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東京都台東区の歴史
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所在地 台東区浅草2-3-1 (浅草寺)

 第二次世界大戦末期ソ連参戦で混乱状態となった中国東北部(旧満州)で避難行の末命を落とした日本人の数は二十万人を超えると云われています。

 酷寒の曠野を逃げ惑うの母子が生別れとなったり飢えや疫病に苦しみながら亡くなるなどその悲劇は数知れません。
 犠牲となられた母子の霊を慰め、また、いまだ再会かなわない親と子の心のよりどころとして二度と戦争という過ちを繰り返さない事を祈念しつつここに、母子地蔵を建立いたしました。
 1997年4月12日
  
願主    千野誠治
  
デザイン  ちばてつや
  
文字    森田拳次
     まんしゅう地蔵建立委員会
     まんしゅう地蔵建立応援団
     中国残留孤児援護基金

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所在地 台東区浅草7-4-1

 待乳山聖天(まつちやましょうでん)は、金龍山浅草寺の支院で正しくは、待乳山本龍院という。その創建は縁起によれば、推古天皇9年(601)夏、早魃のため人々が苦しみ喘いでいたとき、十二面観音が大聖尊歓喜天に化身してこの地に姿を現し、人々を救ったため、「聖天さま」として祀ったといわれる。



 ここは隅田川に臨み、かつての竹屋の渡しにほど誓い小丘で、江戸時代には東都随一の眺望の名所と称され、多くの浮世絵や詩歌などの題材ともなっている。とくに、江戸初期の歌人戸田茂睡の作、

  哀れとは夕越えて行く人も見よ
       待乳の山に残す言の葉

の歌は著名で、境内にはその歌碑(昭和30年〔1955〕再建)のほか、石造出世観音立像、トーキー渡来の碑、浪曲双輪塔などが現存する。また、境内各所にほどこされた大根・巾着の意匠は、当寺の御利益を示すもので、大根は健康で一家和合、巾着は商売繁盛を表すという。1月7日大般若講大根祭には多くの信者で賑わう。



 なお、震災・戦災により、本堂などの建築物は焼失、現在の本堂は昭和36年(1961)に再建されたものである。
 平成11年(1999)3月 台東区教育委員会
 


 境内には『銅造宝篋印塔』、『築地塀』、『出世観音像』、『リー・デ・フォーレスト博士の碑(トーキー渡来之碑)』、『糸塚』、『歓喜地蔵尊』、『戸田茂睡歌碑』があります。



     MATSUCHIYAMA SHODEN
 Matsuchiyama Shoden is one of the subordinate temples of Kinryusan Sensoji Temple.Its proper name is Matsuchiyama Honryuin.
 Located alongside the Sumida River and near the Takeya Ferry.It was called a noted place featuring a good view in the Edo Era.Here there are many Nishikie prints of the Edo Era and poems by famous men of letters and painters like Toda Mosui dealing with the scenary of this place.Its main building was destroyed in the Great Earthquake of 1923 and the Seconed World War,but it was rebuilt in 1961.
 Radishes seen in its compounds are known as the symbol of health and family harmony while purses represent commersial success.


所在地 台東区浅草7-4-1 (待乳山聖天)

リー・デ・フォーレスト博士は明治6年(1873)米国アイオワ州に生れ無線電信電話の開拓者として三百有余の特許権を得ラジオの父と仰がる。大正12年(1923)更にトーキーを発明。紐育市に於て上映世人を驚かせ在り。大正13年(1924)故高峰譲吉博士令息エヴエン氏来朝の際、余親しくその詳細を聴きて将来に着目す。翌年渡来、博士の行為により東洋におけるトーキーの製作及び配給権を獲得したり。依て米人技師を帯同帰国、大正14年(1925)7月9日宮中に於て天皇皇后両陛下の天覧に供し各宮電化の御覧を仰ぎたる後一般に公開せり。トーキーの我が国に招来されたる之を以て初めとす。以来余、我国におけるトーキーの製作を企図し、日本人技師をフォーレスト博士の許に派して技術を習得せしめ余の渡米もまた前後九回に及べり。大正15年(1926)大森撮影所において撮影を開始し、ミナトーキーの名を冠して黎明、素襖落、大尉の娘等の劇映画を完成す。これ我国におけるトーキー製作の濫鬺なり。雨来トーキーは日進月歩、昭和3年(1928)の衆議院議員普通選挙には時の田中首相及び三土、山本、小川の各閣僚が自ら画中の人となりて政見を発表する等の普及発達をみたる外ミナトーキーは上海を始め東洋各地にも大いに進出するに至れり。今やトーキー我国に渡来してより三十年を閲するもフォーレスト博士の発明形式は依然として世界各国に踏襲さる。博士の業蹟偉大なりというべし。加うるに我国テレビジョンの発足もまた実に博士の力に依れり。昭和23年(1948)、フォーレスト博士は極東軍総司令官マッカーサー元帥を介して日本におけるテレビジョンの創設を慫慂したり余正力松太郎氏にその意を伝う。正力氏夙にテレビジョンの創設に意あり。フォーレスト博士の勧奨を機とし、氏独自の構想の下にテレビジョンの実現に努力し遂に昭和27年(1952)テレビジョン電波許可第一号を受け、日本テレビ放送網株式会社を創立し余もまた役員に加わる。翌昭和28年(1953)8月30日日本における最初の電波を出せり。これ偏に正力氏の業蹟に依ると雖もまたフォーレスト博士の日本への友情に基くものというべく吾人の感謝措く能わざるところなり。
今日トーキーの普及発達は実に目覚しく、テレビジョンの普及もまた瞠目に値す。フォーレスト博士の文化に貢献する処絶大なりというべし、茲に余の旧縁の地待乳山の名蹟をトして碑を建てトーキー渡来の由来とテレビジョン早世の縁由を刻して博士の功績を讃え併せて報恩の微意を表す。
 昭和31年(1956)5月吉日  建碑者 皆川芳造


所在地 台東区浅草7-4-1 (待乳山聖天)

数度の火災に遭いその尊容とどめていないが古来より子育地蔵として伝承され、霊顕あらたかな尊として信仰されている


所在地 台東区浅草7-4-1 (待乳山聖天)

茂睡は元禄の頃活躍した歌人で、歌道の革新を唱えた、江戸最古の歌碑と称されたが、戦火に遭い昭和30年(1955)拓本をもとに再建された



紫の一もとをもみしてゆかり深き江戸の名勝をたゝへ梨本集を著して近世歌学み魁■なしゝ元禄の歌人とだ茂睡翁は浅草に住みこの待乳山乃風光をめでゝ御堂の傍よ歌碑を建てたりき
その石■にそこなはれし■寛政9年(1797)姪孫櫛分規貞石室をつくりて三面を覆ひたりしが昭和20年(1945)3月戦災にあひて殆ど湮滅に及びぬここより本龍院住職平田真徳師光住乃息横田真精師等発起して再興をはかり今年翁の二百五十年忌に■石再び新たに成れりかくれづの翁かくり世にして喜びほゝえみてあらむ
  とこしへよかれじくちせじ霊ごもる
   まつちの山乃やまと言の葉
 昭和30年(1955)4月14日
  日本藝術院会員 佐佐木信綱撰 芳翠英書



所在地 台東区浅草7-4-1 (待乳山聖天)

  十一世杵屋六左衛門(後に三世杵屋勘五郎)建立
この糸塚は元治元年(1864)十一世杵屋六左衛門が父十世杵屋六左衛門の遺志に依り供養の為建立せるものにして十世六左衛門三世勘五郎共に長唄三絃の名人と云われた人である
 昭和63年(1988)4月 六世杵屋勘五郎記


所在地 台東区浅草7-4-1 (待乳山聖天)

昭和11年(1936)境内整地のおり御頭のみが出土され足利末期(1600年頃)の作と鑑定された学業芸道に志す者の尊信をあつめている



所在地 台東区浅草7-4-1 (待乳山聖天)

江戸時代の名残をとどめる唯一のもので貴重な文化財である、全長二十五間(45.5メートル)広重の錦絵にも描かれている



所在地 台東区浅草7-4-1  (待乳山聖天)


  銅造宝篋印塔(台東区有形文化財)
 宝篋印塔は「宝篋印陀羅尼経」という経典に基づいて造立された塔である。本塔は江戸時代中期以降に流行した、屋根型の笠をもつ宝篋印塔で、時代性をよく表している。基礎に刻まれた銘文から、天明元年(1781)に鋳物師西村和泉守が製作し、蔵前の札差等16名が奉納したものであることが分かる。西村和泉守は、江戸時代から大正時代にかけて、十一代にわたり鋳物師を務めた家で、本塔の作者は五代西村政平にあたると考えられる。
 銅造の宝篋印塔は全国的にも類例が少なく、特に区内では造立当初からほぼ完全な形で遺された唯一の事例である。各部の装飾は優れており、鋳物師の高い技能を知ることができる。また、蔵前の札差の奉納物としても貴重な歴史資料である。
 平成14年(2002)に台東区有形文化財として台東区区民文化財台帳に登載された。
 平成19年(2007)3月  台東区教育委員会

     Bronze Hokyoin-to (Cultural Asser of Taito City)
 Hokyoin-to refer to Buddhist pagodas constructed based on a sutra called Hokyoindarani-kyo.This particular pagoda has a roof style cover,popular after the latter half of the 18th century,making it very representative of the age it was built in.According to the inscription carved into the foundation,it was built by the caster Nishimura Izuminokami in 1781,and was a donation by 16 fudasashi(rice brokers/users)in Kuramae.The Nishimura Izumino-kami was a family of casters that lasted for 11 generations. This pagoda is thought to have been built by Nishimura V,Nishimura Masahira.
 Hokyoin-to made of btonze are a rarity in Japan.This pagoda is the only one in Taito city that has been preserved almost in its original condetion.It is marked by fine decorations on its various parts,and is an excellent example of the high level of skill of the caster. 

 



所在地 台東区浅草2-14

浅草凌雲閣記念碑

 1890年(明治23年)11月27日。この地、台東区浅草2丁目14番5号辺りに浅草凌雲閣(通称:十二階)が完成。設計は東京の上水道設計者でもある英国人ウィリアム・K・バルトンが担当。当時としては超高層の八角形12階の建物で、1階から10階までが煉瓦積、11・12階が木造で、屋根には風見の付いた避雷針がのり、8階までは日本で最初の電動エレベーターを設置、各階には凡そ50の店が軒をつらねた。最上階の12階には30倍の望遠鏡が設置され、隅田の流れからお台場を映し品川沖の海、遠くは筑波、秩父の山々が望めたとされる。観覧料は大人8銭(現在の約700円)子供4銭であったが高所から東京を一望しようという人が押し寄せ、東京随一の観光名所となった。開業から33年の1923年(大正12年)9月1日の関東大震災で破壊され、その幕を閉じた。
 明治・大正の33年間、多くの人達にときめきと感動をあたえ、一世を風靡し浅草の振興に貢献した浅草凌雲閣、その跡地に記念碑を設立し後世に記録として残します。
  凌雲閣史蹟保存の会



凌雲閣 高さ:173尺(約52m) 明治23年(1890)~大正12年(1923)
 

 日本で一番高かった登高遊覧場
江戸時代という封建社会においては、庶民が支配階級よりも高い建物を建てることは厳しく禁止されていました。高場所から見下ろすという行為が強大な権力を象徴する特別なものとされていたからです。
明治に入って禁制が解かれると、こうした眺望を売りにした登高遊覧施設が相次いで登場してくるようになります。それらはまさに庶民の高みへの憧れを強く刺激するものでした。
こうした登高遊覧場ブームのピークを飾って登場してきたのが「凌雲閣」でした。
発起人は新潟長岡の生糸貿易商、福原庄七という人物で、1889年(明治22年)に完成したパリのエッフェル塔を実見したとも言われています。



所在地 台東区浅草3-33-5 (浅草三業会館)

記念樹           平成16年9月9日


2004年アテネオリンピック女子レスリング72㎏級メダリスト、浜口京子選手の功績を讃え、オリーブの木を記念樹として植樹いたします。
   オリーブの木(平和の象徴)
 浜口京子ピロフィール
生年月日  1978年1月11日
出身地    東京都

身長     170cm
1997年(フランス)  世界選手権75㎏級 優勝
1998年(ポーランド) 世界選手権75㎏級 優勝
1999年(スウェーデン) 世界選手権75㎏級 優勝
2002年(ギリシャ)  世界選手権72㎏級 優勝
2003年(アメリカ)   世界選手権72㎏級 優勝
2004年(ギリシャ)  アテネ五輪72㎏級 銅メダル
 浅草3丁目象一町会  浅草おかみさん会


所在地 台東区浅草3-33-5 (浅草三業会館)

2008年北京オリンピック
レスリング女子フリースタイル72kg級
浜口京子選手
銅メダル獲得記念樹 オリーブ
平成20年10月29日植樹
台東区


所在地 台東区浅草3-39-10 

宮戸座跡之碑

 宮戸座は、明治29年(1896)9月開場、座名は隅田川の古稱”宮戸川”にちなんだ。関東大震災で焼失後、昭和3年(1928)11月この地に再建。昭和12年(1937)2月廃座。ここの舞台で修業しのち名優になった人々は多い。東京の代表的小芝居だった 大歌舞伎に対し規模小さな芝居を小芝居と呼んだ。
 昭和53年(1978)6月24日 台東区教育委員会


所在地 台東区浅草3-39-10

松尾芭蕉象潟の句碑

 江戸時代に現秋田県本荘藩主であった六郷公が、この浅草に下屋敷を構えたとき、その下屋敷付近の町に、六郷公地元の景勝地「象潟九十九島」にちなみ、「象潟町」と名付けました。
 このことにより、平成5年(1993)7月22日に秋田県象潟町と台東区馬道地区町会連合会との間で「姉妹地」の盟約が締結されました。そして、今年が締結10年目にあたり、江戸開府400年目でもあります。
 江戸文化の偉大なる俳聖「松尾芭蕉」が旅した「おくのほそ道」で秋田県象潟を訪れ、雨に煙る九十九島、八十八潟の絶景を中国の美女「西施」の憂いに満ちた姿と重ね合わせた素晴らしい句を残しております。
 象潟や 雨に西施が ねぶの花
 当浅草象潟地域と秋田県象潟町との強い「姉妹地」の関係は永久のものであり、末永い交流により相互の発展に寄与するとともに、江戸文化の復興とその継承を図るため、この句を石碑として浅草の地に建立したものです。
 平成15年(2003)7月20日
 台東区 馬道地区町会連合会 秋田県象潟町



所在地 台東区浅草5-3-2

浅間神社
(浅草のお富士さん・台東区有形民俗文化財)

 浅間神社は、富士山への信仰に基き勧請された神社で、神体として「木造木花咲耶姫命坐像」を安置する。
 創建年代は不明だが、『浅草寺志』所収「寛文11年江戸絵図」に表記があり、江戸時代初期の寛文11年(1671)までには鎮座していたようである。現在の鎮座地は、約2メートルほどの高みを成しているが、忠誠から江戸初期にかけて、関東地方では人口の塚、あるいは自然の高みに浅間神社を勧請する習俗があったとされており、当神社の立地もそうした習俗に基くものと思われる。
 江戸時代には浅草寺子院修善院の管理のもと、修験道による祭祀が行われ、江戸を代表する富士信仰の聖地として、各所の富士講講員たちの尊崇を集めた。明治維新後は浅草寺の管理を離れ、明治6年(1873)には浅草神社が社務を兼ねることとなり、現在に至っている。
 本殿は、平成9年(1997)、平成10年(1998)の改修工事によって外観のみ新たに漆喰塗がほどこされたが、内部には明治11年(1878)建築の土蔵造り本殿が遺されている。さらに、この改修工事に伴う所蔵品調査により、江戸時代以来の神像・祭祀用具・古文書などが大量に確認された。
 これら、本殿・諸資料群・境内地は、江戸時代以後の江戸・東京における富士信仰のありさまを知る上で貴重であり、平成11年(1999)3月、台東区有形民俗文化財に指定された。
 祭礼は、毎年7月1日の「富士山開き」が著名で、また、5、6月の最終土・日曜日には植木市が開催されている。
 平成12年(2000)3月 台東区教育委員会




                       Sengen Shrine
 Sengen shrine is a shrine based on the faith for Mt.Fuji and built in numerous places in  the Kanto and Tokai Regions.
 This particular Sengen shrine was built by the year 1671,and worships the god Konohanasakuyahime(goddess).From the 18th to the 19th centuries,a Mt.Fuji faith group(Fuji-ko)was organized in all parts of Edo.However,many Fuji-ko followers gathered at this shrine,and it vecame famous as the Sengen shrine representing Edo.
 During the Plant Festival held on the last Saturdays of May and June,and during the"Mt.Fuji Opening "on July 1,even now many followers go on pilgrimages to this shrine.
 The current main shrine building was reconstructed in 1998,but the inner shrine,which was constructed in 1878 in a storage house,style was left intact.Also,in the shrine are many items,including such things as figures of gods,articles of worship,and antique documents.At any rate,the Mt.Fuji faith after the 18th century has been recognized  as being very valuable and was designated a Taito City Folklore Cultural Asset in 1999.

                                        浅草猿若町碑

所在地 台東区浅草6-19-4

  猿若三座
 天保期、1丁目に中村座、2丁目に市村座、3丁目に河原崎座(のち守田座となる)があってわが國始めての芝居町を形成していた。
これがいわゆる猿若三座である。猿若は江戸役者の始祖猿若勘三郎に因んだ甼名で江戸歌舞伎の王國としてこの地は華美を誇り、殷賑を極めたのである。


所在地 台東区浅草6-4-12

江戸猿若中村座跡

 中村座の定式幕は、左から「白」「柿色」「黒」三色の引幕であった。
 「白」は、幕府から特に許されて中村座だけが使用していた。




  猿若三座由来記
天保期、1丁目に中村座、2丁目に市村座、3丁目に河原崎座(のち守田座となる)があってわが國始めての芝居町を形成していた。
これがいわゆる猿若三座である。猿若は江戸役者の始祖猿若勘三郎に因んだ甼名で江戸歌舞伎の王國としてこの地は華美を誇り、殷賑を極めたのである。


所在地 台東区浅草6-18-13

  江戸猿若町市村座跡碑

市村座の定式幕は、左から「黒」「萌葱(緑)」「柿色」三色の引幕であった。
現在、国立劇場が同じ定式幕を使用している。

  猿若三座由来記
天保期、1丁目に中村座、2丁目に市村座、3丁目に河原崎座(のち守田座となる)があってわが國始めての芝居町を形成していた。
これがいわゆる猿若三座である。猿若は江戸役者の始祖猿若勘三郎に因んだ甼名で江戸歌舞伎の王國としてこの地は華美を誇り、殷賑を極めたのである。
 昭和39年(1964)11月之を建つ


所在地 台東区浅草6-26-11

  江戸猿若町守田座跡碑
猿若町は江戸役者の始祖猿若勘三郎の名に因んだ町名であり天保13年(1842)以来、昭和41年(1966)10月住居表示制度の実施に到るまで続いた町名である。
1丁目に中村座、2丁目に市村座、3丁目に河原崎座(のち守田座となる)があって明治初期までは江戸歌舞伎を中心に華美殷賑を極めたわが国芸能文化の歴史に一頁を刻んだ処である。
 昭和52年(1977)5月 大正13年(1924)以来の3丁目住人 ■原周一郎之を建つ


所在地 台東区浅草7-1 (隅田公園)

 花の碑

春のうららの隅田川 のぼりくだりの舟人が・・・
 武島羽衣作詞・滝廉太郎作曲「花」。本碑は、羽衣自筆の歌詞を刻み、昭和31年(1956)11月3日、その教え子たちで結成された「武島羽衣先生歌碑建設会」によって建立された。
 武島羽衣は、明治5年(1872)、日本橋の木綿問屋に生まれ、赤門派の詩人、美文家として知られる人物である。明治33年(1900)、東京音楽学校(現、東京芸術大学)教授である武島羽衣と、同校の助教授、滝廉太郎とともに「花」を完成した。羽衣28歳、滝廉太郎21歳の時であった。
 滝廉太郎は、作曲者として有名な人物であるが、よく知られているものに「荒城の月」「鳩ぽっぽ」などがある。「花」完成の3年後、明治36年(1903)6月29日、24歳の生涯を閉じた。
 武島羽衣はその後、明治43年(1910)から昭和36年(1961)退職するまでの長い期間、日本女子大学で教鞭をふるい、昭和42年(1967)2月3日、94歳で没した。
 手漕ぎ舟の行き交う、往時ののどかな隅田川。その情景は、歌曲「花」により、今なお多くの人々に親しまれ、歌いつがれている。
 平成11年(1999)3月 台東区教育委員会

                MONUMENT OF "HANA"
 The monument of "HANA"was built in honor of Takeshima Hagoromo,a songwriter and professor,by former students in 1956.He wrote a famous Japanese song titled "HANA",which lyrically expressed the beauty of the Sumida RIver;it starts"Sumida flowing through the warmness of spring time while many people on boats moving upstream and downstream are enjoying the spring and nature."
 Composer of this song was Taki Rentaro,an assistant prefessor of Tokyo Music School(presently Tokyo National University of Fine Arts and Music),and Hagoromo also became the prefessor in the same school(Tokyo Music School)in 1897.Both of them worked together and completed the song "HANA".
 Hagoromo was born inthe family of a cotton cloth wholesaler in Nihonbashi in1872.He became a scholar on Japanese literature and was also known as a writer with an expressive lyrical style.
 The monument has his own writing copied and  sculptured on the stone.


所在地 台東区浅草7-1 (隅田公園)

竹屋の渡し跡
 隅田川にあった渡し舟のひとつ。山谷堀口から向島三囲神社(墨田区向島2丁目)の前あたりを結んでいた。明治40年(1907)刊『東京案内』には「竹屋の渡」とあり、同年発行『東京市浅草全図』では山谷堀入口南側から対岸へ船路を描き「待乳ノ渡、竹家ノ渡トモ云」と記しており、「竹屋の渡」とも、あるいは「待乳の
渡」とも呼ばれたようである。「竹屋」とは、この付近に竹屋という船宿があったためといわれ、「待乳」とは待乳山の麓にあたることに由来する。
 「渡し」の創設年代は不明だが、文政年間(1818~1830)の地図には、山谷堀に架かる「今戸はし」のかたわらに「竹屋のわたし」の名が見える。
 江戸時代、隅田川をのぞむ今戸や橋場は風光明媚な地として知られ、さまざまな文学や絵画の題材となり、その中には「竹屋の渡し」を描写したものも少なくない。
 昭和3年(1928)言問橋の架設にともない、渡し舟は廃止された。
 平成14年(2002)3月 台東区教育委員会

       The Ferry of Takeya
 The Ferry of Takeya,also called the Ferry of Matsuchi,was one of the many ferries operating on the Sumida River.It connected Sanyabori and Mukojima Mimeguri Shirine.The name Takeya is said to have been derived from the name of an inn in Sanyabori.The name"Matsuchi"came from the location of the ferry,which was below Matsuchi-yama Shoden.It is unkown when the ferry service actually  began,but the business continued until the Kototoi-bashi Bridge was constructed in the early Showa Era.


所在地 台東区浅草2-3-1 (浅草寺) 

 江戸の昔、今の浅草寺本堂の西北一帯は、俗に「奥山」と呼ばれ、江戸の盛り場として大道芸人や見世物小屋で大いに賑わう、著名な場所であった。
 奥山の名の由来は記録にないが、おそらくその位置が本堂の奥にあることから名付けられたと思われる。
 明治以後、その賑わいは浅草寺西側の浅草公園六区へと移り、六区は日本一の興行街・映画のメッカとして栄えたが、その前身が奥山だったといわれる。
 現在は、この地を「新奥山」として整備し、諸碑が建立されている。この中には、往時の浅草の賑わいを伝える記念碑も建てられている。
 金龍山 浅草寺

 In the Edo period this area was the most famous amusement quarter of Edo city and called "Okuyama".Many people came to see street performances and spectacles here.
 After the Meiji period the prosperity district moved to the west area of Sensou-ji called "Asakura Rokku" and it flourished as the most thriving entertainment downtown in Japan.Nowadays this place was named "Shin-Okuyama" and many monuments which remind us of the past are built.




  浅草公園史跡めぐり  第4番札所
 奥山の地名には諸説があり、さだかではない。享保18年(1733)浅草寺境内のこの地に千本櫻が植継がれた頃より盛場となって栄えはじめ、江戸時代から明治初期にかけ庶民の遊楽で賑わいを呈した。奥山には参詣人の憩の掛茶屋などと並び、すでに、貞享(1684)には宮地芝居が興行されていたという、宝歴(1751)では深井志道軒の講談が名高く、下って曲独楽の松井源水と居合抜の長井兵助が人気を集め、異国の珍島奇獣が渡来すれば、いち早く奥山の見世物になったと、安本亀八が生人形と書き技を競い、猿芝居、犬芸、軽業、手妻(奇術)をはじめ、時にはヨーロッパのサーカスの小屋がかかったこともある。矢場女(揚弓場)の嬌声、水茶屋や揚子見世の看板娘は春信、歌麿などの浮世絵になって評判となった。奥山の取締は江戸町火消の頭で有名な新門辰五郎であった。
 明治17年(1884)、浅草公園埋立造成地の第六区に奥山第五区の諸出店、諸興行小屋が移転されることになって、東京一の大衆娯楽の集団地「六区興行街」が誕生するに及んだ。奥山の名は消えても盛場浅草の歴史、いな日本の民俗風物史の変遷を知る上に極めて貴重である。
 昭和52年(1977) 浅草公園町会建札



 新奥山内には『映画弁士塚』、『石井漠「山を登る」記念碑』、『喜劇人の碑』、『浅草観光纉緒の碑』、『曽我廼家五九郎顕彰碑』、『瓜生岩子女子の銅像』、『一葉観音像』、『五瀬植松碑』、『高橋石斎碑』、『三十六歌人碑』、『正岡子規句碑』、『瀧沢世古碑』、『半七塚』、『福地桜痴紀功碑』、『力石』、『会田先生算子塚』、『三匠句碑』、『戸田茂睡墓』があります。


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