東京都台東区の歴史
× [PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。 所在地 台東区浅草7-1 (隅田公園) 竹屋の渡し跡 隅田川にあった渡し舟のひとつ。山谷堀口から向島三囲神社(墨田区向島2丁目)の前あたりを結んでいた。明治40年(1907)刊『東京案内』には「竹屋の渡」とあり、同年発行『東京市浅草全図』では山谷堀入口南側から対岸へ船路を描き「待乳ノ渡、竹家ノ渡トモ云」と記しており、「竹屋の渡」とも、あるいは「待乳の 渡」とも呼ばれたようである。「竹屋」とは、この付近に竹屋という船宿があったためといわれ、「待乳」とは待乳山の麓にあたることに由来する。 「渡し」の創設年代は不明だが、文政年間(1818~1830)の地図には、山谷堀に架かる「今戸はし」のかたわらに「竹屋のわたし」の名が見える。 江戸時代、隅田川をのぞむ今戸や橋場は風光明媚な地として知られ、さまざまな文学や絵画の題材となり、その中には「竹屋の渡し」を描写したものも少なくない。 昭和3年(1928)言問橋の架設にともない、渡し舟は廃止された。 平成14年(2002)3月 台東区教育委員会 The Ferry of Takeya The Ferry of Takeya,also called the Ferry of Matsuchi,was one of the many ferries operating on the Sumida River.It connected Sanyabori and Mukojima Mimeguri Shirine.The name Takeya is said to have been derived from the name of an inn in Sanyabori.The name"Matsuchi"came from the location of the ferry,which was below Matsuchi-yama Shoden.It is unkown when the ferry service actually began,but the business continued until the Kototoi-bashi Bridge was constructed in the early Showa Era. PR |
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永山
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