東京都台東区の歴史
× [PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。 所在地 台東区東上野6-13-13 (報恩寺) 関東大震災(1923)の後昭和10年(1935)に竣工した現在の本堂の屋根(北側)に用いられた鬼瓦(高さ2メートル余り重さ530キロ)京都の西京区での作と見られ、摂氏800度位で焼かれ16の部分からなる。昭和31年(1956)7月22日落雷に遭い上部が破損、モルタルで応急処置がなされていた。 昭和60年(1985)に始められた修復工事の際取り外された。 報恩寺 PR 所在地 台東区東上野6-13-13 (報恩寺) 坂東報恩寺の通称で知られる当寺は、建保2年(1214)親鸞の高弟性信によって開かれた浄土真宗大谷派の寺院で、初め下総国横曽根(現茨城県水海道市)にあったが、慶長7年(1602)江戸に移転、その後市中を三転し、文化7年(1810)現在地に至る。 本鐘が鋳造されたのは、慶安元年(1648)で、当時報恩寺は八丁堀にあった。銘文によると、報恩寺14世住持宣了および檀信徒の講中の発願で作られた。銘文の末尾に記されている鋳造者の「堀山城守藤原清光」は、江戸幕府の命で京都から江戸に下った御用釜師堀浄栄の息子浄甫を指す。父子とも当代一流の鋳造師で、浄甫の作品にはこの銅鐘のほか、渋谷区祥雲寺の銅鐘・日光東照宮の銅灯籠・上野東照宮の銅灯籠などが現存している。 本鐘は、昭和18年(1943)、重要美術品の認定を受け、平成8年(1996)、台東区有形文化財として、区民文化財台帳に搭載され、当時境内鐘楼(平成2年〔1990〕竣工)に安置される。 平成8年(1996)3月 台東区教育委員会 COPPER BELL This temple,widely known as Bando Ho-onji temple,was established by Shoshin in 1214.It was originally located at Mitsukaido-city in Ibaraki Prefecture,then muved to Edo in 1602.Its location was changed three times within Edo,finally settled here.This copper bell was cast in 1648 by Hori Joho,first-class craftsman of the period. Other works by Hori Joho that remain today include copper lanterns at Nikko Toshogu Shrine and Ueno Toshogu Shrine. It was registered as a tangible cultural asset in 1996 in the Book of Cultural Assets of Taito City. 所在地 台東区柳橋1-19-2 速水御舟 はやみぎょしゅう 当地と想定される、浅草区浅草茅町2丁目16番地で、速見御舟は明治27年(1894)8月2日に生まれた。良三郎、いとの二男として出生し、本名を蒔田栄一といった。 御舟は早くから絵に志し、明治41年(1908)14歳の時、松本楓湖の安雅堂画塾に入門。同画塾は浅草茅町2丁目31番地にあった。入門の翌年、師から禾湖の号を授かる。そして母方祖母の速見キクの養子となる。大正3年(1914)号を御舟と改め、このころから速見姓を称するようになったという。 明治43年(1910)、16歳で作品を初めて展覧会に出品。翌明治44年(1911)出品の『室寿の宴』は一等褒状を受け、宮内省買上げとなる。大正6年(1917)第4回院展に『洛外六題』を出品し、横山大観・下村観山に激賞された。 昭和10年(1935)将来を嘱望されながら40歳で没した。 作品には、昭和52年(1977)国の重要文化財指定の『炎舞』『名樹散椿』などがある。 平成7年(1995)3月 台東区教育委員会 BIRTHPLACE OF HAYAMI GYOSHU Hayami Gyoshu was born on August 2,1894.From an early age his goal in life was to become a painter,so he and entered Angado Art School run by Matsumoto Fuko. He submitted a work for exhibition when he was sixteen years old.The work,entitled"MUROHOGI-NO-EN",which was exhibited the following year was highly acclaimed and purchased subsequently by the Imperial Household Agency.In the sixth year of the Taisho Era,he exhibited his famous painting entitled"RAKUGAI ROKUDAI".He passed away in 1935,when he was only 40 years old,at a great loss to the Japanese art.Some of his works are desinnated as Important National Cultural Assets. 所在地 台東区花川戸1-1 (隅田公園) 隅田川渡船の1つに、「山の宿の渡し」と呼ぶ渡船があった。明治40年(1907)発行の「東京市浅草区全図」は、隅田川に渡船を描き、「山ノ宿ノ渡、枕橋ノ渡トモ云」と記入している。位置は吾妻橋上流約250メートル。浅草区花川戸河岸・本所区中ノ郷瓦町間を結んでいた。花川戸河岸西隣の町名を、「山ノ宿町」といった。渡しの名はその町名をとって命名。別称は、東岸船着場が枕橋橋畔にあったのにちなむ。枕橋は墨田区内現存の北十間川架橋。北十間川の隅田川合流点近くに架設されている。 渡船創設年代は不明。枕橋上流隅田河岸は、江戸中期頃から墨堤と呼ばれ、行楽地として賑わった。桜の季節は特に人出が多く、山の宿の渡しはそれらの人を墨堤に運んだであろう。したがって、江戸中期以降開設とみなせるが、天明元年(1781)作「隅田川両岸一覧図絵」はこの渡しを描いていない。 平成4年(1992)11月 台東区教育委員会 Yamanoshuku no Watashi Ferry In the days when ferries crossed the Sumida River there was a ferry called the "Yamanoshuku no Watashi"(the word"watashi"means ferry).In a map printed in1907 ferry routes are shown,and "Yamanoshuku no Watashi",which was also known as "Makura-bashi no Watashi"is mentioned.The ferry route was approximately 250 metres upstream of Azuma-bashi Bridge and linked the river bank at Hanakawado with the Nakanogo Kawaramachi area.The name of the ferry is derived from the name of the destrict of Yamanoshuku which was to the west of the riverbank at Hanakawado. The alternative name is connected to the fact that the arrival point on the eastern bank of the river was at the approach to Makura-bashi Bridge.Makura-bashi Bridge stands near to the point where Kitajikken River from Sumida ward flows into the Sumida River. It is not clear when the ferry serving thisroute was started. From about the mid Edo period(around the 1890s),the bank of the Sumida River upstream of Makura-bashi Bridge was popular as a site for cherry blossom veiwing. 所在地 台東区花川戸2-11-13 九品寺大仏 境内の左側に建つ大きな仏像は銅造の阿弥陀如来坐像で、「九品寺大仏」の名で親しまれている。この坐像は、明暦3年(1657)の大火で亡くなった人々の菩提を弔うため、当寺第2世住職天誉が江戸市民から浄財を募って万治3年(1660)に造立した。蓮華座には、造立に協力した人々やその縁故者と思われる人物の戒名・法名などを刻む。作者の長谷川五郎兵衛尉益継は、万治から寛文年間(1658~1672)の頃に活躍した鋳物師のひとりで、遺品としては九品寺大仏を含め4点の仏像・梵鐘がある。 また、かつて九品寺には平安朝の学者小野篁の作と伝える沓履地蔵尊(木造念持仏)が安置されていたが、関東大震災で焼失した。平成3年(1991)、当寺では文献に拠って沓履地蔵尊をほぼ等身大の大きさに復元し、大仏の向い側に再建した。履物の街花川戸にふさわしく、沓を履いている珍しい地蔵菩薩像である。 平成4年(1992)11月 台東区教育委員会 The Kuhon-ji Buddha The large statue of Buddha standing on the right hand side of the temple precincts is a seated image of the Amida Buddha in bronze.It is known as the "Kuhon-ji Daibutsu"(the Great Buddha of Kuhon-ji Temple). This statue was erected in 1660 as a memorial to those who deid in the great fire in Edo in 1657.It was Tenyo,the second chief priest of the temple,who collected votive offerings from the people of Edo to erect the statue.On the pedestal the names of people who contributed are engraved. The artist was Hasegawa Masutsugu,who was avtive from around 1658 to1672. 所在地 台東区花川戸2-4 花川戸公園 この花川戸公園は、昭和25年(1950)に台東区立の公園として開設され長く親しまれてきた。 昭和62年度、花川戸公園は園内の歴史的事物を大切に譲りながら、未来の人々にも愛されつづけられる公園になるよう整備された。公園東側の池は、この地に伝わる一の塚伝説の舞台である姥ヶ池を、公園の修景に配慮して表したものである。また、広場に配置された模様や絵タイルは、台東区の代表的な自然池と、それに深く関わりながら人々によって育み見守られて来た文化的な事物を表わしている。 公園内には『姥ヶ池跡』、『履物問屋街発祥の地碑』、『福壽稲荷大明神』、『助六歌碑』があります。 所在地 台東区花川戸2-4 (花川戸公園) 碑面には 助六に ゆかりの雲の 紫を 阿弥陀の利剣で 鬼は外なり 団洲 の歌を刻む。9世市川団十郎が自作の歌を揮毫したもので「団洲」は団十郎の雅号である。 歌碑は、明治12年(1879)9世市川団十郎が中心となり、日頃世話になっている日本橋の須永彦兵衛(通称榛彦)という人を顕彰して、彦兵衛の菩提寺仰願寺(現、清川1-4-6)に建立した。大正12年(1923)関東大震災で崩壊し、しばらくは土中に埋没していたが、後に発見、碑創建の際に世話役を務めた人物の子息により、この地に再造立された。台石に「花川戸鳶平治郎」、碑裏に「昭和33年(1958)秋再建 鳶花川戸桶田」と刻む。 歌舞伎18番の1つ「助六」は、2代目市川団十郎が正徳3年(1713)に初演して以来代々の団十郎が伝えた。ちなみに、今日上演されている「助六所縁江戸桜」は、天保3年(1832)上演の台本である。助六の実像は不明だが、関東大震災まで浅草清川にあった易行院(現、足立区伊興町狭間870)に墓がある。 平成11年(1999)3月 台東区教育委員会 BALLAD MONUMENT OF "SUKEROKU" The role of Sukeroku in the Kabuki play of the same name,which is one of the 18 classical pleces of Kabuki,has been played by the actors succeeding the name of Danjuro since Ichhikawa DanjuroⅡ played the role for the first time in 1713. The ballad momument was erected at the Koganji Temple in 1879 by DanjuroⅨ and other people in commemoration of a man called Sunaga Hikobei in Nihonbashi,who offered much back-up to DanjuroⅨ. It collapsed in the Great Earthquake of 1923 and was lerft buried for a long time.It was re-descovered,however, and was moved to this location thanks to the efforts of the sons of the caretakers at the time of the original erection of the monument. 所在地 台東区花川戸2-4 (花川戸公園) 履物問屋街発祥碑 内山栄一書 浅草履正会協同組合(50音順) 理事長発起人 田中亨 発起人 青山古 飯田晴太郎 市原茂 大黒辰夫 河原啓介 郷精一 佐藤政男 清水秀雄 鈴木彌一 関口紀男 富永憲司郎 西村義郎 練木守 長谷川浩 八田眞利 早川栄三 原戸愼一郎 松岡利明 松村敬一 松村初江 矢吹龍夫 山本衛 吉岡暢久 組合員 青木由美子 安達実 居波計夫 井村睦己 牛山博正 海老原守 大泉芳雄 大田原敬司 奥木健之亮 片岡輝治 金井利夫 川瀬香津美 木田登久子 杵渕三郎 小林義三 小鷲正俊 皿澤勇 清水重男 清水政男 清水八十吉 染谷忠太郎 高橋弘 田口勝男 辰巳壽平 壺川美知雄 中信夫 夏目仁 西村竹次郎 丹羽昇吉 貫名龍之助 根津善重 野地務 原戸誠二 藤沢武雄 藤平康吉 細島秀治 前田新蔵 町田聰明 松村孝 向山浩直 安田新作 安田隆 山口芳孝 山梨不二男 吉田清房 先人の偉業を顕彰 建立 平成2年(1990)6月5日 所在地 台東区橋場1-16-2 (福寿院) 東京都指定旧跡 安藤東野墓 昭和17年(1942)9月指定 江戸時代中期の儒学者。名は煥図、字は東壁、仁左衛門と称し、東野と号していた。元滝田氏といい、天和3年(1681)1月28日下野那須郡黒羽に生まれた。父大沼玄佐は医師として下野黒羽藩大関家に仕え、彼は次子であったが幼くして父を失い江戸に移った。ここで太宰春台とともに中野撝謙ぎけんの門に学び、後に安藤氏に養われ、これより安藤氏を称した。柳沢吉安に仕え萩生徂来に就いて詩文を学ぶ。たまたま将軍綱吉が柳沢邸に来た時講義したという。正徳元年(1711)29歳の時に致仕し駒込白山に隠居した。のち河内西代藩主本多忠統ただむねの賓師ひんしとなったが、肺を病み、享保4年(1719)4月13日37歳で死去した。著書「東野遺稿」は没後友人が編集して刊行したものである。 平成5年(1993)3月31日建設 東京都教育委員会 所在地 台東区橋場1-28-3 東京都指定旧跡 妙亀塚 この妙亀塚のある地は、かつて浅茅ヶ原と呼ばれた原野で、近くを奥州街道が通じていた。 妙亀塚は、「梅若伝説」にちなんだ名称である。「梅若伝説」とは平安時代、吉田少将惟房の子梅若が、信夫藤太という人買いにさらわれ、奥州へつれて行かれる途中、重い病にかかりこの地に捨てられ世を去った。我が子を探し求めてこの地まできた母親は、隅田川岸で里人かた梅若の死を知らされ、髪をおろして妙亀尼と称し庵をむすんだ、という説話である。謡曲「隅田川」はこの伝説をもとにしている。 塚の上には板碑が祀られている。この板碑には「弘安11年(1288)戌子5月22日孝子敬白」と刻まれており、区内でも古いものである。しかし、妙亀塚と板碑との関係は、明らかではない。 なお墨田川の対岸、木母寺(墨田区堤樋)境内には梅若にちなむ梅若塚(都旧跡)があり、この妙亀塚と相対するものと考えられている。 平成15年(2003)3月 台東区教育委員会 Myokizuka(Metropolitan Historical Site) This place marks the site where the Oshu Kaido Road once passed through the field of Asajigahara.Myokizuka taked its name from the Umewaka Legend.During the Heian Period(794-1192),the child of Yoshida Korefusa-Umewaka-was kidnapped by Shinobu no Tota.On the way to Oshu,Umewaka became very ill and is said to have passed away in this area.Looking for her child, Umewasa's mother came to this site where she learned of the youth's death from a villager.Legend has it that in order to grieve for her child's death the mother took holy orders with the Myoki hermitage.This is the subject of the Noh play Sumidagawa. There is a stone monument atop the burial mound.The date inscribed upon the tablet is the "May 22nd,1288 "making it one of the oldest historical sites in the Ward.However,the relationship between the burial mound and the stone monument is not quite clear. The Mokuboji Temple,still located on the opposite bank of the Sumida River (Sumida-ku,Tsutsumi dori),also has a burial mound "Umewaka"(Metropolitan Historical Site)named after Umewaka and it is thought to be related to this mound. 所在地 台東区橋場2-1 隅田川畔の橋場一帯は、風光明媚な地であり、かつては著名人の屋敷が軒を連ねていたという。対鷗荘(対鴎荘)もその1つで、明治時代の政治家三条実美(1837~1891)の別邸であった。 「征韓論」をめぐって、政府内に対立が続いていた明治6年(1873)の10月、太政大臣の要職にあった実美は心労のあまり病に倒れ、この別邸で静養していたが、明治6年(1873)12月19日明治天皇は病床の実美を気使い、この邸を訪れている。 隣りの碑は、この事跡を顕彰して、のち対鷗荘(対鴎荘)の所有者となった一市民の尽力によって建立されたものである。高さ3メートル余。側面に「昭和6年(1931)歳次辛末5月建立石井久太郎」、裏面に「多摩聖蹟記念館顧問中島利一郎謹撰 上条修徳謹書」の碑文が刻まれている。 対鷗荘(対鴎荘)は、昭和3年(1928)、白髪橋か教興寺に伴い、多摩聖蹟記念館(多摩市連光寺)に移築された。 平成7年(1995)3月 台東区教育委員会 REMAINS OF TAIOSO Taioso was the villa of sanjo Sanetomi(1837-1891),statesman in the Meiji Era.He fell ill in October of 1873 and rested quietly in this villa.the Emperor Meiji was very anxious about his health and visited this villa himself to comfort Sanjo.This monument was created by a citizen who owned the villa later to commemorate the Emperor's visit.The villa was relocated to the Tama-Seiseki-Kinenkan at Tama City to allow the construction of the Shirahige Bridge in1928. 所在地 台東区橋場2-5-3 (松吟寺) 橋場のお化け地蔵 「お化け地蔵」の名には、かつて大きな笠をかぶり、その笠が向きをかえたから、あるいは高さ3メートル余の並はずれて大きいからなど、いくつかの伝承がある。 この辺りは、室町時代以来、禅宗の名刹総泉寺の境内地であった。門前一帯を浅茅ヶ原といい、明治40年(1907)刊『東京名所図会』には「浅茅ヶ原の松並木の道の傍らに大いなる石地蔵ありしを維新の際並木の松を伐りとり、石地蔵は総泉寺入口に移したり」とあり、「当寺入口に常夜灯あり、東畔に大地蔵安置す」とも記している。 お化け地蔵の台石によれば、この石仏は享保6年(1721)の建立。関東大震災で2つに折れたが、補修し現在にいたっており頭部も取りかえられている。常夜灯は、寛政2年(1790)に建てられた。 総泉寺は、昭和4年(1929)板橋区へ移転した。「お化け地蔵」近くにある「元総泉寺境内諸仏供養の為」の碑は移転に際し建てられたものと思われる。 平成11年(1999)3月 台東区教育委員会 OBAKE(BOGY)JIZO Once upon a time this area was within the premises of Sosenji Temple.The bogy Jizo is located at a corner of the Sosenji Temple and initially it was called "baby-raising Jizo."But the jizo,an image in stone,had a large hat and a large height of more than 3m.So,some people said that the hat moved in derection,and then they used to call it obake(bogy)Jizo. According to the foundation stone of the Jizo,it is recorded that the Jizo was built in 1721 and broken into two pieces after the Great Kanto Earthquake but it was repaired with the head portion replaced. 所在地 台東区橋場2-22-2 平賀源内墓 平賀源内は享保13年(1728)、讃岐国志度浦(現香川県志度町)に生まれる(生年には諸説ある)。高松藩士白石良房の三男で名は国倫。源内は通称である。寛延2年(1749)に家督を継ぎ、祖先の姓である平賀姓を用いた。本草学・医学・儒学・絵画を学び、事業面では成功しなかったが、物産開発に尽力した。物産会の主催、鉱山開発、陶器製造、毛織物製造などをおこない、エレキテル(摩擦起電機)を復元製作、火浣布(石綿の耐火布)を発明した。一方で風来山人・福内鬼外などの号名をもち、「風流志道軒伝」などの滑稽本や、浄瑠璃「神霊矢口渡」などの作品を残している。 安永8年(1779)11月に誤って殺傷事件を起こし、小伝馬町の牢内で12月18日に病死、遺体は橋場の総泉寺(曹洞宗)に葬られた。墓は角塔状で笠付、上段角石に「安永八己亥十二月十八日 智見霊雄居士 平賀源内墓」と刻む。後方に従僕福助の墓がある。 総泉寺は昭和3年(1928)板橋区小豆沢へ移転したが、源内墓は当地に保存された。昭和4年(1929)に東京府史蹟に仮指定され、昭和6年(1931)には松平頼壽が(旧高松藩当主)により築地塀が整備される。昭和18年(1943)に国指定史跡となった。 平成17年(2005)3月 台東区教育委員会 Tomb of Hirag Gennai(National Historical Site) Hiraga Gennai was a scholar and author who lived in the middle of the Edo period (1728 to 1779).Although he was not a particuarly successful businessman,he made various inventions and took part in development of products for various purposes,including exploitation of mineral resources,production of ceramics and woolengoods.On the other hand,he did leave several literary works behind,such as books and dramas.He committed a murder in November 1779 and deid of illness in a prison on December 18.His body was buried in the Sosenji Temple that was situated in this area.The Sosenji Temple was moved to Azusawa in Itabashi-ku,Tokyo,in 1928,but the tomb of Gennai remained preserved in this area and was designated a national historical site in 1943. 所在地 台東区橋場2 ・ 荒川区 ~ 墨田区 白鬚橋 白髭しらひげの名は、天暦5年(951)創建の縁起のある向島の白髭神社に由来している。 古来、梅若伝説で知られる渡船場もこの辺りにあり、のちには舟の浮橋などもかけられたという説もある。 ここを、「船場の渡し」といったのは、このゆかりの名であり、交通の要地であったことを示している。 大正3年(1914)には、地元の住民によって会社が設立され、有料の木橋がかけられた。 関東大震災(1923)を経て、復興事業の一環として、昭和6年(1931)に重量感溢れるアーチ橋として かけかえられた。その後、東京大空襲などにも他の橋とともに多くの人を救う役割を果たした。 現在も、荒川区・墨田区・台東区の3区を結ぶ重要な橋である。
昭和58年3月 東京都
所在地 台東区元浅草1-6-22 (白鷗高等学校) 台東中学校跡碑 沿革 昭和22年(1947)4月1日 新制中学校として都立第一女子高等学校(現都立白鷗高等学校)内に設置 昭和22年(1947)5月7日 第1回新入生165名で開校式並びに入学式を挙行 昭和24年(1949)4月11日 旧新堀小学校校舎を修復し授業を開始する 平成14年(2002)3月25日 台東区立台東中学校閉校式54年の歴史を終える 台東区教育委員会 所在地 台東区今戸1-5-22 今戸神社 東京下町 八社福参り 縁結び 今戸神社は元今戸八幡宮と称し、後冷泉天王の時代康平6年(1063)源頼義、義家父子は勅命に依り奥州の夷賊安太夫安倍貞任、宗任を討伐の折今戸の地に到り、京都の石清水八幡を鎌倉鶴ヶ岡と浅草今津村(現今戸)に勧請しました。 應神天皇の母君神功皇后は新羅を始め三韓親征の際、時恰も天皇を宿されその帰路天皇を九州筑紫で誕生されました。 従って應神天皇を別名胎中天皇・聖母天皇とも称し、安産子育ての神と崇敬されております。 伊弉諾尊・伊弉冉尊御夫婦の神は加賀の白山比咩神社の御祭神にして、嘉吉元年(1441)千葉介胤直が自分の城内に勧請しました。 諾冉ニ神は子孫の繁栄を与えられると共に縁結びの神と崇敬されております。 昭和12年(1937)今戸八幡と合祀され今戸神社と改称されました。 今戸の地名は古くは武州豊島郡今津村と称し、その後今戸(別名今都)となりました。 |
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永山
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