東京都台東区の歴史
× [PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。 所在地 台東区上野公園2-1 (上野恩賜公園 弁天島) 長谷川利行碑 ・1891年(明治24年) 7月9日京都に生まれる。 ・1921年(大正10年) 上京・博文館にて生田蝶介を知り小説を発表。岩田専太郎、矢野文夫等を知る。 ・1923年(大正12年) 関東大震災起こる。震災を歌った歌集「火岸」を発行、京都に帰る。 ・1926年(大正15年) 再び上京、日暮里の寺に住む。第7回帝展に「廃道」入選。第13回二科展に「田端変電所」發入選。 ・1927年(昭和2年) 第14回二科展に「酒売場」「麦酒室」「鉄管のある工場」入選、樗牛賞を受賞。 ・1928年(昭和3年) 里見勝蔵・藤川栄子・靉光・井上長三郎・麻生三郎・吉井忠・寺田政明等後の自由美術家協会の画家達を知る。 ・1932年(昭和7年) 浅草今戸に仮住まい。浅草・千住・三河島・荒川放水路界隈を放浪す。天城俊彦(高崎正男)を知る。 ・1936年(昭和11年) 新宿・天城画廊で個展5回開催する。 ・1937年(昭和12年) 伊豆大島に遊ぶ。天城画廊で個展10回、喫茶店「エルテル」等で数回開催。二科展を去る。 ・1939年(昭和14年) 胃潰瘍に苦しむ。千葉県太海・勝浦に写生旅行。 ・1940年(昭和15年) 三河島救世軍宿泊所に住む。 5月17日、三河島駅付近の路上で倒れ、行路病者として東京市立養育院板橋本院に収容される。 10月12日胃癌で死去、満49歳。遺品類(絵も含む)すべて焼却される。 ・1969年(昭和44年) 熊谷守一先生・洋画家揮毫の「長谷川利行碑」、有島生馬先生・洋画家揮毫の■■台東区不忍池弁天島に建立さる。10月15日羽黒洞主催の除幕式行われる。 正像院利行日描居士 羽黒洞主催遺作展数回開催 「養育院第五病室ニ胃ノ手術デ居リマス。午前中二一度ミニ来テ下サイ。詩集一冊下サイ。午後三時頃デモ何時デモオロシイノデス。(至急来テクレナイト死亡スル、動ケナイノデス)。市電板橋終点ヨリ二丁ホドノ処デス。何カ見学ニナルデシヤウ。氷サトウ、ゴマ塩一ケ忘レズニ持ッテ来テ下サイ。オ願ヒシマス。何カ甘イ菓子一折リ下サイ。死別トシテ。」 矢野文夫宛 長谷川利行 出 昭和15年(1940)10月12日 満49才没 人知れず 朽ちも果つべき身一つの いまがいとほし 涙拭わず 己が身の影もとどめず 水すまし 河の流れを 光りてすべる 利行短歌 PR |
町名
サイト内検索
アクセス解析
プロフィール
HN:
永山
性別:
男性
|