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東京都台東区の歴史
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所在地 台東区浅草7-4-1 (待乳山聖天)

リー・デ・フォーレスト博士は明治6年(1873)米国アイオワ州に生れ無線電信電話の開拓者として三百有余の特許権を得ラジオの父と仰がる。大正12年(1923)更にトーキーを発明。紐育市に於て上映世人を驚かせ在り。大正13年(1924)故高峰譲吉博士令息エヴエン氏来朝の際、余親しくその詳細を聴きて将来に着目す。翌年渡来、博士の行為により東洋におけるトーキーの製作及び配給権を獲得したり。依て米人技師を帯同帰国、大正14年(1925)7月9日宮中に於て天皇皇后両陛下の天覧に供し各宮電化の御覧を仰ぎたる後一般に公開せり。トーキーの我が国に招来されたる之を以て初めとす。以来余、我国におけるトーキーの製作を企図し、日本人技師をフォーレスト博士の許に派して技術を習得せしめ余の渡米もまた前後九回に及べり。大正15年(1926)大森撮影所において撮影を開始し、ミナトーキーの名を冠して黎明、素襖落、大尉の娘等の劇映画を完成す。これ我国におけるトーキー製作の濫鬺なり。雨来トーキーは日進月歩、昭和3年(1928)の衆議院議員普通選挙には時の田中首相及び三土、山本、小川の各閣僚が自ら画中の人となりて政見を発表する等の普及発達をみたる外ミナトーキーは上海を始め東洋各地にも大いに進出するに至れり。今やトーキー我国に渡来してより三十年を閲するもフォーレスト博士の発明形式は依然として世界各国に踏襲さる。博士の業蹟偉大なりというべし。加うるに我国テレビジョンの発足もまた実に博士の力に依れり。昭和23年(1948)、フォーレスト博士は極東軍総司令官マッカーサー元帥を介して日本におけるテレビジョンの創設を慫慂したり余正力松太郎氏にその意を伝う。正力氏夙にテレビジョンの創設に意あり。フォーレスト博士の勧奨を機とし、氏独自の構想の下にテレビジョンの実現に努力し遂に昭和27年(1952)テレビジョン電波許可第一号を受け、日本テレビ放送網株式会社を創立し余もまた役員に加わる。翌昭和28年(1953)8月30日日本における最初の電波を出せり。これ偏に正力氏の業蹟に依ると雖もまたフォーレスト博士の日本への友情に基くものというべく吾人の感謝措く能わざるところなり。
今日トーキーの普及発達は実に目覚しく、テレビジョンの普及もまた瞠目に値す。フォーレスト博士の文化に貢献する処絶大なりというべし、茲に余の旧縁の地待乳山の名蹟をトして碑を建てトーキー渡来の由来とテレビジョン早世の縁由を刻して博士の功績を讃え併せて報恩の微意を表す。
 昭和31年(1956)5月吉日  建碑者 皆川芳造
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