋印塔は、四十七士慰霊塔として古くから伝えられ、現在でも霊を弔う人が訪れている。上部に四方仏を表す種子(梵字)、下部に宝篋印陀羅尼経、宝永4年(1707)3月吉日、長福寺六世朝山の名を刻む。
 平成16年(2004)3月  台東区教育委員会

     Temple noted in connection with the 47 akoroshis
47 koroshis are widely known in Japan through the story "Chushingura"which describes 47 samurais of Ako (present Hyogo prefecture)who avenged their master Asano Naganori by making a raid on his foe Kira Yoshinaka.Two of 47 Akoroshis,Chikamatsu Kanroku Yukishige and Okuda Sadaemon Yukitaka,were the 6th head bonze of this temple and was named the Great Bonze Chozan.
 Bunryo is said to have done all he could to help Akoroshis and it is said that they held many meetings at this temple.The book called "Genroku kaikyoroku"written by Fukumoto Nichinan in the late Meiji period mentions that Kanroku left his last words "Please tell Munryo in the Chofukuji Temple that I am willing to give my life to avenge the death of my master today".This temple was originally called the Chofukuji Temple and was renamed the Kannonnji Temple in1716.
 The pagoda to the reght of the main hall is known as a memorial tower of Akoroshis and people still visit it today.On the upper part of the pagoda was engraved Sanskrit words that stand for the Buddhas in the north,the south,the east and the west.On the lower paer,Hokyoindaranikyo(a sutra)and on March in 1707,the name of the 6th Head Bonze of this temple Choan was engraved. 



所在地 台東区谷中7-7 (了俒寺)

   中村正直墓(都指定旧跡)
 明治時代の教育者、啓蒙学者。天保3年(1832)幕臣中村武兵衛の子として江戸に生まれ、幼名を釧太郎、名を正直、号を敬宇という。昌平坂学問所に入り、佐藤一斎について儒学を学ぶ。慶応2年(1866)幕府の英国留学生派遣に取締として同行、英国市民社会の実情に触れた。
 明治5年(1872)新政府に出仕し、大蔵省翻訳御用を務めるかたわら、翌年、家塾同人社を開いた。女子高等師範学校(現、お茶ノ水女子大学)校長就任、訓盲院の開設など女子教育、障害者教育にも力を注ぎ、東京帝国大学教授・元老院議官・貴族院議員も歴任した。
 明治24年(1891)6月7日、60歳で病没。葬儀は神葬で行われた。
 正直は、西周・神田孝平らと明六社を起こし、啓蒙思想の普及に務め、日本近代化に貢献した。
   訳著書に『西国立志編』『事由之理』などがある。
 平成7年(1995)3月  台東区教育委員会

     TOMB OF NAKAMURA MASANAO
      (Metropolitan Historical Site)
 Nakamuea Masanao was a Meiji Era educator and enlightenmento scholar,born in 1832 in Edo.In 1866,he accompanied Jappanese students to England as a chaperone and experienced the civil society of England.In 1872 he was employed as an interpreter by the Meiji Government.The next year established Dozinsha and made efforts to educate women and handicapped people.He worked as a professor at the Tokyo Imperial University,as a member of the senate,and as a member of the Upper House.He died at the age of 60 on the 7th of JUne in the 24th yeat of the Meiji Era. 


所在地 台東区谷中7-12 ~ 荒川区東日暮里

 坂を登れば谷中墓地、下ると羽二重団子の店の横から善性寺前へ通じていた。鉄道線路でカットされ、これに架かる橋が「芋坂跨線橋」と名付けられて、わずかにその名を残している。
 坂名は伝承によると、この付近で 自然薯(山芋)が取れたのに因むという。正岡子規や夏目漱石、田山花袋の作品にもこの芋坂の名が書かれている。

芋坂も 団子も月の ゆかりかな 子規


所在地 台東区谷中7-18-10

    朝倉彫塑館(国名勝・国登録有形文化財)
 近代日本を代表する彫塑家・朝倉文夫(1883~1964)の邸宅兼アトリエである。
 朝倉は明治16年(1883)大分県で生まれ、明治40年(1907)、東京美術学校(現東京藝術大学)彫刻科を卒業後、当地に住居とアトリエを新築した。その後改築、増築を繰り返し、現存の建物は大半が昭和10年(1935)の竣工である。すべて朝倉が設計し、銘木、竹などの材も自ら選んだ。庭との一体感に配慮した独特の空間意匠、造詣が追求され、随所に彫刻家朝倉の個性を見ることができる。
 中庭は、木造和風の住居棟と近代洋風建築のアトリエに囲まれた日本庭園で、空間の大半を水面が占めている。水面に配された5つの巨石が密度の濃い水景を創り上げ、朝倉の芸術思想の特質である自然観をもうかがえる。屋上庭園は、かつて、朝倉が昭和2年(1927)に自邸とアトリエにおいて開設した「朝倉彫塑塾」の塾生が蔬菜を栽培し、日常の園芸実習の場として使われた菜園であった。昭和初期に遡る屋上庭園の事例としても貴重である。
 昭和42年(1967)、故人の遺志によって一般公開され、昭和61年(1986)には台東区に移管され、「台東区立朝倉彫塑館」となった。
 平成13年(2001)、建物が国登録有形文化財に、本館所蔵の文夫の代表作「墓守」の石膏原型が重要文化財指定を受けた。平成19年(2007)には、建物と庭一帯が国名勝の指定を受けた。
 平成20年(2008)3月  台東区教育委員会

   Asakura Chouso Museum :Asakusa's mansion devoted sculpture and modeling (National cultural tangible asset and national scenic beauty site)
 This was the former residence and studio of Fumio Asakura (1883-1964),who was a great master of sculpture and medeling. Almost all the buildings were built in1935.All of the buildings and gardens were his own design,and he personally selected all the materials,for example,the decorative wood and bamboo.
 You can truly appreciate the aesthetic unity of the structures and gardensm,as reflected in Asakura's deep understanding and unique use of space.Yhe quadrangle is a Japanise-style garden surrounded by a Japanise-style wooden residence and European-style studio.Almost all the empty spaces of the quadrangle are filled with water.Several natural rocks are arranged in the water  to create a rich landscape-an impressive result of Asakura's unique sense and understanding of nature,which inspired guided his artistic creations.
 In 2001,the buildings were declared a national cultural tangible asset and the plaster prototype of his masterpiece "The Gravekeeper",became an important cultural property.In2007 the whole of the buildeng complex and gardens were designated as a place of natural scenic beauty. 



所在地 台東区谷中7-14-8

天台宗
 護国山 天王寺

 日蓮上人はこの地に住人、関長耀の家に泊まった折、自分の像を刻んだ。長耀は草庵を結び、その像を奉安した。ー伝承による天王寺草創の起源である。

大仏

 一般には、室町時代、応永(1394~1427)頃の創建という。『東京府志料』は「天王寺 護国山ト号ス 天台宗比叡山延暦寺末 此寺ハ本日蓮宗ニテ長耀山感応寺ト号シ 応永ノ頃ノ草創ニテ開山ヲ日源トイヘリキ」と記している。

本堂

 東京に現存する寺院で、江戸時代以前、創始の寺院は多くない。天王寺は都内有数の古刹である。江戸時代、ここで”富くじ”興行が開催された。目黒の滝泉寺湯島天神の富とともに、江戸三富と呼ばれ、有名だった。富くじは現在の宝くじと考えればいい。

毘沙門堂

 元禄12年(1699)幕府の命令で、感応寺は天台宗に改宗した。ついで天保4年(1833)、天王寺と改めた。境内の五重塔は、幸田露伴の小説、『五重塔』で知られていた。しかし昭和32年7月6日、惜しくも焼失してしまった。
 平成4年(1992)11月  台東区教育委員会



      Gokokusan Tenno-ji Temple

 When the Buddhist saint Nichiren stayed at the house of Seki Nagateru,the lord of this area,he carved a sculpture of himself and Nagateru built a hermitage in which he enshrined the sculpture.This was the origin og Tenno-ji Temple,which is generally said to have been established in the Muromachi period between 1394 and 1427.Among the temples still extant in Tokyo there are few which were founded before the Edo period(1600-1868),so Tenno-ji is one of the few ancient temples left in the metopolis.

守務所

 Tenno-ji was originally called Kanno-ji,but in 1833 in accordance with a decree by the Tokugawa government,its name was changed and its seet altered from the Nishiren sect of Buddhism to the Tendai sect.
 During the Edo period public lotteries were held here,so along with Ryusen-ji Temple in Meguro and Yushima Tenjin Shrine in Ueno it was famous as one of the "Three Lotteries".



 境内には『銅造釈迦如来坐像』が、境外墓地内には『天王寺五重塔跡』あります。


所在地 台東区谷中7-14-8 (天王寺)

台東区有形文化財
 銅造釈迦如来坐像
     平成5年(1993)

 本像については、『武江年表』元禄3年(1690)の項に、「五月、谷中感応寺丈六仏建立、願主未詳」とあり、像背面の銘文にも、制作年代は元禄3年(1690)、鋳工は神田鍋町に住む大田久右衛門と刻まれている。また、同銘文中には「日遼」の名が見えるが、これは日蓮宗感応寺第15世住持のことで、同寺が天台宗に改宗して天王寺と寺名を変える直前の、日蓮宗最後の住持である。
 昭和8年(1933)に設置された基壇背面銘文によれば、本像は、はじめ旧本堂(五重塔跡北方西側の道路中央付近)右側の地に建てられたという。『江戸名所図会』(天保7年〔1836〕刊)の天王寺の項には、本堂に向かって左手に描かれており、これを裏付けている。明治7年(1874)の公営谷中墓地開設のため、同墓地西隅に位置することになったが、昭和8年(1933)6月修理を加え、天王寺境内の現在地に鉄筋コンクリート製の基壇を新築してその上に移された。さらに昭和13年(1938)には、基壇内部に納骨堂を増設し、現在に至る。
 なお、「丈六仏」とは、釈迦の身長に因んで一丈六尺の高さに作る仏像をいい、坐像の場合はその二分の一の高さ、八尺に作るのが普通である。
 本像は、明治41年(1908)刊『新撰東京名所図会』に「唐銅丈六釈迦」と記され、東京のシンボリックな存在「天王寺大仏」として親しまれていたことが知られる。
 平成5年(1993)に、台東区有形文化財として、区民文化財台帳に登載された。
 平成8年(1996)3月  台東区教育委員会



       COPPER SEATING FIGURE OF BUDDHA
 This figure was created in 1690 by Ota Kyuemon,who lived in Kanda Nobecho.
 The inscription on the base of the fugure rells that it was first set up to the right of the old main temple.This would now be about in the centre of the present west side road to the north of the remains of the five-storied pagoda of Ten-noji temple.In 1874 the figure was moved to the western corner to open Yanaka cemetery.In June of 1933 it was repaired,moved to the present site and placed on a newly built ferroconcrete base.In 1938 the charnel house was built in the base.
 In The Edo and Meiji eras the figure was repeatedly reported in various documents and books and has been very popular among people as "Ten-noji Daibutsu."
 It was registered as a tagible cultural asset in 1993 in the Book of Cultural Assets of Taito City. 


所在地 台東区谷中7-9-6

   東京都指定史跡 天王寺五重塔跡
      指定 平成4年(1992)3月30日



 谷中の天王寺は、もと日蓮宗・長耀山感應寺尊重院と称し、道灌山の関小次郎長耀に由来する古刹である。元禄12年(1699)幕命により天台宗に改宗した。現在の護国山天王寺と改称したのは、天保4年(1833)のことである。最初の五重塔は、寛永21年(正保元年・1644)に建立されたが、百三十年ほど後の明和9年(安永元年・1772)目黒行人坂の大火で焼失した。罹災から19年後の寛政3年(1791)に近江国(滋賀県)高島郡の棟梁八田清兵衛ら48人によって再建された五重塔は、幸田露伴の小説『五重塔』のモデルとしても知られている。



 総欅造りで高さ十一丈ニ尺八寸(34.18メートル)は、関東で一番高い塔であった。明治41年(1908)6月東京市に寄贈され、震災・戦災にも遭遇せず、谷中のランドマークになっていたが、昭和32年(1957)7月9日放火により焼失した。



 現存する方三尺の中心礎石と四本柱礎石、方ニ尺七寸の外陣四隅柱礎石及び回縁の束石20個、地覆石12個総数49個はすべて花崗岩である。大島盈株による明治3年(1870)の実測図が残っており復原も可能である。中心礎石から金銅硝子荘舎利塔や金銅製経筒が、四本柱礎石と外陣四隅柱からは金銅製経筒などが発見されている。

 平成5年(1993)3月31日建設  東京都教育委員会



所在地 台東区浅草7-4-1

 待乳山聖天(まつちやましょうでん)は、金龍山浅草寺の支院で正しくは、待乳山本龍院という。その創建は縁起によれば、推古天皇9年(601)夏、早魃のため人々が苦しみ喘いでいたとき、十二面観音が大聖尊歓喜天に化身してこの地に姿を現し、人々を救ったため、「聖天さま」として祀ったといわれる。



 ここは隅田川に臨み、かつての竹屋の渡しにほど誓い小丘で、江戸時代には東都随一の眺望の名所と称され、多くの浮世絵や詩歌などの題材ともなっている。とくに、江戸初期の歌人戸田茂睡の作、

  哀れとは夕越えて行く人も見よ
       待乳の山に残す言の葉

の歌は著名で、境内にはその歌碑(昭和30年〔1955〕再建)のほか、石造出世観音立像、トーキー渡来の碑、浪曲双輪塔などが現存する。また、境内各所にほどこされた大根・巾着の意匠は、当寺の御利益を示すもので、大根は健康で一家和合、巾着は商売繁盛を表すという。1月7日大般若講大根祭には多くの信者で賑わう。



 なお、震災・戦災により、本堂などの建築物は焼失、現在の本堂は昭和36年(1961)に再建されたものである。
 平成11年(1999)3月 台東区教育委員会
 


 境内には『銅造宝篋印塔』、『築地塀』、『出世観音像』、『リー・デ・フォーレスト博士の碑(トーキー渡来之碑)』、『糸塚』、『歓喜地蔵尊』、『戸田茂睡歌碑』があります。



     MATSUCHIYAMA SHODEN
 Matsuchiyama Shoden is one of the subordinate temples of Kinryusan Sensoji Temple.Its proper name is Matsuchiyama Honryuin.
 Located alongside the Sumida River and near the Takeya Ferry.It was called a noted place featuring a good view in the Edo Era.Here there are many Nishikie prints of the Edo Era and poems by famous men of letters and painters like Toda Mosui dealing with the scenary of this place.Its main building was destroyed in the Great Earthquake of 1923 and the Seconed World War,but it was rebuilt in 1961.
 Radishes seen in its compounds are known as the symbol of health and family harmony while purses represent commersial success.


所在地 台東区浅草7-4-1 (待乳山聖天)

リー・デ・フォーレスト博士は明治6年(1873)米国アイオワ州に生れ無線電信電話の開拓者として三百有余の特許権を得ラジオの父と仰がる。大正12年(1923)更にトーキーを発明。紐育市に於て上映世人を驚かせ在り。大正13年(1924)故高峰譲吉博士令息エヴエン氏来朝の際、余親しくその詳細を聴きて将来に着目す。翌年渡来、博士の行為により東洋におけるトーキーの製作及び配給権を獲得したり。依て米人技師を帯同帰国、大正14年(1925)7月9日宮中に於て天皇皇后両陛下の天覧に供し各宮電化の御覧を仰ぎたる後一般に公開せり。トーキーの我が国に招来されたる之を以て初めとす。以来余、我国におけるトーキーの製作を企図し、日本人技師をフォーレスト博士の許に派して技術を習得せしめ余の渡米もまた前後九回に及べり。大正15年(1926)大森撮影所において撮影を開始し、ミナトーキーの名を冠して黎明、素襖落、大尉の娘等の劇映画を完成す。これ我国におけるトーキー製作の濫鬺なり。雨来トーキーは日進月歩、昭和3年(1928)の衆議院議員普通選挙には時の田中首相及び三土、山本、小川の各閣僚が自ら画中の人となりて政見を発表する等の普及発達をみたる外ミナトーキーは上海を始め東洋各地にも大いに進出するに至れり。今やトーキー我国に渡来してより三十年を閲するもフォーレスト博士の発明形式は依然として世界各国に踏襲さる。博士の業蹟偉大なりというべし。加うるに我国テレビジョンの発足もまた実に博士の力に依れり。昭和23年(1948)、フォーレスト博士は極東軍総司令官マッカーサー元帥を介して日本におけるテレビジョンの創設を慫慂したり余正力松太郎氏にその意を伝う。正力氏夙にテレビジョンの創設に意あり。フォーレスト博士の勧奨を機とし、氏独自の構想の下にテレビジョンの実現に努力し遂に昭和27年(1952)テレビジョン電波許可第一号を受け、日本テレビ放送網株式会社を創立し余もまた役員に加わる。翌昭和28年(1953)8月30日日本における最初の電波を出せり。これ偏に正力氏の業蹟に依ると雖もまたフォーレスト博士の日本への友情に基くものというべく吾人の感謝措く能わざるところなり。
今日トーキーの普及発達は実に目覚しく、テレビジョンの普及もまた瞠目に値す。フォーレスト博士の文化に貢献する処絶大なりというべし、茲に余の旧縁の地待乳山の名蹟をトして碑を建てトーキー渡来の由来とテレビジョン早世の縁由を刻して博士の功績を讃え併せて報恩の微意を表す。
 昭和31年(1956)5月吉日  建碑者 皆川芳造


所在地 台東区浅草7-4-1 (待乳山聖天)

数度の火災に遭いその尊容とどめていないが古来より子育地蔵として伝承され、霊顕あらたかな尊として信仰されている


所在地 台東区浅草7-4-1 (待乳山聖天)

茂睡は元禄の頃活躍した歌人で、歌道の革新を唱えた、江戸最古の歌碑と称されたが、戦火に遭い昭和30年(1955)拓本をもとに再建された



紫の一もとをもみしてゆかり深き江戸の名勝をたゝへ梨本集を著して近世歌学み魁■なしゝ元禄の歌人とだ茂睡翁は浅草に住みこの待乳山乃風光をめでゝ御堂の傍よ歌碑を建てたりき
その石■にそこなはれし■寛政9年(1797)姪孫櫛分規貞石室をつくりて三面を覆ひたりしが昭和20年(1945)3月戦災にあひて殆ど湮滅に及びぬここより本龍院住職平田真徳師光住乃息横田真精師等発起して再興をはかり今年翁の二百五十年忌に■石再び新たに成れりかくれづの翁かくり世にして喜びほゝえみてあらむ
  とこしへよかれじくちせじ霊ごもる
   まつちの山乃やまと言の葉
 昭和30年(1955)4月14日
  日本藝術院会員 佐佐木信綱撰 芳翠英書



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