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東京都台東区の歴史
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所在地 台東区浅草2-3-1 (浅草寺)

 「正観世音菩薩」と碑の正面に刻まれている。当寺には観音さまを表した金石が多く奉安されているが、その中でもひときわ大きい碑である。
 この石碑の銘文は長年の風雪により摩滅が進んでいるが、「文」や「窪世」とわかる所が残されていることから、江戸時代の有名な石工の大窪世祥が、文化・文政年間(1804~1829)頃に文字を彫ったと思われる。
 他にも世祥の金石は三基、境内に残されており、当寺にも関わりの深い人であった。江戸町人の信仰を載せた金石が運ばれ、活気付く境内の様子が目に浮かぶようである。
 南無観世音菩薩     金龍山 浅草寺


所在地 台東区浅草2-3-1 (浅草寺)

書写観音 経一四句 偈以希■ ニ世悉地   
          天保8年(1837)7月

 吉原 仲の町、 山口巴屋  とえ建立


所在地 台東区浅草2-3-1 (浅草寺)

 観音さまは、われわれの苦しみをとり除き、お願いをきいて、「慈悲の心(あたたかい心)」を与えてくださる仏さま。
 この像は、尾張国の孝山義道の発願により、享保5年(1720)に建立された。
 台座に「千日参供養佛」と刻まれている。銅製。
 金龍山 浅草寺




所在地 台東区浅草2-3-1 (浅草寺)

 現存する都内最古とされるこの石橋は、元和4年(1618)浅草寺に東照宮(現存せず)が造営された際、参詣のための神橋として造られたものである。寄進者は、徳川家康の娘振姫ふりひめの婿、紀伊国和歌山藩主浅野長晟あさのながあきら(広島浅野家藩祖)である。
 この石橋は昭和23年(1948)、文部省より重要美術品に認定されている。
 金龍山 浅草寺




橋長  3.3m
幅員  2.2m

小松石造り
東京では最古の石橋


所在地 台東区浅草2-3-1 (浅草寺)

 川口松太郎ハ明治32年(1957)10月1日浅草今戸ニ生レル 昭和10年(1935)第一回直木賞受賞ノ「鶴八鶴次郎」ヲ初メトシテ小説脚本ニ名作多ク文壇劇壇ニ多大ナ足跡ヲシルス 特ニ新派俳優花柳章太郎水谷八重子等ニヨッテ演ジラレタ情緒豊カナ諸作品ハ観客ヲ魅了ス 這般ノ功績ニヨリ38年(1963)菊池寛賞受賞 40年(1965)芸術院会員 更ニ44年(1969)「しぐれ茶屋おりく」ノ一篇ニヨリ吉川英治文学賞受賞 48年(1973)文化功労者ニ叙セラレル 最晩年渾身ノ筆デ連載小説「一休さんの門」ヲ脱稿後昭和60年(1985)6月9日永眠ス 行年85才 三回忌ニ因ミ故人ノ終世ノ師久保田万太郎ノ傍ラニ同ジク句碑ヲ建テテ逝者ヲ偲ブ
  生きると いうこと むずかしき 夜寒かな
 昭和62年(1987)6月9日
 松竹株式会社 文芸春秋社 劇団新派 講談社 明治座 読売新聞社
 浅草観光連盟


所在地 台東区浅草2-3-1 (浅草寺)

 弁財天さまは、七福神のお一人で仏教をお守りする善神である。芸能や学問の上達、財宝や福徳の神とされる。
 この銭塚弁財天さまは、福徳財運の弁財天さまとして、特に信仰が篤い。
 金龍山 浅草寺




所在地 台東区浅草2-3-1 (浅草寺)

 この石灯籠は「胎内くぎりの灯籠」として江戸時代から有名であったもので、」この灯籠の下をくぐることで、子供の虫封じや疱瘡のおまじないとなるとされている。
 お子様をお連れでご参拝の折には、お子様にくぐらせてみてはいかがでしょうか。
 造立年代は不明。  金龍山 浅草寺






所在地 台東区浅草2-3-1 (浅草寺)

 阿弥陀如来さまは、極楽浄土にあって法を説き無量の光明と寿命をもって永遠の生命を与えてくださる仏さま。
 この像は唐銅製で、阿弥陀三尊像として元禄6年(1693)に千人近い信徒によって建立された。もとは本堂裏にあったものを、平成6年(1994)にこの地に奉安した。総高7.5メートル。極楽往生の諸霊の頓証菩提を祈る。
 金龍山 浅草寺





所在地 台東区浅草2-3-1 (浅草寺)

 碑面には、正面に「月花のたわみこころや雪の竹」、右手側面に「なにはづの五瓶、東武に狂言を出して、あまねく貴賤の眼目を驚かし、金竜の山中に雪月花の碑を築て、永く繁栄を仰ぐ、つづくらん百三十里雪の人晋子堂大虎」、左手側面に「寛政八年丙辰十二月十日建之 庭柏子書印」、裏面に「篠田金二迂造」と刻んである。
 「なにはづの五瓶」は初代並木五瓶のこと。五瓶は大坂に生まれ、歌舞伎狂言作者として活躍した。生存年代は延享4年(1747)から文化5年(1808)まで。はじめ五八、のち吾八・呉八・五兵衛と改め、ついで五瓶という。寛政6年(1794)江戸へ出て、非凡な才能をみせ、初代桜田治助とともに、江戸の二大作者と謳われた。時代物・世話物に優れた作品を遺し、4代市川団蔵、4代松本幸四郎らによって演じられた。作品には、「金門五山桐」「隅田春奴七容性」「富岡恋山開」「幡随院長兵衛」などがある。
 平成6年(1994)3月 台東区教育委員会

         THE POEM MONUMENT OF NAMIKI GOHEI
 "Tsuki hana no tawami kokoro ya yuki no take" the poem is inscribed on the front of the monument.On the right side of the monument is written the explanation of the origin of the poem.On the left side of the monument is the date of the monument's construction and the name of the monumen's calligraphic artist.On the back of the monument is the name of the person who built the monument.
 Namiki Gohei (1747-1808) was a famous Kabuki writer.He was well known for his historical dramas and dramas of contemporary life and manners of that genre.


所在地 台東区浅草2-3-1 (浅草寺)

 昔、迷子が出た時には、この石碑でその旨を知らせた。 
 石碑の正面に「南無大慈悲観世音菩薩」と刻み、一方に「志らする方」、一方に「たづぬる方」とし、それぞれに用件を記した貼紙で情報を交換した。情報未発達の時代には重宝され、「江戸」市内の繁華な地に建てられたものの一つ。
 安政7年(1860)3月、新吉原の松田屋嘉兵衛が、仁王門(現宝蔵門)前に造立したが、昭和20年(1945)の空襲で倒壊したため、昭和32年(1957)に再建された。  金龍山 浅草寺


所在地 台東区浅草2-3-1 (浅草寺)

 石幢とは石塔の一つで、龕部(仏像を納める厨子のこと)の六面にお地蔵さまが刻まれている。
 造立年代は不明だが、一説に、源義朝参拝の折に鎌田正清によって建立されたといわれる。
 しかしながら、石幢造立が流行した室町時代の可能性が高い。
 もとは雷門の東方にあったもので、後に花川戸、明治になってこの地へ移された。
 金龍山 浅草寺




所在地 台東区上野公園4 (上野恩賜公園 上野東照宮

 佐久間大膳亮勝之が東照宮に寄進した石造の灯籠で、
  奉寄進佐久間大膳亮平朝臣勝之
  東照大権現御宝前石燈籠
   寛永年辛未孟冬十七日
と刻字し、寄進者・寄進年月を知ることができる。寛永8年(1631)当時、東照宮は創建して間もなく、社頭には、現存の大鳥居銅燈籠・石燈籠などは、まだわずかしか奉納されていなかった。勝之は他にさきがけて、この灯籠を寄進したのである。
 勝之は、織田信長の武将佐久間盛次の四男。母は猛将柴田勝家の姉という。信長・北條氏政・豊臣秀吉、のち徳川家康に仕え、信濃国川中島ほかで1万8千石を領した。
 燈籠の大きさは、高さ6.06メートル、笠石の周囲3.36メートルと巨大で、その大きさゆえに「お化け燈籠」と呼ぶ。同じ勝之の寄進した京都南禅寺・名古屋熱田神宮の大燈籠とともに、日本三大燈籠に数えられる。
 平成8年(1996)7月 台東区教育委員会



      A HUGE STONE LANTERN (MONSTER LANTERN)
 This huge garden lantern made of stone was offered as a gifut from SakumaDaizennosuke Katsuyuki to the Toshogu shrine in1631.It is said to beone of the three great stone lanterns in Japan,together with those in Nanzen-ji temple of Kyoto and in Atsuta Jingu shrine.
 The dimensions of the lantern are impressive,its height being 6 meters and the perimeter of the capping stone 3.6 meters.Because of its great size,people commonly call it "Monster Lantern."


所在地 台東区浅草2-3-1 (浅草寺)

 宝蔵門は、大谷栄太郎の寄進で、昭和39年(1964)に浅草寺宝物の収蔵庫を兼ねた山門として建てられた。鉄筋コンクリート造で重層の楼門である。外観は旧山門と同様に、江戸時代初期の様式を基準に設置されている。高さ21.7メートル、間口21.1メートル、奥行は8.2メートルある。下層の正面左右には、錦戸新観、村岡久作の制作による、木造仁王像を安置している。
 浅草寺山門の創建は、「浅草寺縁起」によると、天慶5年(942)、平公雅によると伝える。仁王像を安置していることから仁王門と呼ばれる。その後、焼失と再建をくり返し、慶安2年(1649)に再建されて山門は、入母屋造、本瓦葺の楼門で、昭和20年(1945)の空襲で焼失するまでその威容を誇っていた。
 平成18年(2006)3月 台東区教育委員会

宝蔵門壁には『大わらじ』があります。



                Hozo-mon
 Hozo-mon Gate was built as a temple gate that also serves as storage of treasures for Senso-ji Temple.It was constructed in 1964 with donated money by Ohtani Yonetaro.The external appeatance was designed in the style of the early Edo period.It is a ferroconcrete gate,21.7 m in height,21.1 m in width and 8.2 m in depth.Two wooden Nio (Deva Kings) statues made by Nishikido Shinkan and Muraoka Kyusaku are installed on the left and ritht seides of the front on the lower level.
 It is said that the gate was first built by Taira no Kimimasa in 942.Since the Nio statues were enshrinec,it has also been known as Nio-mon (Deva gate.) After its creation,it has been burned down and rebuilt several times.The temple gate rebuilt in 1649 was a proud two-storied tower gate,which boasted a dignified appearance until it was burned down during air raids in 1945.




 仁王さま 「吽形」
 昭和39年(1964)に、現在の宝蔵門の再建に際し、仏師の村岡久作氏によって制作された。総高5.45メートル、重さ約1000キログラム、木曽檜造りである。
 仁王さまのご縁日は8日。身体健全、災難厄除けの守護神であり、所持している金剛杵は、すべての煩悩を破る菩提心の象徴である。
 この仁王さまは、宝蔵門にあって、日々参詣諸人をお迎えし、人々をお守りしている。 金龍山 浅草寺
 Ni-Ou(closed mouth style)
 This  "Ni-Ou(closed mouth style)" was chiseled by sculptor Muraoka Kyusaku in 1964.The statue made of cypress is 5.45 meters high and almost 1000 kirograms in weitht.Being guardian deities for Senso-ji,they are set in the "Houzou-Mon".

 仁王さま 「阿形」
 昭和39年(1964)に、現在の宝蔵門の再建に際し、仏師の錦度新観氏によって制作された。総高5.45メートル、重さ約1000キログラム、木曽檜造りである。
 仁王さまのご縁日派8日。身体健全、災難厄除けの守護神である、所持している金剛杵は、すべての煩悩を破る菩提心の象徴である。
 この仁王さまは、宝蔵門にあって、日々参詣諸人をお迎えし、人々をお守りしている。 金龍山 浅草寺
 Ni-Ou(opened mouth style)
 This "Ni-Ou(opened mouth style)" was chiseled by sculptor Nishikido Shinkan in 1964.The statue made of cypress is 5.45 meters high and almost 1000 kilograms in weight.Being guardian deities for Senso-ji,they are set in the "Houzou-Mon".


所在地 台東区浅草2-3-1  (浅草寺 宝蔵門

 この大わらじは、山形県村山市の奉讃会によって奉納されている。延べ人員800人、1ヶ月をかけて制作されたものである。藁2500キログラムを要し、大変な労力が必要で、まさに信心の結晶といえる。昭和16年(1941)の奉納を最初に、宝蔵門再建後は、約10年に1度作られている。全長は4.5メートル。
 わらじは、仁王さまのお力を表し、「この様な大きなわらじを履くものがこの寺を守っているのか」と驚いて魔が去っていくといわれている。また、健脚を祈ってこのわらじに触れていく人もいる。 金龍山 浅草寺

    O-Waraji
 This pair of huge traditional straw sandals called "O-Waraji"had been made by 800 citizens of Murayama City in a month and devoted to Senso-ji.O-Waraji is made of straw and 2500 kilograms in weight,4.5 meters high.
 They are the charm against evils because they are symbolic of the power of "Ni-Ou".Wishing for being goodwalkers,many people will touch this "O-waraji".


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