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東京都台東区の歴史
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所在地 台東区谷中1-4-13 (臨江寺)

蒲生君平墓(国史跡)

 蒲生君平は、明和5年(1768)下野国(現栃木県)宇都宮の商家に生まれる。通称伊三郎、字を君臧または君平、修静または修静庵と号した。姓は福田といったが、先祖が豊臣秀吉の武将が猛氏郷の流れであることを知り、蒲生と名乗ったという。高山彦九郎、林子平と共に寛政三奇人の1人と称せられている。
 幼児から学問に励み、長じて水戸藩士藤田幽谷を知り、節義と憂国の感化を受けた。寛政(1789~1800)の末期、諸国の天皇陵を歩き、享和元年(1801)『山陵志』を完成させた。これは、幕末の尊王論の先駆をなすものとして名高い。
 後、江戸に出て著述に専念し、文化10年(1813)に没した。「蒲生君臧墓表」と題した墓石には四面にわたって藤田幽谷の撰文を刻む。昭和17年(1942)国史跡に指定された。
 山門にある「勅旌忠節蒲生君平」の石柱は明治初年(1868)政府が建立したものである。
 平成10年(1998)3月 台東区教育委員会



     TOMB OF GAMO KUNPEI (NATIONAL HISTORIC SITE)
 Gamo Kunpei was born in 1768 to a merchant family in Ustunomiya,present day Tochigi prefecture.His common name was Isaburo,familiar name Kunzo or Kunpei,pen name Shusei or Shusei-an.Along with Tokugawa Hikokuro and Hayashi Shihei,he is known as one of the "Three Eccentrics of the Kansei Era."
 During the Kansei Era,in the late 18th Century,he reseatched all of Japan's imperial tombs and compiled the "San-Ryo-si."This work is now known as one of the pioneering efforts of the Imperial Loyalist Theory.
 He later came to Edo,worked on his writings,and died in 1813.On his tombstone,the famed scholar Fujita Yukoku wrote dedications on its four sides.Selected in 1942 as a national historic site.


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所在地 台東区谷中1-4

三浦坂
『御府内備考』は三浦坂について、「三浦志摩守下屋敷の前根津の方へ下る坂なり、一名中坂と称す」と記している。三浦家下屋敷前の坂道だったので、三浦坂と呼ばれたのである。安政3年(1856)尾張屋版の切絵図に、「ミウラサカ」・「三浦志摩守」との書き入れがあるのに基づくと、三浦家下屋敷は坂を登る左側にあった。
 三浦氏は美作国(現岡山県北部)真島郡勝山二万三千石の藩主。勝山藩は幕末慶応の頃、藩名を真島藩と改めた。明治5年(1872)から昭和42年1月まで、三浦坂両側一帯の地を真島町といった。『東京府志料』は「三浦顕次ノ邸近傍ノ土地ヲ合併新ニ町名ヲ加ヘ(中略)真島ハ三浦氏旧藩ノ名ナリ」と記している。坂名とともに、町名の由来にも、三浦家下屋敷は関係があったのである。
 別名の中坂は、この坂が三崎坂善光寺坂の中間に位置していたのにちなむという。
 平成4年(1992)11月 台東区教育委員会



          Miura-zaka Slope
 According to a local topography of the Edo period(1600-1868),the slope leadeng down to Nezu known as Naka-zaka Slope was also known as Miura-zaka Slope because it led from in front of the third mansion of the Miura family.
 The head of the Miura household was the feudal lord of the Katsuyama clan in Mimasaka province(present-day Okayama prefevture).At the edn of the Edo period the Katsuyama clan changed its name to Mashima,and the areas on voth sides of Miura-zaka Slope came to be known as Mashima town.Thus both the name of the slope and the name of the areas on either side of it were connected with the mansion of the Miura family.
 It is said that the alternative name of Naka("middle")-zaka Slope is associated with the fact that this slope was located in between two other slopes.


所在地 台東区谷中1-5

善光寺坂
 谷中から文京区根津の谷に下りる坂には、この坂と北方の三浦坂赤字坂とがあり、赤字坂は明治以後の新設である。
 善光寺坂は信濃坂ともいい、その名はこの坂上の北側にあった善光寺にちなむ。善光寺は慶長6年(1601)信濃善光寺の宿院として建立され門前町もできた。寺は元禄16年(1703)の大火に類焼して、青山(現港区青山3丁目)に移転し、善光寺門前町の名称のみが明治5年(1872)まで坂の南側にあった。
 善光寺坂のことは、明和9年(1772)刊行の『再校江戸砂子』にも見え、『御府内備考』の文政9年(1826)の書上には幅ニ間(約3.6メートル)、長さ十六間(約29メートル)、高さ一丈五尺(約4.5メートル)ほどとある。
 平成7年(1995)3月 台東区教育委員会



                   ZENKOJI HILL ROAD
 This road,also called Shinano Hill Road,was named after Zenkoji temple which used to be on the top of the hill.Zenkoji was built in 1601 as a temple and lodging place in Edo for the priests of Zenkoji from Shinano (now Nagano Prefecture).It prospered with a busy temple street in front of the main gate.The temple burned down in a huge fire in 1703 and was relocated in to Aoyama,but the area name "Zenkoji Monzen-cho"was used for the southern seide of the hill until the 5th year of the Meiji Era.
 Reference literature from the Edo period states that the hill road was about 29m in length with a 4.5m elevation. 


所在地 台東区谷中1-6-1 (一乗寺)

東京都指定旧跡
 太田綿城墓おおたきんじょう
     昭和3年(1928)3月指定


 太田錦城(1765~1825)は江戸時代中期の儒学者で、名は元貞、字は公幹、錦城は号である。加賀国大聖寺に生まれ、当時の大儒であった皆川洪圓、山本北山に折衷派を学んだが満足せず、漢代以降の中国の諸説を直接研究し、一家の学を建てた。
 晩年にいたり、一時京畿に遊び、三河国吉田藩に仕えたが、加賀国金沢藩から賓師として招かれ、三百石を給せられた。
 文政8年4月22日、61歳で没した。著書には『九経談』『春草堂詩集』『鳳鳴集』など非常に多くの著述があり、長男は加賀候に仕え、三男は吉田候に儒学をもって仕えた。
 平成20年(2008)12月設置 東京都教育委員会


所在地 台東区池之端4・上野公園

 清水坂(暗闇坂)
坂近くに、弘法大師にちなむ清泉が湧いていたといわれ、坂名はそれに由来したらしい。坂上にあった寛永寺の門を清水門と呼び、この付近を清水谷と称していた。かつては樹木繁茂し昼でも暗く、別名「暗闇坂」ともいう。
 平成12年(2000)8月 台東区教育委員会



所在地 台東区池之端4

  三段坂
『台東区史』は、この坂について、「戦後、この清水町に新しい呼名の坂が、19番地から21番地にかけて屋敷町の大通りに生まれた。段のついた坂なので三段坂と呼ばれている。」と記している。戦後は第二次大戦後であろう。清水町はこの地の旧町名。この坂道は明治20年(1887)版地図になく、同明治29年(1896)版地図が描いている。したがって、明治20年代に造られた坂道である。
 平成21年(2009)3月 台東区教育委員会



所在地 台東区谷中1-7-15

香華院 望湖山 玉林寺






 境内には『横綱千代の富士像』、『玉林寺のシイ』、『秦檍丸墓』があります。


所在地 台東区谷中1-7-15 (玉林寺)

横綱千代の富士像
 相撲界唯一の国民栄誉賞を受賞 史上有数昭和最後の大横綱千代の富士の業績を讃え顕彰する為 雄姿を留める立像を建立しました
 平成23年(2011)1月吉日
 望湖山玉林寺第20代住職 山口孝雄



  第58代横綱千代の富士貢 略歴
1955年6月1日生まれ 北海道松前郡福島町出身
通算31回の歴代2位幕内最高優勝
史上最多の通算勝星1045勝
1988年5月場所から11月場所まで53連勝 
歴代3位等の輝かしい成績を残す
1989年9月国民栄誉賞受賞
一代年寄を受けるも九重名跡を継ぐ

年寄・九重 財団法人日本相撲協会理事
製作 彫刻家 小張隆男



所在地 台東区谷中1-7-15 (玉林寺)

 望湖山玉林寺は天正19年(1591)現在地に創建された曹洞宗の寺院である。本堂裏側にそびえるシイの種類はスダジイであり、幹囲り5.63メートル、樹高9.5メートル、枝張りは東に3.5メートル、西に2メートル、南に7.5メートル、北に4メートルを計る。玉林寺創建以前から存在していたと言われ市街化した地域に遺存する巨樹として貴重である。
 平成3年(1991)から平成5年(1993)にかけて大規模な外科手術を行った結果、樹勢は回復しつつある。スダジイは、一般にシイノキと呼ばれるブナ科の常緑高木で、福島県・新潟県以南の本州、四国、九州、沖縄に分布する。
 雌雄同株で6月頃上部に雄花の穂を、下部に雌花の穂を出す。果実は、1.5センチ程の大きさで2年目に熟し食用となる。材は家具・建築・パルプ用材として広く使われている。
 平成6年(1994)3月31日建設 東京都教育委員会

         Gyokurin-ji no Shii

 This is the castanopsis siebolbii which is located behind the main building of Gyokurin temple.It is about 14.2 m high and has about 6.3 m trunk circumference.As there was a big empty hole around the roots and big branches were dry and damaged,an operation for recobering was conducted between 1991 and 1993.It is said  that it had already been standing when Gyokurin temple was built in 1591.It is a precious tree as one of few remaining giant castanopsis sieboldii trees in an urban area.Castanopsis sieboldii are evergreen tall trees belonging to Fagaceae and usually called red oak.The fruits can be eaten and the timber is widely used for making furniture and others.
 案内碑

所在地 台東区谷中1-7-15 (玉林寺)

蝦夷地探検家
 秦檍丸墓はたあおきまろ


所在地 台東区谷中1-7-36

日蓮宗
 六浦山 延寿寺

 本堂

台東区有形民俗文化財
 延寿寺日荷堂の絵馬
     平成8年(1996)登録

 延寿寺は明暦2年(1656)に開創された日蓮宗寺院です。宝暦5年(1755)久遠寺に蔵されていた日荷像を勧請し、安永元年(1772)に日荷堂を建立して、本尊としました。
 日荷は武蔵国久良岐郡六浦(現横浜市六浦)の人で、日蓮の高弟、日祐の弟子となり妙法と号しました。六浦にて、自ら造立したニ躰の仁王像を背負い、一昼夜のうちに身延山久遠寺に運び上げ、山門に安置したと伝えられます。
 日荷堂の絵馬は、仁王像を背負い、六浦から身延山までの険しい道を歩いた日荷の健脚にちなんで、足病平癒の祈願のために奉納されたものです。日荷堂には現在、絵馬が75点、文字額が8点残されています。
 はきものの絵馬が残された寺社が多くありますが、この日荷堂のように種類・点数が豊富で、保存状態が良好なものは少なく、きわめて貴重です。
 延寿寺日荷堂絵馬群は平成8年(1996)に台東区有形民俗文化財に登載されました。
 平成17年(2005)3月 台東区教育委員会

 日荷堂

             Ema of Nikkado in Enjuji Temple
 Enjuji Temple is a temple established in 1656 by the Nichiren sect.Nikkado was built in 1772 and the Nikka statue was enshrined as the principal icon of the temple.Nikka was a person from the current Mutsura,which is situated in Yokohama-city,Kanagawaprefecture.According to legend,he carried two Deva Kings he created to the Kuonji Temple in Mt.Minobu(Yamanashi prefecture)on his shoulders and enshrined them in the temple gate in a single day.
 The Ema(pictures with frames)given to Nikkado were dedicated for prayers for recovery from foot/reg diseases,as symbolized by the strong legs of Nikka who walked the rough road from Mutsura to Mt.minbu with the two Deva Kings on his shoulders,Currently,83 Ema remain in Nikkado.
 There are many Buddhist temples and Shinto shrines with Ema related to shoes,but Nikkado is extremely valuable due to its abundant types and numbers of well-preserved Ema,which is very rare.The Ema of Nikkado of Enjuji Temple were registered as a tangible folk cultural asset of Taito-ku in 1996.

  日荷堂「足腰病守護日荷上人安置之所」
 健脚の神様として知られる日荷承認が祀られる「日荷堂」は、宝暦5年(1755)身延山より日荷上人尊像を勧請し、以来、江戸の人びとの足腰の病平癒の祈願所として親しまれてきました。堂内には、健脚祈願や祈願成就に感謝した人びとにより奉納された幾つもの絵馬がかけられております。この絵馬群は平成8年(1996)に台東区の有形民俗文化財として登録されました。
 現在の日荷堂は、明治44年(1911)に再建されたものです。

  日に上人「にちかさま」
 日荷上人が、「健脚の神様」「足腰病守護の神様」と呼ばれるようになった由縁は、ある夜、六浦妙法(日荷上人という損傷を授かる前の法名)の夢枕に仁王尊が現れました。
 「われは称名寺の仁王だが、改宗して身延山の守護神になりた。おまえの力でなんとか身延山に送り届けてほしい」とのお告げでした。早速そのお寺に「仁王をいただきたい」とかけあったのですが、聞き入れてもらえません。そこで一策。和尚が囲碁好きということを耳にした妙法は、仁王像を賭けた勝負を挑んだのでした。なんとか妙法が勝ち、約束どおり仁王を貰おうとするも、和尚は「あれは冗談」と取り合いません。さらには、「あんな大きい仁王を担ぎ出せる訳がない」とも。しかし妙法は山門から仁王尊ニ体を担ぎ出し、それらを背負うこと三日三晩。横浜の地から身延山まで、歩き通し奉納に成功したのでした。ことの次第を聞いた身延山の法王はたいそう驚き「日荷」の尊称を授けたそうです。日荷上人は人々の厄難、災いは背負い去り、福を授けるのです。(厄除け、方位除け)また足腰病守護、健脚祈願はもとより、現代社会の足である乗り物の交通安全、車体安全等にも霊験あらたかです。
 六浦山 延壽寺 日荷堂


所在地 台東区谷中4-2-5 (瑞輪寺)

  大久保主水墓おおくぼもんと
 名は忠行、または籐五郎と称す。三河国の武士で、徳川家康に仕え三百石を給されていた。一向一揆のときに足を負傷してから戦列に加われず、餅菓子を作る特技を生かし、以後、家康に菓子を献じたという。
 天正18年(1590)家康は江戸に入り町づくりを始める。用水事業を命ぜられた忠行は、武蔵野最大の湧水地である井の頭池、善福寺池を源に、それぞれの池から流れる河流を利用して、江戸城ならびに市中の引水に成功した。これを神田上水といい、神田上水は江戸の水道の始まりであり、また我が国水道のさきがけであった。
 この功により、家康から「主水」の名を賜り、水は濁らざるを尊しとして「モント」と読むべしと言ったという。以来、子孫は代々主水と称し、幕府用達の菓子司を勤めた。なお、墓の近くにある八角形の井戸は、天保6年(1835)十代目忠記が、忠行の業績を顕彰したものである。
 平成10年(1998)3月 台東区教育委員会

       TOMB OF OKUBO  MONTO(METROPOLITAIN HISTORICAL SITE)
 Okubo Monto,his given name is Tadayuki,but heis better known as Togoro.A samurai from Mikawa province,present day Aichi prefecture,he served Tokugawa Ieyasu and was givena stipend of 300 koku of rice.In 1590,Ieyasu moved to Edo and started to build a town.When Tadayuki was ordered to construct an irrigation sistem in Edo,he succeeded by drawing water from the largest wells in Musashi no province,Inogashira and Zenpukuji Ponds,to Edo Castle and the town of Edo.This was called the Kanda Canal and not only was it the first waterworks in Edo but the first in Japan as well.
 Due to this success,Tadayuki was given the name "Mondo"from Ieyasu and was told that it should be read "Monto"becouse clear waters are the most noble.Since then,his descendants all used the nickname Monto,Died 1617.


所在地 台東区谷中4-2-5 (瑞輪寺)

台東区区民文化財(史跡)
 大沼枕山墓おおぬまちんざん
     平成5年(1993)登録

 大沼沈山は、幕末から明治時代前期にかけて活躍した漢詩人。代表作に『枕山詩鈔』があり、江戸時代最後の漢詩人といわれる。日本漢詩史上重要な人物である。
 文政元年(1818)、下谷三枚橋付近に生まれる(現在の地下鉄仲御徒町駅付近)。父の死後、10歳の枕山は尾張(今の愛知県)に身を寄せたが、天保6年(1835)江戸に戻った。漢詩の大家、梁川星巌に出会い、才能が開花する。弘化2年(1845)星巌が江戸を離れたあと、枕山は下谷三枚橋に「下谷吟社」を開き、江戸詩壇の中心となった。
 枕山派明治維新後も活躍したが、明治24年(1891)10月、74歳で死去した。瑞輪寺が墓所に選ばれたのは、晩年に枕山が住んだ下谷花園町(現、池之端)に近かったからといわれる。墓石は安山岩で、高さ145センチ、表面に「枕山大沼先生之墓」と大書され、枕山の門人の手で建てられたものである。
 現在の台東区内に生まれ、住み、不忍池の蓮や、隅田川の月など、江戸の四季折々の風物を詠み続けた枕山の墓は、台東区の歴史を知る上で貴重な文化財である。
 平成5年(1993)に台東区史跡として台東区区民文化財台帳に登載された。
 平成21年(2009)12月 台東区教育委員会

 The Grave of Onuma Chinzan(designated historical site of Taito-ku,Tokyo)
 Onuma Chinzan(1818-1891)was a poet andcallingrapher in the classical Chinese style who lived through the transition from feudal Japan at the end of the Edo period into the Meiji period.He was born near Shitaya Sanmaibashi(close to present-day Nakaokachimachi Station).He moved to Owari Province(present-day Aichi Prefecture)after his father's death but in 1835 he returned to Edo.His talent blossomed after he got acquainted with the classical poet Yanagawa Seigan.
 Chinzan went on to from his own association of poets called Shitaya Ginsha in Shitaya Sanmaibashi,which went on to become the focus and vanguard of Japanese poetry from the Edo to the Meiji periods.He died at the age of 74 in 1891.His grave stands at a height of 145 centimeters.On the front appears large lettering:"The Grave of Onuma Chinan Sensei".It was apparently fashioned by one of his apprentices.


所在地 台東区谷中4-2-37 (永久寺)

仮名垣魯文墓
 幕末・明治時代の戯作者、新聞記者。本名は野崎文蔵、号を鈍亭。猫々道人などといった。文政12年(1829)江戸京橋の生まれ。長じて商家に奉公したが、戯作者を志し、式亭三馬や十返舎一九などの戯作を耽読、諸方を遊歴して作家生活に入った。蔓延元年(1860)「滑稽富士詣」を書いて世に出た。
 明治時代になると、当時の文明開化の世相を風刺した「西洋道中膝栗毛」「安愚楽鍋」等の作品を発表、明治開花期の花形作家となった。のち、ジャーナリズムの世界に転じ、「横浜毎日新聞」「仮名読新聞」「いろは新聞」「今日新聞」などに関係し軽妙な文章で活躍。明治12年(1879)発表の「高橋阿伝夜叉譚」は世上を賑わせた。明治27年(1894)11月、66歳で没し、当寺に葬られた。



 墓石には、聖観音を線刻した板碑(13~16世紀頃に追善のため造られた供養塔)がはめ込まれている。
 本堂右側の山猫めをと塚は、夫婦の飼猫の供養の碑で、福地桜痴の碑文が刻されている。
 平成4年(1992)11月 台東区教育委員会



          The Grave of Kanagaki Robun
 Kanagaki Robun was a fiction writer and journalist at the end of the Tokugawa period and beginning of the Meiji period.His real name was Nozaki BUnzo and he was born in Kyobashi in Edo (old Tokyo)in 1829.He was apprenticed to a merchant,but aspered to fiction writing and eventually started a novelist's lifestyle,reading cheap literature and travelling around.
 In 1860 he wrote his humorous work"Kokkei Fujimode"which established his name and in the Meiji period he published works such as "Seiyo Dochu Hizakurige"and "Agura Nabe"which satirized the "civilization and enlightenment"occuring in Japan at the time.
 These works made him a popular novelist of the period.Later,moving into the world of journalism he was active writing witty prose for various newspapers.
 He died in 1894 at the age of 66 and his grave is in this temple.


所在地 台東区谷中4-2-45

日蓮宗
 慈雲山 瑞輪寺



  江戸十大祖師  安産飯匙の祖師由来
 文永11年(1274)3月31日
日蓮聖人佐渡配流、赦免となり鎌倉に向かうの途路、武蔵国粂川の辺りに関善左衛門という者あり、その妻難産に苦しみ救いを請う、聖人その家に入り、飯匙ありたるに御本尊をしたため産婦にいただかせ給うに、たちどころに安産して母も子もつつがなし、一家一門その感応を拝みて入信、かしこみて聖人の御尊像を彫みて武州谷中(現在東日暮里)に善性寺を建立しその尊像を安置す。
のち谷中感應寺(現在の天王寺)に移す。
以来安産救護の利益あらたかに多く庶民の信仰を得、元禄11年(1698)11月12日、感應寺改宗を命せられし折り、御尊像を瑞輪寺に勧請、利益昔に変わらず。
 平成21年(2009)5月吉日 瑞輪寺第57世井上日修代



                                         東京七面山


所在地 台東区谷中4-3-1

日蓮宗
 寂静山 蓮華寺



 当山は、下総中山日蓮宗大本山法華経寺第19世寂静院日賢聖人の隠室を以て、凡そ370年前創立となし、当山第3世常在院日在聖人に依り寛永7年(1630)2月この地に、創建せられる。
 当寺は、山号を寂静山と云い、寺号を蓮華寺と申し、古来より赤門寺として、また谷中六十三除・虫封の寺としても有名である。
 御堂には、霊験あらたかなる清正公大神祇、毘沙門天王、鬼形鬼子母神の三神を安置し、参詣縁者の信仰の堂宇となっておる。
 この赤門は、明暦、元禄、上野戦争などの災害を免れたもので建築様式は誠に貴重なものとされている。
 現在の御本堂等は、江戸文政年頃大檀越勘定奉行細田丹波守の寄進せられた貴重なる建造物であり、老朽の美を表している。
 また浮世絵の細田時富(栄之)、新内中興の祖富士松魯中の菩提寺である。
 尚、今日では、境内庭園の四季折々の樹木草花が、爛漫と咲き誇り、参詣縁者の心身に潤いを与うる寺をして有名である。
昭和52年(1977)2月吉日 当山第42世日統敬白



 境内には『富士松魯中墓』があります。


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