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東京都台東区の歴史
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所在地 台東区上野公園14

両大師
 このお堂には慈恵大師(良源大僧正)と慈眼大師(天海大僧正)をお祭りしている。
 正保元年(1644)、寛永寺開山天海僧正の像を安置する堂として建立。天海僧正は慶安元年(1648)朝廷より慈眼(じげん)大師の諡号(しごう、没後に与えられる号)をうけたため、「開山堂」または「慈眼堂」と称した。
 その後、天海僧正が最も尊敬した平安時代の高僧慈恵大師良源の像をも安置したため、慈眼大師天海とともに一般には”両大師”と呼ばれるようになった。
 天海僧正の像は木造の坐像で、寂後まもなく制作され、多くの天海像の中でも優れたものの1つ(東京都指定有形文化財)。良源を描いた「元三大師画像」は、室町時代初期の制作。優れた画風を有し、江戸庶民の信仰を受けてきた(台東区指定有形文化財)。
 また、江戸時代初期の銅鐘・銅燈籠が現存。いずれも、国の旧重要美術品である。
 平成6年(1994)3月 台東区教育委員会



       RYODAISHI(TWO SAINTS)
 The Ryodaishi was first built in 1644 to commemorate two saintly monks who were called the high priests Ryogen in the 10th century and Tenkai in the early 17th century (Tenkai opened the Kan-eiji Temple in his time.)The statues of thise two Saints are enshrined here,and thus the name,Ryodaishi (that means two Saints)was given.These two Saints performed many meritorious deeds throughout their lifetimes and after their deaths,the Imperial Court awarded them a single title"Daishi"and observed the many contributions to the development of Japanese Buffhidm.



1、慈恵大師小史
 慈恵大師(良源大僧正)(912~985)は学徳行業が秀でて当時の仏教界に大師と肩をならべる僧はなく特にその学識は後世比叡山から輩出した鎌倉仏教の各祖師に強く影響したので比叡山中興の祖を称する大師のすぐれた学識を示したものに仏教史上で有名な応和問答がある。これは応和3年(963)に村上天皇が法華経書写の供養のために宮中の清凉殿で開かれた法華論義(法華経討論会)で大師は奈良仏教の巨匠といわれた法蔵を論破した。法蔵は大師を評して釈尊の弟子の富楼那尊者のように雄弁家である。とうてい自分の及ぶところでないと述べている。これについて大師の弟子恵心僧都(942~1017)の著述によると大師の雄弁は仏教論理学に基礎を置く大師独特の新祭明のもので論理学の本家である奈良仏教の学者がいっこうに及びもつかなかったものであるとのべてある。しかも、この恵心僧都の書かれた書物(四相違略註釈)は唐時の支那(中国)に贈られて仏教論理学者をおどろかせたという伝説がある位である。大師はその優れた学徳によって村上・一条・円融の三天皇の特別な御帰依があって慈恵大師の謚号を賜わったが宮中に参内しては密教の霊験をしばしばあらわされたのである。その霊験とは、天元4年(981)8月円融天皇が御病気になられたとき大師が参内すると忽ち平癒したと伝記にあり、また宮中で大師が護摩供を修すると大師が不動明王と同じ姿になったと伝えられる。そのほか大師が疫病神を降伏して自ら夜叉の姿になったということから今日でもその御影像を写して厄除角大師と申して尊崇しおまつりしているのである。そのほか大師の厄難消除・福願与時の御利益は数多く伝えられているが中でも大師の威力を現わしたことは天海大僧正が三代将軍家光公の靖によって世嗣安産を祈願するにあたって天海大僧正は民部法眼筆の慈恵大師御影像を寛永寺まつって大師の霊験を祈祷したところその効験があって後に四代将軍となった家綱公が誕生したのである。それより将軍家の信仰を得たばかりでなく江戸市民もこれを聞きつたえて子授け大師とよび信仰するようになった。
 永観3年(985)正月3日に入寂されたので元三大師とも申して今日でも大師えの信仰は東叡山をその発祥地として広く関東一円に行なわれている。



2、慈眼大師小史
 天海大僧正(1535~1643)は寛永寺開山、東叡・日光両輪王寺の開基であり、神儒仏の三教にわたってその神髄を会得された高僧である。
 大僧正は天正18年(1590)徳川家康公と相識り江戸幕府が開かれるや仏教による平和政治を献言し治国平点火の祈願寺として、また源平依頼の戦乱犠牲者の冥福を追善する東叡山寛永寺を勅許により寛永2年(1625)に創建して開基となった。この寺名は天台宗祖伝教大師が比叡山を拓いて延暦寺を建て国家鎮護の道場とされたことにならわれたもので関東の比叡山という意味である。
 また大僧正は将軍が江戸に住み政治の中心となったと同じく東叡山を宗教の中心地として永く泰平の基礎を確立するため正保4年(1647)後水尾天皇第三皇子尊敬法親王(後に守澄と改む)を勅許によってお迎えして輪王寺門主と申しあげ、法親王は天台宗を管領して比叡東叡日光の三山を統轄せられることとした。戊辰の役(1868)は第13世厘王子宮公現法親王(後の北白川能久親王)のときである。
 これより先、大僧正は元和2年(1616)4月17日家康公の死にあい、遺命で葬儀の導師を勤めたが翌元和3年(1617)家康公に山王一実神道による東照大権現の神号を賜わり日光に東照宮を建てて奉祀した。日光山の今日あることは大僧正の偉業の一つである。
その他大僧正の遺業として特筆されるものに織田信長公によって焼土となった比叡山諸堂宇の再興があり、また天海版といって珍重される大蔵経の開眼がある。なかでもこの上野に桜樹を吉野山から移植されたことや不忍池を蓮の名所としたことは吾人の忘れてならないことである。
 大僧正は108歳の長寿を保って寛永20年(1643)10月2日東叡山で遷化されたのでその御遺徳を追慕して翌正保元年(1645)に慈眼堂が建てられ、また大僧正が生前とくに「われなきあとは慈恵大師の御影と共に天海をまもり万人に利益を授けん」と語られた因縁により慈恵大師を併せておまつるし日々不退に御供養することは変わらない。慶安元年(1648)後光明天皇から慈眼大師の謚号を宣下された。
 大僧正作の下の歌にあやかりたいものである。
  気は長く つとめは堅く 色うすく 
          食ほそうして 心ひろかれ

  長命は 粗食 正直 日湯 陀羅尼 
          おりおりご下風 あそばさるべし

誠心もって両大師の御前にぬかずかれ 無限の福徳を得られんことを

  付記
いま社寺で行われているみくじは慈恵大師の創作をもととし前述のように慈眼大師が慈恵大師を尊信して夢中に得たものと御伝記にある
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