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東京都台東区の歴史
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所在地 台東区三筋2-16-4 (三筋老人福祉館)

 浅草の 三筋町なる おもひでも 
     うたかたの如や 過ぎゆく光の如や
  
                     斉藤茂吉

 斉藤茂吉は、明治・大正・昭和にわたり、日本近代文学史上に偉大なる足跡を残したアララギ派の歌人で、医学者でもあった。
 山形県に生れ、明治29年(1896)、15歳のときに上京、浅草区東三筋町54番地、養父斉藤紀一方に寄寓し、開成中学・一高・東京大学医学部を経て、長崎医学専門学校教授となり、更に文部省在外研究員として欧州に研鑚し、その後、青山脳病院長となり、作歌の傍ら、研究・評論・随筆など独自の業績をあげ、その著「柿本人麿」にて学士院賞を、次いで昭和26年(1951)文化勲章を授与され、昭和28年(1953)2月25日、70年9か月の生涯を終えた。
 因みにこの三筋町は、茂吉が、第二の故郷として、夢多き少年時代を過し、生涯懐しんだところで、短歌は、長崎在住のときに当時を回想し、詠んだものである。
 昭和50年(1975)11月  東京都台東区教育委員会


  川柳」は人名(号)である
 現在わたしたちが「川柳」と呼んでいる短詩文芸の名称が定着してたのは、俳句と同様、明治以降のこと。
 本来は、川柳風狂句とか川柳狂句と称したもので、江戸の末期から恣意的には川柳とも呼んでいましたが、文芸そのものの近代化とともに、「川柳」が固定した呼び方となりました。
 というのも、この「川柳」というのは個人の名(俳名)で、江戸時代後期に江戸の浅草新堀端の天台宗・龍宝寺門前名主で、柄井八右衛門という人が、前句附という文芸の宗匠となって名のった俳名が川柳(かわやなぎ)、この人が、現在に受け継がれる十七音独立文芸の祖となりました。代表的な選句集に『誹風柳多留』があります。
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