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東京都台東区の歴史
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所在地 台東区浅草2-3-1 (浅草寺)

 沙竭羅龍王像(銅造) 原型は高村光雲仏師、鋳造は津田信夫。明治36年(1961)東京市が境内の噴水池に造献したものだ。

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所在地 台東区浅草2-3-1

聖観音宗 総本山
 金龍山 浅草寺せんそうじ


 推古天皇36年(628年)、桧前の浜成・竹成兄弟は隅田川で浅草観音の像(浅草寺の本尊)を網で拾い上げた人物、真中知はその像を安置して浅草寺(せんそうじ)を創建したと伝えられる。

 

 浅草寺域内には次のものがあります。
雷門』、『五重塔』、『影向堂』、『沙竭羅龍王像とお水屋』、『九代目市川団十郎「暫」の像』、『六角堂』、『鳩ポッポの歌碑』、『二天門』、『手水鉢』、『銭塚地蔵堂』、『阿弥陀如来像』、『三尊名号の碑』、『銅造宝篋印塔』、『淡島堂』、『時の鐘』、『讃慈雲の泉』、『銅像阿弥陀如来坐像』、『宝蔵門』、『大わらじ』、『一葉観音』、『弁天堂』、『二尊仏』、『久米平内堂』、『針供養之塔』、『西仏板碑』、『老挙の句碑』、『扇塚』、『松尾芭蕉の句碑』、『添田唖蝉坊碑・添田知道筆塚』、『恵比寿神・大黒天』、『九頭龍権現』、『平和地蔵尊』、『母子地蔵』、『めぐみ地蔵』、『一言不動尊』、『金龍権現』、『橋本薬師堂』、『耕元先生碑』、『六地蔵石憧』、『迷子しるべ石』、『初代並木五瓶句碑』、『聖観音菩薩像(千日参供養仏)』、『普閑の歌碑』、『都々逸塚』、『竹本津賀太夫碑』、『胎内くぐりの灯籠』、『銭塚弁財天』、『戦災供養地蔵尊』、『川口松太郎句碑』、『石橋』、『耕元先生碑』、『荒神堂』、『菅沼定敬歌碑』、『商徳地蔵尊』、『写経供養塔』、『消防殉難碑』、『子育地蔵尊』、『三峰神社』、『針供養塔』、『正観世音菩薩碑』、『出世地蔵尊』、『被官稲荷神社』、『山東京伝机塚の碑』、『大谷米太郎夫妻像』、『浅草大平和塔』、『宮古路太夫墓』、『仏頂尊勝陀羅尼碑』、『平和の時計』、

新奥山
 新奥山域内には『映画弁士塚』、『石井漠「山を登る」記念碑』、『喜劇人の碑』、『浅草観光纉緒の碑』、『曽我廼家五九郎顕彰碑』、『瓜生岩子女子の銅像』、『一葉観音像』、『五瀬植松碑』、『高橋石斎碑』、『三十六歌人碑』、『正岡子規句碑』、『瀧沢世古碑』、『半七塚』、『福地桜痴紀功碑』、『力石』、『会田先生算子塚』、『三匠句碑』、『戸田茂睡墓』があります。

浅草神社
 浅草神社域内には『河竹黙阿弥顕彰碑』、『久保田万太郎句碑』、『初代花柳壽輔句碑』、『初代市川猿翁句碑』、『初代中村吉右衛門句碑』、『粧太夫碑(柿本人麻呂歌碑)』、『花柳寿輔碑』、『扇塚』、『神木『槐』の木』、『川口松太郎句碑』、『花塚』、『『友情はいつも宝物』碑』、『檜前の馬牧』があります。

鎮護堂
 鎮護堂域内には『封間塚』、『手水鉢』、『水子地蔵尊』、『鎮護堂の神木・公孫樹』があります。


伝法院
 
伝法院域内には『天祐庵』、『石棺』、『至徳の古鐘』、『岩本乾什句碑』、『谷口楼川句碑』、『心字池』があります。

所在地 台東区浅草2-3-1 (浅草寺)

東京都指定有形文化財(建造物)
 浅草寺六角堂 一棟

     昭和27年(1952)11月3日指定

 
六角堂は『浅草寺誌』(文化十年編)に元和4年(1618)の建立とあり、江戸時代初期の建立と考えられ、浅草寺内で最古の遺構である。
 
木造で単層の六角造り瓦(かわら)ぶき形式で、建物中央の直径は1.82mあり、一面の柱真々は0.91mである。
 
建物の基礎は、六角形状に廻(まわ)した土台を布石の基礎で支え、その下部に11段の石積みをした1.5m余りの井戸上の穴が掘られている。
 
六角堂という特異な形式であり、都内においては遺例の少ない建造物で、貴重な文化財である。
 
もとは東方21.8mの場所{現・影向堂(ようごうどう)の南基壇上に元位置の表示あり}に建っていたが、平成6年(1994)10月境内整備のためにここに移された。
※東京都文化財保護条例(昭和51年(1976)3月31日改正)により文化財の指定種別を都重宝から東京都指定有形文化財に変更したので、石造標識については、このように読み替えてください。
  
平成8年(1996)3月25日 東京都教育委員会

       Senso-ji-Rokkakudo
 Wooden structure,One-story,Hexagonal style,Litht weight tile roofing (a pantile that combines vroad concave tiles and semi-cylindrical convex yilrd),Lacquered in red,1.82m inner deameter,0.91m seide length (destance between pillar centres)

According to Senso-ji-Shi (chronicle of 1813 edition),Senso-ji-Rokkendo was built in 1618 and is therefore the oldest architecture in Senso-ji.This building is valuable since hexagonal architevtures are rare in Tokyo.It was originally located 21.8m further east (the original locatio is inscribed on the south podium of Yougou-go),but moved to its current position in October 1994 due to rearrangement.

   日限地蔵尊
 六角堂のご本尊。
 地蔵菩薩さまは、慈悲のお心で、この娑婆世界だけでなく地獄や餓鬼道にもおもむき、衆生を救われる仏さま。
 特にこの日限地蔵尊は、何かのお願い事に対し、日数を定めて祈願すれば、古来より霊験があるとされる。
 造立年代は不明。木造。  金龍山 浅草寺

所在地 台東区浅草2-3-1 (浅草寺)

「社殿」 重要文化財

「柏板(びんざさら)」 都指定無形民俗文化財

<御祭神>

土師真中知命(はじのまつちのみこと)

桧前浜成命(ひのくまのはまなりのみこと)

桧前竹成命(ひのくまのたけなりのみこと)

東照宮(権現様、徳川家康)

  

 推古天皇36年(628)、桧前の浜成・竹成兄弟は隅田川で浅草観音の像(浅草寺の本尊)を網で拾い上げた人物、真中知はその像を安置して浅草寺(せんそうじ)を創建したと伝えられる。土師真中知命(はじのまつちのみこと)・桧前浜成命(ひのくまのはまなりのみこと)・桧前竹成命(ひのくまのたけなりのみこと)の三神を祀る神社であるから、「三社様」と呼ばれた。鎮座年代は不詳。鎌倉時代末期には祭礼が行われたという記録がある。東照宮は権現様すなわち徳川家康のことで、慶安2年(1649)に合祀された。以来、三社大権現といい、明治元年(1868)三社明神、明治6年(1873)浅草神社(あさくさじんじゃ)と改称した。
 
慶安2年(1649)に完成した現在の社殿は、徳川家光が再建したもの。建築様式は、本殿と幣殿とは接続しているが、幣殿と拝殿とは分離し、その間に渡廊下「石の間」(弊殿・相の間ともいう)を設け、屋根の棟数の多いことを特徴とする権現造となっている。朱漆仕上げで、本殿と幣殿の内法長押以上は極彩色である。この社殿は江戸時代初期の代表的権現造として評価が高く、国の重要文化財の指定に指定されている。
 
毎年5月17・18両日の大祭は、江戸時代から「三社祭」と呼ばれ、特に第三日曜には、本社神輿の宮出し・宮入りがあり、氏子町内の百基余の町神輿も集り、拝殿では都指定無形民俗文化財「柏板(びんざさら)」の奏演という神事舞も行われ、人々が群集し、賑やかである。
  
台東区教育委員会


 浅草神社境内には『河竹黙阿弥顕彰碑』、『久保田万太郎句碑』、『初代花柳壽輔句碑』、『初代市川猿翁句碑』、『初代中村吉右衛門句碑』、『粧太夫碑(柿本人麻呂歌碑)』、『扇塚』、『神木『槐』の木』、『川口松太郎句碑』、『花塚』、『『友情はいつも宝物』碑』、『檜前の馬牧』があります。

所在地 台東区浅草2-3-1 浅草寺  新奥山

 浅草はかつて、日本のブロードウェイと呼ばれ華やかな街でした。「喜劇人の碑」は人々に笑いと喜びを与えてくれた喜劇人たちに感謝の意を表し昭和57年(1982)建立されました。碑裏面には喜劇人の名前が刻まれています。題字は森繁久彌。


川田晴久 昭和32年6月21日(51才) 
古川ロッパ 昭和36年1月16日(57才)
八波むと志 昭和59年1月9日(38才)
清水金一(シミキン) 昭和41年10月10日(54才)
堺駿二 昭和43年8月10日(54才)
榎本健一(エノケン) 昭和45年1月7日(65才)
山茶花究 昭和46年3月4日(56才)
森川信 昭和47年3月26日(60才)
柳家金語楼 昭和47年10月22日(71才)
木戸新太郎 昭和49年8月19日(59才)
大宮デン助 昭和51年12月23日(63才)
勲四等 伴淳三郎 昭和56年10月26日(73才)
三波伸介 昭和57年12月8日(52才)
佐山俊二 昭和59年1月30日(65才)
武智豊子 昭和60年7月18日(76才)
トニー谷 昭和62年7月16日(69才)
有島一郎 昭和62年7月20日(71才)
東八郎 昭和63年7月6日(52才)
南利明 平成7年1月13日(70才)
益田喜頓 平成5年12月1日(84才)
国民栄誉賞 渥美清 平成8年8月4日(68才)
勲四等 三木のり平 平成11年1月25日(74才)
勲四等 曾我廼家明蝶 平成11年4月13日(90才)
勲四等 由利徹 平成11年5月20日(78才)
勲四等 ミヤコ蝶々 平成12年10月12日(80才)
勲四等 清川虹子 平成14年5月24日(89才)
関敬六 平成18年8月23日(78才)
谷幹一 平成19年6月25日(74才)
国民栄誉賞 森繁久彌 平成21年11月10日(96才)

  建立世話人代表
佐野一郎 野田洋典 山本紫明

  建立記念碑 協力芸能人(順不同)
曾我廼家明蝶 コロンビア・トップ 菅原文太 黒沢年男 玉置宏 川津清三郎 志摩夕起夫 小桜京子 木田三千雄 原一平 由利徹 宮城千賀子 北上弥太朗 柳澤真一 コロンビア・ライト 赤木春恵 三崎千恵子 清川虹子 南利明 たこはちろう ハナ太郎 大屋満 大泉滉 宮島一茶 宮田章司 南道郎 徳武忠吉 小野田貝 玉川昭二 岡崎二朗
ふじやま竜 関敬六 十勝花子 サトウサブロウ 冠般流川田琉球舞踊団 二代目引田天功朝風まり 松旭斉八重子 松旭斉美江子 小宮スポーツ 長沢純 日高一也 川中美幸 加山麗子 東映剣会 敏いとうとハッピー&ブルー 大塚文雄 平林健二と東京パンチョス 東京ニュースカイオーケストラ 花笠音頭協議会 小野満 干草かほる 榎本ちえ子

所在地 台東区浅草2-3-1 (浅草寺)

宝篋印塔(ほうきょういんとう)

高さ  9.6m

造り  銅造
建立  寛延2年(1749)
製作  荻原三郎右衛門作

 宝暦11年(1761)、浅草寺信徒1,000人によって建立され、明治40年(1907)に改修再建されたもの。唐銅製。
 宝篋印塔には、基礎部五重目に、宝篋印陀羅尼経の要文を記し、軸部に金剛界四仏の種字を配している。第二重の基礎四面に十六羅漢像を浮彫(陽刻)している。  金龍山 浅草寺

所在地 台東区浅草2-3-1 (浅草寺 浅草神社) 

友情は 

  いつも宝物

 昭和51年(1976)に「週刊少年ジャンプ」で連載を開始して以来、多くの人々に愛されてきた「こちら葛飾区亀有公園前派出所」。物語の舞台となるここ浅草は主人公である両津勘吉を育み、また多くの感動を生み出してきました。この碑は、両津勘吉の少年時代の友情を描いた「浅草物語」にちなみ、人を思いやる気持ちの大切さ、そして子供たちが夢や遊び心を忘れず健全に成長してくれるよう願いを込めて建てられました。
  
平成17年(2005)8月6日 建立

 < 「浅草物語」概略 >

ある日、浅草で一緒に遊んだ同級生が偶然再会。

かつての悪ガキ両津勘吉は警察官に、

かつての優等生は、逃亡犯になっていました。

両津は、子供の頃にここ浅草神社(三社様)の神木、

槐(えんじゅ)の木の下に一緒に埋めた

ベーゴマの話を持ち出して二人の友情を確かめ合いました。

そして、逃亡犯は自首することになったのです。

ジャンプ・コミックス「こちら葛飾区亀有公園前派出所」57巻「浅草物語の巻」より

 

  < 「こちら葛飾区亀有公園前派出所」 >

作者  秋本治

連載開始  1976年週刊少年ジャンプ(集英社)

 

  < 両津勘吉 >

職業  警察官(巡査長)

誕生日  3月3日

出身地  東京都台東区千束

身長  約162cm

体重  約71kg

特技  自転車乗り

所在地 台東区浅草2-3-1 (浅草寺)

此華の

 古那木の中の

      桜の木

         藤吉古老挙定治鐫

所在地 台東区浅草2-3-1 (浅草寺 浅草神社) 

江戸・東京の農業 檜前の馬牧(ひのくまのうままき)

 大宝元年(701)、大宝律令で厩牧令が出され、全国に国営の牛馬を育てる牧場(官牧)が39ヶ所と、皇室に馬を供給するため、天皇の命により32ヶ所の牧場(勅旨牧)が設置されました。
 
東京には「檜前の馬牧」「浮嶋の牛牧」「神崎の牛牧」が置かれたと記録にあって「檜前の馬牧」は、ここ浅草に置かれたのではないかと考えられています。
 
浅草神社の祭神で、浅草寺本尊の発見者である、檜前浜成、竹成兄弟の説話から、檜前牧は浅草付近であったと「東京市史稿」では推定していて、「浮嶋の牛牧」は本所に、「神崎の牛牧」は牛込に置かれたとされています。
 
時代は変わり江戸時代、徳川綱吉の逝去で「生類憐みの令」が解かれたり、ペーリー来航で「鎖国令」が解けた事などから、江戸に欧米の文化が流れ込み、牛乳の需要が増え、明治19年(1886)の東京府牛乳搾取販売業組合の資料によると、浅草区の永住町、小島町、森下町、馬道と、浅草でもたくさんの乳牛が飼われるようになりました。
  
平成9年度JA東京グループ
  
農業協同組合法執行五十周年記念事業

所在地 台東区浅草2-3-1 (浅草寺) 

御祭神  少彦名命(すくなひこなのみこと)

 淡島堂は、元禄年間(1688~1703)紀伊国(現在の和歌山県)の加太神社を勘請したものである。加太神社は、淡島と呼ぶ小島に鎮座し、淡島明神の俗称があるため、この堂も淡島堂と呼ばれている。祭神は少彦名命(すくなひこなのみこと)、堂内には両手で宝珠を持つ坐形の神像を安置する。
 
淡島明神は、江戸時代より女性の守り神として、信仰を集めた。現在も毎年2月8日、ここで針供養が行なわれ、女性の参詣人が群集する。針供養は、日頃使いなれた針に感謝し、柔らかな豆腐にさし、供養する行事。かつては、この日に限り女性は針仕事をしない風習があった。
 平成8年(1996)3月 台東区教育委員会

<和歌山加太之淡島明神勧請 淡島大明神>
 
本地佛 虚空蔵菩薩  毎月13日 御縁日
 
2月8日 針供養 御昇堂 11時

<白木聖観世音菩薩>
 
正徳2年(1712) 御出現
 
平成11年(1999) 御遷座
 
毎歳 7月9日 大供養
 
御昇堂 11時

所在地 台東区浅草2-3-1 (浅草寺)

 思い出づる調べも哀し、昭和20年(1945)3月9日の夜、B29 150機の大空襲により浅草一帯は火の海となる。地をなめるようにして這う火焔と秒速30mをこす烈風にあふられ、親は子を呼び、子は親を求むれど、なすすべもなし。おののき叫び逃げまどい、悪夢の如き夜が去れば・・・・・・眼にうつるものは一面の焦土にて、一木一草の生づるもなく、あわれ身を焼かれ路傍に臥す無辜の犠牲者は一万余柱を数う。
 
当時その凄惨な状況は一片の新聞だに報道されることなく、敗戦後に生れた子供たちは戦争の惨禍を知るよしもない。いたましく悲しい夜もいつしか歴史の一駒として消えて行くであろう。
 
よって我々はここに当時を偲び、不幸散華された御霊の安らけく鎮まりまさんことを祈り、二度とあやまちを繰返すことなく永遠に世界の平和を守らんことを誓い、浅草観音の浄域にこの碑を建立する。
 
以って瞑せられよ。
 
昭和38年(1963)8月15日 浅草大平和搭維持会

所在地 台東区浅草2-3-1 (浅草寺  新奥山

 浅草は伝統と歴史の町である 庶民信仰の大本山 金龍山 浅草寺と共にこの町は幾百千年の世を逞しく生きてきた あるときは源平争乱の戦火に耐え あるときは江戸文化濫觴の地として栄えるなど幾多の興廃消長を繰り返して現在に及んでいる
 
今日浅草は 都内屈指の観光地として隆盛を極めているが その蔭に浅草を守ろうとする多くの人々の血の滲む努力があることを忘れてはならない
 
浅草観光連盟は 発足二十周年の佳日をトして浅草の繁栄に多大な貢献をした人々の業績を讃え 過去 現在 未来を通じここに芳名を列記して後世に永く伝えんとするものである
 
庶民の町浅草は この町を愛し慈しみその興隆に一身を捧げる地元の人々によって 滔々たる大河の流れのように淀みなく発展を重ねていくことであろう
 
昭和43年(1968)10月吉日 東京都台東区長 上條貢
                           
撰文並に謹書
   浅草観光事業功労者
大谷米太郎 岡田四郎 上條貢 清水谷恭順 山田兵三 小林総介 高坂公一 賴母木眞六 穂刈恒一 橋本秋利 村田藤治郎 澤田要蔵 和田長敬 松村繁一郎 森田新太郎 荒井哲郎 豊田正利 藤谷吉之輔 川喜多忠之助 原戸賴吉 葛谷輝明 市村一雄 堀安孝 阿部高之丞 内山榮一 飯村茂 永野章一郎 守山良順 壬生台舜 清水谷孝尚 穂刈幸雄 野口日出男 中塚泰蔵 小林晴男 矢野隆夫 飯村恵一 吉住弘 西村太刀夫 春木實 松村吉紘 鈴木秋雄 田中久五郎 松澤欣一 荒井修 岩瀬桂助 橋本秋彦

所在地 台東区浅草2-3-1 浅草寺  新奥山

  瓜生岩子女子(うりゅういわこじょし)
 岩子は通称。正しくは”岩”という。文政12年(1829)2月15日、岩代耶麻(いわしろやま)郡(現在の福島県耶麻郡)熱塩村渡辺家に生れたが、9才の時、父を失い、母は岩を連れて生家へ帰った。そのため、岩は母方の姓瓜生氏を称した。14才の時、若松(現福島県会津若松市)の叔母に預けられ、その夫で会津藩侍医を勤める山内春瓏の薫陶を受け、堕胎間引きの防止に関心を持つに至る。17才で佐瀬茂助を婿に迎え、若松で呉服屋を営み、一男三女を生んだが、早くに夫を亡くした。明治元年(1868)会津戦争で孤児となった幼童の教育に尽力したほか、堕胎等、当時のさまざまな悪習を正し、明治22年(1889)貧民孤児救済のため福島救済所を設立するなど、社会事業の推進に努めた。
 
明治30年(1897)4月19日、福島で没す。享年69。生涯を慈善事業に捧げた岩の善行を賞揚し、明治34年(1901)4月、篤志家によって、浅草寺境内にこの銅像が造立された。台石正面には、下田歌子女史の撰文を刻む。
 
平成8年(1996)7月 台東区教育委員会

        BRONE STATUE OF URYU IWAKO
 Uryu Iwako was born in Kitakata,Fukushima Prefecture on February 15,1829.Iwako was her popular name,and her real name was Iwa.At the age of nine,she lost her father,and her mother went back to her parents' home together with Iwa.When she was 14,she was entrusted to her aunt,and was educated by her uncle-in-law,who was a doctor in the Aizu clan.
 After the Meiji Restoration,she exerted dfforts for the eduction of young girls in the Aizu clan and also established the Fukushima Relief Facility for the assistance to the poor and orphans.She also founded the midwifery research institute and the Saisei Hospital in Kitakata,thereby promoting social work.She died in Fukushima on April 19,1897.To praise the good conduct of Iwa,who devoted her shole life to charitable work,this bronze statue of her was erected here in April 1901.

所在地 台東区浅草2-3-1 (浅草寺)

  久米平内堂(くめのへいないどう)
 久米平内は江戸時代前期の武士。『武江年表』によると、天和3年(1683)に没したとされるが、その生涯については諸説あり明らかではない。
 
平内堂には次のような伝承がある。平内は剣術に秀でており、多くの人をあやめてきた。後年、その供養のために、仁王坐禅の法を修業し、浅草寺内の金剛院に住んで禅に打ちこんだという。臨終にのぞみ自らの姿を石に刻ませ、多くの人に踏んでもらうことによって、犯した罪を償うために、この像を人通りの多い仁王門付近に埋めたと伝える。
 
その後、石像はお堂に納められたという。「踏付け」が「文付け」に転じ、願文をお堂に納めると願い事が叶うとされ、江戸時代中期以降、とくに縁結びの神として庶民の信仰を集めた。
 
平内堂は、昭和20年(1945)3月の戦災で焼失した。現在のお堂は昭和53年(1978)10月に浅草寺開創1350年記念として再建されたものである。
 
平成18年(2006)3月 台東区教育委員会

         Kume-no-Hinai-do
 Kume no Heinai was a samurai in the early Edo period (17th century);he is said to have passed away in 1683,but there are many stories about his life and not many facts are known for certain.
 According to oral tradition,Heinai excelled in Kenjutsu,the martial art of swordfightinf,and he killed many people over the years.Later in his life,he is said to have lived in the Kongo-in Temple in Senso-ji Temple,wherehe devoted himself to Zen- Buddhism and held religious services in honor of the souls of the people he killed.
 It is said that,just before his death,he ordered his followeres to carve his fiture on a stone and bury it near Nio-mon (Deva gate),one of the busy distreicts of the city.He wanted his statue be stepped on by as many people as possible in order to expiate the crimes he had committed in life.Afterward,the stone statue was eventually stored in this temple.
 From the middle of the Edo period,this temple was worshipped by the general public as a deity of marriage.
 Kume-no-Heinai-do was burned down during the ravages of World Wara Ⅱ in March 1945.The current temple was rebuilt in October 1978.

所在地 台東区浅草2-3-1 (浅草寺 新奥山

 (都旧跡) 戸田茂睡墓
 大正8年(1919)10月指定 

 元禄時代の歌人。はじめは渡辺氏を称し、のち戸田茂睡に改めた。名は馮(たのむ)、のちに恭光(ゆきみつ)、通称は茂右衛門。寒露軒などと号していた。徳川氏の家臣渡辺忠の第6男として、寛永6年(1629)5月19日に生まれた。その後は那須黒羽で暮らし、のち本多政長に仕えて300石を給されていた。延宝年間の末に致仕し浅草寺の近くに居をかまえ、「梨本集」を著して和歌の制の無用を説き、世に詠歌の派を立てた。宝永3年(1706)4月14日、年78で没した。「紫の一本」「御當代記」「隠家百首」「鳥の迹」などの作品がある。なお

塵の世を いとふ心の 積りては
     身の隠れかの 山となるらん

とよみ、隠れ家の茂睡と時の人々に呼ばれていた。
  昭和43年(1968)3月1日 東京都教育委員会

所在地 台東区浅草2-3-1 (浅草寺  新奥山

ながむとて 花にもいたし 頸の骨 宗因

花の雲 鐘は上野か 浅草か 芭蕉

ゆく水や 何にとどまる のりの味 其角

 <西山宗因(にしやまそういん)>
 
慶長10年(1605)肥後(熊本県)の生まれ。後、大阪に住み談林の俳風を開く。この句は「新古今集」にある西行法師の和歌「ながむとて花にもいたく・・・」からとった句。天和2年(1682)没。

 <松尾芭蕉(まつおばしょう)>
 
正保元年(1644)伊賀(三重県)の生まれ。数次の漂白の旅に出て作品集や紀行文を残し、「おくのほそ道」は世に知られている。蕉風俳諧を樹立。元禄7年(1694)大阪で没。

 <榎本其角(えのもときかく)>
 
寛文元年(1661)江戸に生まれる。蕉門十哲の一人。のち蕉風を脱し、その一派の傾向は、洒脱風などともいわれた。宝永4年(1707)の没。 

  碑は文化6年(1809)の建立。台石には明治27年春(1894)の移築の由来が記されている。
 
平成8年(1996)3月 台東区教育委員会

所在地 台東区浅草2-3-1 (浅草寺)

 東京随一の名刹として廣く世に知られる金龍山浅草寺は  幾多の興廃消長の中に法灯連綿として今日に及ぶ  とくに住吉に優る當山の隆昌は  大谷米太郎氏を会長とする浅草観光連盟の献身的努力に負うところ誠に多大である。
 
かねて上野  浅草の繁栄に意を注ぐ台東区長上條貢氏は  昨秋上野信用金庫理事長長野高一氏寄贈にかかる注誕噴水塔を上野公園入口に建設したが  さらに此の度同氏より多額の浄財の寄託を受くるに及び浅草寺  浅草観光連盟と相計り庶民信仰の霊域たる此の地に噴水塔建設を発意す
 
上條区長の委嘱により地元関係者を以て建設委員会が結成sれ  熟議検討の結果聖地に相応しき噴水塔の実現を期す  幸い彫塑家朝倉響子氏の好意により父君朝倉文夫先生の遺作「雲」の像の寄贈を受け  これに近代的噴水を配して「慈雲の泉」と名づく
 
朝倉文夫先生は  日本芸術界の巨匠たると共に我が台東区の名誉区民にして「雲」の像は明治40年(1965)壮年に至らんとする先生が未来への欣求を籠めた一代の傑作である
 
「慈雲の泉」が蓋し  長野高一  朝倉響子両氏を始め多くの人々の美しき善意の結晶と云えよう  幸い此の聖地に融和し  とこしえに庶民の街浅草の象徴として愛護されんことを祈念してここに讃を記す
  昭和40年(1965)9月吉日 慈雲の泉建設委員会

 < 建設委員 >

台東区長                           上條貢

台東区助役                         金津武夫

台東区収入役                      鈴木義尚

台東区議会議長                  永森久吉

上野信用金庫理事長           長野高一

浅草観光連盟会長            大谷米太郎

金龍山浅草寺貫主              清水谷恭順

常盤堂雷おこし本舗社長     穂刈恒一

雲の像寄付者                       朝倉響子

公園協会理事長                    井下清

所在地 台東区浅草2-3-1 (浅草寺)

 江戸時代、人々に時刻を知らせる役割を果たしていたのが時の鐘である。当初、江戸城内にあったが、江戸市街地の拡大にともない日本橋本石町にも設置され、さらには浅草寺寛永寺(上野山内)など、九個所でも時を知らせた。

 鐘の大きさは、高さ2.12m、直径1.52m。
 鐘銘によれば、撰文は浅草寺別当権僧正宣存で、元禄5年(1692)8月、5代将軍徳川綱吉の命により、深川住の太田近江大掾藤原正次が改鋳し、その費用として下総(現、千葉県)関宿藩主牧野備後守成貞が黄金200両を寄進した。
 
この鐘は、時の鐘として、あるいは浅草寺の梵鐘として、さまざまな文学作品にも登場しているが、中でも松雄芭蕉の句

 花の雲 鐘は上野か 浅草か

は、あまりにも著名である。
 
昭和20年(1945)3月の東京大空襲で火を浴びたが無事に残り、今なお昔のままの姿を見せている。なお、鐘楼は同空襲で焼け落ち、昭和25年(1950)5月再建されたものである。
 平成11年(1999)3月 台東区教育委員会

所在地 台東区浅草2-3-1 (浅草寺)
 

くわんをんの いらか見やりつ 花の雲     
               
       はせを

 俳諧紀行文『奥の細道』などを著した松雄芭蕉は、寛永21年(1644)伊賀上野(現、三重県上野市)に生まれた。
 
芭蕉という俳号は、深川の小名木川ほとりの俳諧の道場『泊船堂』に、門人が芭蕉一枚を植えたことに由来します。独自の蕉風を開き『俳聖芭蕉』の異名をとった松雄芭蕉は、元禄7年(1694)10月12日、大坂の旅舎で51年の生涯を閉じました。
 
この句碑は寛永8年(1796)10月12日、芭蕉の103回忌に建立され、元は浅草寺本堂の北西、銭塚不動の近くにありましたが、戦後この地に移建されました。
 
83歳翁泰松堂の書に加えて、芭蕉のスケッチを得意とした、佐脇嵩雪が描いた芭蕉の坐像が線刻してありますが、200年の風雪を経て、碑石も欠損し、碑面の判読も困難となっております。
 
奥山庭園にある『三匠句碑』(花の雲 鐘は上野か浅草か)と共に、寄しくも『花の雲』という季語が詠みこまれております。
  
平成2年(1990)4月吉日 浅草観光連盟

所在地 台東区浅草2-3-1 (浅草寺)

君諱徳太郎田代氏明治十一年七月十一日浅草に生る六歳叔父初代寿輔の養子となり其薫陶を受く同二十四年十三歳西郷邸に於て英照皇太后御前舞踊鶴亀を演ず 同三十六年初代寿輔歿後大正十二年迄花柳家元を継承同三十八年柳櫻会創立公演九十八回に及ぶ大正七年初代寿輔嗣子芳三郎に家元を譲り大正十二年自ら分家家元となり昭和三十四年十一月三日多年舞踊界に盡瘁せる功に依り紫綬褒賞を授与せらる同三十八年一月十二日歿す 享年八十六歳安隆院達道寿徳居士と諡して深川増林寺に葬る二代徳太郎故人の遺志に依り茲に此碑を建つ

   昭和三十九年四月 二代花柳徳太郎
        蘭垌 野田朗書

所在地 台東区浅草2-3-1 (浅草寺)

 
つきいだす鐘は上野か浅草か
 往き来し絶えて月にふけゆく吾妻橋、
 誰を待つやら恨むやら
 身をば欄干に投げ島田、チョイトネ

  <建碑>
   唖蝉坊碑  昭和三十年十一月二十八日
   筆   塚  昭和五十七年三月七日

 <添田唖蝉坊>
 本名・平吉  筆名は唖蝉坊のほか不知山人、のむき山人、凡人など。神奈川県大磯に生
まれる。
昭和19年(1944)2月8日歿。享年73歳。明治20年代の壮士節の世界に入り、のち演歌の作詞、作曲、演奏に従事。作品は「四季の歌」「ストライキ節」「ラッパ節」「ああ金の世」「金色夜叉の歌」「むらさき節」「奈良丸くづし」「マックロ節」「青島節」「ノンキ節」「生活戦線異状あり」など。著書に「浅草底流記」「唖蝉坊流生記」「流行歌明治大正正史」ほか。

 <添田知道>
 唖蝉坊の長男。東京出身。昭和55年(1980)3月18日歿。享年77歳。父唖蝉坊とともに演歌の作詞、作曲に従事したあと作家活動に入る。筆名は知道のほか、さっき、吐蒙。演歌作品に「東京節」「復興節」「ストトン節」など。著書に新潮文芸賞受賞の長編小説「教育者」「利根川随歩」「演歌の明治大正史」などがある。

 
 浅草の会

所在地 台東区浅草2-3-1 (浅草寺)

 「濡れ仏」の名で世に知られるこの二尊仏は、観世音菩薩(かんぜおんぼさつ)(右)、勢至菩薩(せいしぼさつ)(左)二菩薩の金銅坐像で、像の高さは共に2.36m、蓮台を含めれば4.54mにおよぶ。基壇の組み石は、長さ約12m、幅6.21m、高さ1.5mとなっている。

 蓮弁台座銘によれば、願主は上野国(群馬県)館林在大久保村の高瀬善兵衛、かって奉公した日本橋伊勢町の米問屋成井家より受けた恩を謝し、観音像は、旧主善三郎の菩提を弔うため、勢至像はその子次郎助の繁栄を祈るため、貞享4年(1687)8月に造立した。
 江戸時代初期の優秀な鋳造仏の一つで神田鍋町東横町(現、千代田区鍛冶町2丁目)の太田久衛門正儀(藤原正儀)鋳造の作。
 安永6年(1777)2月高瀬仙右衛門が施主、千住の高瀬奥右衛門が願主となり、修理したことが観音像銘に追刻されている。
 高瀬仙右衛門は上野国館林大久保村の人、江戸伊勢町(中央区日本橋本町1丁目)の成井善三郎の店の番頭となり、後、主家への報恩菩提のためにこの像を寄進した。観音像はもと左手に蓮華を持っていたのであろう。
 なおこの像と同形で、寄進者・鋳造者も同じ元禄3年(1690)在銘の像が群馬県館林市茂林寺にある。
  平成10年(1998)3月 台東区教育委員会

所在地 台東区浅草2-3-1 (浅草寺)

 弁天大と呼ばれる小丘の上に立つこのお堂は、昭和58年(1983)に再建されたもの。
 ご本尊は白髪のため「老女弁財天」といわれる。関東三弁天(神奈川県江ノ島・千葉県柏市布施と合わせ)の1つとされ、小田原北条氏の信仰が篤かった。
 境内の鐘楼の鐘は、元禄5年(1692)5代将軍徳川綱吉公改鋳の江戸時代の「時の鐘」として、芭蕉の句『花の雲 鐘は上野か浅草か』で有名。現在は、毎朝6時に役僧が撞き鳴らし、大晦日には「除夜の鐘」が点灯される。
 弁財天さまのご縁日は、「巳の日」で、堂内にてお参りができる。
  金龍山 浅草寺

        Bentendo Hall
 Bentendo Hall was reconstructed in 1983 on the small hill called "Benten-yama".The principal image of this temple has white hair.Therefore we call it "Rounyo-Benzaiten".("Rounyo" means an old woman and "Benzaiten",the goddess of music,art and wealth,is the name of the image.)This statue is one of the Three famous Benzaiten around the Kanto district.In the medieval period Hojo,a great daimyo in Odawara,had faith in this statue.
 The bell in the belfry has been known as the hour bell casted in bronze by Tokugawa shogunate in 1692,and also famous for a haiku by Matsuo Basyo(1644-1694).Nowadays,a priest of Senso-ji strikes at six oclock every morning.

所在地 台東区浅草2-3-1 (浅草寺)

 鳩ポッポ歌碑(鳩ぽっぽ歌碑・ハトポッポ歌碑・はとぽっぽ歌碑)

 鳩ポッポ(鳩ぽっぽ)  東くめ 八十六才

はとポッポ  はとポッポ
    ポッポッポと  とんでこい
御寺のやねから下りてこい
    えさをやるから皆たべよ
食へてもすにかえらずに
    ポッポッポと鳴いて遊べ     

 鳩ポッポの歌碑   作詞 東くめ  作曲 滝廉太郎

この詩は日本中の多くの人々に親しまれている日本の代表的な童謡の一つです  東くめ女史が明治34年(1901)に観音さまの境内に於て鳩とたわむれている子供らの愛らしい姿をそのまま歌によまれたものであります  歌碑を建つるにあたりまして朝倉文夫先生から鳩五に題字を寄せられましたくめは作曲者滝廉太郎先生と同卸旧■の源いゆかりに係る洵にうるわしい御協賛でありました  鳩は平和の象徴です  そのためにもこの碑は永久に偲存いたしたいものであります
   昭和37年(1962)11月3日  浅草古恭順識

所在地 台東区浅草2-3-1 (浅草寺)

第二次世界大戦はその規模においても  その被害についてもまことに甚大であった  ことに昭和20年(1945)3月10日の大空襲には  この付近一帯は爆死者の屍が累として山をなし  その血潮は川となって流れた  その惨状はこの世の姿ではない  これ等の戦争犠牲者の霊を慰めることこそ  世界平和建設の基となるものである  ここに平和地蔵尊を祭り  その悲願を祈りるため  昭和24年(1949)4月ここに安置された次第である 



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